うーむ
2004年8月5日そういえば、重慶でのブーイング事件は割と波紋を呼んで
ますね…。あそこは日本軍の爆撃が特に酷かったところ
だそうで、反日意識が根強いそうです。
レイディオとかでも「まだ日本がしっかりけじめをつけて
いないから…」というようなことを言っていたけれど、
昔から疑問だったのはここだ。
もし加害が事実なら、すぐ謝ったらどうなのか、なんで
謝って済むことを終わらせないのか?と子供のころから
ずっと疑問であった。
この点については色々な意見がある、それはネット環境が
あるのでいくらでも見れるんだけども。
どういう意見が妥当なのか、俺にはまだ判断がつかない。
ますね…。あそこは日本軍の爆撃が特に酷かったところ
だそうで、反日意識が根強いそうです。
レイディオとかでも「まだ日本がしっかりけじめをつけて
いないから…」というようなことを言っていたけれど、
昔から疑問だったのはここだ。
もし加害が事実なら、すぐ謝ったらどうなのか、なんで
謝って済むことを終わらせないのか?と子供のころから
ずっと疑問であった。
この点については色々な意見がある、それはネット環境が
あるのでいくらでも見れるんだけども。
どういう意見が妥当なのか、俺にはまだ判断がつかない。
≪現代哲学(2)−生の哲学・ベルクソンについて<その2>−≫
2004年8月5日<その1からつづき>
つづいてベルクソンが提出する概念が「純粋持続」。これは
上のような感情の持続性をふまえて出された概念のようだが、
意味はつかみづらい。
単純に考えて、純粋な「持続」は科学では扱えない、という
こともあると思うが、自分としてつかんだ意味としてはこうだ。
純粋な「持続」としての「生」のようなものは、つねに
「今」において、その本質全体を刷新されるような可能性を
もっていて、それは分割・定量化によってはかれるものでは
ない。なぜなら、それは、<全体としてひとつながりの「生」>、
<たった今も持続し続け、過去の「生」全体の意味を変更する
可能性を秘めている「今」>のふたつの捉え方を前提に
しなければ扱えないものであり、それは科学的手法の手に余る。
ちょっと拡大解釈しすぎかもしれない。実際、こんなことは
哲学史には書いてない…。。しかし哲学史の内容は少し難しくて
アホである俺にはよく分からないので要約しづらい。要点を
つかみ出すとこんなことだと思った。
この考え方には、「生」における時間と、科学における時間の
違いがあると思う。科学においては時間は過去-現在-未来の
一直線だが、「生」においては過去はただの記憶であり、未来は
まだ不透明で未知なものであり、現在、「今」は、「純粋持続」
の先端である、ということかもしれない。
また人間の「生」、「純粋持続」においては因果性が成り立たない
し、非空間的で非物理的であると言っているが、このあたりの
論証はよくわからない。原著に詳しいのかもしれない。
つぎにベルクソンは、「純粋持続」において何が経験されている
かといえば、それは「イマージュ」であるという。
簡単に言うと、「イマージュ」というのは、例えば目の前に
石ころがあるとして、その石の客観的な性質、原子はこれから
出来ていて分子はこうで…、あるいは硬度はこれくらい、色は
このくらい、という客観的な要素、あるいは五感で感じ取れる
外的な要素、「感覚に現れる表象」と、さきも示した、その
感覚を想起させるようなキーワードを言うことでしかあらわせない
ような感覚、内的な要素、「心の表象」のふたつから成っている。
このふたつの合わさった総合的な表象が「イマージュ」であり、
純粋持続、生、というのはイマージュを認識しながら不断に流れる。
しかし、イマージュは現前の事象によってのみ成るものでは
ない。それは、かつて心に刻まれた表象の記憶を想起し、それを
目の前の事象に当てはめることによって生まれるものでも、ある。
ここでベルクソンは「記憶」を、人間の本能的で自動的な
行動を生む「記憶」、過去の再現前化された表象が「心像的記憶」、
そして心像的記憶が生まれるための素地となる(プラトンがイデアで
示そうとしたものだろうか)、認識以前にこれを知っていなければ、
心像的記憶を整理できないであろうと思われる「純粋記憶」の
3つに分ける。
しかしこの3つの記憶も、ともに「今」の知覚によっていくら
でも刷新される可能性を秘めているし、それぞれ孤立している
わけではない。イマージュは記憶であるが、しかし記憶とは
すでに過去のものを想起しているものに過ぎない。確かに人間の
イマージュは、「今」感じているものではあるが、同時に
それは「過去」あったものを万分の一秒後に再現前化している、
とも言える。そしてまた、その記憶の総体、イマージュを
感じ取りつつ、それをもとに「未来」へ態度をとる。
その「今」の連続が未来へ進み、また過去によって進まされる。
このような人間のあり方をベルクソンは、「純粋な現在は、
未来を侵食する過去の捉えがたい進行」であると表現する。
なかなかうまい言い方だと思う。
こうした過去と現在と未来の相互浸透が、緊張をもたらすという。
緊張とは少し捉えがたい言い方で、ちょっと意味をうまく要約
できない。またこの緊張が高まると、蓄積されたエネルギーが
放出される。
生命は過去の蓄積を、現在において、未来にそれを放出する
水路を決定する営みである、その営みのことを、ベルクソンは
「生の飛躍(躍動)」(エラン・ヴィタール)と呼んだ。
またこの理論は進化論の解釈へと繋がっていくのだが、
重要なのは「純粋持続」の考え方だと思うので、そのあたりは
割愛します。
これは目的論・機械論を覆すというよりは、その視点では
人間の生をうまく捉えることが出来ない、ということを
示していると思う。
確かに、数式で他人の人生を描かれても、彼がどんな思いで
人生を過ごしたのかつかみづらい。づらいというか、無理だ。
日記帳のほうがまだ分かりやすい。それはおそらく、
「共感としての直観」は数式ではあらわせない次元のもの
だからだろう。見る側にそれを想起させる表現でなくては
ならない。数式では感覚が想起されない。「共感」ができない。
彼はまた、目的論・機械論批判として、例えば目的論は
生命進化に何か絶対目的を設定するし、機械論は、すべての
事象に機械的因果性を当てはめるが、それは、事象すべてを
すでに起こったものとして扱わなければ不可能である、とする。
目的論なら、先立ってその目的があり、その目的から全ての
生命が秩序づけられるし、機械論ではすべての事象がその
因果論体系に秩序づけられるが、それを断定するためには、
あらかじめ過去-現在-未来にわたる要素が与えられて
いなければならない。
確かにそうだ。とはいえ、ラプラスの悪魔ならその前提も
可能だが、人間にそれが出来るわけがない、と言う。
人間の知性の限界、という観点からも、目的論、機械論的
世界観で人間の生をつかむことは出来ない。確かにそれは
そうかもしれない。
つづいてベルクソンが提出する概念が「純粋持続」。これは
上のような感情の持続性をふまえて出された概念のようだが、
意味はつかみづらい。
単純に考えて、純粋な「持続」は科学では扱えない、という
こともあると思うが、自分としてつかんだ意味としてはこうだ。
純粋な「持続」としての「生」のようなものは、つねに
「今」において、その本質全体を刷新されるような可能性を
もっていて、それは分割・定量化によってはかれるものでは
ない。なぜなら、それは、<全体としてひとつながりの「生」>、
<たった今も持続し続け、過去の「生」全体の意味を変更する
可能性を秘めている「今」>のふたつの捉え方を前提に
しなければ扱えないものであり、それは科学的手法の手に余る。
ちょっと拡大解釈しすぎかもしれない。実際、こんなことは
哲学史には書いてない…。。しかし哲学史の内容は少し難しくて
アホである俺にはよく分からないので要約しづらい。要点を
つかみ出すとこんなことだと思った。
この考え方には、「生」における時間と、科学における時間の
違いがあると思う。科学においては時間は過去-現在-未来の
一直線だが、「生」においては過去はただの記憶であり、未来は
まだ不透明で未知なものであり、現在、「今」は、「純粋持続」
の先端である、ということかもしれない。
また人間の「生」、「純粋持続」においては因果性が成り立たない
し、非空間的で非物理的であると言っているが、このあたりの
論証はよくわからない。原著に詳しいのかもしれない。
つぎにベルクソンは、「純粋持続」において何が経験されている
かといえば、それは「イマージュ」であるという。
簡単に言うと、「イマージュ」というのは、例えば目の前に
石ころがあるとして、その石の客観的な性質、原子はこれから
出来ていて分子はこうで…、あるいは硬度はこれくらい、色は
このくらい、という客観的な要素、あるいは五感で感じ取れる
外的な要素、「感覚に現れる表象」と、さきも示した、その
感覚を想起させるようなキーワードを言うことでしかあらわせない
ような感覚、内的な要素、「心の表象」のふたつから成っている。
このふたつの合わさった総合的な表象が「イマージュ」であり、
純粋持続、生、というのはイマージュを認識しながら不断に流れる。
しかし、イマージュは現前の事象によってのみ成るものでは
ない。それは、かつて心に刻まれた表象の記憶を想起し、それを
目の前の事象に当てはめることによって生まれるものでも、ある。
ここでベルクソンは「記憶」を、人間の本能的で自動的な
行動を生む「記憶」、過去の再現前化された表象が「心像的記憶」、
そして心像的記憶が生まれるための素地となる(プラトンがイデアで
示そうとしたものだろうか)、認識以前にこれを知っていなければ、
心像的記憶を整理できないであろうと思われる「純粋記憶」の
3つに分ける。
しかしこの3つの記憶も、ともに「今」の知覚によっていくら
でも刷新される可能性を秘めているし、それぞれ孤立している
わけではない。イマージュは記憶であるが、しかし記憶とは
すでに過去のものを想起しているものに過ぎない。確かに人間の
イマージュは、「今」感じているものではあるが、同時に
それは「過去」あったものを万分の一秒後に再現前化している、
とも言える。そしてまた、その記憶の総体、イマージュを
感じ取りつつ、それをもとに「未来」へ態度をとる。
その「今」の連続が未来へ進み、また過去によって進まされる。
このような人間のあり方をベルクソンは、「純粋な現在は、
未来を侵食する過去の捉えがたい進行」であると表現する。
なかなかうまい言い方だと思う。
こうした過去と現在と未来の相互浸透が、緊張をもたらすという。
緊張とは少し捉えがたい言い方で、ちょっと意味をうまく要約
できない。またこの緊張が高まると、蓄積されたエネルギーが
放出される。
生命は過去の蓄積を、現在において、未来にそれを放出する
水路を決定する営みである、その営みのことを、ベルクソンは
「生の飛躍(躍動)」(エラン・ヴィタール)と呼んだ。
またこの理論は進化論の解釈へと繋がっていくのだが、
重要なのは「純粋持続」の考え方だと思うので、そのあたりは
割愛します。
これは目的論・機械論を覆すというよりは、その視点では
人間の生をうまく捉えることが出来ない、ということを
示していると思う。
確かに、数式で他人の人生を描かれても、彼がどんな思いで
人生を過ごしたのかつかみづらい。づらいというか、無理だ。
日記帳のほうがまだ分かりやすい。それはおそらく、
「共感としての直観」は数式ではあらわせない次元のもの
だからだろう。見る側にそれを想起させる表現でなくては
ならない。数式では感覚が想起されない。「共感」ができない。
彼はまた、目的論・機械論批判として、例えば目的論は
生命進化に何か絶対目的を設定するし、機械論は、すべての
事象に機械的因果性を当てはめるが、それは、事象すべてを
すでに起こったものとして扱わなければ不可能である、とする。
目的論なら、先立ってその目的があり、その目的から全ての
生命が秩序づけられるし、機械論ではすべての事象がその
因果論体系に秩序づけられるが、それを断定するためには、
あらかじめ過去-現在-未来にわたる要素が与えられて
いなければならない。
確かにそうだ。とはいえ、ラプラスの悪魔ならその前提も
可能だが、人間にそれが出来るわけがない、と言う。
人間の知性の限界、という観点からも、目的論、機械論的
世界観で人間の生をつかむことは出来ない。確かにそれは
そうかもしれない。
≪現代哲学(2)−生の哲学・ベルクソンについて<その1>−≫
2004年8月5日生の哲学では割と多くのページを割かれているアンリ・ベルクソン
(1859〜1941)。「はじめての哲学史」ではシルクハットの
紳士のおじさんの写真がでてます。
ちょっとアインシュタインの時代には及ばなかったかも
しれないけど、微妙なところか。ベルクソンの生存時にも
アインシュタインの論文はいくらか出ている。
ベルクソンは当時の科学的知識を十分に得ながらも、当時
支配的だった機械論的・因果論的認識では、生命活動
そのもの、および人間の精神の力動性、ダイナミズムを
捉えることはできないと考えた。
このころは多分、ニュートン力学でいずれは宇宙の全てが
理解されうると思われていたころでしょうか。たぶん、
医学、解剖学もすすんで、人間もしょせんはニュートン力学で
動くロボットにすぎない、という考えが支配的だったのだろう
と思う。
しかし、世の中にあるのは物質だけであって精神はその
あらわれにすぎない…という考えは、見てきたように、
大陸合理論のあたりからも見出せる考え方で、割と説得力も
ある。説得力もあるが、違和感もある。もちろん、イギリス
経験論とかカントも説得力はあるが。彼は、では、この
考え方をどういう視点から覆していくのか?
彼は人間の生をまず「メロディ」に譬(たと)える。
彼は、メロディの本質は、科学的手法によっては解し
得ないと理解する。というのも、メロディは時間的に
ひとつながりでひとつの本質をなすものであり、仮に音節、
またはパターンごとに分割したとしても、その音楽全体が
人間に与える影響をそこから計り知ることはできない。
なぜなら、メロディはそれまでの旋律の流れを記憶しながら、
常に変化し続けることによって、「今」聴こえてきている
音によって、それまで聴いた音の、全体のイメージをも
変更してしまうようなものだからである。均等な感覚で
淡々と変化を続ける科学的な時間の流れのうえでは、この
メロディ全体の印象の変化を捉えることができない。
結局、不断に流れ続ける音楽を、はじめから「今」もしくは
終わりまで聴いている人間の直観そのものが、その音楽の
総体としてもつ意味を一番的確につかむことができる。
そしてそれは、パターンとか音節、空気の振動だとか、
音のもつ性質を分節して分析してみても、音楽そのものが、
そのつどの変化において人間にどのような影響を与えている
のかということは、とても計り知ることはできないであろう。
それは時間的にも不断の流れであるし、人間の感覚は
定量化しようと思ってもできないからである。
人間の生もこれに似ている。確かに人間の仕組みだとか、
人生のそのつどそのつどの客観的なことがらについては
分析可能であるが、今まさにその生を生きている人間の
感覚まで定量化できるものではない。人間の「今」は、
それまでその人が生きてきた過去全体を含み、つねに
その意味を変化させうるという本質を持っているから
である。
このように、人間の生もメロディも、近代的知性、
科学的手法によって、測定はされうるけれども、
その本質ははかることができない。
たしかに、どれだけ物理学とか大脳生理学が発達しても、
そのつどそのつどのある一個人にとって生がどんな意味を
もっているか、を推し量ることはできないと思う。
それを数学的記号であらわされても、見ている側に本質など
伝わりはしないのだ。
ならば何によって人間の生をはかることが可能なのか、
といえば、ベルクソンによれば、「共感としての直観」に
よって可能なのだという。
この「共感としての直観」は、ちょっと説明がわかり
づらいのだがベルクソンが言うことには「対象のもっている
独自の、したがって言い表しえないものと合一しうるような
類の<共感>」だという。
「感覚」をすべて言い表すことはできない。だが「感覚」
そのものは、言い表すことのできない対象の独自性と、
つねに合一している(しうる)ものである、ということ
だろうか。考えてみれば、人間が誰かと「共感」するときも、
言葉によってそれを想起させはするが、感覚そのものを
伝えられるわけではない。
「自分がこう思った時には、この人の今言っているような
ことを言うな」…と思わせることで、感覚を伝えるのだ。
伝えられたほうも、自分に経験がある感覚を想起させる
ことで、共感をなす。
病院とかで「ちくちく痛む」とか「じんじん痛む」とかいう
言い方がされるが、実際、ちくちくとかじんじんにしても
いろいろある。それを細かく区分していこうとしたらどうなるか?
人間の数だけ、いろいろな言い方があらわれて、無数に
表現の数が増えていくだけだろうと思う。っていうような
ことだろうか。
その2につづきます。
(1859〜1941)。「はじめての哲学史」ではシルクハットの
紳士のおじさんの写真がでてます。
ちょっとアインシュタインの時代には及ばなかったかも
しれないけど、微妙なところか。ベルクソンの生存時にも
アインシュタインの論文はいくらか出ている。
ベルクソンは当時の科学的知識を十分に得ながらも、当時
支配的だった機械論的・因果論的認識では、生命活動
そのもの、および人間の精神の力動性、ダイナミズムを
捉えることはできないと考えた。
このころは多分、ニュートン力学でいずれは宇宙の全てが
理解されうると思われていたころでしょうか。たぶん、
医学、解剖学もすすんで、人間もしょせんはニュートン力学で
動くロボットにすぎない、という考えが支配的だったのだろう
と思う。
しかし、世の中にあるのは物質だけであって精神はその
あらわれにすぎない…という考えは、見てきたように、
大陸合理論のあたりからも見出せる考え方で、割と説得力も
ある。説得力もあるが、違和感もある。もちろん、イギリス
経験論とかカントも説得力はあるが。彼は、では、この
考え方をどういう視点から覆していくのか?
彼は人間の生をまず「メロディ」に譬(たと)える。
彼は、メロディの本質は、科学的手法によっては解し
得ないと理解する。というのも、メロディは時間的に
ひとつながりでひとつの本質をなすものであり、仮に音節、
またはパターンごとに分割したとしても、その音楽全体が
人間に与える影響をそこから計り知ることはできない。
なぜなら、メロディはそれまでの旋律の流れを記憶しながら、
常に変化し続けることによって、「今」聴こえてきている
音によって、それまで聴いた音の、全体のイメージをも
変更してしまうようなものだからである。均等な感覚で
淡々と変化を続ける科学的な時間の流れのうえでは、この
メロディ全体の印象の変化を捉えることができない。
結局、不断に流れ続ける音楽を、はじめから「今」もしくは
終わりまで聴いている人間の直観そのものが、その音楽の
総体としてもつ意味を一番的確につかむことができる。
そしてそれは、パターンとか音節、空気の振動だとか、
音のもつ性質を分節して分析してみても、音楽そのものが、
そのつどの変化において人間にどのような影響を与えている
のかということは、とても計り知ることはできないであろう。
それは時間的にも不断の流れであるし、人間の感覚は
定量化しようと思ってもできないからである。
人間の生もこれに似ている。確かに人間の仕組みだとか、
人生のそのつどそのつどの客観的なことがらについては
分析可能であるが、今まさにその生を生きている人間の
感覚まで定量化できるものではない。人間の「今」は、
それまでその人が生きてきた過去全体を含み、つねに
その意味を変化させうるという本質を持っているから
である。
このように、人間の生もメロディも、近代的知性、
科学的手法によって、測定はされうるけれども、
その本質ははかることができない。
たしかに、どれだけ物理学とか大脳生理学が発達しても、
そのつどそのつどのある一個人にとって生がどんな意味を
もっているか、を推し量ることはできないと思う。
それを数学的記号であらわされても、見ている側に本質など
伝わりはしないのだ。
ならば何によって人間の生をはかることが可能なのか、
といえば、ベルクソンによれば、「共感としての直観」に
よって可能なのだという。
この「共感としての直観」は、ちょっと説明がわかり
づらいのだがベルクソンが言うことには「対象のもっている
独自の、したがって言い表しえないものと合一しうるような
類の<共感>」だという。
「感覚」をすべて言い表すことはできない。だが「感覚」
そのものは、言い表すことのできない対象の独自性と、
つねに合一している(しうる)ものである、ということ
だろうか。考えてみれば、人間が誰かと「共感」するときも、
言葉によってそれを想起させはするが、感覚そのものを
伝えられるわけではない。
「自分がこう思った時には、この人の今言っているような
ことを言うな」…と思わせることで、感覚を伝えるのだ。
伝えられたほうも、自分に経験がある感覚を想起させる
ことで、共感をなす。
病院とかで「ちくちく痛む」とか「じんじん痛む」とかいう
言い方がされるが、実際、ちくちくとかじんじんにしても
いろいろある。それを細かく区分していこうとしたらどうなるか?
人間の数だけ、いろいろな言い方があらわれて、無数に
表現の数が増えていくだけだろうと思う。っていうような
ことだろうか。
その2につづきます。
うむー
2004年8月5日あまり一気に書くのもいかん。
しかしいちいち理屈を理解し(たつもりになり)ながら
まとめるとほとんど進まんわ、哲学史(;’Д`)なんて弱音を吐く。
きょうはなんもせんかった。いや哲学本読んでたけど。
なんもせん日々。うーん、なにも心にのこらんね。
バイエル3は割と曲っぽさが出てきて、弾いてて楽しいね。
ちょっとだけ。
しかしいちいち理屈を理解し(たつもりになり)ながら
まとめるとほとんど進まんわ、哲学史(;’Д`)なんて弱音を吐く。
きょうはなんもせんかった。いや哲学本読んでたけど。
なんもせん日々。うーん、なにも心にのこらんね。
バイエル3は割と曲っぽさが出てきて、弾いてて楽しいね。
ちょっとだけ。
≪現代哲学(1)−生の哲学・ディルタイについて−≫
2004年8月5日さて、現代哲学にはいります。現代哲学、哲学を少し
かじっている人(=俺レベル)は多少名前を知っている人
…フッサール、ハイデガー、ヴィトゲンシュタイン
などがいるけど、哲学知らない人は、現代哲学最大のビッグ
ネームのこの人たちも、ほんとに知らないと思う。
ソクラテスとかプラトン、アリストテレス、ニーチェは
聞いてわかるかもしれないが、この人たちはほとんど
一般に認知されてないだろう、きっと。
ヴィルヘルム・ディルタイ(1833〜1911)もそんな人のひとり。
といっても、この人はそうビッグネームという感じでもないし
ってこんな紹介の仕方をしてはいかんか…
ディルタイ、とこの後のベルクソン、ジンメル、ガダマー
の四人は、「生の哲学」の人たちに分類される。
代表的人物としてはベルクソンなのかな?まだわからない
けど。実存主義にも近いところがあるのか、昭和堂では
「生の哲学と実存主義」というふうにニーチェとか
キルケゴールとまとめて扱われている。
なんか、こういう分類は、分ける人によって微妙みたい
ですね…ディルタイは違うのかも。分からない。
「生の哲学」とは何か?ショーペンハウアーでも少し扱った
けれど、人間の生そのものを問いなおすような哲学。
世界の合理的秩序の中に人間を位置づける自然科学のような
手法ではなくて、世界を認識する主体としての人間を
分析していく哲学、という感じかもしれない。
ともあれ、見ていきましょう。
ディルタイの哲学は、「人間の生を歴史的観点から考察する」
ということだと読み取れた。ヘーゲルのように、あらかじめ
完成へ向かう理性とか精神の存在を想定するのではなくて、
人間が生きる上で得ていく知識、その全てが人間の生における
「歴史」であって、人間が得られるものはそれ以上でも
以下でもなく、人間の「今」における「生」は、まさにそれを
紐解くことによって理解されえるのだ、ということである。
彼はこの探求を、カントにならって「歴史的理性批判」と
名づけた。
人間の生を理解するのに、自然科学における科学的・機械論的
見地だとか、形而上学的な「絶対精神」などは適切ではない。
そういった神の視点ではなくて、人間が人間として得られる
視点をベースに分析していくことによって、人間の「生」を正しく
つかむ。彼の哲学は、さきの歴史的理性批判と、この姿勢が
基本にあるという感じだと思う。
ディルタイによれば、しかしそうした人間の生の意味も、
さまざまな周りの人やものとの連関が無ければ理解しえない。
人間の生は、そこにただぽつんとあるだけで、何か意味を
見出せるものではない。とある「もの」が、それと周りの世界
との関係性においてその「意味」が正しくつかまれるように、
人間の生の意味もまた、父と子、教師と生徒、男と女など、
様々な関係性の網の目の中でこそ、「意味」を正しくつかむ
ことができる。
またそれも、人間の固有な「生」における「歴史」として
理解される。確かにそうだ。人間は、おのれが「認識し、
記憶する以上」の「何か」など知ることはできない。
それはその生に固有の「歴史」である。
しかしながら、その知りうる記憶に関しても、それは
「想起」によってしか、自分には呼び起こし得ない。
そしてまた「想起」による意味理解には限界がある。
それもそうだ。自分の記憶全てを自覚的に把握している
人間はそうはいない。だから、意味理解は決してヘーゲルの
言うような「絶対知」に達したりはしない。
また、歴史(記憶)に拠るというところから、人間の意味理解は
「過去」に依拠するということも導かれると思う。
確かに人間は過去-現在-未来という時間の中を生きている
と考えるが、確実に知ることができるのは過去だけだから
である。未来は、過去の蓄積からの予測にすぎない。
この歴史、人間の生の過程そのものを客観化・外化して出来た
対象を、人間の生の内側から考察する。こうした学問が
社会と人間を考えるときの正しい方法的態度だとディルタイは
考え、この学問を「精神科学」と名づけた、という。
方法論は分かるけれど、ヘーゲルとかニーチェのように、
何か結論が出てたりはしていない学なのかも。哲学史も
このあたりを述べるにとどまる。
とはいえ、人間の生の歴史的理解(歴史的解釈)というのは
割といい発想なんでは。
いずれ著作を何か読んでみたいですね。時間があれば…
かじっている人(=俺レベル)は多少名前を知っている人
…フッサール、ハイデガー、ヴィトゲンシュタイン
などがいるけど、哲学知らない人は、現代哲学最大のビッグ
ネームのこの人たちも、ほんとに知らないと思う。
ソクラテスとかプラトン、アリストテレス、ニーチェは
聞いてわかるかもしれないが、この人たちはほとんど
一般に認知されてないだろう、きっと。
ヴィルヘルム・ディルタイ(1833〜1911)もそんな人のひとり。
といっても、この人はそうビッグネームという感じでもないし
ってこんな紹介の仕方をしてはいかんか…
ディルタイ、とこの後のベルクソン、ジンメル、ガダマー
の四人は、「生の哲学」の人たちに分類される。
代表的人物としてはベルクソンなのかな?まだわからない
けど。実存主義にも近いところがあるのか、昭和堂では
「生の哲学と実存主義」というふうにニーチェとか
キルケゴールとまとめて扱われている。
なんか、こういう分類は、分ける人によって微妙みたい
ですね…ディルタイは違うのかも。分からない。
「生の哲学」とは何か?ショーペンハウアーでも少し扱った
けれど、人間の生そのものを問いなおすような哲学。
世界の合理的秩序の中に人間を位置づける自然科学のような
手法ではなくて、世界を認識する主体としての人間を
分析していく哲学、という感じかもしれない。
ともあれ、見ていきましょう。
ディルタイの哲学は、「人間の生を歴史的観点から考察する」
ということだと読み取れた。ヘーゲルのように、あらかじめ
完成へ向かう理性とか精神の存在を想定するのではなくて、
人間が生きる上で得ていく知識、その全てが人間の生における
「歴史」であって、人間が得られるものはそれ以上でも
以下でもなく、人間の「今」における「生」は、まさにそれを
紐解くことによって理解されえるのだ、ということである。
彼はこの探求を、カントにならって「歴史的理性批判」と
名づけた。
人間の生を理解するのに、自然科学における科学的・機械論的
見地だとか、形而上学的な「絶対精神」などは適切ではない。
そういった神の視点ではなくて、人間が人間として得られる
視点をベースに分析していくことによって、人間の「生」を正しく
つかむ。彼の哲学は、さきの歴史的理性批判と、この姿勢が
基本にあるという感じだと思う。
ディルタイによれば、しかしそうした人間の生の意味も、
さまざまな周りの人やものとの連関が無ければ理解しえない。
人間の生は、そこにただぽつんとあるだけで、何か意味を
見出せるものではない。とある「もの」が、それと周りの世界
との関係性においてその「意味」が正しくつかまれるように、
人間の生の意味もまた、父と子、教師と生徒、男と女など、
様々な関係性の網の目の中でこそ、「意味」を正しくつかむ
ことができる。
またそれも、人間の固有な「生」における「歴史」として
理解される。確かにそうだ。人間は、おのれが「認識し、
記憶する以上」の「何か」など知ることはできない。
それはその生に固有の「歴史」である。
しかしながら、その知りうる記憶に関しても、それは
「想起」によってしか、自分には呼び起こし得ない。
そしてまた「想起」による意味理解には限界がある。
それもそうだ。自分の記憶全てを自覚的に把握している
人間はそうはいない。だから、意味理解は決してヘーゲルの
言うような「絶対知」に達したりはしない。
また、歴史(記憶)に拠るというところから、人間の意味理解は
「過去」に依拠するということも導かれると思う。
確かに人間は過去-現在-未来という時間の中を生きている
と考えるが、確実に知ることができるのは過去だけだから
である。未来は、過去の蓄積からの予測にすぎない。
この歴史、人間の生の過程そのものを客観化・外化して出来た
対象を、人間の生の内側から考察する。こうした学問が
社会と人間を考えるときの正しい方法的態度だとディルタイは
考え、この学問を「精神科学」と名づけた、という。
方法論は分かるけれど、ヘーゲルとかニーチェのように、
何か結論が出てたりはしていない学なのかも。哲学史も
このあたりを述べるにとどまる。
とはいえ、人間の生の歴史的理解(歴史的解釈)というのは
割といい発想なんでは。
いずれ著作を何か読んでみたいですね。時間があれば…
≪近代哲学(22)−深層心理学・ユングについて−≫
2004年8月4日さて、近代哲学はこれで最後です。
カール・ユング(1875〜1961)、ユングというと、フロイトと
並んで有名な心理学者ですね。年表にはあるんですけど、
昭和堂もはじめての哲学史も扱ってないので、ネットで調べた
限りで、ユングの心理学がどんなものなのか紹介します。
その前に、フロイトのところでは述べなかった
・心理学とは何か?
・精神分析とは何か?
について簡単に扱います。どうも哲学との区別がつきにくい
ので(といっても、哲学は心理学や物理学の成果をも取り込んで
概念全てを扱う学問なんですが、本来は)。
・心理学(サイコロジー)について。
これは色々学派があってなんともいえないけれど、心の様々な
動きとか、それに基づく人間の行動を探求する学問。
もともと、哲学と科学的手法を合わせて用いようとして生まれた
学問だという。元々は、心を科学的手法をもって分析しようとした
哲学の一派だったそうです。ただ精神病の治療などに用いられることも
あって、哲学よりずっと実践的ですね(;’∀`)…
科学的経験主義の立場から、つまり、観察・実験によって探求を
推し進めようとする「実験心理学」、
フロイトが創始した「精神分析」から発展した「臨床心理学」。
心を脳という情報処理装置と解釈する「認知心理学」、
また人文学・哲学からアプローチする人間性心理学、などがある
らしい。
ゲシュタルト心理学とかトランスパーソナル心理学とか、かっこいい
名前もけっこうある。しかし哲学に加えてこれをやろうとすると
大変だなあ…
ともあれ、哲学とほとんど変わらないような学派もありそうです。
哲学だって本気で取り組めば一生費やしそうなレベルなのに、
その上心理学…う〜ん。
・精神分析について
ジグムント・フロイトが創始した、人間心理の理論と、その治療技法
の体系。20世紀前半の臨床心理学に大きな影響を及ぼしはしたけれど、
生理科学とか医学の発展、あと理論と実際の不一致からだろうけども
フロイト法自体は、今はあまり臨床で用いられることはないらしい。
ただ、広義にはその後の学派含めてこう呼ぶ。
ユングの学派はフロイトの理論とはかなり違うためにこれには属さない
が、無意識の存在を認めているので「深層心理学」としては同じ類に
くくられる。
それでは、ユングの背景を少し。
ユングは元々フロイトの精神分析を学び、一時はその後継者と
みなされていた。けれども次第に独自の心理学を構築していき、
分析心理学を創始することになる。
スイス生まれで、父親はプロテスタントの牧師。ただし、権威的かつ
暴力的で、母親への横暴や暴力が絶えず、母親は精神を病んで
精神病院に入院する羽目になる。これがユングののちの心理学にも
大きな影響をおよぼす(具体的には、「グレートマザー」の思想に
あるそうです)。
背景はこのぐらいで、軽くどういう考え方なのか敷衍しておきます。
いずれ詳しく扱うことがあれば本を読もう…。
簡単に言えば、宗教の神話とか世界各地の文化における創世神話に、
人類共通の「元型(アーキタイプ)」を見出そうとした心理学、
らしい。
つまりは、ほとんどオカルトの領域に入ってしまっている。ので、
今ではユングを研究する人はほとんどいない、という。
フロイトの学から分派したのだから、精神病患者を扱える心理学の
はず。ユングは精神病患者の、訳がわからない言動に対しては、
彼らが「うまく役立たない神話」を持っているから、そうなっている
のであり、だから正常な人々から隔離されなければ生きていけない、
としている(同時に、正常な人は、正常な神話を持つのだろう)。
人類が最初にもつ神話に、人間の精神に共通な「元型」を見る…
その発想自体は面白いが、しかしこれでは、実際の治療に役立つ
とはとても思えない。
ユングによれば、古代のグノーシス思想にみられる神の両性具有から、
神の似姿である人間も本質的には両性具有なのであるが、成長の
過程(ホルモンバランスだとか、社会的要因だとか)によってどちらか
の性に限定され、どちらかの性の性質を無意識の領域に押し込める
のだという。そういった「私が生きなかった半身」としての意識が
無意識に存在し、そのどちらをも含む完成形が「元型」と言える。
元型にはグレートマザー・影・アニマ/アニムス・父/母・老賢人・
英雄/トリックスター・ペルソナ、などなど色々ある。
その元型を軸にして、どちらが表に現れるのかで、外向的・内向的
の組み合わせの分類ができるのだという。
ともあれ、フロイトに比べると哲学史的には扱う意味もあまり
なかったかもしれないですね。
次は、いよいよ現代哲学にいきます。
といっても、現代哲学の次になぜか現代「思想」というカテゴリが
あるんですが。
フッサールとハイデガー、ヴィトゲンシュタイン、フーコーは
有名だから少し知っているけど、ベルクソンとかデューイとか
ハーバーマスとか…は、ほとんど知らないので未知の領域。
サルトルもバタイユもラカンもドゥルーズも知らないですけどね。
ていうか知らないといえば哲学者全員、知ってるなんて言えない
ですけども。。
カール・ユング(1875〜1961)、ユングというと、フロイトと
並んで有名な心理学者ですね。年表にはあるんですけど、
昭和堂もはじめての哲学史も扱ってないので、ネットで調べた
限りで、ユングの心理学がどんなものなのか紹介します。
その前に、フロイトのところでは述べなかった
・心理学とは何か?
・精神分析とは何か?
について簡単に扱います。どうも哲学との区別がつきにくい
ので(といっても、哲学は心理学や物理学の成果をも取り込んで
概念全てを扱う学問なんですが、本来は)。
・心理学(サイコロジー)について。
これは色々学派があってなんともいえないけれど、心の様々な
動きとか、それに基づく人間の行動を探求する学問。
もともと、哲学と科学的手法を合わせて用いようとして生まれた
学問だという。元々は、心を科学的手法をもって分析しようとした
哲学の一派だったそうです。ただ精神病の治療などに用いられることも
あって、哲学よりずっと実践的ですね(;’∀`)…
科学的経験主義の立場から、つまり、観察・実験によって探求を
推し進めようとする「実験心理学」、
フロイトが創始した「精神分析」から発展した「臨床心理学」。
心を脳という情報処理装置と解釈する「認知心理学」、
また人文学・哲学からアプローチする人間性心理学、などがある
らしい。
ゲシュタルト心理学とかトランスパーソナル心理学とか、かっこいい
名前もけっこうある。しかし哲学に加えてこれをやろうとすると
大変だなあ…
ともあれ、哲学とほとんど変わらないような学派もありそうです。
哲学だって本気で取り組めば一生費やしそうなレベルなのに、
その上心理学…う〜ん。
・精神分析について
ジグムント・フロイトが創始した、人間心理の理論と、その治療技法
の体系。20世紀前半の臨床心理学に大きな影響を及ぼしはしたけれど、
生理科学とか医学の発展、あと理論と実際の不一致からだろうけども
フロイト法自体は、今はあまり臨床で用いられることはないらしい。
ただ、広義にはその後の学派含めてこう呼ぶ。
ユングの学派はフロイトの理論とはかなり違うためにこれには属さない
が、無意識の存在を認めているので「深層心理学」としては同じ類に
くくられる。
それでは、ユングの背景を少し。
ユングは元々フロイトの精神分析を学び、一時はその後継者と
みなされていた。けれども次第に独自の心理学を構築していき、
分析心理学を創始することになる。
スイス生まれで、父親はプロテスタントの牧師。ただし、権威的かつ
暴力的で、母親への横暴や暴力が絶えず、母親は精神を病んで
精神病院に入院する羽目になる。これがユングののちの心理学にも
大きな影響をおよぼす(具体的には、「グレートマザー」の思想に
あるそうです)。
背景はこのぐらいで、軽くどういう考え方なのか敷衍しておきます。
いずれ詳しく扱うことがあれば本を読もう…。
簡単に言えば、宗教の神話とか世界各地の文化における創世神話に、
人類共通の「元型(アーキタイプ)」を見出そうとした心理学、
らしい。
つまりは、ほとんどオカルトの領域に入ってしまっている。ので、
今ではユングを研究する人はほとんどいない、という。
フロイトの学から分派したのだから、精神病患者を扱える心理学の
はず。ユングは精神病患者の、訳がわからない言動に対しては、
彼らが「うまく役立たない神話」を持っているから、そうなっている
のであり、だから正常な人々から隔離されなければ生きていけない、
としている(同時に、正常な人は、正常な神話を持つのだろう)。
人類が最初にもつ神話に、人間の精神に共通な「元型」を見る…
その発想自体は面白いが、しかしこれでは、実際の治療に役立つ
とはとても思えない。
ユングによれば、古代のグノーシス思想にみられる神の両性具有から、
神の似姿である人間も本質的には両性具有なのであるが、成長の
過程(ホルモンバランスだとか、社会的要因だとか)によってどちらか
の性に限定され、どちらかの性の性質を無意識の領域に押し込める
のだという。そういった「私が生きなかった半身」としての意識が
無意識に存在し、そのどちらをも含む完成形が「元型」と言える。
元型にはグレートマザー・影・アニマ/アニムス・父/母・老賢人・
英雄/トリックスター・ペルソナ、などなど色々ある。
その元型を軸にして、どちらが表に現れるのかで、外向的・内向的
の組み合わせの分類ができるのだという。
ともあれ、フロイトに比べると哲学史的には扱う意味もあまり
なかったかもしれないですね。
次は、いよいよ現代哲学にいきます。
といっても、現代哲学の次になぜか現代「思想」というカテゴリが
あるんですが。
フッサールとハイデガー、ヴィトゲンシュタイン、フーコーは
有名だから少し知っているけど、ベルクソンとかデューイとか
ハーバーマスとか…は、ほとんど知らないので未知の領域。
サルトルもバタイユもラカンもドゥルーズも知らないですけどね。
ていうか知らないといえば哲学者全員、知ってるなんて言えない
ですけども。。
≪近代哲学(21)−深層心理学・フロイトについて−≫
2004年8月4日これもかなり有名な哲学者…じゃなくて心理学者なんだけど、
ジグムント・フロイト(1856〜1939)。フロイドなんていわれたり
もするようだけど、フロイトのがなじんでるのでいいですね。
なんでフロイトが出てくるのかというと、まぁはじめての哲学史
で扱ってるからなんですが、なんでも「人間の無意識」の
存在をはじめて扱ったからなんだそうです。
ちょっとマルクスと似通ったところがあって、それは、人間の
本質は人間個人ではなくて周囲の関係と無意識に規定されている
部分がある、というところ。
デカルトは「コギト」を明証な出発点としたが、果たしてそれは
どうだろうか。人間はイデオロギーとか、フロイトのいう
「無意識」に規定されているのではないだろうか?
人間が明証的に知ることができる「コギト」も、どこまで
正しいのか分からない。なぜなら、意識することができない
深層心理によって、人間は規定されているから…。
フロイトは、人間の意識を統一的にでなく、構造的に扱った。
有名な、エス、自我、超自我という構造である。
人間の自我はこのエスと超自我に挟まれて、危うい均衡を
生きている頼りない存在である。
今では認知度が高いせいか、割と常識的なこの考え方もまた、
フロイトが先鞭をつけたからこそ存在するという。
カントは人間の理性を振り返り、その構造と限界を
つきつめたが、フロイトにおいて、またそれをもう一度
やり直す必要が出てきた、という。
ふつうに考えても、神経症の人間などがいることを考えると、
人間の意識は無条件に正常を保つとは思えない。
フロイトは患者の精神分析を通して、人間の欲望とか
普段は表に出ない意識部分が、実は幼少の頃に周囲から受けた
影響に規定されているのではないか、と思った。
成長の過程における他者の関係。確かにそれは、人間の
認識能力に対する影響は多大なはずだ。人間の意識は
正常とされている人のそれを分析するだけでは見えてこない。
性倒錯や精神疾患の症状は、人間の意識の発展の歴史の
陰画(ネガ)である。
つまり、成長過程で周囲から歪んだ情報を与えられ続ければ、
いわゆる「正常」な意識、認識能力をもって育つとは限らない、
一般大衆とは違う形での精神のあらわれ、それが精神病患者とか、
生物的には少し意味がないような、通常とは違った性欲を
示すようになった人たちなのである、というのだ。
確かにそれはその通りだ。今までの哲学では、それが抜けていた。
さらにフロイトで有名なのはエディプス・コンプレックスの
考え方だ。幼児の頃の男の子は誰でも母親を愛していて、
我が物にしようとするが、父親に阻まれてそれが不可能だと
知る。そして父親を無意識的に憎むようになる…
フロイトはこの理論をさらに発展させて、近親相姦の禁止が
社会におよぼす影響についても考察した、らしい。が、
具体的にどういうことなのかはよく理解できないので割愛
する。
また、戦争に赴く兵士たち、戦場でばたばたと倒れていく
兵士を見るにつれ、人間には「死へと赴く感情」(タナトスと
呼ばれる)が存在するのではないか、と考えるようにもなった。
しかし実際、フロイトの精神分析については、そういう考え方も
できなくはない、程度のもので、心理学的には微妙でもある
ようだ。ただ、最近脳生理学と符合するところが出てきて
話題にもなっているとか。
ともあれ、エス・自我・超自我の関係における貢献が大きい
のかな。のちにラカンとかバルトっていう心理学まじりの
現代思想家も出てきたみたいなんですが、レヴィ=ストロースって
人も、社会分析にフロイトの理論を用いているとか。それは
また、現代哲学以降で扱いましょう。
ジグムント・フロイト(1856〜1939)。フロイドなんていわれたり
もするようだけど、フロイトのがなじんでるのでいいですね。
なんでフロイトが出てくるのかというと、まぁはじめての哲学史
で扱ってるからなんですが、なんでも「人間の無意識」の
存在をはじめて扱ったからなんだそうです。
ちょっとマルクスと似通ったところがあって、それは、人間の
本質は人間個人ではなくて周囲の関係と無意識に規定されている
部分がある、というところ。
デカルトは「コギト」を明証な出発点としたが、果たしてそれは
どうだろうか。人間はイデオロギーとか、フロイトのいう
「無意識」に規定されているのではないだろうか?
人間が明証的に知ることができる「コギト」も、どこまで
正しいのか分からない。なぜなら、意識することができない
深層心理によって、人間は規定されているから…。
フロイトは、人間の意識を統一的にでなく、構造的に扱った。
有名な、エス、自我、超自我という構造である。
人間の自我はこのエスと超自我に挟まれて、危うい均衡を
生きている頼りない存在である。
今では認知度が高いせいか、割と常識的なこの考え方もまた、
フロイトが先鞭をつけたからこそ存在するという。
カントは人間の理性を振り返り、その構造と限界を
つきつめたが、フロイトにおいて、またそれをもう一度
やり直す必要が出てきた、という。
ふつうに考えても、神経症の人間などがいることを考えると、
人間の意識は無条件に正常を保つとは思えない。
フロイトは患者の精神分析を通して、人間の欲望とか
普段は表に出ない意識部分が、実は幼少の頃に周囲から受けた
影響に規定されているのではないか、と思った。
成長の過程における他者の関係。確かにそれは、人間の
認識能力に対する影響は多大なはずだ。人間の意識は
正常とされている人のそれを分析するだけでは見えてこない。
性倒錯や精神疾患の症状は、人間の意識の発展の歴史の
陰画(ネガ)である。
つまり、成長過程で周囲から歪んだ情報を与えられ続ければ、
いわゆる「正常」な意識、認識能力をもって育つとは限らない、
一般大衆とは違う形での精神のあらわれ、それが精神病患者とか、
生物的には少し意味がないような、通常とは違った性欲を
示すようになった人たちなのである、というのだ。
確かにそれはその通りだ。今までの哲学では、それが抜けていた。
さらにフロイトで有名なのはエディプス・コンプレックスの
考え方だ。幼児の頃の男の子は誰でも母親を愛していて、
我が物にしようとするが、父親に阻まれてそれが不可能だと
知る。そして父親を無意識的に憎むようになる…
フロイトはこの理論をさらに発展させて、近親相姦の禁止が
社会におよぼす影響についても考察した、らしい。が、
具体的にどういうことなのかはよく理解できないので割愛
する。
また、戦争に赴く兵士たち、戦場でばたばたと倒れていく
兵士を見るにつれ、人間には「死へと赴く感情」(タナトスと
呼ばれる)が存在するのではないか、と考えるようにもなった。
しかし実際、フロイトの精神分析については、そういう考え方も
できなくはない、程度のもので、心理学的には微妙でもある
ようだ。ただ、最近脳生理学と符合するところが出てきて
話題にもなっているとか。
ともあれ、エス・自我・超自我の関係における貢献が大きい
のかな。のちにラカンとかバルトっていう心理学まじりの
現代思想家も出てきたみたいなんですが、レヴィ=ストロースって
人も、社会分析にフロイトの理論を用いているとか。それは
また、現代哲学以降で扱いましょう。
うおおおおお
2004年8月4日もう8月じゃけん、早いもんだ…何もやってない自分…orz
よし、決めよう。
まだフッサールが終わってないから、フッサール、ハイデガー、
サルトル、メルロ=ポンティ、フレーゲ、ラッセル、
ヴィトゲンシュタインを今日まとめるぞ。
明日はジェームズ、デューイ、ソシュール、レヴィ・ストロース、
ラカン、バルト、バタイユ。
明後日でデリダ、フーコー、ドゥルーズ、レヴィナス、
ハンナ・アレント、ホルクハイマー、ハーバーマス、
ロールズ、ノージック、マッキンタイア。
そんで哲学のまとめをしてからおしまい。
うえ、できるかこんなもん。
よし、決めよう。
まだフッサールが終わってないから、フッサール、ハイデガー、
サルトル、メルロ=ポンティ、フレーゲ、ラッセル、
ヴィトゲンシュタインを今日まとめるぞ。
明日はジェームズ、デューイ、ソシュール、レヴィ・ストロース、
ラカン、バルト、バタイユ。
明後日でデリダ、フーコー、ドゥルーズ、レヴィナス、
ハンナ・アレント、ホルクハイマー、ハーバーマス、
ロールズ、ノージック、マッキンタイア。
そんで哲学のまとめをしてからおしまい。
うえ、できるかこんなもん。
≪近代哲学(20)−社会主義・マルクスについて−≫
2004年8月3日マルクス(1818〜1883)、社会主義の祖ですね。
写真みるとヒゲがすごい。サンタになれそう。
少し哲学史を読んでみて思ったけれど、これはヘーゲルの
「理性的なものは現実的である」を受け継いでるのか
受け継いでないのかちょっとよく分からないです。
受け継いでないかも。やっぱ浅学でした。
「絶対精神」は「自己疎外」だから否定されているし…
マルクスはよく「疎外」という言葉を使うようだ。
本来、自然と一体である人間のあり方から反している
ような社会体制、周りと一体である人間から、一部
切り離され「疎外」されている社会における人間関係の
ありかた。そういったものが批判されている。
つまり例えば、「貨幣」。これは本来、物々交換では
商品の鮮度が問題になるために、長期間保存可能な
「価値」として作り出されたものだと思うが、今では
これ自体が何か絶対的な価値があるかのように思われて
しまっている。自然なやりとりの中から「疎外」されて
「絶対化」されてしまっている…う〜ん、違うかも。
どうだろう…。
本来、それが持っているはずの価値、意味が、それ
自体「疎外」されてしまうことによって、それを介した
人間関係における、人間性を無視してしまうような構造。
これは確かに、資本主義社会では存在するかもしれない。
マルクスは、労働階級の悲惨さを見て、特にこれを
感じただろうと思う。「労働」が本来のあり方から
「疎外」されてしまっていて、労働者を酷く苦しめる
ものになってしまっているのだ。
ならばどうすればよいか。
マルクスの思想のキモは、「人間の意識が人間の存在を
規定するのではなく、逆に人間の社会的存在が人間の
意識を規定するのである」…ということだと思う。
「はじめての哲学史」でもそこに重点を置いて説明している。
市民社会の側から意識をあとづけて説明することによって、
正しく叙述することができる。直接的生活の物質的生産
(衣・食・住に関するそれだろうか)から出発して現実的
生産過程を展開し、この生産によって生み出された社会の
交通形態を基礎として捉えて、国家としてその営みを
統制する。
理論は詳しくは分からないが、「私有財産」を否定して、
国家が財産を保有することによって矛盾を解決する、
といった考え方はけっこう広く知られていると思う。
なるべく「疎外」の少ない社会、そして社会・交通に
よって人間の意識は規定されるのであるから、これを
国家が統制する。詳しいところでは違うかもしれないが、
全体としてはこういう思想だと思う。
基本にあるのはフォイエルバッハに見られたように、
人間は自我であると共に他我である…人間自体が、
「社会関係の総体」である、という考え方だ。
しかし、往々にして人間はこれを認めようとはしない。
確かに社会関係は人間の意識を規定しているのだが、
人間はこれを自分の考えだといって譲らない。
マルクスはこの事態を「イデオロギー(虚偽意識)」と
呼んだとか。
だがこれこそ、人間が社会に規定されているという
証左でもあるかもしれない。人間はイデオロギーに
規定されるような存在なのである。
しかしながら、マルキシズムは教義(ドグマ)的性質を
強く持つために、マルクス主義に基づく革命運動が
絶対的な正義であり、それを批判する者は仲間であっても
「反革命」として弾圧する、という野蛮な機能を果たすことに
なった。それは社会主義国が誕生してからも多大な悲劇を
もたらすことになる。ソ連・中国では大国だけに顕著だった。
結局、求めたユートピアとは反対の地獄を作り出してしまった。
労働者の悲惨をなんとか救おうと思ったマルクスの心情は
察するにあまりある。しかし、人間は社会によってのみ
規定されるようなものでは、なかったということだろうか。
しかしマルクスが直観していた問題にはきっと本質的な
ものも含まれているはずで、機会があれば読んでみようとは
思う。
うーんしかし、なんかまとめていて眠い。
次は深層心理学のフロイトにいきます。
写真みるとヒゲがすごい。サンタになれそう。
少し哲学史を読んでみて思ったけれど、これはヘーゲルの
「理性的なものは現実的である」を受け継いでるのか
受け継いでないのかちょっとよく分からないです。
受け継いでないかも。やっぱ浅学でした。
「絶対精神」は「自己疎外」だから否定されているし…
マルクスはよく「疎外」という言葉を使うようだ。
本来、自然と一体である人間のあり方から反している
ような社会体制、周りと一体である人間から、一部
切り離され「疎外」されている社会における人間関係の
ありかた。そういったものが批判されている。
つまり例えば、「貨幣」。これは本来、物々交換では
商品の鮮度が問題になるために、長期間保存可能な
「価値」として作り出されたものだと思うが、今では
これ自体が何か絶対的な価値があるかのように思われて
しまっている。自然なやりとりの中から「疎外」されて
「絶対化」されてしまっている…う〜ん、違うかも。
どうだろう…。
本来、それが持っているはずの価値、意味が、それ
自体「疎外」されてしまうことによって、それを介した
人間関係における、人間性を無視してしまうような構造。
これは確かに、資本主義社会では存在するかもしれない。
マルクスは、労働階級の悲惨さを見て、特にこれを
感じただろうと思う。「労働」が本来のあり方から
「疎外」されてしまっていて、労働者を酷く苦しめる
ものになってしまっているのだ。
ならばどうすればよいか。
マルクスの思想のキモは、「人間の意識が人間の存在を
規定するのではなく、逆に人間の社会的存在が人間の
意識を規定するのである」…ということだと思う。
「はじめての哲学史」でもそこに重点を置いて説明している。
市民社会の側から意識をあとづけて説明することによって、
正しく叙述することができる。直接的生活の物質的生産
(衣・食・住に関するそれだろうか)から出発して現実的
生産過程を展開し、この生産によって生み出された社会の
交通形態を基礎として捉えて、国家としてその営みを
統制する。
理論は詳しくは分からないが、「私有財産」を否定して、
国家が財産を保有することによって矛盾を解決する、
といった考え方はけっこう広く知られていると思う。
なるべく「疎外」の少ない社会、そして社会・交通に
よって人間の意識は規定されるのであるから、これを
国家が統制する。詳しいところでは違うかもしれないが、
全体としてはこういう思想だと思う。
基本にあるのはフォイエルバッハに見られたように、
人間は自我であると共に他我である…人間自体が、
「社会関係の総体」である、という考え方だ。
しかし、往々にして人間はこれを認めようとはしない。
確かに社会関係は人間の意識を規定しているのだが、
人間はこれを自分の考えだといって譲らない。
マルクスはこの事態を「イデオロギー(虚偽意識)」と
呼んだとか。
だがこれこそ、人間が社会に規定されているという
証左でもあるかもしれない。人間はイデオロギーに
規定されるような存在なのである。
しかしながら、マルキシズムは教義(ドグマ)的性質を
強く持つために、マルクス主義に基づく革命運動が
絶対的な正義であり、それを批判する者は仲間であっても
「反革命」として弾圧する、という野蛮な機能を果たすことに
なった。それは社会主義国が誕生してからも多大な悲劇を
もたらすことになる。ソ連・中国では大国だけに顕著だった。
結局、求めたユートピアとは反対の地獄を作り出してしまった。
労働者の悲惨をなんとか救おうと思ったマルクスの心情は
察するにあまりある。しかし、人間は社会によってのみ
規定されるようなものでは、なかったということだろうか。
しかしマルクスが直観していた問題にはきっと本質的な
ものも含まれているはずで、機会があれば読んでみようとは
思う。
うーんしかし、なんかまとめていて眠い。
次は深層心理学のフロイトにいきます。
≪近代哲学(19)−社会主義・フォイエルバッハについて−≫
2004年8月3日フォイエルバッハ(1804〜1872)。すんごいマイナーな哲学者
だと思う。ニーチェの後だと余計かすむ。でも、ちょっと前の
全共闘の世代の人なら、マルクス、エンゲルス、あとレーニン
とかアルチュセール等と共に皆知っているであろう名前。
タイトルに「社会主義」って入ってるから、そっち方面という
ことは分かりますな。
これは「はじめての哲学史」には年表に出てくるんだけど、
詳しくは扱っていない人。昭和堂ではしっかり扱っている。
では時代背景と共に具体的にみていきましょう。
今では独裁と粛清に繋がることから、問題アリとされている
社会主義。だけど、その発生にはちゃんとした理由もあった。
なんでも、資本主義社会における労働階級の悲惨さは、目に余る
ものだったらしい。中世から市民社会に移行したはいいのだが
相変わらず、一部の特権階級が、貧民をこき使う日常。
また、資本主義の暴走でもあった、欧米の、世界中への侵略・
植民地化行為。これも、資本主義の問題点のひとつだった。
国の内も、外も、人間社会の矛盾、どうしようもなさ、悲惨さを
ありありと映し出していたであろう(とはいえ、政治体制が
どうあれ、利益が得られるのは間違いないのだから、航海技術の
進歩に伴って、武力による外国の植民地化は避けられなかった
とは思うが)。
そんなとき、ヘーゲル哲学を土台として、資本主義の矛盾を
なんとか乗り越えようとして生み出された思想、それが社会主義
だった…、、、、のだと今はとりあえず理解している。
今では資本主義より優れた思想は、ほとんど見出されていない。
もし今、資本主義より優れた思想が、誰か哲学者から提出されたら
どうだろうか?経済問題も解決し、戦争が起こらないような
理想的な社会体制。誰もがそれを熱望するだろう。
少し前の時代では、それが社会主義なのだと信じられていた、のだと
思う(ちなみに共産主義という言葉があるけど、マルクス主義
というとこちらのほうが適切かもしれない。社会主義は
無政府主義(アナーキズム)なども含む広い概念とか…まだ
勉強不足で分からない)。
結局、社会主義は、資本主義以上の悲惨さを人類にもたらして
失敗した。粛清を含め、社会主義体制下で死んだ人の数は、
億単位であるという(うち、中国の文化大革命がかなりの数字を
上げている)。十万とか百万ではなくて億単位である。
(「共産主義黒書」という本によれば、死者は約一億人。
文化大革命はうち6500万人。桁が違う)
理想は素晴らしかったかもしれないが、結果が悲惨過ぎた。
しかしながら、資本主義の次の思想が全く見えない現状、もう一度
社会主義者が問題とした論点を見直してみることも必要かも
しれない。
(ただ、ここでそれを出来るほど、俺は社会主義を知らない。
いずれ勉強しようと思う)
また、社会主義を語る上で外せなそうな哲学者が、前にも出てきた
ヘーゲル。このヘーゲル哲学を批判することで、社会主義は
生まれた。今現在のヘーゲル哲学への批判は、社会主義の失敗に
よるところもきっと、大きいのだろう。
さてフォイエルバッハ。この人は直接社会主義を提唱した、って
わけじゃないみたい。ただ(従来は)ヘーゲルとマルクスの中間に
位置する、と捉えられていたという。
エンゲルスが「フォイエルバッハ論」というのを書いてますね。
昭和堂では、その位置づけではフォイエルバッハの思想史上の
意味は明らかにならないと言っている。
フォイエルバッハの位置づけは「宗教哲学家」で、キリスト教の
それだったらしい。ただキリスト教批判もしている。
またヘーゲルの宗教哲学の研究者、批判者であり、シュトラウス
という人による分類では、マルクス・エンゲルスと共に「ヘーゲル左派」
に分類されているという。
では彼は、具体的に何を言っていたのか。
ちょっとまだ知識不足でうまく要約出来ないが、彼の思想は
・キリスト教批判
・ドイツ観念論の、独我論批判
にまとめられると思う。
キリスト教は周知のように、権力の形骸化・腐敗とか戦争に結び
ついており、知識人からの批判を一身に浴びていそうな気がする。
フォイエルバッハもその一人だったのだろうと思う。
フォイエルバッハは、神が何か人間の外にある絶対的なものとして
想定されてることを批判した。それらは元々人間の自己愛に根ざす
ものであり、人間がそれを外的なものとして勝手に想定して、
絶対化したにすぎない。それは人間の内なるものとして理解されねば
ならない。
また、キリスト教における「来世」などは存在せず、人間における
魂の不死は、人間を生んだ自然に還ることで成されるのである、と
主張した。
キリスト教の教義を覆すような考え方で、宗教は、人間の精神を
支えるのに役立たない、と彼は結論した。
ニーチェの批判した部分とは少し違う気もするが、これはこれで
まぁ納得のいく批判ではある。
つづいドイツ観念論批判。彼はデカルトのコギトも批判する。
「思惟することによって私自身人間的な類である」…ちょっと
意味を取るのが難しいが、自分すら思惟の対象なのであるから、
そこに他我との違いなどない、自我と同じくらい他我の存在も
確かなのである、ということだろうか。よく分からない。
また、ヘーゲルの「絶対精神」も、本来人間の内にあるものが
これも「神」と同じように、自分から切り離されて絶対化した
ものに過ぎないとされる。人間個人が理性に従って到達できる
そのようなものは存在しない。
こうして、本来的なものからその一部が切り離され、それが
それだけで存在しているかのように扱われるあり方を「疎外」
という。「神」も「絶対精神」も疎外から生まれたものだ。
「疎外」は多くの場合、本来的なあり方を「転倒」させてしまう
ので、いい影響をおよぼさない。
それらは本来自己の中で理解されるものである。そしてまた、
自己とは、人間の類のこと、周囲と一体となったものである。
人間を規定しているのは、身体、自然であり、また他の自己意識
なのである。ここから、自己の存在も理解されねばならない。
丁度時代がそうだが、ロマン主義の影響もあるのかもしれない。
シェリングと同じように、人間は自然との合一をはからねば
ならない、というような考え方が根底にある気がする。
フォイエルバッハは、ドイツ観念論の宗教的哲学、またキリスト教の
宗教における「自己疎外」から解放され、類としてのありかた
…他者との関係に規定される人間のあり方?にたつときに、
はじめて文化の担い手、政治的解放の主体になれる、とした。
これは確かに、社会主義の萌芽がところどころに見られる思想
だと思う。
社会主義の特徴は
・人間は自己そのものによってでなく、社会、他者の関係の中で
その存在を規定される
・「自己疎外」の原因である宗教は毒である
のような考え方にあるから、まさにそのプロトタイプだ。
続いて、マルクスにいきます。エンゲルスはなぜか扱ってない。
理由はよくわからない。
だと思う。ニーチェの後だと余計かすむ。でも、ちょっと前の
全共闘の世代の人なら、マルクス、エンゲルス、あとレーニン
とかアルチュセール等と共に皆知っているであろう名前。
タイトルに「社会主義」って入ってるから、そっち方面という
ことは分かりますな。
これは「はじめての哲学史」には年表に出てくるんだけど、
詳しくは扱っていない人。昭和堂ではしっかり扱っている。
では時代背景と共に具体的にみていきましょう。
今では独裁と粛清に繋がることから、問題アリとされている
社会主義。だけど、その発生にはちゃんとした理由もあった。
なんでも、資本主義社会における労働階級の悲惨さは、目に余る
ものだったらしい。中世から市民社会に移行したはいいのだが
相変わらず、一部の特権階級が、貧民をこき使う日常。
また、資本主義の暴走でもあった、欧米の、世界中への侵略・
植民地化行為。これも、資本主義の問題点のひとつだった。
国の内も、外も、人間社会の矛盾、どうしようもなさ、悲惨さを
ありありと映し出していたであろう(とはいえ、政治体制が
どうあれ、利益が得られるのは間違いないのだから、航海技術の
進歩に伴って、武力による外国の植民地化は避けられなかった
とは思うが)。
そんなとき、ヘーゲル哲学を土台として、資本主義の矛盾を
なんとか乗り越えようとして生み出された思想、それが社会主義
だった…、、、、のだと今はとりあえず理解している。
今では資本主義より優れた思想は、ほとんど見出されていない。
もし今、資本主義より優れた思想が、誰か哲学者から提出されたら
どうだろうか?経済問題も解決し、戦争が起こらないような
理想的な社会体制。誰もがそれを熱望するだろう。
少し前の時代では、それが社会主義なのだと信じられていた、のだと
思う(ちなみに共産主義という言葉があるけど、マルクス主義
というとこちらのほうが適切かもしれない。社会主義は
無政府主義(アナーキズム)なども含む広い概念とか…まだ
勉強不足で分からない)。
結局、社会主義は、資本主義以上の悲惨さを人類にもたらして
失敗した。粛清を含め、社会主義体制下で死んだ人の数は、
億単位であるという(うち、中国の文化大革命がかなりの数字を
上げている)。十万とか百万ではなくて億単位である。
(「共産主義黒書」という本によれば、死者は約一億人。
文化大革命はうち6500万人。桁が違う)
理想は素晴らしかったかもしれないが、結果が悲惨過ぎた。
しかしながら、資本主義の次の思想が全く見えない現状、もう一度
社会主義者が問題とした論点を見直してみることも必要かも
しれない。
(ただ、ここでそれを出来るほど、俺は社会主義を知らない。
いずれ勉強しようと思う)
また、社会主義を語る上で外せなそうな哲学者が、前にも出てきた
ヘーゲル。このヘーゲル哲学を批判することで、社会主義は
生まれた。今現在のヘーゲル哲学への批判は、社会主義の失敗に
よるところもきっと、大きいのだろう。
さてフォイエルバッハ。この人は直接社会主義を提唱した、って
わけじゃないみたい。ただ(従来は)ヘーゲルとマルクスの中間に
位置する、と捉えられていたという。
エンゲルスが「フォイエルバッハ論」というのを書いてますね。
昭和堂では、その位置づけではフォイエルバッハの思想史上の
意味は明らかにならないと言っている。
フォイエルバッハの位置づけは「宗教哲学家」で、キリスト教の
それだったらしい。ただキリスト教批判もしている。
またヘーゲルの宗教哲学の研究者、批判者であり、シュトラウス
という人による分類では、マルクス・エンゲルスと共に「ヘーゲル左派」
に分類されているという。
では彼は、具体的に何を言っていたのか。
ちょっとまだ知識不足でうまく要約出来ないが、彼の思想は
・キリスト教批判
・ドイツ観念論の、独我論批判
にまとめられると思う。
キリスト教は周知のように、権力の形骸化・腐敗とか戦争に結び
ついており、知識人からの批判を一身に浴びていそうな気がする。
フォイエルバッハもその一人だったのだろうと思う。
フォイエルバッハは、神が何か人間の外にある絶対的なものとして
想定されてることを批判した。それらは元々人間の自己愛に根ざす
ものであり、人間がそれを外的なものとして勝手に想定して、
絶対化したにすぎない。それは人間の内なるものとして理解されねば
ならない。
また、キリスト教における「来世」などは存在せず、人間における
魂の不死は、人間を生んだ自然に還ることで成されるのである、と
主張した。
キリスト教の教義を覆すような考え方で、宗教は、人間の精神を
支えるのに役立たない、と彼は結論した。
ニーチェの批判した部分とは少し違う気もするが、これはこれで
まぁ納得のいく批判ではある。
つづいドイツ観念論批判。彼はデカルトのコギトも批判する。
「思惟することによって私自身人間的な類である」…ちょっと
意味を取るのが難しいが、自分すら思惟の対象なのであるから、
そこに他我との違いなどない、自我と同じくらい他我の存在も
確かなのである、ということだろうか。よく分からない。
また、ヘーゲルの「絶対精神」も、本来人間の内にあるものが
これも「神」と同じように、自分から切り離されて絶対化した
ものに過ぎないとされる。人間個人が理性に従って到達できる
そのようなものは存在しない。
こうして、本来的なものからその一部が切り離され、それが
それだけで存在しているかのように扱われるあり方を「疎外」
という。「神」も「絶対精神」も疎外から生まれたものだ。
「疎外」は多くの場合、本来的なあり方を「転倒」させてしまう
ので、いい影響をおよぼさない。
それらは本来自己の中で理解されるものである。そしてまた、
自己とは、人間の類のこと、周囲と一体となったものである。
人間を規定しているのは、身体、自然であり、また他の自己意識
なのである。ここから、自己の存在も理解されねばならない。
丁度時代がそうだが、ロマン主義の影響もあるのかもしれない。
シェリングと同じように、人間は自然との合一をはからねば
ならない、というような考え方が根底にある気がする。
フォイエルバッハは、ドイツ観念論の宗教的哲学、またキリスト教の
宗教における「自己疎外」から解放され、類としてのありかた
…他者との関係に規定される人間のあり方?にたつときに、
はじめて文化の担い手、政治的解放の主体になれる、とした。
これは確かに、社会主義の萌芽がところどころに見られる思想
だと思う。
社会主義の特徴は
・人間は自己そのものによってでなく、社会、他者の関係の中で
その存在を規定される
・「自己疎外」の原因である宗教は毒である
のような考え方にあるから、まさにそのプロトタイプだ。
続いて、マルクスにいきます。エンゲルスはなぜか扱ってない。
理由はよくわからない。
うんだば
2004年8月3日きのう・きょうの日記。
書店に履歴書だした。しかし履歴書だけでふるい落とされる
のやだなぁ。
バイエル3の最初あたりがけっこう弾ける。
でも、なんやら9:←これに似たマークが出てくるとこ
で譜面が変わるところがむずかしい。うまくいえない。
しかし「永遠回帰」の思想は分かっていても、ヘーゲルの
「自己中心性」の考え方も分かっていても、自分の「力への意志」
は、未来の自分に貢献しようという方向に向いてくれません。
めんどくさくて努力ができない、ということだけど…
イカンイカン。ほんとに。俺の力への意志は、自己保存にすら
役立ってないのでは…
今日、弟が撮ってたビデオで、北野たけし監督だと思うけど
やくざ映画「ブラザー」か何かを見た。「HANABI」もそんな
感じだったような、確か…題名もあやふや。内容も少しみただけ
なんだけど、いや、ヤクザとマフィアの抗争って酷いね。
まぁ映画なんだけどね。
アメリカにいる日本のヤクザ?とアメリカの巨大なマフィアとの
戦争みたいになってたけど、ハリウッドみたいに、劣勢側が
なんとか銃弾をくぐりぬけてマフィア倒したりはせずに
例えば車に乗った途端、仕掛けてあった爆弾で爆死したり
とか、家に帰ってみたら家族が酷い殺され方してたりとか、
事務所を出てみたら、差し向けた刺客が、多分酷い拷問受けた
からなのか、歪んだ表情のデスマスクの生首になって置いて
あったりとか、うへぇ〜と思った。
とむらい合戦だ、とか言って突っ込んでいったはいいけど
意気込みむなしく、簡単にヤクザは皆殺しにされる。
結局残ったのは、リーダー的位置の役の、北野たけしだけ。
それでも、主人公?のたけしはタダでは死なないようだけど。
結局、用事があったので結末はみなかった。
よくあるよね、物語的に味方(感情移入してる側)のほうが、
勝ち目のない戦いに精一杯挑むんだが、やっぱり超えようの無い
壁にうちのめされていいようにやられる、という展開。
うわぁ、嫌だなぁ、と思うけど、普通の勧善懲悪モノの作品より、
なんだか心に残るものがある。あまりいい気分ではないけど、
なんかモヤモヤしたものが心に残る。
なにもかもうまくいった、よりは、苦しい中でも少しだけ救いが
あった、もしくは、ここから救われるなんて考えようが無いような
苦境からなんとか脱出できた、というほうがカタルシスがある
けど、しかし最後の最後まで救いがないのは、カタルシスが
得られないもどかしさが残るんだろうか。
そういう悲観主義的物語をみたあとだと、なんとなくアンニュイ
というか、ナーバスな気分になるよね。
今日はフッサールをまとめたいぞ(’∀’)
書店に履歴書だした。しかし履歴書だけでふるい落とされる
のやだなぁ。
バイエル3の最初あたりがけっこう弾ける。
でも、なんやら9:←これに似たマークが出てくるとこ
で譜面が変わるところがむずかしい。うまくいえない。
しかし「永遠回帰」の思想は分かっていても、ヘーゲルの
「自己中心性」の考え方も分かっていても、自分の「力への意志」
は、未来の自分に貢献しようという方向に向いてくれません。
めんどくさくて努力ができない、ということだけど…
イカンイカン。ほんとに。俺の力への意志は、自己保存にすら
役立ってないのでは…
今日、弟が撮ってたビデオで、北野たけし監督だと思うけど
やくざ映画「ブラザー」か何かを見た。「HANABI」もそんな
感じだったような、確か…題名もあやふや。内容も少しみただけ
なんだけど、いや、ヤクザとマフィアの抗争って酷いね。
まぁ映画なんだけどね。
アメリカにいる日本のヤクザ?とアメリカの巨大なマフィアとの
戦争みたいになってたけど、ハリウッドみたいに、劣勢側が
なんとか銃弾をくぐりぬけてマフィア倒したりはせずに
例えば車に乗った途端、仕掛けてあった爆弾で爆死したり
とか、家に帰ってみたら家族が酷い殺され方してたりとか、
事務所を出てみたら、差し向けた刺客が、多分酷い拷問受けた
からなのか、歪んだ表情のデスマスクの生首になって置いて
あったりとか、うへぇ〜と思った。
とむらい合戦だ、とか言って突っ込んでいったはいいけど
意気込みむなしく、簡単にヤクザは皆殺しにされる。
結局残ったのは、リーダー的位置の役の、北野たけしだけ。
それでも、主人公?のたけしはタダでは死なないようだけど。
結局、用事があったので結末はみなかった。
よくあるよね、物語的に味方(感情移入してる側)のほうが、
勝ち目のない戦いに精一杯挑むんだが、やっぱり超えようの無い
壁にうちのめされていいようにやられる、という展開。
うわぁ、嫌だなぁ、と思うけど、普通の勧善懲悪モノの作品より、
なんだか心に残るものがある。あまりいい気分ではないけど、
なんかモヤモヤしたものが心に残る。
なにもかもうまくいった、よりは、苦しい中でも少しだけ救いが
あった、もしくは、ここから救われるなんて考えようが無いような
苦境からなんとか脱出できた、というほうがカタルシスがある
けど、しかし最後の最後まで救いがないのは、カタルシスが
得られないもどかしさが残るんだろうか。
そういう悲観主義的物語をみたあとだと、なんとなくアンニュイ
というか、ナーバスな気分になるよね。
今日はフッサールをまとめたいぞ(’∀’)
≪近代哲学(18)−ニーチェについて<その6>−≫
2004年8月3日<その5からつづき>
ニーチェは、この宇宙を次のように捉える。「宇宙ではあらゆる
物質がひきつけあい、ぶつかりあっている。それらがエネルギー
均衡状態に達して静止するものなら、これまで永遠にも近い時が
流れただろうから、もうすでにそうなっているはずである。
しかし現にそうなっていないのだから、ある時点での物質と
エネルギーの配置が再び現れ、そこから宇宙はそれまでとまったく
同じ経過を繰り返すことになるだろう」
今の相対性理論に即した宇宙観ではないかもしれない。だが、
ビッグバン→ビッグクランチの後にまた同じビッグバンが訪れる
とすれば、また時間が永遠に続くために、無限に近い回数、何度
でも起こるとすれば、いつか同じ宇宙がまた再現される可能性は
ほとんど確実に近い。そして何度でも繰り返されるだろう。
さて、こう考えることは確かに不可能ではないが、しかしまた、
確証を得ることなど不可能だ。物理学的にもきっといくつもの
異論がある。しかしこれによってニーチェは何を言おうとして
いるのか?
人間は過去を悔やみ、また時にルサンチマンにとらわれてしまう
存在である。そのルサンチマンの思いをもう少し具体的にすれば、
世界や他者への呪い。「かつてそうだった」「いまこうでしか
ありえない」ということに対する無力感、それに対する、行き場の
ない負の感情である。
受け入れがたいのに変える力は無い、それを心理的に
復讐しようとする衝動が生まれる。これがルサンチマンの本質である。
それは「もしあのときこうしていれば」という、過去に対する
悔やみとしても現れるが、その償いを未来に求める場合もある。
今の苦しみの意味…これは未来における救いの前兆であるのだと、
「何のために」と聞かれれば、来世における救いのためであると。
この、過去、今における苦しみの償いを未来に求める姿勢、
これが多くの「真理」とか「絶対者」への希求として現れる
ことも多い。中世においては来世に、現代においても、未来において、
現在の苦痛の償いを求めてやまない人間の姿がある。
しかし、ニーチェはそれを「永遠回帰」によって否定する。
未来に、過去や今の苦しみの救いなどない。それはもう、既に
今まで通り過ぎた中にあったものであり、またこれからも、
過去や今の苦しみと共に永遠に繰り返されるものだ。
未来において今までの苦しみが清算されて「帳消し」になる
ことなどない。また同じ苦しみが、まったく同じ形で戻ってくる。
ならば、未来に救いを求める意味などない。今この「生」を、
肯定するしかないのだ。もし今この生を精一杯生きて、
肯定することができなければ、それはまた永遠に回帰してくる!
なんという恐ろしいことだろう。次の瞬間にも自分が下す
判断が、これから永遠に時の中で刻まれる「永遠回帰」の
一環であるのだ。
もしそうであるとして、過去にそうでしかありえなかったとして、
しかし今の自分はこれからの自分を紡ぎあげていく可能性を
「実感」している。もし今の瞬間にも、その可能性を
現実性にすることができなければ…、それは未来永劫、
現実にすることができないということだ。
嫌なことは未来にお任せしておけばいい、という自分に都合のいい
考え方、これを「永遠回帰」は一蹴する。そう思ったことは、
これから永遠に回帰してくるのだと。
永遠回帰は、過去にも未来にも、罪を認めない。そのような
意味は、過去にも未来にもない。「今」をどうにかしなければ、
永遠回帰の中で自分の生を有意味にすることができない。
これは「はじめての哲学史」の解釈ともちょっと違う。
(とはいえ、原典読んだらまた違う意味が取れるかもしれない)
しかし、入門書と、哲学史ふたつ読んで理解する限りでは、
俺は永遠回帰をこう理解する。
これから「無限に繰り返される」、唯一であり、変更不可能な
自分の人生、今自分は、もう二度と書き換えることのできない、
アカシックレコードに、自分の人生を刻み込んでいるのだ、という
実感をもたらすもの。
(もちろん過去に同じことが起きてて、これから何が起こるか
すでに決定している、とも言えるが、その内容が知りようもない
のだから同じことだ。それにこれが「一回目」かもしれない)
キリスト教のように来世など信じていなくても、現代でも、人間は
死んでしまえば苦しみから解放される、と素朴に信じている。
だが死んでしまえばおしまい、ではないのだ。たとえ苦しみに
耐えかねて自殺しても、また同じ瞬間が「永遠に回帰」してくる。
どこにも逃げ場はない。「今」この「生」を肯定するしか、
もう自分に道などないのだ。
しかしそれでも、あまりに人生が苦しい。こんなにも苦しいことを
受け入れる力は自分にはない、と思う人もいると思う。
そこでニーチェは、ひとつの美しい物語を語っている。
「人生は一つながりの輪である。もし一度でも心から生きていて
よかったと思うことがあったなら、君は人生の全体を肯定したことに
なる。そのとき君は「あらゆる苦悩とともに万物よ戻ってこい、
この生を私は欲する」と言うことができる─」
君は永遠回帰を欲するか、、とニーチェは問いつつ、
しかし、ニヒリズムの支配する世界において、この思想によって、
我々の生をはげまそうとするのである。
アパテイア、とかアタラクシア、または快楽主義など色々と
あったが、この「永遠回帰」はけっこう究極だと思う。
アタラクシアと同じく、少し感銘を受けた。
実は、主観の精緻な分析より、こうした哲学者の「回り道」的
思想のほうに味があるのかもしれないね。キルケゴールも
名言の宝庫らしい。
、、さて、この後は近代哲学における功績ではあるけど、他の
分野とも少しかぶる、2つの分野、4人の哲学者を紹介して、
近代哲学を終わりにします。
ニーチェは、この宇宙を次のように捉える。「宇宙ではあらゆる
物質がひきつけあい、ぶつかりあっている。それらがエネルギー
均衡状態に達して静止するものなら、これまで永遠にも近い時が
流れただろうから、もうすでにそうなっているはずである。
しかし現にそうなっていないのだから、ある時点での物質と
エネルギーの配置が再び現れ、そこから宇宙はそれまでとまったく
同じ経過を繰り返すことになるだろう」
今の相対性理論に即した宇宙観ではないかもしれない。だが、
ビッグバン→ビッグクランチの後にまた同じビッグバンが訪れる
とすれば、また時間が永遠に続くために、無限に近い回数、何度
でも起こるとすれば、いつか同じ宇宙がまた再現される可能性は
ほとんど確実に近い。そして何度でも繰り返されるだろう。
さて、こう考えることは確かに不可能ではないが、しかしまた、
確証を得ることなど不可能だ。物理学的にもきっといくつもの
異論がある。しかしこれによってニーチェは何を言おうとして
いるのか?
人間は過去を悔やみ、また時にルサンチマンにとらわれてしまう
存在である。そのルサンチマンの思いをもう少し具体的にすれば、
世界や他者への呪い。「かつてそうだった」「いまこうでしか
ありえない」ということに対する無力感、それに対する、行き場の
ない負の感情である。
受け入れがたいのに変える力は無い、それを心理的に
復讐しようとする衝動が生まれる。これがルサンチマンの本質である。
それは「もしあのときこうしていれば」という、過去に対する
悔やみとしても現れるが、その償いを未来に求める場合もある。
今の苦しみの意味…これは未来における救いの前兆であるのだと、
「何のために」と聞かれれば、来世における救いのためであると。
この、過去、今における苦しみの償いを未来に求める姿勢、
これが多くの「真理」とか「絶対者」への希求として現れる
ことも多い。中世においては来世に、現代においても、未来において、
現在の苦痛の償いを求めてやまない人間の姿がある。
しかし、ニーチェはそれを「永遠回帰」によって否定する。
未来に、過去や今の苦しみの救いなどない。それはもう、既に
今まで通り過ぎた中にあったものであり、またこれからも、
過去や今の苦しみと共に永遠に繰り返されるものだ。
未来において今までの苦しみが清算されて「帳消し」になる
ことなどない。また同じ苦しみが、まったく同じ形で戻ってくる。
ならば、未来に救いを求める意味などない。今この「生」を、
肯定するしかないのだ。もし今この生を精一杯生きて、
肯定することができなければ、それはまた永遠に回帰してくる!
なんという恐ろしいことだろう。次の瞬間にも自分が下す
判断が、これから永遠に時の中で刻まれる「永遠回帰」の
一環であるのだ。
もしそうであるとして、過去にそうでしかありえなかったとして、
しかし今の自分はこれからの自分を紡ぎあげていく可能性を
「実感」している。もし今の瞬間にも、その可能性を
現実性にすることができなければ…、それは未来永劫、
現実にすることができないということだ。
嫌なことは未来にお任せしておけばいい、という自分に都合のいい
考え方、これを「永遠回帰」は一蹴する。そう思ったことは、
これから永遠に回帰してくるのだと。
永遠回帰は、過去にも未来にも、罪を認めない。そのような
意味は、過去にも未来にもない。「今」をどうにかしなければ、
永遠回帰の中で自分の生を有意味にすることができない。
これは「はじめての哲学史」の解釈ともちょっと違う。
(とはいえ、原典読んだらまた違う意味が取れるかもしれない)
しかし、入門書と、哲学史ふたつ読んで理解する限りでは、
俺は永遠回帰をこう理解する。
これから「無限に繰り返される」、唯一であり、変更不可能な
自分の人生、今自分は、もう二度と書き換えることのできない、
アカシックレコードに、自分の人生を刻み込んでいるのだ、という
実感をもたらすもの。
(もちろん過去に同じことが起きてて、これから何が起こるか
すでに決定している、とも言えるが、その内容が知りようもない
のだから同じことだ。それにこれが「一回目」かもしれない)
キリスト教のように来世など信じていなくても、現代でも、人間は
死んでしまえば苦しみから解放される、と素朴に信じている。
だが死んでしまえばおしまい、ではないのだ。たとえ苦しみに
耐えかねて自殺しても、また同じ瞬間が「永遠に回帰」してくる。
どこにも逃げ場はない。「今」この「生」を肯定するしか、
もう自分に道などないのだ。
しかしそれでも、あまりに人生が苦しい。こんなにも苦しいことを
受け入れる力は自分にはない、と思う人もいると思う。
そこでニーチェは、ひとつの美しい物語を語っている。
「人生は一つながりの輪である。もし一度でも心から生きていて
よかったと思うことがあったなら、君は人生の全体を肯定したことに
なる。そのとき君は「あらゆる苦悩とともに万物よ戻ってこい、
この生を私は欲する」と言うことができる─」
君は永遠回帰を欲するか、、とニーチェは問いつつ、
しかし、ニヒリズムの支配する世界において、この思想によって、
我々の生をはげまそうとするのである。
アパテイア、とかアタラクシア、または快楽主義など色々と
あったが、この「永遠回帰」はけっこう究極だと思う。
アタラクシアと同じく、少し感銘を受けた。
実は、主観の精緻な分析より、こうした哲学者の「回り道」的
思想のほうに味があるのかもしれないね。キルケゴールも
名言の宝庫らしい。
、、さて、この後は近代哲学における功績ではあるけど、他の
分野とも少しかぶる、2つの分野、4人の哲学者を紹介して、
近代哲学を終わりにします。
≪近代哲学(18)−ニーチェについて<その5>−≫
2004年8月3日<その4からつづき>
・超人について
超人とは何か、これは「力への意志」もそうかもしれないけど、
これはもっと解釈が分かれている考え方だと思う。「永遠回帰」も
そうみたいだけど。
昭和堂のほうでは超人は大して扱われていない。何しろ、ニーチェの
本を見ると、遺伝的な優性思想的を示すような文章すらあって、
かのナチス・ドイツと重なって、あまりいい印象をもたれていない
ようだ。また、「人間は、動物と超人との間にかけ渡された1本の
綱である」という言葉から見られるように、遺伝的な進化を前提と
した思想と受け取られることもあるという。もし本当にそうなら、
ちょっと哲学として肯定的に扱うのは難しい。
ともかく、解釈が難しいようだが、ここは「はじめての哲学史」に
依拠しよう。いずれ直接読んで確かめたい。
キリスト教にかわる「真理」として受け取られるのを恐れたために、
あまりはっきりとした「超人」像を描いてはいない、という事情も
あるようだが、それにしてもあいまいにしては解釈が乱立してしまって
意味がないような気もする。まぁとりあえず見ていこう。
ニーチェはキリスト教を批判したが、キリスト教の問題点は
何かといえば、それは、弱者の生を守る「自己保存」のための
思想としては優れていたが、生きる力を生み出す欲望や力への意志を
圧殺するところだ。
ニーチェの言葉を借りれば、
「キリスト教は保存には役立つが生長には役立たない。それは
無難で誠実な善人を創り出すが、苦悩を引きうけつつ生の新たな
可能性を可能性を探求しようとする強い人間をむしろ抑圧する」
ニーチェの思想は、このキリスト教に変わる新たな思想、価値を
見出すところにある。これが、「超人」だというのだ。
ニーチェは、「人間は平等」とするキリスト教、または
民主主義とか社会主義に対する批判者でもあった。そうやって
人間を平等に扱うことは、本来より強いものへと向かう力をもつ
「力への意志」を抑圧することになると思ったからだろう。
いまさら超人を頂点に据えた階級社会は作りようもないので、
彼の民主主義批判には無理があるにはある。だが、ニーチェの
考える「超人」は、他の人々に、「こんな人間のあり方だって
ある」という希望を持たせるためのもの、だという。
ルサンチマンに陥ることなく、苦難を引き受け、さらに
「力への意志」に従い自分を高めていくことができる、
自分の生の苦難を、自分の生において引き受けることが
できる、そうした「超人」像がニーチェの描く、ニヒリズムを
超える思想だった。
自分の苦から目を逸らさず受け止める必要がある、というのは
今では歌謡曲でだって聴ける話ではあるが、それは今だから
なのかもしれない。この頃は、弱者救済の論理はキリスト教に
すべて回収されてしまう時代だったのだろう。
そう思うと、ニヒリズム含め、このときすでにニーチェは、
今に通じる論理を見出していたと言えるかもしれない。
つづいてニヒリズムに対抗するために打ち出した思想が
「永遠回帰」である。
・永遠回帰
これは結構、俺の感覚にも物凄くフィットする思想。
ニヒリズムを超えるための「永遠回帰」(「永劫回帰」のほうが
語感的には好きなんだけど)、この思想は確かに凄い。
俺なりに噛み砕けば、「否が応でも、現実から目を逸らさせない
ための考え方」だ。
「超人」もそういう意味では倫理的にも重要な考え方だと
思うけど、こちらがかなり強力。
ニーチェが生きていた頃、今ではもう常識となっている
「エネルギー保存の法則」が発見されている。ニーチェが
生まれた年の3年後の1847年。ドイツの物理学者、マイヤーと
ヘルムホルツが発見した
それがどうかしたの?と思う、そう哲学に関係ないような
感じもするが、実はこれが永遠回帰のアイデアの元になっている。
まぁ、はっきり言って「超人」と「永遠回帰」は割と
お好みで、という感じの思想で、同意する人もいれば
しない人もいると思う。「力への意志」よりは普遍的では
ない。
でも、もしこの「永遠回帰」を本当かもしれない、と思う
ならば、現実から目を逸らすわけにいかなくなる。少なくとも
俺はそう思った。
昭和堂では、究極的な目的がもしあるならば、現実において
次の一瞬一瞬は、その目的に向かう新しい瞬間だけれども、
目的のない世界においては、その一瞬一瞬が前の状態を保存
しているだけなのであって、無意味・無目的である、
そしてまた、一瞬前と現在がエネルギー保存の法則によって
等価であるならば、今は過去においてもすでに現存していた、
また未来においてもそうだと言えるのではないか。
このニヒリズムを超えるためには、その一瞬一瞬を肯定すべき
なのである、というような結論になるが、「はじめての哲学史」
から俺が得た結論はちょっと違う。どちらが妥当かは分からない
けど。
長くなったので、その6につづく。
・超人について
超人とは何か、これは「力への意志」もそうかもしれないけど、
これはもっと解釈が分かれている考え方だと思う。「永遠回帰」も
そうみたいだけど。
昭和堂のほうでは超人は大して扱われていない。何しろ、ニーチェの
本を見ると、遺伝的な優性思想的を示すような文章すらあって、
かのナチス・ドイツと重なって、あまりいい印象をもたれていない
ようだ。また、「人間は、動物と超人との間にかけ渡された1本の
綱である」という言葉から見られるように、遺伝的な進化を前提と
した思想と受け取られることもあるという。もし本当にそうなら、
ちょっと哲学として肯定的に扱うのは難しい。
ともかく、解釈が難しいようだが、ここは「はじめての哲学史」に
依拠しよう。いずれ直接読んで確かめたい。
キリスト教にかわる「真理」として受け取られるのを恐れたために、
あまりはっきりとした「超人」像を描いてはいない、という事情も
あるようだが、それにしてもあいまいにしては解釈が乱立してしまって
意味がないような気もする。まぁとりあえず見ていこう。
ニーチェはキリスト教を批判したが、キリスト教の問題点は
何かといえば、それは、弱者の生を守る「自己保存」のための
思想としては優れていたが、生きる力を生み出す欲望や力への意志を
圧殺するところだ。
ニーチェの言葉を借りれば、
「キリスト教は保存には役立つが生長には役立たない。それは
無難で誠実な善人を創り出すが、苦悩を引きうけつつ生の新たな
可能性を可能性を探求しようとする強い人間をむしろ抑圧する」
ニーチェの思想は、このキリスト教に変わる新たな思想、価値を
見出すところにある。これが、「超人」だというのだ。
ニーチェは、「人間は平等」とするキリスト教、または
民主主義とか社会主義に対する批判者でもあった。そうやって
人間を平等に扱うことは、本来より強いものへと向かう力をもつ
「力への意志」を抑圧することになると思ったからだろう。
いまさら超人を頂点に据えた階級社会は作りようもないので、
彼の民主主義批判には無理があるにはある。だが、ニーチェの
考える「超人」は、他の人々に、「こんな人間のあり方だって
ある」という希望を持たせるためのもの、だという。
ルサンチマンに陥ることなく、苦難を引き受け、さらに
「力への意志」に従い自分を高めていくことができる、
自分の生の苦難を、自分の生において引き受けることが
できる、そうした「超人」像がニーチェの描く、ニヒリズムを
超える思想だった。
自分の苦から目を逸らさず受け止める必要がある、というのは
今では歌謡曲でだって聴ける話ではあるが、それは今だから
なのかもしれない。この頃は、弱者救済の論理はキリスト教に
すべて回収されてしまう時代だったのだろう。
そう思うと、ニヒリズム含め、このときすでにニーチェは、
今に通じる論理を見出していたと言えるかもしれない。
つづいてニヒリズムに対抗するために打ち出した思想が
「永遠回帰」である。
・永遠回帰
これは結構、俺の感覚にも物凄くフィットする思想。
ニヒリズムを超えるための「永遠回帰」(「永劫回帰」のほうが
語感的には好きなんだけど)、この思想は確かに凄い。
俺なりに噛み砕けば、「否が応でも、現実から目を逸らさせない
ための考え方」だ。
「超人」もそういう意味では倫理的にも重要な考え方だと
思うけど、こちらがかなり強力。
ニーチェが生きていた頃、今ではもう常識となっている
「エネルギー保存の法則」が発見されている。ニーチェが
生まれた年の3年後の1847年。ドイツの物理学者、マイヤーと
ヘルムホルツが発見した
それがどうかしたの?と思う、そう哲学に関係ないような
感じもするが、実はこれが永遠回帰のアイデアの元になっている。
まぁ、はっきり言って「超人」と「永遠回帰」は割と
お好みで、という感じの思想で、同意する人もいれば
しない人もいると思う。「力への意志」よりは普遍的では
ない。
でも、もしこの「永遠回帰」を本当かもしれない、と思う
ならば、現実から目を逸らすわけにいかなくなる。少なくとも
俺はそう思った。
昭和堂では、究極的な目的がもしあるならば、現実において
次の一瞬一瞬は、その目的に向かう新しい瞬間だけれども、
目的のない世界においては、その一瞬一瞬が前の状態を保存
しているだけなのであって、無意味・無目的である、
そしてまた、一瞬前と現在がエネルギー保存の法則によって
等価であるならば、今は過去においてもすでに現存していた、
また未来においてもそうだと言えるのではないか。
このニヒリズムを超えるためには、その一瞬一瞬を肯定すべき
なのである、というような結論になるが、「はじめての哲学史」
から俺が得た結論はちょっと違う。どちらが妥当かは分からない
けど。
長くなったので、その6につづく。
≪近代哲学(18)−ニーチェについて<その4>−≫
2004年8月3日<その3からつづき>
確かに、素直に振り返ってみれば、自分のもつ、そういった
「力への意志」の存在は分からなくもない。
でももう少し、現代流というか、脳生理学の一般レベルの
知識がある自分に理解しやすく解釈するならば、
人間は生まれたときから、生まれ持った欲望と、社会の一般通念、
周りの人間の考えに影響されつつ、目の前の世界、事物にかんする
知識をたくわえていく。その知識は単なる知識ではなくて、
自分にとって、過去どのような影響をおよぼしたか、また自分が
どのように関与して、それがどのような結果を生んだか、無意識的に
記憶している。これは脳にとって、「生きていくための重要な知識」
である。ハンマーは釘を打てるが、重くて危ない、木や紙は
よく燃えるので、火気に近づけてはいけない、なぜなら火は熱くて
燃えたら死んでしまうから、等々…これらの経験を脳は目の前の
世界に適用し、また、世界から色々なことを吸収しようとする。
これらは無意識的であり、人間が本来持っている能力に即している。
この経験によって脳は自らの欲望の現れ方をいろいろと工夫するし、
目の前の事物の扱い方に関しては、この経験に即して自動的に
判断できるようになる。「認識に要する労力を節約する」のだ。
イスを見れば、直観的に座るものだとわかる。
うちわを見れば、直観的に扇いで涼しくなれるものだとわかる。
コップを見れば、直観的に水を注いで飲むものだとわかる。
これは、何も考えなくても自分がその行動を取れると思うと分かる
と思う。「これはイスであるから、座れるのである」といちいち
判断を下さなくても、無意識的に座れるものと判断できる。
しかし、あるときには、イスは高いものを取るときの踏み台にもなる。
コップならば、風で飛びやすい紙などの上において止めておく、
重しにだってできる。
経験をそのまま当てはめるのではなくて、欲望に対する「有用」と
いう観点から、目の前の事物を秩序付けるはたらきもある。
そしてそのことによって、また新たに経験を積み、自らの
欲望の発現の形式を「刷新」していくのだ。
またもうひとつ付け加えれば、光とか音というのは、もし人間が
本来何もそれを受け取る機関をもたなければ、ほとんど意味など
もたないものだ。生物が進化の過程で、それを受け取り、生きる
ための情報を受け取る機関として発達させたからこそ、それらの
情報を秩序付けられる知性も育った。そうすると、人間のもつ
五感そのものが、「力への意志」による世界解釈のはじまり、
とすることもできる。「五感」は決して客観的世界を受け取ろう
と発達したものではなくて、「力への意志」が、世界を解釈しよう
として生まれたものなのである…。
ちょっと自分流にしすぎかもしれないけど、これが「力への意志」
のひとつの捉え方だと思う。キルケゴールで創始された実存主義に、
ひとつ重要な観点が加わったと考えるといいと思う。
実際読んでないのに勝手に解釈してはいかんか…
次は超人なので、いったん切って5に。
確かに、素直に振り返ってみれば、自分のもつ、そういった
「力への意志」の存在は分からなくもない。
でももう少し、現代流というか、脳生理学の一般レベルの
知識がある自分に理解しやすく解釈するならば、
人間は生まれたときから、生まれ持った欲望と、社会の一般通念、
周りの人間の考えに影響されつつ、目の前の世界、事物にかんする
知識をたくわえていく。その知識は単なる知識ではなくて、
自分にとって、過去どのような影響をおよぼしたか、また自分が
どのように関与して、それがどのような結果を生んだか、無意識的に
記憶している。これは脳にとって、「生きていくための重要な知識」
である。ハンマーは釘を打てるが、重くて危ない、木や紙は
よく燃えるので、火気に近づけてはいけない、なぜなら火は熱くて
燃えたら死んでしまうから、等々…これらの経験を脳は目の前の
世界に適用し、また、世界から色々なことを吸収しようとする。
これらは無意識的であり、人間が本来持っている能力に即している。
この経験によって脳は自らの欲望の現れ方をいろいろと工夫するし、
目の前の事物の扱い方に関しては、この経験に即して自動的に
判断できるようになる。「認識に要する労力を節約する」のだ。
イスを見れば、直観的に座るものだとわかる。
うちわを見れば、直観的に扇いで涼しくなれるものだとわかる。
コップを見れば、直観的に水を注いで飲むものだとわかる。
これは、何も考えなくても自分がその行動を取れると思うと分かる
と思う。「これはイスであるから、座れるのである」といちいち
判断を下さなくても、無意識的に座れるものと判断できる。
しかし、あるときには、イスは高いものを取るときの踏み台にもなる。
コップならば、風で飛びやすい紙などの上において止めておく、
重しにだってできる。
経験をそのまま当てはめるのではなくて、欲望に対する「有用」と
いう観点から、目の前の事物を秩序付けるはたらきもある。
そしてそのことによって、また新たに経験を積み、自らの
欲望の発現の形式を「刷新」していくのだ。
またもうひとつ付け加えれば、光とか音というのは、もし人間が
本来何もそれを受け取る機関をもたなければ、ほとんど意味など
もたないものだ。生物が進化の過程で、それを受け取り、生きる
ための情報を受け取る機関として発達させたからこそ、それらの
情報を秩序付けられる知性も育った。そうすると、人間のもつ
五感そのものが、「力への意志」による世界解釈のはじまり、
とすることもできる。「五感」は決して客観的世界を受け取ろう
と発達したものではなくて、「力への意志」が、世界を解釈しよう
として生まれたものなのである…。
ちょっと自分流にしすぎかもしれないけど、これが「力への意志」
のひとつの捉え方だと思う。キルケゴールで創始された実存主義に、
ひとつ重要な観点が加わったと考えるといいと思う。
実際読んでないのに勝手に解釈してはいかんか…
次は超人なので、いったん切って5に。
≪近代哲学(18)−ニーチェについて<その3>−≫
2004年8月3日<その2からつづき>
キリスト教における素朴な「真理」への追究も、
その流れを汲んだ近代哲学・科学の「真理」への追究も、
それが挫折を見たときには、避けようの無い「ニヒリズム」が
訪れる。
なぜならば、それは本来「力への意志」には絶対必要とは思えない
「真理」が「ルサンチマン」によって切実に希求されるように
なってしまったからである。また、その遠因を作ってきたのは
古来からの哲学者達だ。
その解決策としてニーチェが提出した思想が、「力への意志」を
原理とした「超人」「永遠回帰」の思想である。
ただこの思想は、「真理」として信仰されることを恐れてあまり
明確に記述していない、ということも問題点だけど、社会制度の
原理としては、ちょっと耐えられないところがあるという。
実存主義としての功績が大きいのだろう。
「人間は、自分自身がどういう存在なのかを、絶えず問い
つづけるような存在」、このような人間のあり方を「実存」
という(ほかの生物には恐らくありえない存在仕方である)。
また、これには「可能性と現実性の間で、つねに引き裂かれ
つづける」という人間のあり方も含まれている。
哲学のながい歴史の中でつきつめられてきた、誰もがこう
考える他ない、という原理であり、哲学の功績ともいえる
考え方だ。「はじめての哲学史」では、これが、それまでの
哲学の功績の蓄積があってこそのものである、そしてまた、
社会の本質を見抜いたヘーゲルと共に、ニーチェが、この
実存主義において、最高の思想的達成を成している、と
言っている。
個人と社会の、発展の原理を見抜いたヘーゲル。
人間の「実存」というあり方をつきつめたニーチェ。
この2人が、近代哲学の成功者、勝利者である。
もちろん、デカルト、ヒューム、カント、ルソー、キルケゴール
その他の哲学者がいてこその思想的達成だと思う。
えらい余談だった。ではつづきを。
ニーチェがこの実存主義において、具体的にどのような
功績を残したか?これが実は、プラトンの直観していた
問題とほとんど重なるのである。プラトンというともう
2300年近く前であるから、それもちょっと凄い。ともあれ、
キーワードを順に見ていきましょう。
・力への意志
あれですな、ゼノサ○ガのあれです。善悪の彼岸もそうだけど。
実際、ニーチェ読んでからストーリー見てみると、思わず
ニヤリとする場面もあるんでしょうか。どうでしょう。
さてこの力への意志、なんやら哲学的には、見た目のイメージ
とは違って何か深遠な意味があるのか、といえば、けっこう
見たまんまの意味でいいようです。人間に宿る、力への意志。
生とか、権力への、力への意志。欲望のようなもの。
ショーペンハウアーも言っていた、「生きんとする意志」に結構
近い。
とはいえ、この言葉の意味はそれでいいのだけど、この言葉を
原理においた世界説明、にニーチェの思想のキモがある。
どんな生命体も、自己保存、種族保存とか個体の生命保存以上に、
それ以上、もっと先を求め、力を増していこうとする意志が
ある、とニーチェは思った。
そして、それが「世界を解釈する力」であると考えた。
ニーチェの言葉で有名なものに「事実なるものはない。ただ
解釈のみがある」というものがある。
この解釈の源泉が、「力への意志」なのだ。
もちろん自己保存のための力でもある。この「自己保存、
および生長」への欲求である「力への意志」が、さまざまな
生存の条件のもとに置かれることによって、さまざまな
世界の解釈と価値とを創りだしていくのだと。
この考え方は、パッと聞くだけでは、変なこと言ってるように
聞こえる。人間が世界を解釈によって創り出す???
何言ってんの、目の前にモノがあって、そのモノが反射する
光とか、空気の振動とかを感じてるんであって、受動的じゃん、
と。
しかしニーチェの言いたいところはそこではなくて、
人間は、目の前の世界を、生にとっての有用性(善い)
という観点で秩序付ける、ということを言おうとしている
のだ。
これは、ソクラテス(プラトン)も言っていた、「人間にとって
本来語るに値するのは、そのものにとって何が最善であるかという
ことだ」という考えと合致するところがある。
これは、それまでの「認識」に対する考え方を、一変させてしまう
思想だった。それまでの認識は、客観的世界があり、その客観世界を
いわば「模写している」のが認識であるとされていた。
ニーチェの考え方はちがう。世界を認識するということは、
この世界が自分にとってどのような「善い」にかんする意味を
持っているか、にかかっているというのである。
確かに、ヒュームの言うような「知覚の束」では、その世界の
中に何か意味を見出すことはない。目に入ってきている色や
聞こえる音、触感などに、必ず人間は「〜にとって役立つか、
役立たないか」とか「食べられるか、食べられないか」とか、
生にとっての意味づけを行っている。そして、その意味づけは
「力への意志」によっていろいろと変化するものだ。
パンはある時は食べものだが、ある時は消しゴムがわりに
なったりもする…目の前にある「もの」は、人間の意志によって
色々とありようを変える。世界は、人間の「力への意志」
抜きに有意味な何かを持つわけではなく、「力への意志」に
よって解釈されることで、はじめて人間が生きる意味を見出せる、
いきいきとした世界になる。
これはけっこう自分解釈入ってるので自信ないけど、こんなような
意味だと思う。
その4につづきます。
キリスト教における素朴な「真理」への追究も、
その流れを汲んだ近代哲学・科学の「真理」への追究も、
それが挫折を見たときには、避けようの無い「ニヒリズム」が
訪れる。
なぜならば、それは本来「力への意志」には絶対必要とは思えない
「真理」が「ルサンチマン」によって切実に希求されるように
なってしまったからである。また、その遠因を作ってきたのは
古来からの哲学者達だ。
その解決策としてニーチェが提出した思想が、「力への意志」を
原理とした「超人」「永遠回帰」の思想である。
ただこの思想は、「真理」として信仰されることを恐れてあまり
明確に記述していない、ということも問題点だけど、社会制度の
原理としては、ちょっと耐えられないところがあるという。
実存主義としての功績が大きいのだろう。
「人間は、自分自身がどういう存在なのかを、絶えず問い
つづけるような存在」、このような人間のあり方を「実存」
という(ほかの生物には恐らくありえない存在仕方である)。
また、これには「可能性と現実性の間で、つねに引き裂かれ
つづける」という人間のあり方も含まれている。
哲学のながい歴史の中でつきつめられてきた、誰もがこう
考える他ない、という原理であり、哲学の功績ともいえる
考え方だ。「はじめての哲学史」では、これが、それまでの
哲学の功績の蓄積があってこそのものである、そしてまた、
社会の本質を見抜いたヘーゲルと共に、ニーチェが、この
実存主義において、最高の思想的達成を成している、と
言っている。
個人と社会の、発展の原理を見抜いたヘーゲル。
人間の「実存」というあり方をつきつめたニーチェ。
この2人が、近代哲学の成功者、勝利者である。
もちろん、デカルト、ヒューム、カント、ルソー、キルケゴール
その他の哲学者がいてこその思想的達成だと思う。
えらい余談だった。ではつづきを。
ニーチェがこの実存主義において、具体的にどのような
功績を残したか?これが実は、プラトンの直観していた
問題とほとんど重なるのである。プラトンというともう
2300年近く前であるから、それもちょっと凄い。ともあれ、
キーワードを順に見ていきましょう。
・力への意志
あれですな、ゼノサ○ガのあれです。善悪の彼岸もそうだけど。
実際、ニーチェ読んでからストーリー見てみると、思わず
ニヤリとする場面もあるんでしょうか。どうでしょう。
さてこの力への意志、なんやら哲学的には、見た目のイメージ
とは違って何か深遠な意味があるのか、といえば、けっこう
見たまんまの意味でいいようです。人間に宿る、力への意志。
生とか、権力への、力への意志。欲望のようなもの。
ショーペンハウアーも言っていた、「生きんとする意志」に結構
近い。
とはいえ、この言葉の意味はそれでいいのだけど、この言葉を
原理においた世界説明、にニーチェの思想のキモがある。
どんな生命体も、自己保存、種族保存とか個体の生命保存以上に、
それ以上、もっと先を求め、力を増していこうとする意志が
ある、とニーチェは思った。
そして、それが「世界を解釈する力」であると考えた。
ニーチェの言葉で有名なものに「事実なるものはない。ただ
解釈のみがある」というものがある。
この解釈の源泉が、「力への意志」なのだ。
もちろん自己保存のための力でもある。この「自己保存、
および生長」への欲求である「力への意志」が、さまざまな
生存の条件のもとに置かれることによって、さまざまな
世界の解釈と価値とを創りだしていくのだと。
この考え方は、パッと聞くだけでは、変なこと言ってるように
聞こえる。人間が世界を解釈によって創り出す???
何言ってんの、目の前にモノがあって、そのモノが反射する
光とか、空気の振動とかを感じてるんであって、受動的じゃん、
と。
しかしニーチェの言いたいところはそこではなくて、
人間は、目の前の世界を、生にとっての有用性(善い)
という観点で秩序付ける、ということを言おうとしている
のだ。
これは、ソクラテス(プラトン)も言っていた、「人間にとって
本来語るに値するのは、そのものにとって何が最善であるかという
ことだ」という考えと合致するところがある。
これは、それまでの「認識」に対する考え方を、一変させてしまう
思想だった。それまでの認識は、客観的世界があり、その客観世界を
いわば「模写している」のが認識であるとされていた。
ニーチェの考え方はちがう。世界を認識するということは、
この世界が自分にとってどのような「善い」にかんする意味を
持っているか、にかかっているというのである。
確かに、ヒュームの言うような「知覚の束」では、その世界の
中に何か意味を見出すことはない。目に入ってきている色や
聞こえる音、触感などに、必ず人間は「〜にとって役立つか、
役立たないか」とか「食べられるか、食べられないか」とか、
生にとっての意味づけを行っている。そして、その意味づけは
「力への意志」によっていろいろと変化するものだ。
パンはある時は食べものだが、ある時は消しゴムがわりに
なったりもする…目の前にある「もの」は、人間の意志によって
色々とありようを変える。世界は、人間の「力への意志」
抜きに有意味な何かを持つわけではなく、「力への意志」に
よって解釈されることで、はじめて人間が生きる意味を見出せる、
いきいきとした世界になる。
これはけっこう自分解釈入ってるので自信ないけど、こんなような
意味だと思う。
その4につづきます。
≪近代哲学(18)−ニーチェについて<その2>−≫
2004年8月3日<その1からつづき>
まずニーチェはキリスト教成立の歴史に目を向けて、この
「利他的」のみが美しいといった価値観の源泉は何かといえば、
それは「ルサンチマン(フランス語で妬み・恨みの意。怨念)」
なのだと言った。どういうことかというと、紀元前のユダヤ人に
まで話はさかのぼる。
ユダヤ人はユダヤ教でまとまった民族で、このユダヤ教が
キリスト教とイスラム教に分かれたのは有名な話だと思う。
ユダヤ人は歴史的に非常に不遇な民族で、行くところ行くところで
そこの支配階級に悲惨な目に遭わされていた(ホロコーストも
その最たる例ではある。ただ今はイスラエルにも見るように、
世界的に富豪揃いの民族だが)。詳しい経緯は覚えていないが、
最終的にローマに住み着いた後も、国教に認められるまでは、
キリスト教徒はローマから酷い弾圧・拷問を受けていたことも
有名だと思う。
紀元前の昔から、酷い弾圧・虐殺・拷問を受けては逃げての
繰り返しで生きてきた民族であるから、当然こう思う。
「なぜ私たちは、こんなに酷い目にばかり遭うのだろう?」
これは運命だろうか、こんなにも辛いのに、救いが無いなんて
ことはないはずだ(そう信じたい)…
現実に勝てる力は無い、支配階級は決まって富と権力を持ち、
移民で貧困な自分たちに、現実世界で勝つすべはない…とすれば
「富・権力を持つことが悪いこと」「貧乏だが誠実に生きさえ
すれば、救われるのはそちらのほうだ」と、考える様になる
のである(もちろん、そういう教えを広めて民族をまとめた
誰かがいるのだろうけど。キリスト教ならイエスですな)。
普通に考えてもエゴイズムは醜いこともあり、そう考えるのも
不思議ではない。
新約のマタイ書には「貧しきものこそ幸いである、天国は彼らの
ためにある。金持ちが天国に行くのはラクダが針の穴を通るより
難しい」と書いてあるという。
ここで重要なのは、「エゴイズムが醜い」とか「質素、誠実なのは
美しい」という、単純な倫理的観点から生み出された考え方
では、無いということである。やはり、根底にあるのは、
強者への怨念、ルサンチマンなのだ。だから、質素、誠実である
こと「だけ」が、最高の価値となってしまう。現世における
欲望とか快楽が、一切否定されてしまうのだ。
ここから、次の考え方も生み出されてくる。
神は本来善なるものとして人間をおつくりになったはずが、
なぜ人間に悪とか欲という側面があるのか…これは人間が元々
原罪を持ってるからなのであって、それをこの現世で、
たえず善人であることを目指すことによって、つぐなわなければ
ならないものであるからなのだ。
それが、来世で救われるただ一つの道なんだ。
現世でどうしても救われないのであるから、確かにこう考えるしか
ない。それに神は絶対者・絶対善だから、神が悪いなんてことには
できない(それに、神が悪の源泉なんてことになったら、ますます
救われない)。自らが元々罪を負っているからなのだ、ということ
になる。
このようなキリスト教に対して、ニーチェはこういう。
<自らを呪われた無価値なものとみなし、現世の欲望を否定し、
そして現世の生は仮そめで真実の生は彼岸にあるとするキリスト教
は、「生を絶対的に否定しようとする意志」であり「無(ニヒル)
への意志」であり、もともとがニヒリズムなのだ>と。
とはいえ、救われない人たちがそう考えたのも、無理はない話だと
個人的には思う。ニーチェもそれは分かっていただろう。ただ、
それがニヒリズムに繋がるのであれば、なんとか対策を練らねば
ならない。そのために批判も必要だ。
ちなみにこのような、善の世界が自分達の世界とは別にあり、
それは達すべき彼岸にあるが今は届かない…このような考えを
「二世界説」といい、「善悪の彼岸」はここからきている。
さて、このようなキリスト教の思想が、ローマ帝国の国教になって
から、ずっと長いことヨーロッパを支配する思想になっていた。
十字軍やら植民地支配やらに利用された経緯もある。しかしなぜ、
この思想がそれほどに支配的だったのか…といえば、今のように
豊かになる以前、苦悩に悩む多数の弱者に、「生きる意味」を
与えてきたからである。今は苦しくても、質素に誠実に生きさえ
すれば、来世で必ず救われる。唯一の真理であり、道徳の根拠である
神は、弱者の「自己保存」のための手段であった、とニーチェは
結論する。
確かにそうだ。これを支配層が利用したというのが、キリスト教
本来の目的をずいぶん歪ませていると思うが、弱者にとっては
確かにそれが真実だったのだろう。
しかし今はそうではない。人間の理性によって個人と社会を
描いたカントやヘーゲルの近代哲学、そして科学的検証で、
誰にでも共有可能な世界説明を成し遂げた自然科学がむしろ
支配的かもしれない。
では、そのキリスト教にとってかわって登場した近代の哲学、
科学はどうだったのか?キリスト教の価値を一変させたのだろうか?
ニーチェによれば、それらの哲学・科学も、どこかにある
「唯一絶対的な真理」を盲信している点で、何らキリスト教と
変わらないのだ。そういった「唯一絶対的な真理」を盲信している
からこそ、それが存在しないかもしれない、と思えたときには、
それが幻滅とニヒリズムとなって現れる、とニーチェはいう。
確かに、それまでの哲学も科学も、人間が理性によって、何らかの
「真理」…哲学なら本来の人間のあり方、主観の仕組み、科学なら
間違いない世界の仕組み、にたどり着けるという確信が前提として
ある(これはニーチェによれば、プラトンによる絶対善への希求に
その端を発している。ヘラクレイトス以外の哲学者をその絶対善、
真理への希求者と見なし、それらの哲学者全員をニーチェは
批判した。ニーチェは言う。「善と美が同じであるなどということは、
哲学者にとって恥ずべきことである。その上「真もまた」と付け
加えるならば、その哲学者を殴り飛ばすべきである。真理は醜い」)。
しかしどうだろうか…、哲学はいまだに「真理」などに到達できて
いない(むしろ、そんなものは存在しない、という考えがほとんど
である)。科学にしても、地球の環境との軋轢が如実にあらわれて
きて、果たして科学信仰は正しかったのかと、人類が自らに問うて
いる状態である。
さきに、世界における最高価値が剥奪されたことは、キリスト教に
つづき2つあったと言ったが、もう1つがこれである。象徴的なのは、
マルクス主義の終焉だと思う。哲学も、科学も、人間の理想を
達成させることが出来なかったばかりか、一方ではマルキシズムによって
惨禍を生み、科学の発達によって、地球の状態を悪化させる結果と
なった…「真理への希求」が、挫折を見たと言える。
ニーチェが言うには、こうした真理への素朴な信仰は、ユダヤ教の
昔に生まれた「ルサンチマン」に由来し、「神(真理への信仰)が
死んだ」時、「ニヒリズム」が到来するのである。
確かに、資本主義の矛盾を前に、また科学至上主義の悪影響を
前にして、一体しかし何を代替案としていいかさっぱり分からない
現状は、なんとなく無力感をおぼえる。
また新たな価値(真理)が生まれても同じことが起こる。ならば
ニーチェはどう考えるのだろうか?
では、その3へ。
まずニーチェはキリスト教成立の歴史に目を向けて、この
「利他的」のみが美しいといった価値観の源泉は何かといえば、
それは「ルサンチマン(フランス語で妬み・恨みの意。怨念)」
なのだと言った。どういうことかというと、紀元前のユダヤ人に
まで話はさかのぼる。
ユダヤ人はユダヤ教でまとまった民族で、このユダヤ教が
キリスト教とイスラム教に分かれたのは有名な話だと思う。
ユダヤ人は歴史的に非常に不遇な民族で、行くところ行くところで
そこの支配階級に悲惨な目に遭わされていた(ホロコーストも
その最たる例ではある。ただ今はイスラエルにも見るように、
世界的に富豪揃いの民族だが)。詳しい経緯は覚えていないが、
最終的にローマに住み着いた後も、国教に認められるまでは、
キリスト教徒はローマから酷い弾圧・拷問を受けていたことも
有名だと思う。
紀元前の昔から、酷い弾圧・虐殺・拷問を受けては逃げての
繰り返しで生きてきた民族であるから、当然こう思う。
「なぜ私たちは、こんなに酷い目にばかり遭うのだろう?」
これは運命だろうか、こんなにも辛いのに、救いが無いなんて
ことはないはずだ(そう信じたい)…
現実に勝てる力は無い、支配階級は決まって富と権力を持ち、
移民で貧困な自分たちに、現実世界で勝つすべはない…とすれば
「富・権力を持つことが悪いこと」「貧乏だが誠実に生きさえ
すれば、救われるのはそちらのほうだ」と、考える様になる
のである(もちろん、そういう教えを広めて民族をまとめた
誰かがいるのだろうけど。キリスト教ならイエスですな)。
普通に考えてもエゴイズムは醜いこともあり、そう考えるのも
不思議ではない。
新約のマタイ書には「貧しきものこそ幸いである、天国は彼らの
ためにある。金持ちが天国に行くのはラクダが針の穴を通るより
難しい」と書いてあるという。
ここで重要なのは、「エゴイズムが醜い」とか「質素、誠実なのは
美しい」という、単純な倫理的観点から生み出された考え方
では、無いということである。やはり、根底にあるのは、
強者への怨念、ルサンチマンなのだ。だから、質素、誠実である
こと「だけ」が、最高の価値となってしまう。現世における
欲望とか快楽が、一切否定されてしまうのだ。
ここから、次の考え方も生み出されてくる。
神は本来善なるものとして人間をおつくりになったはずが、
なぜ人間に悪とか欲という側面があるのか…これは人間が元々
原罪を持ってるからなのであって、それをこの現世で、
たえず善人であることを目指すことによって、つぐなわなければ
ならないものであるからなのだ。
それが、来世で救われるただ一つの道なんだ。
現世でどうしても救われないのであるから、確かにこう考えるしか
ない。それに神は絶対者・絶対善だから、神が悪いなんてことには
できない(それに、神が悪の源泉なんてことになったら、ますます
救われない)。自らが元々罪を負っているからなのだ、ということ
になる。
このようなキリスト教に対して、ニーチェはこういう。
<自らを呪われた無価値なものとみなし、現世の欲望を否定し、
そして現世の生は仮そめで真実の生は彼岸にあるとするキリスト教
は、「生を絶対的に否定しようとする意志」であり「無(ニヒル)
への意志」であり、もともとがニヒリズムなのだ>と。
とはいえ、救われない人たちがそう考えたのも、無理はない話だと
個人的には思う。ニーチェもそれは分かっていただろう。ただ、
それがニヒリズムに繋がるのであれば、なんとか対策を練らねば
ならない。そのために批判も必要だ。
ちなみにこのような、善の世界が自分達の世界とは別にあり、
それは達すべき彼岸にあるが今は届かない…このような考えを
「二世界説」といい、「善悪の彼岸」はここからきている。
さて、このようなキリスト教の思想が、ローマ帝国の国教になって
から、ずっと長いことヨーロッパを支配する思想になっていた。
十字軍やら植民地支配やらに利用された経緯もある。しかしなぜ、
この思想がそれほどに支配的だったのか…といえば、今のように
豊かになる以前、苦悩に悩む多数の弱者に、「生きる意味」を
与えてきたからである。今は苦しくても、質素に誠実に生きさえ
すれば、来世で必ず救われる。唯一の真理であり、道徳の根拠である
神は、弱者の「自己保存」のための手段であった、とニーチェは
結論する。
確かにそうだ。これを支配層が利用したというのが、キリスト教
本来の目的をずいぶん歪ませていると思うが、弱者にとっては
確かにそれが真実だったのだろう。
しかし今はそうではない。人間の理性によって個人と社会を
描いたカントやヘーゲルの近代哲学、そして科学的検証で、
誰にでも共有可能な世界説明を成し遂げた自然科学がむしろ
支配的かもしれない。
では、そのキリスト教にとってかわって登場した近代の哲学、
科学はどうだったのか?キリスト教の価値を一変させたのだろうか?
ニーチェによれば、それらの哲学・科学も、どこかにある
「唯一絶対的な真理」を盲信している点で、何らキリスト教と
変わらないのだ。そういった「唯一絶対的な真理」を盲信している
からこそ、それが存在しないかもしれない、と思えたときには、
それが幻滅とニヒリズムとなって現れる、とニーチェはいう。
確かに、それまでの哲学も科学も、人間が理性によって、何らかの
「真理」…哲学なら本来の人間のあり方、主観の仕組み、科学なら
間違いない世界の仕組み、にたどり着けるという確信が前提として
ある(これはニーチェによれば、プラトンによる絶対善への希求に
その端を発している。ヘラクレイトス以外の哲学者をその絶対善、
真理への希求者と見なし、それらの哲学者全員をニーチェは
批判した。ニーチェは言う。「善と美が同じであるなどということは、
哲学者にとって恥ずべきことである。その上「真もまた」と付け
加えるならば、その哲学者を殴り飛ばすべきである。真理は醜い」)。
しかしどうだろうか…、哲学はいまだに「真理」などに到達できて
いない(むしろ、そんなものは存在しない、という考えがほとんど
である)。科学にしても、地球の環境との軋轢が如実にあらわれて
きて、果たして科学信仰は正しかったのかと、人類が自らに問うて
いる状態である。
さきに、世界における最高価値が剥奪されたことは、キリスト教に
つづき2つあったと言ったが、もう1つがこれである。象徴的なのは、
マルクス主義の終焉だと思う。哲学も、科学も、人間の理想を
達成させることが出来なかったばかりか、一方ではマルキシズムによって
惨禍を生み、科学の発達によって、地球の状態を悪化させる結果と
なった…「真理への希求」が、挫折を見たと言える。
ニーチェが言うには、こうした真理への素朴な信仰は、ユダヤ教の
昔に生まれた「ルサンチマン」に由来し、「神(真理への信仰)が
死んだ」時、「ニヒリズム」が到来するのである。
確かに、資本主義の矛盾を前に、また科学至上主義の悪影響を
前にして、一体しかし何を代替案としていいかさっぱり分からない
現状は、なんとなく無力感をおぼえる。
また新たな価値(真理)が生まれても同じことが起こる。ならば
ニーチェはどう考えるのだろうか?
では、その3へ。
≪近代哲学(18)−ニーチェについて<その1>−≫
2004年8月3日おそらく日本では一番有名な西洋の哲学者。カント?知らない。
ヘーゲル?誰それ。フッサール?はぁ?という人でもこの人は
知っているであろう、フリードリッヒ・ニーチェ(1844〜1900)で
あります。
といっても、「え、誰だっけ。文学の人?」とか言われそうな
感じもしそうだ。まぁ俺の感覚もアテにならんけど。
ニーチェというと、これも難解な哲学として知られている。
哲学者って、取り方がいろいろあるみたいで、ニーチェなんかは
特によくわからない言い方をするので、解釈がいろいろあるそうだ。
哲学者に対して抱いていた俺のイメージとしては、ニーチェの
存在も影響していた。彼の思想はなんとなく(本当になんとなく)
は知っていたけど、その言い方とか主張があまりに茫洋としている
ため、きっと哲学者の考え方は、その哲学者それぞれの「真理」が
あるのであって、それに触れるのは一般人にとっては、何やら
複雑なことを考える知性に触れられる一種のエンターテイメント
だが、あくまで「ニーチェ真理」とか「プラトン真理」とかの
凡人には理解しえない「哲学者それぞれの真理」があるのであって、
それぞれの思想は独立しているものと思っていた。
キーワードが茫洋としかつ訳わからなすぎて、考えすぎてあさっての
方向にいっちゃってるのだと思ったからだ。考えがあさっての方向に
いっちゃった、頭のいい人の数だけ、哲学者がいるのだと思った。
しかしそれは違って、哲学は時代を追うごとにちゃんと進化している。
パルメニデスしかり、アリストテレスしかり、デカルトしかり、
ヒュームしかり、カントしかり、ヘーゲルしかり。
これらの哲学者はどれも、それが「発見」されてしまえば、
それ以前の思想には戻れないような、「思考の原理」を見つけ
出したのだと思う(もちろん他にもいるが)。
そして、(はじめての哲学史によれば)実存主義の流れに掉さす
ニーチェにしても、時代背景はあれど、それまでの哲学者の功績が
あってこその思想であったのだ(もちろん、彼オリジナルの思想も
ある)。
だが書き方がやっぱり難解すぎるので、解釈もいろいろとあるのは
確か。
ここではとりあえず、「はじめての哲学史」のニーチェ観に
依拠しようと思う。
ニーチェというと、有名な言葉がいくつもある。
それぞれを挙げて、それを説明する形でニーチェの思想を
追おうと思う。
・「神は死んだ」
・ニヒリズム
・ルサンチマン
・力への意志
・超人
・永遠(永劫)回帰
ほかにも「ディオニュソス的・アポロン的」とか、いろいろと
キーワードはあるけど、とりあえずここではおいておく。
まず
・「神は死んだ」とニヒリズム、ルサンチマンから。
この3つはどうしても同時に扱ってしまう概念。
神が死んだことによって訪れるニヒリズム、その源泉がルサンチマンで
あるからである。
どういうことだろうか。
ニーチェは言う。
「ニヒリズムとは、何を意味するのか?─最高の諸価値がその価値を
剥奪されるということ。目標が欠けている。『何のために?』への
答えが欠けている」
実はこれって、現代社会に生きる我々の心情を、ニーチェがこの頃
すでに予見していたといえるのだ。素直に振り返ってみれば、
確かに、「何のために生きるのか?」─という問いに答えを出して
くれるものなど、今の社会には存在していない。
「絶対的に正しいもの」など無いと誰もが思っているし、常識と
なっている。なんとなしな無気力感をおぼえつつ、無目的で無機質な
世の中を生きている感覚があるのではないだろうか。
もちろん、夢に燃えている人もたくさんいるだろうけども。
ニーチェは主著「ツァラトゥストラ」の中で、もはや彼方に向かって
「憧れの矢」を放つことが無い「最後の人間たち(末人)」の
姿を描いている。それはいつも健康に気をつかい、よき眠りだけを
人生の目的とするような、無難で小さい人間の姿である…
これこそ、まさにニーチェが予見した「ニヒリズム」の訪れた
世界である、と思う。
しかし「最高の諸価値」がその価値を剥奪されることでニヒリズムに
いたるというが、具体的にそんなことってあったわけ?とは思う。
最高の価値がその価値を剥奪されることは、ニーチェのころから
大きくふたつあった。ひとつは、キリスト教(これはヨーロッパ
限定の「最高価値」ではある。ただし、欧米諸国による植民地争奪
合戦によって、世界中に、殺戮と支配と共にキリスト教が広まったが)。
神は死んだ。これはキリスト教の神が実際に死んだとかいう話では
なくて、人々にとって、神の価値、存在意義が薄くなってきている、
という意味だ。もちろん、今もってキリスト教は健在どころか
世界最大の宗教だけど、その存在意義は、中世に比べてずいぶんと
薄れていると思う。
ニーチェがいた頃は周知のとおり、自然科学とか工業の技術、
神に道徳を保証されない市民社会の実現など、人間が自分の力で
自然のすべてを解明し、変え、また正しい社会をつくっていける
という確信が人々にあった。神はもう、そこには居場所がないのだ。
少なくとも神のみによって社会制度を保証することはなくなった
し、神を素朴に信じる人も減った。地動説も信じなければ、むしろ
この宇宙は物理学的説明によってこそ説明されうると、その頃
すでにニュートン力学が出ていたし…宗教によって何か保証されうる
ものが、ほとんど科学にとって変わられてしまったのだ。
確かにそれはそうだ。神が死ぬ理由はそれでわからないでもない。
だがこれではまだ「神が死んだ」ことがニヒリズムという形で
現れる理由がよくわからない。
ヨーロッパにおける最高価値であったキリスト教。キリスト教では、
権力とか富より、魂の美しさのみが価値あるものとされ、利己的な
欲望を抑えて他人のために尽くす「利他的」な生き方が正しいと
されている。
これ自体は、問題がないと誰もが思うだろうか?
しかしニーチェにとってみると、こんな考え方は大問題なのだ。
その2から具体的に述べます。
ヘーゲル?誰それ。フッサール?はぁ?という人でもこの人は
知っているであろう、フリードリッヒ・ニーチェ(1844〜1900)で
あります。
といっても、「え、誰だっけ。文学の人?」とか言われそうな
感じもしそうだ。まぁ俺の感覚もアテにならんけど。
ニーチェというと、これも難解な哲学として知られている。
哲学者って、取り方がいろいろあるみたいで、ニーチェなんかは
特によくわからない言い方をするので、解釈がいろいろあるそうだ。
哲学者に対して抱いていた俺のイメージとしては、ニーチェの
存在も影響していた。彼の思想はなんとなく(本当になんとなく)
は知っていたけど、その言い方とか主張があまりに茫洋としている
ため、きっと哲学者の考え方は、その哲学者それぞれの「真理」が
あるのであって、それに触れるのは一般人にとっては、何やら
複雑なことを考える知性に触れられる一種のエンターテイメント
だが、あくまで「ニーチェ真理」とか「プラトン真理」とかの
凡人には理解しえない「哲学者それぞれの真理」があるのであって、
それぞれの思想は独立しているものと思っていた。
キーワードが茫洋としかつ訳わからなすぎて、考えすぎてあさっての
方向にいっちゃってるのだと思ったからだ。考えがあさっての方向に
いっちゃった、頭のいい人の数だけ、哲学者がいるのだと思った。
しかしそれは違って、哲学は時代を追うごとにちゃんと進化している。
パルメニデスしかり、アリストテレスしかり、デカルトしかり、
ヒュームしかり、カントしかり、ヘーゲルしかり。
これらの哲学者はどれも、それが「発見」されてしまえば、
それ以前の思想には戻れないような、「思考の原理」を見つけ
出したのだと思う(もちろん他にもいるが)。
そして、(はじめての哲学史によれば)実存主義の流れに掉さす
ニーチェにしても、時代背景はあれど、それまでの哲学者の功績が
あってこその思想であったのだ(もちろん、彼オリジナルの思想も
ある)。
だが書き方がやっぱり難解すぎるので、解釈もいろいろとあるのは
確か。
ここではとりあえず、「はじめての哲学史」のニーチェ観に
依拠しようと思う。
ニーチェというと、有名な言葉がいくつもある。
それぞれを挙げて、それを説明する形でニーチェの思想を
追おうと思う。
・「神は死んだ」
・ニヒリズム
・ルサンチマン
・力への意志
・超人
・永遠(永劫)回帰
ほかにも「ディオニュソス的・アポロン的」とか、いろいろと
キーワードはあるけど、とりあえずここではおいておく。
まず
・「神は死んだ」とニヒリズム、ルサンチマンから。
この3つはどうしても同時に扱ってしまう概念。
神が死んだことによって訪れるニヒリズム、その源泉がルサンチマンで
あるからである。
どういうことだろうか。
ニーチェは言う。
「ニヒリズムとは、何を意味するのか?─最高の諸価値がその価値を
剥奪されるということ。目標が欠けている。『何のために?』への
答えが欠けている」
実はこれって、現代社会に生きる我々の心情を、ニーチェがこの頃
すでに予見していたといえるのだ。素直に振り返ってみれば、
確かに、「何のために生きるのか?」─という問いに答えを出して
くれるものなど、今の社会には存在していない。
「絶対的に正しいもの」など無いと誰もが思っているし、常識と
なっている。なんとなしな無気力感をおぼえつつ、無目的で無機質な
世の中を生きている感覚があるのではないだろうか。
もちろん、夢に燃えている人もたくさんいるだろうけども。
ニーチェは主著「ツァラトゥストラ」の中で、もはや彼方に向かって
「憧れの矢」を放つことが無い「最後の人間たち(末人)」の
姿を描いている。それはいつも健康に気をつかい、よき眠りだけを
人生の目的とするような、無難で小さい人間の姿である…
これこそ、まさにニーチェが予見した「ニヒリズム」の訪れた
世界である、と思う。
しかし「最高の諸価値」がその価値を剥奪されることでニヒリズムに
いたるというが、具体的にそんなことってあったわけ?とは思う。
最高の価値がその価値を剥奪されることは、ニーチェのころから
大きくふたつあった。ひとつは、キリスト教(これはヨーロッパ
限定の「最高価値」ではある。ただし、欧米諸国による植民地争奪
合戦によって、世界中に、殺戮と支配と共にキリスト教が広まったが)。
神は死んだ。これはキリスト教の神が実際に死んだとかいう話では
なくて、人々にとって、神の価値、存在意義が薄くなってきている、
という意味だ。もちろん、今もってキリスト教は健在どころか
世界最大の宗教だけど、その存在意義は、中世に比べてずいぶんと
薄れていると思う。
ニーチェがいた頃は周知のとおり、自然科学とか工業の技術、
神に道徳を保証されない市民社会の実現など、人間が自分の力で
自然のすべてを解明し、変え、また正しい社会をつくっていける
という確信が人々にあった。神はもう、そこには居場所がないのだ。
少なくとも神のみによって社会制度を保証することはなくなった
し、神を素朴に信じる人も減った。地動説も信じなければ、むしろ
この宇宙は物理学的説明によってこそ説明されうると、その頃
すでにニュートン力学が出ていたし…宗教によって何か保証されうる
ものが、ほとんど科学にとって変わられてしまったのだ。
確かにそれはそうだ。神が死ぬ理由はそれでわからないでもない。
だがこれではまだ「神が死んだ」ことがニヒリズムという形で
現れる理由がよくわからない。
ヨーロッパにおける最高価値であったキリスト教。キリスト教では、
権力とか富より、魂の美しさのみが価値あるものとされ、利己的な
欲望を抑えて他人のために尽くす「利他的」な生き方が正しいと
されている。
これ自体は、問題がないと誰もが思うだろうか?
しかしニーチェにとってみると、こんな考え方は大問題なのだ。
その2から具体的に述べます。
ありゃ?
2004年8月2日前の日記、編集ができなくなってる…なぜ。
やっぱギリギリで書き込んではいかんか。。。
2959文字ですた。
「次はニーチェにいきます」の一文が最後にあったんだけど
まぁ、いらないといえばいらないすね。。
やっぱギリギリで書き込んではいかんか。。。
2959文字ですた。
「次はニーチェにいきます」の一文が最後にあったんだけど
まぁ、いらないといえばいらないすね。。
≪近代哲学(17)−キルケゴールについて−≫
2004年8月2日セーレン・キルケゴール(1813〜1855)。キェルケゴールなんて
書き方もよくされます。ショーペンハウアーもショーペンハウエル
とか言われたりする。デンマーク出身の哲学者。厳格なキリスト
教の家に生まれ、厳しく育てられた。
セーレンて名前だけだとそうかっこよくないけど、キルケゴール
という苗字と合わさるとなんともいえずカッコいい名前だなぁ
と思う。これで写真がおじさんだとちょっと萎えるけど、決まって
かっこよさげな青年が使われる。夭折とまで言えるかわからない
けど、42歳で亡くなってるようだから、短命の天才青年だった
わけですね。沖田総司を連想する。
この頃は、ヘーゲルが描いた理性の発展の「完成形」としての
世界観とは裏腹に、市民社会によるさまざまな矛盾が露呈し、
政治的主導権を争う各国の武力抗争は前世紀よりさらに激しさを
増して、また労働階級の悲惨さも度を極め、一般民衆にとっても、
とてもヘーゲルが言ったような「歴史の完成段階」を生きている
という実感が持てるようなものではなかった。
キルケゴールが生まれたのはそういう最中であったから、彼の
思想にも、そういう時代背景が色濃く反映しているという。
どんなに社会や文化が発展しても、人間の生に変わらない
「不安」が存在する…とキルケゴールは考えた。
キルケゴールの思想は、今も哲学の大きな潮流となっている
「実存主義」を打ち立てたものとなっている。
また彼はヘーゲルをこう批判する。
ヘーゲルの哲学体系においては、個々人の「生」のあり方が
抜け落ちてしまっている。またヘーゲルは、自分の哲学体系の
中にすべての事象を包み込もうとしたが、そのことは、全ての
出来事をすでに起こってしまったもの、完成したものとして
考えなければ不可能である。
ならば、ヘーゲルの哲学など<死んだ体系>にほかならない。
(別に、死んだ体系が間違っているとかいけないという意味で
言ってはいないと思う)
また人間は、たえず現在という時間を生きている。今も、
あれをどうするかこうするかという選択を迫られ、それを
選び取って生きている存在である。
ヘーゲルは、人間の持つ可能性は現実性に転化する必然的な
ルートを持つといったが、そのようなルートが存在する保証など
どこにもない。可能性と現実性の間には深い溝が存在する。
この溝にこそ、人間の生の現実があり、また、それを乗り越え
ようとする人間の自由の源泉であって、また「不安」の源泉でも
あるのだ。
この、自らの可能性と現実性の間で揺れ動く人間のありかた、
これをキルケゴールは「実存」と呼んだ。
人間誰しも抱く「不安」とは、こうした自由の可能性に対する
「恐れ」なのだという。
この「不安」は、キルケゴールの哲学のひとつのキーワード
である。
キルケゴールは、人間を精神であると捉える。
この精神は、それがそれだけで成立している固い個物のような
ものではなくて、「他者や事物との関係」の中にあり、さらに、
「「他者や事物の関係」をある一定の仕方で了解している
自分自身との関係」に置かれている。
自分と他者との関係を、冷静に見つめる自分、
[他者・事物←→自分]←→自分
↑これ全体が精神、こんな感じで考えるといいだろうか。
また、こうした精神のあり方の根底には、実は、この世界と
私自身との関係を成り立たせている「神」とのかかわり方が
本質的問題として横たわっている、キルケゴールはこのように
して、人間の自己、精神というものを、幾重にも重なる関係性に
媒介されて成り立つものと理解した。
それを、主著「死に至る病」の冒頭でこう表現している。
「人間は精神である。しかし、精神とは何であるか?精神とは
自己である。しかし、自己とは何であるか。自己とは、ひとつの
関係、その関係それ自身に関係する関係である。あるいは、その
関係において、その関係がそれ自身に関係するということ、
そのことである。自己とは関係それそのものではなくして、
関係がそれ自身に関係するということなのである」
欲望が「到来的」であることも思い出すと、いくらか解釈の幅が
広がりそうな表現ではあるが、とりあえず重要なことは、
人間は関係性の中で自己を規定する生物だということである。
このような関係性の中で人間は自己を表現していくが、
さきも示したように、人間は自分の可能性をすべて現実性に
転化できるような存在ではない。この、可能性、自分が描く
理想、「絶対的なもの」、「永遠なるもの」に、自分のもてる
現実性が絶対に及ばないことを知るとき。
人間にとって、それは「絶望」となるのである。
これは人間にとって根源的な感情である。
そして、この絶望とは、「死に至る病」であるとキルケゴールは
言う。これは、死に至るほど苦しいのが絶望、という意味では
ない。死に至るまでつきまとう、人間の根源的な感情、それが
絶望であり、そこから完全に免れ、悟りの境地にいたることなど
人間には絶対不可能なのである、と言っているのである。
人間は「いま、この状態、この場所」から、「もっと先」、
「もっと上へ」を求める(求めたがる)ような存在だ。
求めない人間などいない。
それはアタラクシアかもしれないしアパテイアかもしれないし
俗な快楽かもしれないが、誰しもが、「今ここ」の自分は
それに至っていないと思い、もっと先を目指そうとする。
(またそれは、他人との関係性を抜きにしては語れないものだ)
しかし生きているうちにはそれに達することはできない。
人間は必ず、そうした自分のあり方から、自分の現実性の
限界を知る。人間は、つねに自分の可能性と現実性のはざまで
引き裂かれつづけるような存在なのだ。
「不安」が「絶望」に変わり、絶望の底に落とされた人間は、
この状態になんとか融和をもたらして、生きていることを
肯定する気持ちをもたらしてくれる存在にすがるしかなくなる。
それが「神」であるとキルケゴールは言う。
だから、絶対者、神への希求は、そうした絶望から自己を救う、
自分の理想、可能性にたいする純粋な祈りでなくてはならない、
とキルケゴールは考えたのかもしれない。
社会においてキリスト教が支配的な考え方だから、自分も
とりあえず信仰しておこう、そのほうが軋轢がない…
このような態度を、キルケゴールはひどく嫌悪した。
また、そうした世俗人の存在を事実上許容しながら、おのれの
社会的地位の存続のために中世以来の自らの権威にすがる、
カトリック教会に対しては、徹底して思想的戦いを挑んだ。
当時の教会からしてみれば、彼ほど反キリスト的人物もいなかった
が、彼自身は、何の権威にもすがらず「キリスト教徒」であろうと
した人物であるといえるであろう。
ちなみに昭和堂の解釈では、キルケゴールは神にも人にも
自己のよすがを認められなかったとしている。それを、
神であり人でもあったイエス・キリストに求めたらしい。
キルケゴールのこの哲学は、人が自分自身をたえず問い直す
ような存在(実存)であり、また人間は固有の生き方をもって
いて、その活動は世界と人間とのかかわりの中で有機的に
捉えられるべきであるとする、生の哲学や実存主義に
受け継がれていくことになる。
ショーペンハウアーにも少しその気がみられたが、
キルケゴールでそれが特に顕著に示されているかもしれない。
書き方もよくされます。ショーペンハウアーもショーペンハウエル
とか言われたりする。デンマーク出身の哲学者。厳格なキリスト
教の家に生まれ、厳しく育てられた。
セーレンて名前だけだとそうかっこよくないけど、キルケゴール
という苗字と合わさるとなんともいえずカッコいい名前だなぁ
と思う。これで写真がおじさんだとちょっと萎えるけど、決まって
かっこよさげな青年が使われる。夭折とまで言えるかわからない
けど、42歳で亡くなってるようだから、短命の天才青年だった
わけですね。沖田総司を連想する。
この頃は、ヘーゲルが描いた理性の発展の「完成形」としての
世界観とは裏腹に、市民社会によるさまざまな矛盾が露呈し、
政治的主導権を争う各国の武力抗争は前世紀よりさらに激しさを
増して、また労働階級の悲惨さも度を極め、一般民衆にとっても、
とてもヘーゲルが言ったような「歴史の完成段階」を生きている
という実感が持てるようなものではなかった。
キルケゴールが生まれたのはそういう最中であったから、彼の
思想にも、そういう時代背景が色濃く反映しているという。
どんなに社会や文化が発展しても、人間の生に変わらない
「不安」が存在する…とキルケゴールは考えた。
キルケゴールの思想は、今も哲学の大きな潮流となっている
「実存主義」を打ち立てたものとなっている。
また彼はヘーゲルをこう批判する。
ヘーゲルの哲学体系においては、個々人の「生」のあり方が
抜け落ちてしまっている。またヘーゲルは、自分の哲学体系の
中にすべての事象を包み込もうとしたが、そのことは、全ての
出来事をすでに起こってしまったもの、完成したものとして
考えなければ不可能である。
ならば、ヘーゲルの哲学など<死んだ体系>にほかならない。
(別に、死んだ体系が間違っているとかいけないという意味で
言ってはいないと思う)
また人間は、たえず現在という時間を生きている。今も、
あれをどうするかこうするかという選択を迫られ、それを
選び取って生きている存在である。
ヘーゲルは、人間の持つ可能性は現実性に転化する必然的な
ルートを持つといったが、そのようなルートが存在する保証など
どこにもない。可能性と現実性の間には深い溝が存在する。
この溝にこそ、人間の生の現実があり、また、それを乗り越え
ようとする人間の自由の源泉であって、また「不安」の源泉でも
あるのだ。
この、自らの可能性と現実性の間で揺れ動く人間のありかた、
これをキルケゴールは「実存」と呼んだ。
人間誰しも抱く「不安」とは、こうした自由の可能性に対する
「恐れ」なのだという。
この「不安」は、キルケゴールの哲学のひとつのキーワード
である。
キルケゴールは、人間を精神であると捉える。
この精神は、それがそれだけで成立している固い個物のような
ものではなくて、「他者や事物との関係」の中にあり、さらに、
「「他者や事物の関係」をある一定の仕方で了解している
自分自身との関係」に置かれている。
自分と他者との関係を、冷静に見つめる自分、
[他者・事物←→自分]←→自分
↑これ全体が精神、こんな感じで考えるといいだろうか。
また、こうした精神のあり方の根底には、実は、この世界と
私自身との関係を成り立たせている「神」とのかかわり方が
本質的問題として横たわっている、キルケゴールはこのように
して、人間の自己、精神というものを、幾重にも重なる関係性に
媒介されて成り立つものと理解した。
それを、主著「死に至る病」の冒頭でこう表現している。
「人間は精神である。しかし、精神とは何であるか?精神とは
自己である。しかし、自己とは何であるか。自己とは、ひとつの
関係、その関係それ自身に関係する関係である。あるいは、その
関係において、その関係がそれ自身に関係するということ、
そのことである。自己とは関係それそのものではなくして、
関係がそれ自身に関係するということなのである」
欲望が「到来的」であることも思い出すと、いくらか解釈の幅が
広がりそうな表現ではあるが、とりあえず重要なことは、
人間は関係性の中で自己を規定する生物だということである。
このような関係性の中で人間は自己を表現していくが、
さきも示したように、人間は自分の可能性をすべて現実性に
転化できるような存在ではない。この、可能性、自分が描く
理想、「絶対的なもの」、「永遠なるもの」に、自分のもてる
現実性が絶対に及ばないことを知るとき。
人間にとって、それは「絶望」となるのである。
これは人間にとって根源的な感情である。
そして、この絶望とは、「死に至る病」であるとキルケゴールは
言う。これは、死に至るほど苦しいのが絶望、という意味では
ない。死に至るまでつきまとう、人間の根源的な感情、それが
絶望であり、そこから完全に免れ、悟りの境地にいたることなど
人間には絶対不可能なのである、と言っているのである。
人間は「いま、この状態、この場所」から、「もっと先」、
「もっと上へ」を求める(求めたがる)ような存在だ。
求めない人間などいない。
それはアタラクシアかもしれないしアパテイアかもしれないし
俗な快楽かもしれないが、誰しもが、「今ここ」の自分は
それに至っていないと思い、もっと先を目指そうとする。
(またそれは、他人との関係性を抜きにしては語れないものだ)
しかし生きているうちにはそれに達することはできない。
人間は必ず、そうした自分のあり方から、自分の現実性の
限界を知る。人間は、つねに自分の可能性と現実性のはざまで
引き裂かれつづけるような存在なのだ。
「不安」が「絶望」に変わり、絶望の底に落とされた人間は、
この状態になんとか融和をもたらして、生きていることを
肯定する気持ちをもたらしてくれる存在にすがるしかなくなる。
それが「神」であるとキルケゴールは言う。
だから、絶対者、神への希求は、そうした絶望から自己を救う、
自分の理想、可能性にたいする純粋な祈りでなくてはならない、
とキルケゴールは考えたのかもしれない。
社会においてキリスト教が支配的な考え方だから、自分も
とりあえず信仰しておこう、そのほうが軋轢がない…
このような態度を、キルケゴールはひどく嫌悪した。
また、そうした世俗人の存在を事実上許容しながら、おのれの
社会的地位の存続のために中世以来の自らの権威にすがる、
カトリック教会に対しては、徹底して思想的戦いを挑んだ。
当時の教会からしてみれば、彼ほど反キリスト的人物もいなかった
が、彼自身は、何の権威にもすがらず「キリスト教徒」であろうと
した人物であるといえるであろう。
ちなみに昭和堂の解釈では、キルケゴールは神にも人にも
自己のよすがを認められなかったとしている。それを、
神であり人でもあったイエス・キリストに求めたらしい。
キルケゴールのこの哲学は、人が自分自身をたえず問い直す
ような存在(実存)であり、また人間は固有の生き方をもって
いて、その活動は世界と人間とのかかわりの中で有機的に
捉えられるべきであるとする、生の哲学や実存主義に
受け継がれていくことになる。
ショーペンハウアーにも少しその気がみられたが、
キルケゴールでそれが特に顕著に示されているかもしれない。
んばー
2004年8月1日うおー 早くおわらして原著読みに入りたいぞヽ(’Д`)ノ
しかし哲学史の自分解釈ではやっぱり、足りない部分が
大いにありそうだ。。
今日は色々買い物してきました。まずデパートで服かった
…だってデパート安いから。でも選べばソコソコの服あります
よ。ビンボウなので1000円くらいのしか買いませんが…
そういやフレグランスが尽きそう。これも割と高い…。。
一生に一度でいいから、ブランド物あつかってる店いって
欲しいものあらかた買ってみたいすな。
<今日読んだ哲学本>
哲学史、ようやく現代哲学あたりに入りそう。
しかし哲学史の自分解釈ではやっぱり、足りない部分が
大いにありそうだ。。
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