▽FM.コーンフォード『ソクラテス以前以後』▽
2005年1月29日 日常
訳したのは山田道夫という人です。。
さて、確かアランて人の「プラトンのための
十二章」と、昭和堂の哲学史、図解哲学の
哲学史以外では、はじめて竹田さん以外の
プラトン像に触れたこの著書。
アラン氏のは、ややこしくて途中で断念して
しまったけど。。。
自分を客観視してみて正直なところを言うと、竹田現象学の
説得力に圧倒されて、ほかの人のプラトンの読み方が素直に
入ってきにくい状況になってきているかもしれない。
竹田さんも、ニーチェのプラトン批判が強力すぎて、しばらく
それ以外の読み方ができなくなった時期があったいうが、
まさに似たような事態なんだろうと思う。
しばらく、原典か竹田さん以外の人の本を読んで、
距離をおいてみる必要があるかもしれない。再度読み返して
みて、さらに納得が深まるのか、違和感があるのか、試して
みたい。
この本では何を扱っているか。書名の通り、ソクラテス以前以後で
哲学がどう変化したか、言い換えれば、なぜソクラテスが
哲学史上のエポックに数えられるのか、ということを明らかに
することである。
そのポイントとなる考えは何か、割と受け取ったことを素直に、
単刀直入に述べるべきだと思うので簡潔に言うと。
ソクラテスは、それ以前の哲学が持っていた「原因を過去に
求める世界説明」ではなく、「原因を未来に求める
世界説明」を行った(希求切望の哲学)。そして実は、
プラトンの痛烈な批判者であるアリストテレス、またアリスト
テレスを祖に持つ自然科学においてさえ、その思想の輝きは
失われてはいない。
だからこそ、ソクラテス-プラトンの哲学は、哲学史上の
エポックとして数えられるにふさわしいのだ、ということである。
希求切望の哲学とは具体的に何か。むずかしい言葉を使いたく
ても使えないので、中学生レベルの語彙で書きますと。
まず、なぜそのような考え方が生まれたかの説明をするために、
ソクラテス以前の哲学を振り返ってみる。ソクラテス以前では、
世界説明が主な哲学の課題だった。
ソクラテス以前の世界説明とはどのようなものだったか?
もともとは、神話だった。最初に神がいて、神がうんぬんで
色々造ったから、そこを始まりとして今の世界が動いている
のだ、と。
そこから時がたって、神話を用いずに世界説明を行う人が
現れはじめる。哲学の祖タレスから始まって、イオニア自然学から
だんだんと考察は深まっていく。
例えばデモクリトスは、結局、世界のすべては原子だと考えた。
あるのはただ原子と、その運動を起こさせる虚空(ケノン)のみ。
ものを分割していくと最後にはこれにたどり着くという究極の
物質があって、その機械的運動のみによって世界は描かれている。
とある原子の状態から次の原子の状態へ移るのにも、原子間の
隙間である虚空(ケノン)が全てそれを決めるのであるから、
出来事は全て決定的。出る結果は過去において全て決まって
いた必然の結果である。
機械的な因果関係をもって世界説明を行うという点では、
ほかの哲学もほぼ似たようなものだと言える。
こうなるとほとんど神話の出番はなくなる。そして、この
デモクリトスの考えは、今の自然科学にけっこう近い。
それで、これに対してソクラテスはどう考えたか。
ソクラテスにとって、神話はともかく、そういう機械的、唯物論的な
世界説明は、ほとんど自分の知的欲求を満たすものではなかった。
アナクサゴラス以外の哲学は、ソクラテスの興味を引かなかった。
これはプラトンの著作にそのまま書いてあることではあるが、
コーンフォード氏はどう考えたか。答えは、それらの哲学は
外的自然をうまく説明しはするが、自己自身の分析にはほとんど
役に立たないからだ、という。また、今この世界の状態が
「どのように」こうなっているかを説明しはするが、「なぜ」
こうなっているかを説明しないから、という。
ソクラテスいわく、機械的な世界説明によれば、今自分が
イスに座って死刑を待っているのは、体を構成する骨、足を走る
筋肉、またはそれらを構成する物質の運動の因果関係から説明が
つくのだろうが、そうではない。これは自分の精神が、
アテナイの法律に従って死すべしと思っているからこうしている
のだ、と。
この世に存在するのは原子のみ、と考える世界観からは、
これは受け入れられない。精神なんてものは、原子の組み合わせの
一状態でしかないのだから。早くもここから、唯心論と唯物論の対決が
始まっているようにも思える。コーンフォード氏はどうも、
唯心論というか独我論の立場には立っていないようで、
どちらかというと唯物論的立場のようだ。自然科学の成功を
称える言辞が割と書かれているし、今の自然科学にも通じている、
というところでソクラテスの株を上げている感じが読み取れる。
この「希求切望の哲学」を評価するのも、自然科学の採用している
「目的」の概念を導入することにより説明を理解しやすくする
ところに功績があったから、というニュアンスがある。
というのはもちろん、アリストテレスの「可能態(デュナミス)」と
「現実態(エネルゲイア)」の考え方とか、四原因説(質料因、
形相因、動力因、目的因)の考え方が自然科学の基礎を築いたから
という考え方で、特に目的因などの考え方は、原因を未来に求める
希求切望の哲学を受け継いだからこそ、というのである。
ほかにも、この希求切望の哲学を、倫理的問題、たとえば
精神の完成段階を目指すのに機械論が役に立たないので
打ち立てたのだ、という理論も納得がいった。自然科学は
因果関係は説明するけれども、人間の生のありかたは扱えない
からだ。フッサールの直観していた問題と重なっている。
ほかにも色々な視点があったが、個人的に納得いったのはこの2点で
確かに自然科学の発展という視点で見れば、これも妥当な読み方と
言えるかもしれない。色々な著者の視点に触れる重要さをあらためて
実感した一冊でした。
さて、確かアランて人の「プラトンのための
十二章」と、昭和堂の哲学史、図解哲学の
哲学史以外では、はじめて竹田さん以外の
プラトン像に触れたこの著書。
アラン氏のは、ややこしくて途中で断念して
しまったけど。。。
自分を客観視してみて正直なところを言うと、竹田現象学の
説得力に圧倒されて、ほかの人のプラトンの読み方が素直に
入ってきにくい状況になってきているかもしれない。
竹田さんも、ニーチェのプラトン批判が強力すぎて、しばらく
それ以外の読み方ができなくなった時期があったいうが、
まさに似たような事態なんだろうと思う。
しばらく、原典か竹田さん以外の人の本を読んで、
距離をおいてみる必要があるかもしれない。再度読み返して
みて、さらに納得が深まるのか、違和感があるのか、試して
みたい。
この本では何を扱っているか。書名の通り、ソクラテス以前以後で
哲学がどう変化したか、言い換えれば、なぜソクラテスが
哲学史上のエポックに数えられるのか、ということを明らかに
することである。
そのポイントとなる考えは何か、割と受け取ったことを素直に、
単刀直入に述べるべきだと思うので簡潔に言うと。
ソクラテスは、それ以前の哲学が持っていた「原因を過去に
求める世界説明」ではなく、「原因を未来に求める
世界説明」を行った(希求切望の哲学)。そして実は、
プラトンの痛烈な批判者であるアリストテレス、またアリスト
テレスを祖に持つ自然科学においてさえ、その思想の輝きは
失われてはいない。
だからこそ、ソクラテス-プラトンの哲学は、哲学史上の
エポックとして数えられるにふさわしいのだ、ということである。
希求切望の哲学とは具体的に何か。むずかしい言葉を使いたく
ても使えないので、中学生レベルの語彙で書きますと。
まず、なぜそのような考え方が生まれたかの説明をするために、
ソクラテス以前の哲学を振り返ってみる。ソクラテス以前では、
世界説明が主な哲学の課題だった。
ソクラテス以前の世界説明とはどのようなものだったか?
もともとは、神話だった。最初に神がいて、神がうんぬんで
色々造ったから、そこを始まりとして今の世界が動いている
のだ、と。
そこから時がたって、神話を用いずに世界説明を行う人が
現れはじめる。哲学の祖タレスから始まって、イオニア自然学から
だんだんと考察は深まっていく。
例えばデモクリトスは、結局、世界のすべては原子だと考えた。
あるのはただ原子と、その運動を起こさせる虚空(ケノン)のみ。
ものを分割していくと最後にはこれにたどり着くという究極の
物質があって、その機械的運動のみによって世界は描かれている。
とある原子の状態から次の原子の状態へ移るのにも、原子間の
隙間である虚空(ケノン)が全てそれを決めるのであるから、
出来事は全て決定的。出る結果は過去において全て決まって
いた必然の結果である。
機械的な因果関係をもって世界説明を行うという点では、
ほかの哲学もほぼ似たようなものだと言える。
こうなるとほとんど神話の出番はなくなる。そして、この
デモクリトスの考えは、今の自然科学にけっこう近い。
それで、これに対してソクラテスはどう考えたか。
ソクラテスにとって、神話はともかく、そういう機械的、唯物論的な
世界説明は、ほとんど自分の知的欲求を満たすものではなかった。
アナクサゴラス以外の哲学は、ソクラテスの興味を引かなかった。
これはプラトンの著作にそのまま書いてあることではあるが、
コーンフォード氏はどう考えたか。答えは、それらの哲学は
外的自然をうまく説明しはするが、自己自身の分析にはほとんど
役に立たないからだ、という。また、今この世界の状態が
「どのように」こうなっているかを説明しはするが、「なぜ」
こうなっているかを説明しないから、という。
ソクラテスいわく、機械的な世界説明によれば、今自分が
イスに座って死刑を待っているのは、体を構成する骨、足を走る
筋肉、またはそれらを構成する物質の運動の因果関係から説明が
つくのだろうが、そうではない。これは自分の精神が、
アテナイの法律に従って死すべしと思っているからこうしている
のだ、と。
この世に存在するのは原子のみ、と考える世界観からは、
これは受け入れられない。精神なんてものは、原子の組み合わせの
一状態でしかないのだから。早くもここから、唯心論と唯物論の対決が
始まっているようにも思える。コーンフォード氏はどうも、
唯心論というか独我論の立場には立っていないようで、
どちらかというと唯物論的立場のようだ。自然科学の成功を
称える言辞が割と書かれているし、今の自然科学にも通じている、
というところでソクラテスの株を上げている感じが読み取れる。
この「希求切望の哲学」を評価するのも、自然科学の採用している
「目的」の概念を導入することにより説明を理解しやすくする
ところに功績があったから、というニュアンスがある。
というのはもちろん、アリストテレスの「可能態(デュナミス)」と
「現実態(エネルゲイア)」の考え方とか、四原因説(質料因、
形相因、動力因、目的因)の考え方が自然科学の基礎を築いたから
という考え方で、特に目的因などの考え方は、原因を未来に求める
希求切望の哲学を受け継いだからこそ、というのである。
ほかにも、この希求切望の哲学を、倫理的問題、たとえば
精神の完成段階を目指すのに機械論が役に立たないので
打ち立てたのだ、という理論も納得がいった。自然科学は
因果関係は説明するけれども、人間の生のありかたは扱えない
からだ。フッサールの直観していた問題と重なっている。
ほかにも色々な視点があったが、個人的に納得いったのはこの2点で
確かに自然科学の発展という視点で見れば、これも妥当な読み方と
言えるかもしれない。色々な著者の視点に触れる重要さをあらためて
実感した一冊でした。
▽勢古浩爾「思想なんかいらない生活」<その2>▽
2005年1月5日 日常
その1よりつづき。
哲学史もかかねばならん。。。しかし、
インスピレーションを得るとがーっと書けて
しまう。。
さて話を戻します。
哲学の本の難解さ、は、結論から言うと、「あっていい」と思う。
微妙な条件付きで。
理由はふたつある。
ひとつは、こういう「堅い」文化には「権威」が必要と思うから。
なんだか、難しい言葉を操らないとたどり着けない境地がある、
なんて、哲学って、そういうものとしてあっていいと思う。
まぁえらく素朴な言葉で書いてしまったけれど、結構本気でそう思う。
例えば、世界でもっとも権威ある学会の論文の挿絵に、マンガ絵が
載ってたらどうだろう。アメコミみたいなリアルなのじゃなくて、
それこそセーラームーン並の。萎えないだろうか?俺は萎える。まぁ
逆に面白いと思うかもしれないけど、しかしやっぱり最後には萎える
と思う。
「堅い」文化というか、メインカルチャーは、大衆に媚びちゃ
いけない。サブカルチャーに飲み込まれてはいけない。なんて思う。
これは本当になんとなくそう思う。
本格的に哲学を学ぶ時に触れる文章には、それなりの格調があって
欲しい、と思うことは何も不思議なことじゃない、と思う。
それに、そうした文化であることは、それが「読めた」時に
非常にカタルシスを感じさせる要因になる。ピアノでも、難曲を
弾けるようになるのには、下手すると始めてから10年かかると
言うが、それだけに弾けた時の悦びもひとしおだと思う。
ふたつは、過去の哲学者の著作がほとんど「難解」な文章で
書かれているから。
哲学するのは、原典にあたるのが一番。しかし、そのまま訳すと
難しい文章ばっかり。これを理解するために、難解な文章に慣れておく
必要がある。だから、難解な文章を是とする。平易な解釈文ばかりが増えて
原典が置き去りになったら、それはそれで哲学の危機かもしれないし。
過去と今をつなぐためにも、格調ある文章で書く習慣は残っていてよい。
しかし共通して、ある条件がある。これも単純に思いつく条件だけれど
・「入門の手引き」がしっかり整備されてること。そしてそれは決して、
難解な文章で書かれていないこと。
ということ。
勢古さんの感じたことに理はある。というのは、あまりに生活感覚から
離れすぎた思想って、それは思想のための思想になってしまっていて
意味がない。実際は生活感覚に根ざしていても、あまりに難解に書きすぎて
そのせいで一般人の生活から縁遠いものになるのでは、本末転倒。
哲学は、つきつめれば個人個人の生活感覚に通じるものがあるはず(と、
俺は今はそう信じているけれど)。ならば、なるべく生活感覚に即した
言葉で、平易にそれを言い直すことも可能なはず。哲学の頂に少しでも
触れ得たと自認する哲学者がいるのなら、俗に流通している言葉を使って
説明するのは誤解されやすくて難しいかもしれないが、それをやって欲しい。
それは、とりあえずは誰にでも理解できるものになるはずで、その理解を
頭に入れてから原典に当たれば、さらなる理解も早いハズ。
もちろん、それをしている人が大勢いると思うけれどね。
俺の今のところ信頼している哲学者である竹田さんの例を挙げると、
彼は太宰治の小説「トカトントン」から、フッサール現象学を読み解く
ヒントをつかんだらしい。
「トカトントン」について詳しくは述べないけれど、簡単に言うと
「どれだけ色々なことを「これだけは自分だけが考えていること」と
思っていたとしても、どこからか『…と思っている人が世の中には
大勢いる』という声が聞こえてくる…この声は、誰もが持っている
「わたしの真実」を徹底的に相対化する力を持っている」
と、いうことらしい。竹田さんにとっては、フッサール現象学の核心は
本当に日常的感覚であらわされたこの考えにあったのだという。
そういう、日常生活で一般人が抱くふとした疑問、哲学はそれに
答えうるだけのものを築き上げてきたのだと思う。実際、俺は
哲学の本を読んでいくうちに、いくつかの答えを得た。それが正しいか
どうかはまだ確定的ではないにしろ、だから哲学が面白いと思える。
哲学史もかかねばならん。。。しかし、
インスピレーションを得るとがーっと書けて
しまう。。
さて話を戻します。
哲学の本の難解さ、は、結論から言うと、「あっていい」と思う。
微妙な条件付きで。
理由はふたつある。
ひとつは、こういう「堅い」文化には「権威」が必要と思うから。
なんだか、難しい言葉を操らないとたどり着けない境地がある、
なんて、哲学って、そういうものとしてあっていいと思う。
まぁえらく素朴な言葉で書いてしまったけれど、結構本気でそう思う。
例えば、世界でもっとも権威ある学会の論文の挿絵に、マンガ絵が
載ってたらどうだろう。アメコミみたいなリアルなのじゃなくて、
それこそセーラームーン並の。萎えないだろうか?俺は萎える。まぁ
逆に面白いと思うかもしれないけど、しかしやっぱり最後には萎える
と思う。
「堅い」文化というか、メインカルチャーは、大衆に媚びちゃ
いけない。サブカルチャーに飲み込まれてはいけない。なんて思う。
これは本当になんとなくそう思う。
本格的に哲学を学ぶ時に触れる文章には、それなりの格調があって
欲しい、と思うことは何も不思議なことじゃない、と思う。
それに、そうした文化であることは、それが「読めた」時に
非常にカタルシスを感じさせる要因になる。ピアノでも、難曲を
弾けるようになるのには、下手すると始めてから10年かかると
言うが、それだけに弾けた時の悦びもひとしおだと思う。
ふたつは、過去の哲学者の著作がほとんど「難解」な文章で
書かれているから。
哲学するのは、原典にあたるのが一番。しかし、そのまま訳すと
難しい文章ばっかり。これを理解するために、難解な文章に慣れておく
必要がある。だから、難解な文章を是とする。平易な解釈文ばかりが増えて
原典が置き去りになったら、それはそれで哲学の危機かもしれないし。
過去と今をつなぐためにも、格調ある文章で書く習慣は残っていてよい。
しかし共通して、ある条件がある。これも単純に思いつく条件だけれど
・「入門の手引き」がしっかり整備されてること。そしてそれは決して、
難解な文章で書かれていないこと。
ということ。
勢古さんの感じたことに理はある。というのは、あまりに生活感覚から
離れすぎた思想って、それは思想のための思想になってしまっていて
意味がない。実際は生活感覚に根ざしていても、あまりに難解に書きすぎて
そのせいで一般人の生活から縁遠いものになるのでは、本末転倒。
哲学は、つきつめれば個人個人の生活感覚に通じるものがあるはず(と、
俺は今はそう信じているけれど)。ならば、なるべく生活感覚に即した
言葉で、平易にそれを言い直すことも可能なはず。哲学の頂に少しでも
触れ得たと自認する哲学者がいるのなら、俗に流通している言葉を使って
説明するのは誤解されやすくて難しいかもしれないが、それをやって欲しい。
それは、とりあえずは誰にでも理解できるものになるはずで、その理解を
頭に入れてから原典に当たれば、さらなる理解も早いハズ。
もちろん、それをしている人が大勢いると思うけれどね。
俺の今のところ信頼している哲学者である竹田さんの例を挙げると、
彼は太宰治の小説「トカトントン」から、フッサール現象学を読み解く
ヒントをつかんだらしい。
「トカトントン」について詳しくは述べないけれど、簡単に言うと
「どれだけ色々なことを「これだけは自分だけが考えていること」と
思っていたとしても、どこからか『…と思っている人が世の中には
大勢いる』という声が聞こえてくる…この声は、誰もが持っている
「わたしの真実」を徹底的に相対化する力を持っている」
と、いうことらしい。竹田さんにとっては、フッサール現象学の核心は
本当に日常的感覚であらわされたこの考えにあったのだという。
そういう、日常生活で一般人が抱くふとした疑問、哲学はそれに
答えうるだけのものを築き上げてきたのだと思う。実際、俺は
哲学の本を読んでいくうちに、いくつかの答えを得た。それが正しいか
どうかはまだ確定的ではないにしろ、だから哲学が面白いと思える。
▽勢古浩爾「思想なんかいらない生活」<その1>▽
2005年1月5日 日常
今日、というか昨日、ハノンを買うついでに
色々図書を見てまわった。まぁ普通はそうする
かな。それで、哲学の新書を見ていると、
ふと目にとまったのがこの本、「思想なんか
いらない生活」。ちょっと気になったので手に
とって読んでみた。
内容について深く立ち入りはしないけれど、この勢古さんが
総じて言いたいことはなんとなく分かった気がするので、
少し思ったことを書きます。
最初に、単刀直入に、この本で主張されていることをふたつ
まとめて書くと…
1.哲学(思想)は、普段それに触れもしない一般人にとって
どれだけ意味があるというのか?
2.哲学(思想)はやけに難解な言葉で書かれることが多いが
それは何故?
というところだと思う。
読んでいて、ところどころ(今日本で活躍してる哲学者に対する)
嘲笑まじりの意見もありーの、でこれをもし本人が見たらえらい
怒りそうだな〜、なんて思ったけれど、それはともかくも、この要点って
結構大事なところだと思うので、なんとなく考えてみたい。
最初、1に関して。
これについては、詮無きことと言わざるを得ないと思う。
世の中、哲学に触れないで死んでいく人のほうが圧倒的に多い。
それはしょうがない。
勢古氏は著書の中で何度も「そんなのは一般人は考えもしない。
一生考えないで過ごす人のほうが多いような事柄について、それを
掘り下げ続ける行為になんの意味がある?」というような批判を
繰り返し繰り返し行っているけれども、それはそれで一応の理は
あると思う。哲学に触れないで死んでいく人が多い、という現状認識、
以上のものではないけれど。
しかしそれでも、新聞とかニュース、雑誌などで出てくる知識人は
主要な哲学書には目を通しているわけで、間接的に影響は出ていると
思う。
一番思うところあったのは、2について。
著書の中で、野矢さんという人のこういう言を引いて、コメントを
述べている。といっても本が手元にないので、覚えで書くけれど…
「(哲学にかんする所見を少し引いた後に)やはり哲学は難解なものだ。
これを平易な言葉で書いてそれで理解して良しという態度には賛同しかねる」
これに対して勢古氏は
「「やはり」というが何が「やはり」なのか。難解でなければ
ならない理由がまったく述べられていない。難解でなければ
ならない理由が何かあるのか。あるなら簡潔に教えてくれまいか。
それとも、その理由を、哲学を理解できないような一般人に
教える必要などないと思っているのだろうか」
というように憤慨している(ちなみに、文体が平易で初心者が
理解しやすい本を書く竹田さんに対しては、ある程度の賛辞を
贈っている。なんだか微妙な気分)。
しかし確かに、理由があるならあるで、明快な説明が欲しいところ。
無いなら無いで、「無い」と言うべきとも思う。
勢古さんには、どうにも、哲学の本の難解さについていけなかった
過去があるらしい。カント、ヘーゲル、フッサール、ハイデガー、
また日本の柄谷氏などの本を読み漁ってみたけれども、結局
難解な文章に振り回された挙句頭に何も残らず、「こんな難解な
もの(哲学)に一体何の意味があるのか?少なくとも自分以下の頭しか
もっていない大衆、一般人にとって、哲学がもつ意味って何だ?答えは
ひとつ、『そんなものありはしない』だ」、という意見に達した、
らしい。
立ち読みしただけだけど、そのことは痛いほど伝わった。
さて、ここからが俺の意見になるのだけれど…
すごい長くなったのでその2へ。
色々図書を見てまわった。まぁ普通はそうする
かな。それで、哲学の新書を見ていると、
ふと目にとまったのがこの本、「思想なんか
いらない生活」。ちょっと気になったので手に
とって読んでみた。
内容について深く立ち入りはしないけれど、この勢古さんが
総じて言いたいことはなんとなく分かった気がするので、
少し思ったことを書きます。
最初に、単刀直入に、この本で主張されていることをふたつ
まとめて書くと…
1.哲学(思想)は、普段それに触れもしない一般人にとって
どれだけ意味があるというのか?
2.哲学(思想)はやけに難解な言葉で書かれることが多いが
それは何故?
というところだと思う。
読んでいて、ところどころ(今日本で活躍してる哲学者に対する)
嘲笑まじりの意見もありーの、でこれをもし本人が見たらえらい
怒りそうだな〜、なんて思ったけれど、それはともかくも、この要点って
結構大事なところだと思うので、なんとなく考えてみたい。
最初、1に関して。
これについては、詮無きことと言わざるを得ないと思う。
世の中、哲学に触れないで死んでいく人のほうが圧倒的に多い。
それはしょうがない。
勢古氏は著書の中で何度も「そんなのは一般人は考えもしない。
一生考えないで過ごす人のほうが多いような事柄について、それを
掘り下げ続ける行為になんの意味がある?」というような批判を
繰り返し繰り返し行っているけれども、それはそれで一応の理は
あると思う。哲学に触れないで死んでいく人が多い、という現状認識、
以上のものではないけれど。
しかしそれでも、新聞とかニュース、雑誌などで出てくる知識人は
主要な哲学書には目を通しているわけで、間接的に影響は出ていると
思う。
一番思うところあったのは、2について。
著書の中で、野矢さんという人のこういう言を引いて、コメントを
述べている。といっても本が手元にないので、覚えで書くけれど…
「(哲学にかんする所見を少し引いた後に)やはり哲学は難解なものだ。
これを平易な言葉で書いてそれで理解して良しという態度には賛同しかねる」
これに対して勢古氏は
「「やはり」というが何が「やはり」なのか。難解でなければ
ならない理由がまったく述べられていない。難解でなければ
ならない理由が何かあるのか。あるなら簡潔に教えてくれまいか。
それとも、その理由を、哲学を理解できないような一般人に
教える必要などないと思っているのだろうか」
というように憤慨している(ちなみに、文体が平易で初心者が
理解しやすい本を書く竹田さんに対しては、ある程度の賛辞を
贈っている。なんだか微妙な気分)。
しかし確かに、理由があるならあるで、明快な説明が欲しいところ。
無いなら無いで、「無い」と言うべきとも思う。
勢古さんには、どうにも、哲学の本の難解さについていけなかった
過去があるらしい。カント、ヘーゲル、フッサール、ハイデガー、
また日本の柄谷氏などの本を読み漁ってみたけれども、結局
難解な文章に振り回された挙句頭に何も残らず、「こんな難解な
もの(哲学)に一体何の意味があるのか?少なくとも自分以下の頭しか
もっていない大衆、一般人にとって、哲学がもつ意味って何だ?答えは
ひとつ、『そんなものありはしない』だ」、という意見に達した、
らしい。
立ち読みしただけだけど、そのことは痛いほど伝わった。
さて、ここからが俺の意見になるのだけれど…
すごい長くなったのでその2へ。
▽西研「ヘーゲル・大人のなりかた」▽
2004年10月26日 日常
哲学の話が滞ってる・・いかんいかん。
最近はこの本を読んでいます。西研さんは
竹田さんの親友?で、かなり主張も似ている。
文章も平易で、初心者に分かりやすい。
まだ全部は読んでないんですけども。
ヘーゲルの言う、人間の精神の成長過程が
とても面白いと思った。
人間は、最初は主導権を得ようとして互いに血みどろの争いを
繰り広げる。そして、最初は主人と奴隷の関係が出来る。
主人は自分が自律し自立できていると思っているが、
しかし真に自律を身につけるのは、むしろ耐えがたきを忍び
主人と(実は)依存関係の一翼を担っていた奴隷のほうであり、
主人の側が主導権を握り続けることが出来なくなる条件が揃ったとき
奴隷によって主人が打ち倒されて、新たな秩序が作られることに
なる。
こうして段々秩序が塗りかえられていくうちに、人は、お互いが
お互いを認め合う社会制度を作り上げることが一番良い方法である
と気づく・・
本を参照せずに書いたし、ヘーゲルもまだ読んでないので
滅茶苦茶な文章になっちゃったかもしれないけど、ニュアンスは
なんとなくこんな感じです。
そして面白いのは、人の対人関係もこの関係になぞらえることが
できるという主張。
人が最初にもつ自己意識の形として、ヘーゲルは代表的な
みっつの特徴を挙げている。
一つは、他人を徹底的に相対化しようとして(どんな主張も
相対化できる、と主張して自分の優位を示そうとする)、
あらゆる人に批判を加えたがる意識。
二つは、世界と自分の説明を勝手に作り上げ、その中に安住
することで(「世界はこういうものなんだから」、という
あきらめにも似た感じだろうか)、自分の心を守ろうとする意識。
最後は、日常生活を続けていくうちに見出した至上の価値に
憧れながらも、それに届かない自分(現実)との間で引き裂かれ
続ける意識。
これらの意識はどれも、決して目的を達成することはない。
というのは、結局「他人に認められること」が幸福を得る手段で
あるのに、これらはどれも自分ひとりでそれを達成しようとしている
からだ、という。
俺的には、なるほどなるほど、とうなずける。もちろん、
誰もがこのみっつに分類できるというわけでもないだろうし、
みっつ全部の特徴を持った自己意識を持った人もいるだろう。
結局最後には、お互いを認め合うことが、人から認められ、
幸福を得る最良の手段であることに気づく・・
あきれるほどの正論なのだけど・・しかし、この理屈を理解すれば
人間関係うまくいくかっていうと、そんなこともないよね。
他人に愛される「能力」を有していなければならないと思うもの。
その能力さえ有していれば、このような理屈を知らずとも、
周りから必要とされ、楽しい日常を送ることが出来る。
もちろん、この論が間違っているということはないけれども。
最近はこの本を読んでいます。西研さんは
竹田さんの親友?で、かなり主張も似ている。
文章も平易で、初心者に分かりやすい。
まだ全部は読んでないんですけども。
ヘーゲルの言う、人間の精神の成長過程が
とても面白いと思った。
人間は、最初は主導権を得ようとして互いに血みどろの争いを
繰り広げる。そして、最初は主人と奴隷の関係が出来る。
主人は自分が自律し自立できていると思っているが、
しかし真に自律を身につけるのは、むしろ耐えがたきを忍び
主人と(実は)依存関係の一翼を担っていた奴隷のほうであり、
主人の側が主導権を握り続けることが出来なくなる条件が揃ったとき
奴隷によって主人が打ち倒されて、新たな秩序が作られることに
なる。
こうして段々秩序が塗りかえられていくうちに、人は、お互いが
お互いを認め合う社会制度を作り上げることが一番良い方法である
と気づく・・
本を参照せずに書いたし、ヘーゲルもまだ読んでないので
滅茶苦茶な文章になっちゃったかもしれないけど、ニュアンスは
なんとなくこんな感じです。
そして面白いのは、人の対人関係もこの関係になぞらえることが
できるという主張。
人が最初にもつ自己意識の形として、ヘーゲルは代表的な
みっつの特徴を挙げている。
一つは、他人を徹底的に相対化しようとして(どんな主張も
相対化できる、と主張して自分の優位を示そうとする)、
あらゆる人に批判を加えたがる意識。
二つは、世界と自分の説明を勝手に作り上げ、その中に安住
することで(「世界はこういうものなんだから」、という
あきらめにも似た感じだろうか)、自分の心を守ろうとする意識。
最後は、日常生活を続けていくうちに見出した至上の価値に
憧れながらも、それに届かない自分(現実)との間で引き裂かれ
続ける意識。
これらの意識はどれも、決して目的を達成することはない。
というのは、結局「他人に認められること」が幸福を得る手段で
あるのに、これらはどれも自分ひとりでそれを達成しようとしている
からだ、という。
俺的には、なるほどなるほど、とうなずける。もちろん、
誰もがこのみっつに分類できるというわけでもないだろうし、
みっつ全部の特徴を持った自己意識を持った人もいるだろう。
結局最後には、お互いを認め合うことが、人から認められ、
幸福を得る最良の手段であることに気づく・・
あきれるほどの正論なのだけど・・しかし、この理屈を理解すれば
人間関係うまくいくかっていうと、そんなこともないよね。
他人に愛される「能力」を有していなければならないと思うもの。
その能力さえ有していれば、このような理屈を知らずとも、
周りから必要とされ、楽しい日常を送ることが出来る。
もちろん、この論が間違っているということはないけれども。