うーん

2005年1月29日
ふつうの〜ひとなん〜かにゃなり〜たくない〜〜〜

俺は高校の頃からふつうの人になりたかった。というより
常識が欲しかった。というのは、常識が無いからなんだけど、
無駄に考え方が論理的なので、こう、常識が無い人ゆえの
おもしろい性格をしてるわけでもなかったから。

こういう、無駄に論理的な考え方をする人を「アスペルガー
症候群」だとかなんだとか呼ぶと、聞いたことがある。
俺はアスペルガー症候群かもしれない(-_-;)
ほかにもでぶ病とか、なにもしない病とかいろいろ病気を持って
ます。

ふつうの人はどんな日常を送ってるんだろうなぁ。
人並みの日常がほしいです、自分。オズの魔法使いの
ブリキのロボとか、妖怪人間のような感じです。

昔を思い出して、「あ〜、あの頃に戻れたら。。。」と
たまに考える。人生やり直したい。
これはややもするとルサンチマンの源泉かな。今そんなに
悪い状態でもないと思っているけど。
訳したのは山田道夫という人です。。

さて、確かアランて人の「プラトンのための
十二章」と、昭和堂の哲学史、図解哲学の
哲学史以外では、はじめて竹田さん以外の
プラトン像に触れたこの著書。
アラン氏のは、ややこしくて途中で断念して
しまったけど。。。
 
自分を客観視してみて正直なところを言うと、竹田現象学の
説得力に圧倒されて、ほかの人のプラトンの読み方が素直に
入ってきにくい状況になってきているかもしれない。
竹田さんも、ニーチェのプラトン批判が強力すぎて、しばらく
それ以外の読み方ができなくなった時期があったいうが、
まさに似たような事態なんだろうと思う。

しばらく、原典か竹田さん以外の人の本を読んで、
距離をおいてみる必要があるかもしれない。再度読み返して
みて、さらに納得が深まるのか、違和感があるのか、試して
みたい。

 
この本では何を扱っているか。書名の通り、ソクラテス以前以後で
哲学がどう変化したか、言い換えれば、なぜソクラテスが
哲学史上のエポックに数えられるのか、ということを明らかに
することである。

そのポイントとなる考えは何か、割と受け取ったことを素直に、
単刀直入に述べるべきだと思うので簡潔に言うと。

ソクラテスは、それ以前の哲学が持っていた「原因を過去に
求める世界説明」ではなく、「原因を未来に求める
世界説明」を行った(希求切望の哲学)。そして実は、
プラトンの痛烈な批判者であるアリストテレス、またアリスト
テレスを祖に持つ自然科学においてさえ、その思想の輝きは
失われてはいない。

だからこそ、ソクラテス-プラトンの哲学は、哲学史上の
エポックとして数えられるにふさわしいのだ、ということである。

 
希求切望の哲学とは具体的に何か。むずかしい言葉を使いたく
ても使えないので、中学生レベルの語彙で書きますと。

まず、なぜそのような考え方が生まれたかの説明をするために、
ソクラテス以前の哲学を振り返ってみる。ソクラテス以前では、
世界説明が主な哲学の課題だった。
ソクラテス以前の世界説明とはどのようなものだったか?

もともとは、神話だった。最初に神がいて、神がうんぬんで
色々造ったから、そこを始まりとして今の世界が動いている
のだ、と。

そこから時がたって、神話を用いずに世界説明を行う人が
現れはじめる。哲学の祖タレスから始まって、イオニア自然学から
だんだんと考察は深まっていく。

例えばデモクリトスは、結局、世界のすべては原子だと考えた。
あるのはただ原子と、その運動を起こさせる虚空(ケノン)のみ。
ものを分割していくと最後にはこれにたどり着くという究極の
物質があって、その機械的運動のみによって世界は描かれている。
とある原子の状態から次の原子の状態へ移るのにも、原子間の
隙間である虚空(ケノン)が全てそれを決めるのであるから、
出来事は全て決定的。出る結果は過去において全て決まって
いた必然の結果である。
機械的な因果関係をもって世界説明を行うという点では、
ほかの哲学もほぼ似たようなものだと言える。

こうなるとほとんど神話の出番はなくなる。そして、この
デモクリトスの考えは、今の自然科学にけっこう近い。

それで、これに対してソクラテスはどう考えたか。

ソクラテスにとって、神話はともかく、そういう機械的、唯物論的な
世界説明は、ほとんど自分の知的欲求を満たすものではなかった。
アナクサゴラス以外の哲学は、ソクラテスの興味を引かなかった。
これはプラトンの著作にそのまま書いてあることではあるが、
コーンフォード氏はどう考えたか。答えは、それらの哲学は
外的自然をうまく説明しはするが、自己自身の分析にはほとんど
役に立たないからだ、という。また、今この世界の状態が
「どのように」こうなっているかを説明しはするが、「なぜ」
こうなっているかを説明しないから、という。

ソクラテスいわく、機械的な世界説明によれば、今自分が
イスに座って死刑を待っているのは、体を構成する骨、足を走る
筋肉、またはそれらを構成する物質の運動の因果関係から説明が
つくのだろうが、そうではない。これは自分の精神が、
アテナイの法律に従って死すべしと思っているからこうしている
のだ、と。

この世に存在するのは原子のみ、と考える世界観からは、
これは受け入れられない。精神なんてものは、原子の組み合わせの
一状態でしかないのだから。早くもここから、唯心論と唯物論の対決が
始まっているようにも思える。コーンフォード氏はどうも、
唯心論というか独我論の立場には立っていないようで、
どちらかというと唯物論的立場のようだ。自然科学の成功を
称える言辞が割と書かれているし、今の自然科学にも通じている、
というところでソクラテスの株を上げている感じが読み取れる。

この「希求切望の哲学」を評価するのも、自然科学の採用している
「目的」の概念を導入することにより説明を理解しやすくする
ところに功績があったから、というニュアンスがある。
というのはもちろん、アリストテレスの「可能態(デュナミス)」と
「現実態(エネルゲイア)」の考え方とか、四原因説(質料因、
形相因、動力因、目的因)の考え方が自然科学の基礎を築いたから
という考え方で、特に目的因などの考え方は、原因を未来に求める
希求切望の哲学を受け継いだからこそ、というのである。

ほかにも、この希求切望の哲学を、倫理的問題、たとえば
精神の完成段階を目指すのに機械論が役に立たないので
打ち立てたのだ、という理論も納得がいった。自然科学は
因果関係は説明するけれども、人間の生のありかたは扱えない
からだ。フッサールの直観していた問題と重なっている。

ほかにも色々な視点があったが、個人的に納得いったのはこの2点で
確かに自然科学の発展という視点で見れば、これも妥当な読み方と
言えるかもしれない。色々な著者の視点に触れる重要さをあらためて
実感した一冊でした。

ふかわ・・

2005年1月24日
ふかわ、なんだかんだ言ってイジられて面白くなってる
気がする。スベるもんとして扱われてるのに笑いを取る、
てのは周りが面白いからだろうけど、しかしうまい具合に
歯車がかみ合ってる気がするなぁ。

うーん

2005年1月24日
一般的に言って、哲学とか社会問題をいろいろ考えるだとか、
ピアノなどインドアな趣味が主な趣味というのはどうも
あまり胸張って人に言えない気がする。ピアノは女の子なら
言えるだろうけど。。

教養を持ってるのが素直に誉められるような世の中なら
そうでもないだろうけど、別にそういう世界になって欲しい
わけでもないわけで。

何気ない時に、溜めておいた知識が役立つ時もあるだろうな
なんて思っているけど、基本的に、通常の生活とは離れたところで
隠れて学ぶのが一般人にとっての哲学かもしれない。

もし、文学の世界に行くとか、評論家、知識人、あるいは官僚、
政治家、外交官とかとして身を立てるつもりなら、哲学くらい常識、
教養としてやっておかなくてはならないだろうけど、別に俺は
見た目普通のあんちゃんだし・・・

自分と同じくらいの年の若い子の生活を見ていると、ふと
こんな自分に疑問を抱く。

と同時に、他人から見たらどう映るだろうと考えてみる。

普段そんなそぶりを少しも見せないで、家に言ってみると
なんだか難しい本が置いてあるな〜、というのは俺的に○。

普段から哲学の本を持ち歩き、ところ構わず読んで
話題にちょくちょく哲学の話を出すのは相手によるが×
・・・なんだろうなあ。

俺自身はふられても全然構わないけど。。

出来るなら、人目につかないところに置いておきたい蔵書たち。
年とったら、立派な本棚に並べてやりたい。40くらいになったら。

 
登校の時間を読書に使いたいので持ち歩くのは仕方ないけど、
なるべく人前で読むのはやめようと思った1月末の深夜。

うう

2005年1月23日
課題がすごいことになっている。。。しかし眠い・・

やっとハノンの1を88くらいのテンポで弾けるようになった。
最初と比較するとびっくりするくらい手の動きが速い。
それでも、目標の108でやってみると手がまったく追いつかない。
ブルグミュラー、ペダルの指示が入ってきてこんがらがっている
・・。ツェルニーにいたってはほとんど弾けてない。
こうまで弾けないと、なんだかやる気がおきんとです。
あまり時間もつくれないから、練習が週2くらいになってるし。

はやく幻想即興曲とか子犬のワルツ弾きたいで〜・・・
ダカンのかっこう、英雄ポロネーズも弾きたいし・・

とりあえずエリーゼとかノクターン9の2を。。

≪哲学史を終えて≫

2005年1月23日
はじめたのが去年の7月だから、大体半年とちょっとかけて
西洋哲学を敷衍してみました。いまから振り返って
読んでみると稚拙な論も沢山ありますが、けっこう
やりとげたこと自体は満足しているです。。

次は、具体的に哲学者の原著をまとめていきます。
と、いってもあらゆる本を解説していくわけにいかない。
気になった代表的な著作だけ、本とページ数を書いて
文章を引きながら書いていこうと思うです。
基本的に一人で黙々とやりますが、何か気がついたら
ご意見くださいヽ(*´ー`*)ノ
本当は孤独に黙々とやっていく予定でしたが、
リンクしてみてくださる方がいるとやっぱり励みになるです。。。
ここまで続けられたのも、皆さんのおかげかもしれません。
改めて感謝ですm(_ _)m

プラトンの対話編やツァラトゥストラなど物語形式のは
無駄な記述も多くてうまくまとめるのが難しい気がする。最初は
アリストテレスの「ニコマコス倫理学」をちくま新書の入門
読みつつやってみます。
気が向いたら見てやってください。。それでは今日は寝ます。。。
<その4よりつづき>

最後の哲学史のまとめになります。ここまで読んでくださった方、
ありがとうございますm(T_T)m

・アラスデア・マッキンタイア(1929〜)

ロールズとノージックは考え方は違えど、「近代的な、自由で自立した
個人」という人間観は共通している。しかし、この「近代的個人」という
人間観そのものを疑う議論が彼らに対して向けられたらしい。
その立場は「共同体論者(コミュニタリアン)」と呼ばれているが
具体的な政治の立場より、アカデミックな議論のなかでの反対意見として
提出されているらしい。

リベラリスト vs リバータリアン vs コミュニタリアン、
ですかね。

そのコミュニタリアンの代表者の一人が、マッキンタイアである。

さて、このコミュニタリズムというのはどういう考え方か。
読んで字の通り、個人とは共同体から規定を受ける存在である、
というような考え方。
<人間は特定の共同体<家族・地域共同体・職業団体>などに属し、
そこからアイデンティティを受け取る。共同体とのつながりを欠いた
「幽霊のような自己」は、具体的に善を追求したり徳を求めたり
することはできない>
という。

マッキンタイアはアリストテレスの「共同体における善き生」を
モデルにして善や徳を考え、近代の自由な個人を虚妄として退ける。

国家がまったく介入してはいけないというのもアレだけど、これは
これでまた極端な気がしますな。。

しかし、人間が共同体によってのみ規定される存在なら、
近代以前の封建制などの制度から、社会契約説を経て自由主義社会を
築いてきた原動力が説明できない。ロールズやノージックが
「近代的個人」から考え始めたのには十分な理由があるのである。
しかし共同体によってアイデンティティを得るという人間の本質が
否定されるわけではない。マッキンタイアの考え方は、個人としてある
近代的個人が、みずから他者や共同体とのかかわりを選び取っていく
重要性を教えていると言える。

 
最後にはじめての哲学史、からここまでの現代思想のまとめを
言えば、近代の市民主義的な社会思想(ルソー、ヘーゲル等)を
越える思想は見当たらない。やはり一度近代哲学を読み直し、
ロックに対するルソーの批判、カントに対するヘーゲルの
批判を通じて形づくられた「市民社会原理」をもう一度取り出して、
現代社会のなかでその可能性、またそれが生かされるための「条件」に
ついても、考えてみるべきだとしている。
<その3よりつづき>

次はこの3人まとめて。
これで哲学史、ほんとに終わりですね。ほんの少しだけど
感慨深いものが。最後にちょっとまとめを書きたい感じ。

・ジョン・ロールズ(1921〜2002)
・ロバート・ノージック(1938〜2002)
・アラスデア・マッキンタイア(1929〜)

この3人、正確に言うと哲学者ではないかも。どういう条件を
もって哲学者とするのかがアレなんでアレだけど、
この3人は社会哲学、政治哲学専門という感じ。

哲学が考察の対象とするのは人間の在り方、社会の在り方、
世界全体や極小の世界などの形而上学、言語や論理の概念の体系など
色々あるので、その一部だからなんとなくそう思いますた。

・ジョン・ロールズ(1921〜2002)

知る人ぞ知る「正義論」で有名な社会学者。社会学ということで
もちろん、資本主義やマルクス主義のように、これからの社会システムの
指標になるようなものを構想したわけです。指標というか「原理」
といったほうが適切かも。

「正議論」の「正義」とは何か。これは、社会システムの根幹を成す
法制度の根本にある、「原理」を意味するらしい。そういう原理が
あるなら、そしてそれを明確に示すことができれば、今の社会に
目指すべき目標を与えることができるが、もし無いのなら、
今の社会は流されるがまま放置するしかなくなる。ロールズは
そう考えて、がんばって原理を見出そうとした。そこで彼が
モチーフにしたのは「社会契約説」。社会契約説、簡単に言えば、
自然状態にあった人間が、契約によって今の社会を作り出した
みたいな説のことですね。

社会契約説では、最初は自然状態から考え始める。ロールズも
その通り、最初は各人は「自分自身の利益の増進」にのみ関心を
持っている、という前提を置いた上で、新しく社会を作る(誰が
どんな地位に就くか分からない)とするなら、人々はどういう
原理を置くならば納得して合意するだろうか、ということを
考えた。そこで導き出した原理が次の2つ。

[第一原理]
各人の自由は、他者の自由と両立する限りで最大限認められる
べきである。

[第二原理]
社会体・経済的不平等は、その地位が「公正な機会均等」によって
得られたものであり、かつそれが「格差の是正」につながる
限りで正当である。


第一原理は、誰でもが考え付く自由主義。に対して第二原理は
前半は資本主義のような競争原理の補完だが、ただし「格差の是正」
につながる限りで正当である、つまり、格差が出来るような競争を
するのはいいが、格差の是正につながる程度じゃないとダメ、
というか、格差の是正をしなければならないよ、としている。

これは、これから作られる社会で誰が有利な地位に就くか
分からなければ、格差(つまりリスク)を出来るだけ無くしたい
と誰もが思うだろう、というロールズの考えからきている。

これだけ見ると正しいかに思えるが、はじめての哲学史では
こう批判している。
これは、あくまで現在自然状態ならば通じるもので、今現在の
社会で既に有利な地位にある人が、必ず賛成するとは限らない。
カントの定言命法に近いと言える。理論的に考えれば
誰もが賛成するだろうし正しいと思えるが、誰もがそれに従う条件に
いるとは限らないのだ。

割と、この理念先行型の「カント的」な考え方は現代でも多い、
らしい。

 
・ロバート・ノージック(1938〜2002)

ノージックはロールズの同僚でもあり、最大の批判者でもあった。
その批判書が「アナーキー・国家・ユートピア」。なにやら
危険な香りのする名前の本を書いている。

ロールズは福祉政策に積極的な立場だったそうだが、ノージックは
福祉政策のような所得の再配分に強く反対するらしい。
なぜなら、個人の自由な権利を最大限擁護すべき、という考えが
彼にとって一番大事だったから。所得の再配分なんかは、個人の
所有権を侵すものであって、国家の仕事ではない。というかそもそも
国家は個人の自由を保護するためだけの「最小国家」であるべきと
彼は考えるのである。

このノージックのような立場は、リベラル(自由主義者)と区別して
リバータリアン(自由尊重主義者)と呼ばれるらしい(そういえば
「バタリアン」っていうホラー映画があったような)。しかし
自由主義者といっても色々いるように、ひとくちにリバータリアン
といっても、例えば「貧困なものは怠惰だからそうなるのだ」という
感覚を持つ人(つまり、国家が介入しない限り、努力するかしないかは
自由なのだから、という事だろうか)、市場の調整力を信頼して
国家の介入をなるべくしりぞけるべきだとする「自由放任の経済思想」
(ミルトン・フリードマンなど。今のアメリカの経済思想の主流かな?)
という考え方とかがあるが、ノージックの考えはそこからきている
のではなく、いかに「巨大化していく国家の力から、どうやって
個人の自由を守るか」というところに力点がある、という。

ノージックは社会契約説といってもロックをモデルにしているが、
だから「自由の権利」を((ロックでは)神から与えられた)
絶対不可侵なもの、とみなしているところがあり、ここが理論的には
弱い。根拠が無いからだ。ルソーがロックを、自然権(生まれた瞬間に
神から与えられた権利)などは存在しない、権利というものは自分と
社会との契約によって存在するだけ、と批判したが、ノージックの
理論にもこれが同様に成立する。

また、ノージックの考え方に難があるのは、最初の条件がとてつもなく
悪い人がいる時に、それを助けようとすることが忌避されてしまう
ということである。例を挙げるまでもないが、幼くして両親を亡くした
子供などだ。もしこの子を助けることに国民のほとんどが合意しても
ノージックの理論では手を差し伸べることは許されない。
なぜそういった「合意」が得られてもやってはいけないのか、
その理由が「自由の権利を国家が侵してはいけないから」では筋が通らない。

長くなった。その5へ。
「ソクラテス以前以後」のまとめがなかなか終わらず、
ヨタ話その2。

最近の日本のドラマについて。
最近の、といってもけっこう前からこんなもんと思うけども。

別にドラマについて詳しいわけではなくて。なんとなく見てる
日米のドラマを見てみて思ったことをひとつ。

単刀直入に言うと、日本のドラマは不自然。アメリカのドラマは
自然。の一言に尽きる。割と言われてることかも・・
けど別に、だから単純に日本のドラマはダメで日本<アメリカ
と言うわけでもない。
また蛇足だけど言えば、日本のドラマだって自然なものはあるし
アメリカの逆もある。ただ大体の傾向として、個人的にこう思う。

日本のドラマの役者はほとんどが、一般人の日常ではありえない
演技をする。それは意識して観なくても瞭然としていると思う。
セリフも演技も漫画みたいだ。

なぜだろう。としばし考えてみるに、日本人のふつうの日常を
そのまま観せても、まるで「絵」にならないからだろうと
いうことと、もうひとつは、アメリカのホームドラマの影響
かも。役者を日本人にしてアメリカみたいにやろうとするから
無理が出てる、のかも。まあ想像にすぎないけど。
実際、時代劇などの日本人の演技は、全然不自然には思えない。

改めて言えば、不自然=ドラマとして質が悪い、ではない。
その不自然さが逆に絵になることもある。古畑任三郎なんかは
あんなの実際はいないけど、絵になる。まあそういう、
キャラが立ってる場合は別枠としても、たとえば「ショムニ」
なんかは、不自然さを逆に強調することでおもしろいドラマを
作っていた。ひったくりを捕まえるために警備員がジャンプする
と、CG加工で平行にピューと飛んでいくシーンなんかは特に
そう思った。もし「ショムニ」が、役者の演技力に頼って
真剣なドラマに仕上がっていたとしたら、俺は多分ほかの
ドラマと同じような違和感を抱いたことだろうと思う。

本当のところはどうだか分からないけども、ショムニなんかは
「演技がどうしても実際の生活とかけ離れたものになる」という
日本ドラマの弱点を知っていて、逆に利用したんじゃないだろうか。
日本における「いいドラマ」は、多少その点を逆手に取っている
感じがある。まあ、「逆手に取っている」という表現が適切かは
少し微妙だけど(それに「いいドラマ」も俺の個人的な評価に
すぎないが)。

アメリカのドラマ、映画などは観ればわかるけども、演技が
ちっとも演技臭くない。実際の生活でもこうなんだろうな、と
思う。それがドラマにリアリティを与える。「リアリティ」が
必要かどうか、というのはドラマに限らず、どんな作品でも
重要な観点だけども、ことドラマに関しては、登場人物に
感情移入するためにはかなり重要だと思う。

「ドラマなんて所詮つくりものだから、いいのじゃないの」とも
思えなくはない。もちろん、今の日本のドラマは特にその部分で
不評を買ってるわけじゃないと思うから、別にこのままでも
いいのかもしれない。しかし、今のままだと、俺がほとんどの
ドラマを楽しんで観れないので困る(^_^;)

今「富豪刑事」がやってるけど、このドラマなんかも、
カメラワークなんかを見るに、自然な演技を撮ろうとしてない
ように思える。むしろ、不自然に歪んだ、不自然に豊かな登場人物の
演技や表情を、強調しているように見える。気のせいかもしれない
けどね。

ちなみに、俺が今まで観た日本のドラマでいいなと思ったのは
(「不自然さを強調」してるものに限らず)・・・

一番観ててゾクゾクきたのは、「振り返れば奴がいる」。
白い巨塔が話題になったけど、俺的にはこっちの方が全然
面白かった。演技の不自然さはあったかもしれないが、ちっとも
気にならない(結局、不自然だとしても、他の要素で
埋め合わせできていればトータルでOKだと思う)。

上で出てた「ショムニ」「古畑任三郎」もいいと思う。
「踊る大捜査線」もおもしろいと思った。織田祐二の演技は
割と好き。

ドラマではないけど、「世にも奇妙な物語」は結構おもしろい。

演技の自然さという点では、木村拓哉の演技が割と自然体だと
思う。

・・しかし、別にドラマ通ではないので、数が出ないな〜

ふ〜む

2005年1月20日
ふー、日記書く時間がない。もう寝ないと。。。
ではヨタ話をひとつ。

最近、ビートマニアの難しさに辟易している。。

といって、今ではもうたまにしかやっていないけれど。
たまにフラっと地元のゲーセンに寄って、ビートマニアと
ドリラーを少しやって帰る。たまのたまにドラムマニアをやる。

高校の頃、仲良くなった友達がゲーセンっ子だったので
よくゲーセンで遊んでいた。といって俺はそれまでほとんど
ゲーセンで遊んだことがなくてやることがないこともあり、
友達の薦めもあって、ビートマニアにはまった。
それが高校2年の頃で、概算して7、8年くらいは経験がある。

そのくらいになると、「降ってくるモノを見て」「手元の
鍵盤を押す」という感覚がない。「降ってくる鍵盤を
曲に合わせて奏でようとする」と、その通り指が動く。
うまく言えないけどそんな感じ。経験が無い人では、
何が落ちてくるのか認識する暇もないスピードで降ってきても
難なく「奏でる」ことができる。

今から思えば、ピアノをはじめておけば良かったかも知れない。
今は、ピアノでその感覚を味わってみたい。「楽譜を見て」
「手元の鍵盤と照合する」のではなくて「楽譜を奏でようとする」
と自然に手が動く感じ。簡単な曲なら、今でも出来ないでは
ないけれど。

絵も割と似たような感じかもしれない。けっこう小さな頃から
描いているから、描こうと思ったものが大体紙の上に再現
できる。もちろん技術的に無理なものは沢山あるけど。

しかし、7、8年のキャリアがあるのに歯が立たない曲が
沢山あるのに驚いた。ま、才能が無いんだろうね。

ま〜、どうでもいい話なんだけど(^_^;)
なんせ、たかがゲームだしね。。ピアノ10年やってて
弾けない曲がある、てならなんとか話題にもなろう気がする
けども。

 
少し話は変わりますが。

PCでプロのピアノを聴いていると、いつも俺が弾いているモノ
からこんな音が出るもんなのかと感心しきり。
コンピュータとへぼ将棋指した後にプロの棋譜を並べてみると
序盤は同じ手順なのに(定跡通りだから当然だけど)後半から
全然レベルが違うことに感心しきり。正確に言うと、レベルが
違うことすら分からないけど。手の意味が分からないから。

そういうモノに触れるたび、今まで自分が積み上げてきたモノを
なんとなく振り返ってみたくなる。

今まで途切れ途切れでも、一番長く続いている趣味は「絵」で
趣味レベルから数えておよそ16年。
二番目がおそらくビートマニアで7、8年。

これ以外の趣味はほとんど持ち合わせていない。強いて言うと
パソコン歴が5、6年ほど、タイピング歴も同じくらい。
そういえば将棋もそのくらいかもしれない。

野球、テニス、サッカーも小さい頃はやってたなぁ。

ピアノは老いても続けられそうで、だから今から手をつけて
おきたかった趣味。

そんな中で、哲学も、もちろんそうなんだけどね。
気長に10年、20年と続けていきたいものだなあ。

それにしても、もう23にもなると、長く積み上げてきたものを
実感できる歳なんだね。

内P

2005年1月18日
今日の内Pもおもしろかったけど、なんというか
内Pの面白さって、突発的に出したお題で、信じられないくらい
うまい面白いことやってくれるとこにあるよね、単純に。。
そういう意味では、今回はそうでもなかったかも。

それより、今回内Pレギュラー間の人間関係がネタになってて
観てる側としては、笑えるには笑えるんだけど裏側が見え隠れ
して微妙な感じ。

ほんで、有田がどうも不評を買ってるみたいな・・

個人的には、有田ってなかなかいないくらい面白い芸人だと
思う。割とオールマイティだし。たぶんプライベートでも相当
面白いんだと思う。好き嫌い別として、面白いと思う芸人の
トップ数人を挙げるなら

明石屋さんちゃん、関根勤、小堺一機、村上ジョージ、
さまぁ〜ず二人、出川哲朗、山崎邦正、アンタッチャブル山崎、
くりぃむしちゅー二人。

この中でも、有田はかなりいけてると思う。面白さだけなら
大竹や三村にも勝ってるかも。

でも、人格で不評を買ってるんだね。もったいないなぁ。
まあ、面白いと皆がちやほやしてくれるし、多少の自分勝手も
容認してくれるようになるだろうし、面白い=弁が立つ、
だろうから、自己弁護や屁理屈も上手だろうしね。む〜ん。

三村、大竹、有田が秋の引き出し王決定戦やったときは
俺の中ではかなり頂上決戦的な感じがあったとです。
けど、今回の三村・大竹の発言からして、もう内Pでの共演は
無いっぽいかな。わかんないけど。

・・・しかし、これ観た後の有田の愚痴も凄そうだな〜(;’Д`)
山崎大変だな。

うう

2005年1月17日
おとといとその前、今日とひまな日があったけど
結局、無為に過ごしてしまった。

それにしても、平易で具体的な言葉で哲学を理解するのは
いいけど、その前に、哲学的な、厳密な(難解な)言葉を
理解するというステップが待っている。。俺自身は楽はできない
な〜。。

お〜

2005年1月15日
ガタゴト通信をご存知でしょうか。
たぶん東海地方のみのローカル線、名鉄のマスコットキャラが
出てるWeb通信。

http://www.panolife.com/gatagoto/

すごくかわいいので一読あれ。。。。。

今年は少しは

2005年1月8日
ふつうの話題なんかも織り交ぜていきたいなー。
服の話とか。買ったCDの話とか。最近あったおもしろいこと
とか。恋愛の話とか。どうも論文口調になってしまいそう
だけど…

じゃあ服の話とか…

服ってあれだよね。欲しいと思ったのがないよね。

えー…

。。

どうも

2005年1月8日
ソナチネの前に、ブルグミュラーというのが普通らしい。
どーりでバイエルとえらく差があると思った。
それと、ツェルニーは何も1番からやるものでもないとか。

某掲示板で
「独学でクラシックをしっかり弾くのは不可能に近い」
のような意見を見てややへこんだ。

しかし課題が終わってないのに何をやってんだ俺は。。
<その2よりつづき>

・ユルゲン・ハーバーマス(1929〜)
・ジャン・フランソワ・リオタール(1924〜1998)

次はハーバーマスとリオタール。なぜこの2人をまとめて
取り上げるかというと、理性の可能性を模索するハーバーマス
対、理性によるどんな言説も結局争いに繋がるだけだ、と
「大きな物語の終焉」を標榜するリオタールがちょうど対照的
で、昭和堂でもこの2人の対決が描かれているから。
簡単に書けば「モダンvsポストモダン」ということだと思う。
リオタールはポストモダンを自認している数少ない哲学者。

このハーバーマスの立場は竹田さんと少し近い。というのは
単に、「普遍性」とか「思考の原理」というもの、「理性」に
よる(「普遍性」「全体性」を志向する)「言説(ディスクール)」
「討議(ディスクルス)」を一切認めないのが「いわゆる
ポスト構造主義(ポストモダン)」のおおまかな共通項で、
両者ともそれに対抗する形にはなっているからである。

しかしながら、「はじめての哲学史」では両者の違いははっきり
書かれている。それは後で見るとして、とりあえずハーバーマスは
何と言っているか?

 
ハーバーマスは、先に書いたアドルノ・ホルクハイマーの弟子。
アドルノ達も、「理性」の営みのほとんどを否定していた。
というのは結局、ファシズムなどの恐ろしい暴力に繋がるから、
というのが大きな理由だと思う。キリスト教信仰が理性信仰と
名前を変えただけで、もたらす惨禍は似たようなもの、いやもっと
酷い結果だったから、ということかも。
そのあたりはニーチェも似たようなことを言っていて、現代の
素朴な「真理」主義者(科学者がその最たるもの)、ロゴス中心
主義者などは、結局キリスト教のもっとも敬虔な信者にすぎない、
と言っていた。

しかしハーバーマスは、アドルノ達が、理性をそうした惨禍を
招く「道具的理性」としてのみとらえたところに留意する。

理性は確かに自然を支配しコントロールしようとする側面があり
結果、全体主義を引き起こす可能性を秘めている。
しかし、理性の働きはそれだけではなく、きちんとした論拠を
示すことによって、相手との共通了解を達成しようと努める
「対話的理性」としての側面もある、とハーバーマスは言う。

アドルノ達が願った「自然との和解」(理性によって得られた
成果を捨てて?)は不可能であって、現代の生産力を下げることは
できない(当然だと思う)が、しかし、人間同士の対話的理性の
働きをより豊かにしていくことは可能なはずである、と彼は考える。

具体的には、「理想的な発話状況」を作れば、人は「よりよき
論拠」によってのみ動機付けられて理性的な合意に向かうであろう
という主張。その「場」が想像しづらいが、しゃべり場とか
ジェネジャン??朝まで生テレビじゃないだろうし。うーん。

 
これに対してリオタールはどう主張しているか?これについては
どちらかというとポスト構造主義を支持している昭和堂から引いて
みる。

ハーバーマスは、一方的な意見の押し付けを意味する「言説
(ディスクール)」ではなくて、対話による合意形成を目的と
する「討議/論議(ディスクルス)」に理性の可能性を賭ける、
という立場(ちなみに前者がフランス語で後者がドイツ語。
語源はラテン語のdiscursusで同じ)。

しかし討議は、参加者の間で同一の<言語ゲーム>のルールが
統一されていることを前提している。しかし、普通に考えると、
実際は各人は様々の言語ルールを持っている。この各人のルールを
束ねる<超言語ルール>のようなものが存在しない限り、
結局異なる<言語ゲーム>同士がお互いの正しさを主張するだけに
なる。そうなると、結局「自分の<言語ゲーム>のルールを
押しとおす」という立場を取ることになり、争いが生まれる。

つまりこの場合に限ったとしても、「理性」というのは、自分の
言語ゲームのルールを押し通す、暴力的なものと同義になってしまう、
ということ。

しかも、<(昭和堂からそのまま引けば)理性は権力と一体になっている>
ゆえに、結局そうやって理性による合意を求めれば求めるほど、
権力を強める結果にしかならない。
結論。「言説」も「討議」も、「まったく無駄なこと」である。

理性、真理への信頼は幻想である。理性や真理に執着することは、
理性=権力を強める結果にしかならない。対抗策は、人々の欲望の
方向を一元化させないこと、「漂流」させること(ドゥルーズの
「逃走」と似ている立場)である。

と、これがリオタールの主張。

 
どちらを支持するのかは、昭和堂のほうには書いていない。ただ
最後にリオタールの意見を書いて締めていることから、どちらかと
言うとやはりリオタール支持なのだと思う。

はじめての哲学史、は、ハーバーマス支持というわけではないだろう
けど、<現代の相対主義と懐疑主義の空気のなかで、ハーバーマスが
対話的理性の必要を強調したことにはきわめて大きな意味がある>
と好意的に評価している。
(しかし、ソフィストとソクラテスの関係に似ているな〜とちょっと思う)

続けて、<しかしどうやってその働きを豊かにしていけばよいか、
という点では不徹底なところがあるとぼく(西)は思う>と書いている。
西研さんの意見。

理由は何か。これは俺的にはすごくうなずけるが、「理想的な発話状況」
が仮にあったとしても、人はそれだけで必ず「合意を求めよう」と
するわけではない。言われてみると当然といえば当然だけどね。
カントの定言命法に似ている。理性によって「よいこと」が分かれば
人はそれに従う、という素朴な考えがそこにはある。しかし実際は
そんなことはない。ヘーゲルがカントを批判した部分。

人間は「自己中心的」な存在。合意を求めることがとりあえずその
自己中心性にかなったとしても、双方の信念が大きく対立するなら
合意はありえない。

合意をつくろうとする動機はそもそもどこから生まれるのか、
諸信念の対立をどうやって越えていくことができるか(これは
フッサール現象学が解こうとした問題だ)、これらの本質的な問題を
考え詰めることで、対話的理性の可能性を拡大していくことこそが
現代哲学の重要なテーマであるとはじめての哲学史では述べている。
その1よりつづき。

哲学史もかかねばならん。。。しかし、
インスピレーションを得るとがーっと書けて
しまう。。

さて話を戻します。

 
哲学の本の難解さ、は、結論から言うと、「あっていい」と思う。
微妙な条件付きで。

理由はふたつある。

ひとつは、こういう「堅い」文化には「権威」が必要と思うから。

なんだか、難しい言葉を操らないとたどり着けない境地がある、
なんて、哲学って、そういうものとしてあっていいと思う。

まぁえらく素朴な言葉で書いてしまったけれど、結構本気でそう思う。

例えば、世界でもっとも権威ある学会の論文の挿絵に、マンガ絵が
載ってたらどうだろう。アメコミみたいなリアルなのじゃなくて、
それこそセーラームーン並の。萎えないだろうか?俺は萎える。まぁ
逆に面白いと思うかもしれないけど、しかしやっぱり最後には萎える
と思う。

「堅い」文化というか、メインカルチャーは、大衆に媚びちゃ
いけない。サブカルチャーに飲み込まれてはいけない。なんて思う。
これは本当になんとなくそう思う。

本格的に哲学を学ぶ時に触れる文章には、それなりの格調があって
欲しい
、と思うことは何も不思議なことじゃない、と思う。

それに、そうした文化であることは、それが「読めた」時に
非常にカタルシスを感じさせる要因になる。ピアノでも、難曲を
弾けるようになるのには、下手すると始めてから10年かかると
言うが、それだけに弾けた時の悦びもひとしおだと思う。

ふたつは、過去の哲学者の著作がほとんど「難解」な文章で
書かれているから。

哲学するのは、原典にあたるのが一番。しかし、そのまま訳すと
難しい文章ばっかり。これを理解するために、難解な文章に慣れておく
必要がある。だから、難解な文章を是とする。平易な解釈文ばかりが増えて
原典が置き去りになったら、それはそれで哲学の危機かもしれないし。
過去と今をつなぐためにも、格調ある文章で書く習慣は残っていてよい。

しかし共通して、ある条件がある。これも単純に思いつく条件だけれど

・「入門の手引き」がしっかり整備されてること。そしてそれは決して、
難解な文章で書かれていないこと。

ということ。

勢古さんの感じたことに理はある。というのは、あまりに生活感覚から
離れすぎた思想って、それは思想のための思想になってしまっていて
意味がない。実際は生活感覚に根ざしていても、あまりに難解に書きすぎて
そのせいで一般人の生活から縁遠いものになるのでは、本末転倒。

哲学は、つきつめれば個人個人の生活感覚に通じるものがあるはず(と、
俺は今はそう信じているけれど)。ならば、なるべく生活感覚に即した
言葉で、平易にそれを言い直すことも可能なはず。哲学の頂に少しでも
触れ得たと自認する哲学者がいるのなら、俗に流通している言葉を使って
説明するのは誤解されやすくて難しいかもしれないが、それをやって欲しい。

それは、とりあえずは誰にでも理解できるものになるはずで、その理解を
頭に入れてから原典に当たれば、さらなる理解も早いハズ。

もちろん、それをしている人が大勢いると思うけれどね。

俺の今のところ信頼している哲学者である竹田さんの例を挙げると、
彼は太宰治の小説「トカトントン」から、フッサール現象学を読み解く
ヒントをつかんだらしい。
「トカトントン」について詳しくは述べないけれど、簡単に言うと

「どれだけ色々なことを「これだけは自分だけが考えていること」と
思っていたとしても、どこからか『…と思っている人が世の中には
大勢いる』という声が聞こえてくる…この声は、誰もが持っている
「わたしの真実」を徹底的に相対化する力を持っている」

と、いうことらしい。竹田さんにとっては、フッサール現象学の核心は
本当に日常的感覚であらわされたこの考えにあったのだという。

そういう、日常生活で一般人が抱くふとした疑問、哲学はそれに
答えうるだけのものを築き上げてきたのだと思う。実際、俺は
哲学の本を読んでいくうちに、いくつかの答えを得た。それが正しいか
どうかはまだ確定的ではないにしろ、だから哲学が面白いと思える。
今日、というか昨日、ハノンを買うついでに
色々図書を見てまわった。まぁ普通はそうする
かな。それで、哲学の新書を見ていると、
ふと目にとまったのがこの本、「思想なんか
いらない生活」。ちょっと気になったので手に
とって読んでみた。

 
内容について深く立ち入りはしないけれど、この勢古さんが
総じて言いたいことはなんとなく分かった気がするので、
少し思ったことを書きます。

最初に、単刀直入に、この本で主張されていることをふたつ
まとめて書くと…

1.哲学(思想)は、普段それに触れもしない一般人にとって
どれだけ意味があるというのか?

2.哲学(思想)はやけに難解な言葉で書かれることが多いが
それは何故?


というところだと思う。

読んでいて、ところどころ(今日本で活躍してる哲学者に対する)
嘲笑まじりの意見もありーの、でこれをもし本人が見たらえらい
怒りそうだな〜、なんて思ったけれど、それはともかくも、この要点って
結構大事なところだと思うので、なんとなく考えてみたい。

 
最初、1に関して。

これについては、詮無きことと言わざるを得ないと思う。
世の中、哲学に触れないで死んでいく人のほうが圧倒的に多い。
それはしょうがない。

勢古氏は著書の中で何度も「そんなのは一般人は考えもしない。
一生考えないで過ごす人のほうが多いような事柄について、それを
掘り下げ続ける行為になんの意味がある?」というような批判を
繰り返し繰り返し行っているけれども、それはそれで一応の理は
あると思う。哲学に触れないで死んでいく人が多い、という現状認識、
以上のものではないけれど。

しかしそれでも、新聞とかニュース、雑誌などで出てくる知識人は
主要な哲学書には目を通しているわけで、間接的に影響は出ていると
思う。

 
一番思うところあったのは、2について。

著書の中で、野矢さんという人のこういう言を引いて、コメントを
述べている。といっても本が手元にないので、覚えで書くけれど…

「(哲学にかんする所見を少し引いた後に)やはり哲学は難解なものだ。
これを平易な言葉で書いてそれで理解して良しという態度には賛同しかねる」

これに対して勢古氏は

「「やはり」というが何が「やはり」なのか。難解でなければ
ならない理由がまったく述べられていない。難解でなければ
ならない理由が何かあるのか。あるなら簡潔に教えてくれまいか。
それとも、その理由を、哲学を理解できないような一般人に
教える必要などないと思っているのだろうか」

というように憤慨している(ちなみに、文体が平易で初心者が
理解しやすい本を書く竹田さんに対しては、ある程度の賛辞を
贈っている。なんだか微妙な気分)。

 
しかし確かに、理由があるならあるで、明快な説明が欲しいところ。
無いなら無いで、「無い」と言うべきとも思う。

 
勢古さんには、どうにも、哲学の本の難解さについていけなかった
過去があるらしい。カント、ヘーゲル、フッサール、ハイデガー、
また日本の柄谷氏などの本を読み漁ってみたけれども、結局
難解な文章に振り回された挙句頭に何も残らず、「こんな難解な
もの(哲学)に一体何の意味があるのか?少なくとも自分以下の頭しか
もっていない大衆、一般人にとって、哲学がもつ意味って何だ?答えは
ひとつ、『そんなものありはしない』だ」
、という意見に達した、
らしい。

立ち読みしただけだけど、そのことは痛いほど伝わった。

 
さて、ここからが俺の意見になるのだけれど…

すごい長くなったのでその2へ。

あけお目!

2005年1月5日
そのまま変換したらこうなった。。

今年最初の日記ぐらい、なにも考えずに書いてみよう。

さて、今年一年はどういう年にしよう。

会話スキルを上げることが当面の課題。。。とは言っても、
それ(↑これは特に)に必死になってる姿は非常に痛々しい。
ので、のらりくらりと陰ながらひそかにいろいろする。

ピアノ。根性でショパンのノクターン作品9の2を弾きたい。。
が、弾いてみるとこれがわけわかめ。
まあ、音符を読み解く力がまず無いのはそうなんだけど、
なんだか、教室行かずに独学でやってるせいで、ペダル踏む
感覚がちっとも分からない。
「こんな幅届くかぁ!」という楽譜になってるところでは
音をつなぐために踏む必要があるようだけど…

今日なんとなくハノンを買ってきたので、ハノン→ツェルニー
→ソナチネ→ノクターンを必死こいて覚える、というメニュー
で毎日やろうかと…

最後に哲学は。まだ「国家」とか「法律」「パルメニデス」など
読みたいのを読んでないけど、アリストテレスを読み始める
予定。その次はひとっとびになってしまうけど、カント。
次、ヒューム、ヘーゲル。ニーチェ、フッサール、ハイデガー。

なんだけど、カントも読めるかどうか疑問だろうなぁ。今年は…

いろいろあった

2004年12月31日
年末年始もバイトずくし。おとといもバイト。きのうも。今日も。
明日も。明後日も。明々後日も。12/25から1/5までバイト。
いい加減つかれた。バイト以外のこと、ほとんどできないとです。

ところで、今年も終わりますね。いろいろな人に迷惑をかけて
お世話になったです。

この日記も、だいぶん僕の生活の助けになってる気がします。
リンクしてくださってる方々、もうここにはいないですが
無印コージーさんと木立さんも今年はお世話になりました。m(_ _)m
来年もよろしくです!

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