ジル・ドゥルーズ(1925〜1995)。この人の哲学は
概略にしても、えらく表現が難しい。いちおう、昭和堂と
はじめての哲学史から要約しますが、これも原著読むまで
知ったことはいえない哲学者ですね。

まず昭和堂では、件の「善の優位性」「存在の優位性」
「倫理の優位性」の視点から考察をはじめる。

善の優位(古代ギリシア)の時代は、人間活動は
テオリア(観照)・プラクシス(実践)・ポイエーシス
(制作)に区別されていた。これは「目的」を主眼に
置いた区別。なかでもテオリアは目的を内在するがゆえに
最高の幸福だったとか。

しかし存在優位の時代になると、テオリアは幸福でなくなり
暴力となった。なんでか。テオリアが暴力の領域に属する
のは、「表象=再現前化」と、それが求める「同一性」
だから。

どういう意味だろう。

存在優位の時代は、観照する人(主観)と観照されるもの
(客観)の正確な一致が問題になるから、そのあたり
だろうか。
「同一性」はなんか全体主義を連想させる。

認識の客観性(=誰にとっても同じ)を求めるために
論理が全体主義的傾向を帯びてくるからか?うーん、
分からない。

これを彼は批判して、「非同一性=多様性=差異性」を
もとめる「欲望」をそれに対置させる。
しかも、欲望にはポイエーシス(制作)的機能が認められる。

無目的で無限の生産をもたらす欲望を解放することにより、
テオリア的理性を掘り崩そうとする、のだそうだ。

分かるような分からないような。

また古代ギリシアの時代のテオリアはまだ良かったと
いっても、すでにプラトンに、理性の暴力化の端緒が
見て取れるという。イデア論が例だ。

完全なイデアがイデア界にあり、それから遠いものは
「劣ったもの、悪いもの」である。イデアのコピーである
事物は、その写実度によって序列づけられるわけだ。

しかし最悪なのは、オリジナルと関係ないただの類似物
(シミュラークル)なのだそうだ。このコピーとシミュ
ラークルの間に、巨大な切断線が走るのだとか。

はて、、これもどういう意味だろう。

本来オリジナルと関係ないシミュラークルにまで、
偏見とかが及んでしまうからだろうか。これも不明。

同一性をめざす表象=再現前化(主観と客観の一致?)を
求めようとする理論では、差異は捉えられない。

<差異は、表象=再現前化の諸要請に服従させられて
いるかぎり、それ自身において思考されていないし、
それ自身において思考される可能性もない>。

理性的・合理的に思考されない差異は、結果的に排除
されるようになった。ドゥルーズはこの差異を復権させよう
とするらしい。

彼が「同一性と合理性を打ち砕こうとするディオニュソス」
と呼ばれるゆえんだとか。

主客一致問題と絡めないと、さっぱり意味が分かりません。
もっと勉強しないとイカン。

その2へ。
<その4からつづき>

・フーコーの倫理

フーコーの倫理は先に少し示された(性に関してだけだけど)。
性に対する自己管理とか、鍛錬、禁欲。自己コントロールの
倫理学というものがそれだ。

しかし権力そのものに対しては、憤りを示し、権力に対する
「反撃」あるいは「戦い」の可能性を探った。

だが分散した権力は、従来のように特定人物を打ち倒すことで
無くすことはできない。そこで、権力の打倒ではなくて
権力からの解放をフーコーは求めた。

そのような時、権力による心の管理(一種のマインドコントロール)
からの解放の倫理が彼には働いている。

しかし、どんなことを考えたって「エピステーメー」の域内
というのが彼の主張だったはず。そこを自覚したとしても、
難しいはずだ。どうすればいいのか。

例えば性に関してならば、解放を「性的欲望」の解放と考えては
ならない。「性という決定機関からの解放」ではなくてはならない。
それへの反撃の拠点は、「欲望である性」そのものではなくて、
「身体と快楽」であるという。

すでに管理されている心ではなく、自由である身体を、また
セクシュアリテから自由になるために、アスケーシス(鍛錬、禁欲)を
快楽に課すことが重要だとか。

締めは今ひとつつかみづらいけれど、批判理論としては確かに
卓越したものがありそうですね。

はじめての哲学史でも、そう変わった解釈はしてないぽいので
割愛します。次はドゥルーズ。

いやー

2004年8月30日
くにおくんと、ロックマンシリーズの続編はもう出ないのです
かねー。ロックマンはXとゼロとエグゼしか残ってないわけです
が、Xは3Dになってしまって、正統派2Dアクションはもうゼロ
だけになってしもた。スライディングじゃなくてダッシュだし、
剣振れるし壁登れるし、スライディングがしたいんだ俺は〜〜
ジャンプ届かなかったら素直に落ちたいんだ〜〜〜

くにおくんは会社が潰れちゃったし。ロックマンは8を最後に
続編出る気配がない。。
PS2で9出ないかなぁ…売れないのかなぁ…俺がロックフェラー
級の富豪だったら、開発費全持ちで作らせるんだけど(小声で
言うと、Xの3Dの最新作ツマンネっす)。
でも最近、プレステで1〜6が出てるじゃん。全部一気に出せば
いいものを、一枚1800円というボリ価格で。それより続編作らん
か(゜Д゜)ポルァって感じ。。

…、、、

検索してみたら、どうも元祖シリーズはエグゼに統合したとか??

_| ̄|○ そ、そんな…

しかしなんでファミコンのソフトってあんなに面白いんでしょう。
今やっても楽しめるものがほんとにたくさんあるんですが。

くにおくんは、時代劇とホッケー、みんなでやるなら大運動会
が最高に面白い。

クソゲーすぎて笑えるソフトもあったし。今じゃ考えられない
よね、そういうの。。グラフィックとかプログラミングの作業も
膨大なものになるから、ちゃんと大勢で考えて作るだろうしね。
何考えて作ったのか不明な、笑えるくらいクソゲーってのは
なさげ。

個人的に好きなのは、あと、ケルナグールとか、飛龍の拳シリーズ。
ケルナグールは、今風にアレンジしてリメイクして欲しい
とすら思うんだけど、、は〜…。
<その3からつづき>

「性」について。
タイトルは<セクシュアリテの形成-倫理の系譜学>。

これも、さきの「知の考古学」や「権力論」が使われる。

もともと人間の自由奔放な性があって、それを権力が
抑圧するのではなくて、セクシュアリテ(性のあり方)を
生み出して、それを人間に植え付ける。

それはどのようにか。19世紀以降の医学や精神医学は、
性的な「異常さ」を持つとみなされた「患者」に、おのれの
「異常さ」を「告白」させた。それによって、知(医学、
精神医学)は大量の言説を生み出し、その結果、多くの
「性的倒錯」が「発明」(発見ではなく)されたのだという。

確かに、しかし同性愛とか異常性愛に関しては、普通に
異常だと感じてしまうが、それもエピステーメーによるのかも
しれない。一部の人が「異常者」に「告白」させた内容を
流布したせいで、常識になってしまっているだけなのかも。

これを鏡として人間は「正常な」セクシュアリテを自分の
中に作り出し、「主体性」同様に、自身のセクシュアリテを
自己管理するようになる。「主体化」はやはり「服従」である…
ということが、ここでも示されたわけだ。

しかし「倫理の系譜学」を晩年に提唱するにいたって、
もう少し別の観点が加わったという。それは何か。

「権力論」は確かに有効だが、しかし、人間の行動はすべてが
それに還元できるわけではなくて、人間の道徳的行動は
「「道徳的主体」としての自己の組み立て」という側面を
もつという。

人間は権力とはまた別の次元で、「倫理的」に、あるいは
「鍛練的=禁欲的」に、自己形成していく。

キリスト教以前の、古代の奔放だった「性」のあり方を
ベースにすれば、倫理のあり方は各人のアスケーシス
(鍛錬・禁欲)の「実践」が中心だった。

キリスト教以後において、欲望は否定され、また倫理のあり方は
「懺悔」「告解」(精神医学での「告白」になる)によって
内奥に隠された「真理」を「認識」することだったが、
これがそもそも間違っていたという考えだと思う。

この古代の考え、「自己実践」、「生存の美学」に立ち返る
べき、というのがその主張と思う。

卑近な考えかもしれないけれど、どうもフーコーは自分の
バイセクシャルをえらく気にしていたんじゃないかなぁ、と
この主張をみていると思う…、、

 
・フーコーの真理

しかしフーコーの立場に立つと、フーコーの主張すら
「エピステーメー」に飲み込まれてしまって、その時代の
限界から外に出て考察することは不可能ということになって
しまう。彼自身の見出した「真理」も、一種の幻想と同じ
ようなもの、ということが、彼の主張から明らかになって
しまうのだ。

彼は、権力の網の目の中のどこに立つことによって、
この幻想を見破ることができるか、ということを考えた
ようであったが、それにしてもエピステーメーの域内、
と言うことは不可能ではない。

自然、かどうかは分からないが、フーコーは平然と
「完全な懐疑主義」の立場に立つという。しかしそれに
しても、真理がまったく無視されるわけではなくて、
「大文字の真理」より「小文字の真理」を目指したのだろう
と昭和堂では述べているが、「そうだとすると、今度は、
両者の真理はどう異なるのかという新たな問題が残る
ことになる」と同書で述べている通り、違いがよく分からない。

「全時代を貫く真理」と「その時代だけの真理」という意味
ぽいけど、前者はそもそも不可能なわけだしね。
「全時代を貫いたと思い込んだ真理」と
「その時代だけって自覚のある真理」ということか?

そもそも語義的には「真理」である内容が、時と場所によって
変わることはありえないか。うーん、分かりません。
<その2からつづき>

「主体性」について。

昭和堂のタイトルは<主体と服従の形成-権力論>。

「狂気」と「正気」が分けられるべき、「狂気」は
精神医学的にきちっと分けられるものだ、という考えが
これもエピステーメーに支配された考えだということが
明らかになった。

フーコーによれば、主体性は人間にとって本質的な、
不可欠な概念だと考えられているが、これも歴史的に
成立したに過ぎない概念だという。

それは、「監獄の誕生」という著書において示されている。

かつて、国王暗殺を企てた人間などを残虐に公開処刑する
ことによって、権力が、目に見える恐怖によって人心を
管理していた時代があった。

しかしそれも18世紀ごろまでで、その後、権力の策略が
変化する。いわゆる「パノプティコン」型の社会が
成立するのである。

「パノプティコン」とはどういうものか?これは
ベンサムという人が発案した、監獄の施設のこと。

どういう特徴があるかというと、囚人からは監視者が
まったく見えないが、監視者からはいつでも全ての囚人を
見ることができるという構造をしているのだ。

いつ見られているか分からないし、見られていても自分は
それを確認することができない。自然、普段の行いを
自分で正すようになる。いつ見られてもいいように。
従順な人間、いわゆる「良い子」の誕生である。

こうして、人間管理は経済的に、効率的に営まれるように
なる。このような人間は、当人は自分は「主体的」に
生きていると思っているが、実は、人間管理の策略に
「服従」している。こうした事態をフーコーは
「アシュジェティスマン」と呼んだそうだ。この言葉は
「主体の形成」と「服従」という2つの意味をもつ。

人間の意識レベルの「主体性」は、無意識レベルでは
権力への「服従」であることをフーコーは示すのである。

こうした権力は、人間の主体性を抑圧するとはいえない。
むしろ、権力が主体性を作り上げるのである。権力は
抑圧するネガティブなものでなく、形成するポジティブな
ものだ。人間に主体性を付与することによって、人間に
自己管理をさせる。権力に反抗できない「良い子」の
人間を作り出すわけだ。

またこれは、国王のような権力者が中心にいる構造を
必ずしもしていない。それは各人の心の中、そして関係の
中に分散して既に存在しているのであり、「権力とは、
個々の人々のあいだの関係のひとつの特殊の型」であると
される。

権力は、人間関係のあり方であり、それがもつ力である。
そして、人間は知らず知らずのうちに、それに服従している。
だから、それに服従している限り、人間が権力を「打ち倒す」
ことはできない。

なるほどパノプティコンはうまい例えだと思う。

3つ目はその4へ。

うおー

2004年8月29日
ねむいポ。。(´・ω・`)
<その1からつづき>

・フーコーの問題射程の大枠

さきのような歴史観に基づいて、フーコーの分析は進む。

ここではフーコーの問題としたところの大枠を昭和堂から
引いて、考えてみたいと思う。

大きく3つに分けると、

1.エピステーメーを問う「知の考古学」。

2.知だけでなく、人間関係や行動をも規制している
 「権力」が存在するが、それを問う「権力論」。

3.「セクシュアリテ(性のあり方)」への問いと、
 それを問ううちに開かれた、人間が性の主体として
 形成されるその過程、いわば「道徳的主体としての人間の
 自己の組み立て」、「自己実践」の過程への問い。
 これは「倫理」への問いだとされる。

 
1と2は割と分かりやすい。1は、人間にその判断を
させている、隠れた歴史的背景を探る、ということだし、
2は、理性の判断以外においても、人間の行動を規定している
これも歴史的背景を探るということ(「権力」とは
言っているけど、結局そういうことだろう)。

ただ3は分かりにくい。

昭和堂では、これの登場と共に、テクストを読む方法論が
立て直されたという。だから大事な部分だ。

これについても説明があるが、簡単にまとめると、

フーコーは「歴史」にひとまとまりの解釈を与えない。
そもそも歴史自体がその時代その時代の解釈の積み重ね
であり、フーコーが与える解釈も、その域を出ないのだ。

それはそうだ。フーコーも、現代のエピステーメーから
自由ではない。

こうして、どんな歴史解釈も、エピステーメーに縛られた
「ひとつの解釈のあり方」でしかないことを自覚し、ヘーゲルの
ような「神の視点」から歴史を見ることを拒否するとき、
これは「倫理の系譜学」と成る、のだそうである。

「倫理の系譜学」という言葉自体からはこうした意味は
掴み取ることはできない、ので、フーコーが言う場合は
そういう意味を持っていると取るといいと思う。

「倫理」がどこから出てきたのか、といえば、3の問題と
するところから来ているようだ。

 
・「狂気」と「主体性」と「性」

フーコーの歴史研究は、その膨大な読書量のために、あまりに
詳細であるらしい。なので、昭和堂では、特に重要なこの
3つの点に論点を絞っている。それぞれについて解説を。

 
「狂気」について。

昭和堂では<狂気の形成-沈黙の考古学>というタイトルを
つけている。

現代では、狂気と正気が分けられている。精神医学も、様々な
病名をつけて、饒舌に狂気を語る。

我々は、この「狂気」というものが、いつの時代もそのように
異端なものとして扱われていた、精神医学的なものだと思い
込んでいるが、そうではない。フーコーによれば、歴史上の
ある時点で、狂気と理性が分離し、理性が狂気を饒舌に語り始め、
狂気には完全「沈黙」が強いられた、というのである。

フーコーの意図するところは、それをあばくことによって
狂気を復権しようとすることではなくて、それによって
沈黙する以前の状態から、「狂気」について考え直すことが
必要だと主張するところにあるという。

「狂気」という言葉の成立以前から考察するならば、
狂人を隔離する一般施療院は、狂気の治療施設ではなく、
その監禁による排除の施設だった、という。

やはり「理性」の罪を追求するようなスタンスですね。

つづきはその3へ。
ミシェル・フーコー(1926〜1984)。スキンヘッドの
哲学者です。「90分でわかるフーコー」も読んだことある。
なんでもバイセクシャルの哲学者だったみたいで、相当
その手のクラブというか、そういうところにも行ってた
とか。同性愛者は歴史的に排除されてきたという経緯も
あり、彼の哲学に及ぼした影響も少なくないと思われる。
彼は「性」とか「狂気」について今まで哲学が正面から
扱わなかったのはおかしいとして、そういう面にも目を
向けた哲学者として有名。

ただ哲学者ではないかもしれないけど、フロイトは
性とか精神疾患に目を向けていた。

フーコーはまた「現代フランスの生んだ真の天才であり、
巨匠である」とも呼ばれる。彼の問題射程はきわめて
広く、狂気、監禁、医学、性、言葉、などなど、基本的に
歴史に関する考察が多いけども、ともかく彼の参照した
文献、資料はすさまじい量におよぶとか。

並々ならぬ勉強をするのが当然であろう哲学者において
特に「すさまじい量」というからには、それはもう
とんでもない量読んでいるのだと推察される。
論文とかも、参照文献の量がすごいことになってるん
でしょうね。

もちろん、それだけで手放しで褒めていいものでも
ないですけども。

それでは具体的にみていきましょう。

まず、例によって目次を。

・フーコーの歴史観
・フーコーの問題射程の大枠
・「狂気」と「主体性」と「性」
・フーコーの真理
・フーコーの倫理

フーコーの何々という題が多いですな、、

まず最初のから。

・フーコーの歴史観

これはたびたび出ている通りのものだけど、もう一度
詳細に。

フーコーは、膨大な歴史のドキュメントを読んでいる。
しかしそのドキュメントを文字通り読むわけではない。
そのドキュメントを「書くに至った」、いや「書くに
至らせた」その外側の何かを探ろうとする。

これは昭和堂に出ている例だけども、たとえば1801年に
医者のビシャという人が、「屍体を開け。そうすれば
単なる(解剖なき)観察では退散しえなかった暗闇が、
たちまちのうちに霧散するのが見られるだろう」と言った。

フーコーにとって、実際に解剖すれば病因がわかるか、
というのは重要ではない。重要なのは、当時の
医学界において、生きている人間ではなく、死んだ人間の
屍体が生命現象を説明する、という問題意識の転換が
行われたことを示していることなのだ。

このように言語の中には、言語から読み取れる当時の
知が存在する。知は、その外部を示す間接証拠となる。

彼は、言語を生み出す<言語の外側>へ、知を生み出す
<知の外部>へ、すなわち、フーコー版の<理性の他者>
へと向かう。

フーコーにとって、知とは、永遠普遍の真理へ向かう
ものではない。初期のフーコーはその知のことを
「エピステーメー」と呼んだが、彼の定義を示せばこれは

<或る与えられた時代において、認識論的諸形態、諸科学、
そしてときには形式化された諸システムを生ぜしめる
さまざまな言説的実践を統一しうる諸連関の総体>

なのだそうである。簡単に言えば、エピステーメーは
知を生み出す「知の外部」の別名だ。先ほどの例で言えば
ビシャにあのセリフを言わせた時代状況などのことである。

知は常にここから生み出されるのであるから、どの時代にも
共通の知がありえないことはわかると思う。

「ある文化のある時点においては、つねにただひとつの
エピステーメー」が存在する。エピステーメーは「或る
与えられた時代」によって異なる。

それによって、つまり時代が変われば「知」も変わり、
歴史はそこで「断絶」する。

また普通このエピステーメーは明示的ではなくて、
「隠された知」であり、また時代ごとにいくつも存在
するであろうから、多様である。フーコーの哲学は、
この多様なエピステーメーを問う「エピステモロジー」
であり、隠されたエピステーメーを問う「知の考古学」
であるという。

これが、基本的なフーコーの歴史観になる。

その2につづく。

あああああ…

2004年8月28日
アクセス集中のため書き込めない…?いっしょうけんめい
打った内容があったのに…orz 戻ると当然消えてるし…
消えたらもう書き込む気がおきないですよね…

次からちゃんとメモ帳にうとうorz

秘密、無印コージー様あて
<その1からつづき>

とりあえず、ポスト構造主義は、単なる総称にすぎないので
なんらかの「主義」を名の通り示しているわけではなくて、
だからポスト構造主義がどうこう、とは言えないことは分かる
と思う。なので、今までカテゴリ分けできるものは名前の前に
「〜主義」とか「〜学」とつけてましたけど、いわゆる
ポスト構造主義の哲学者については、つけないことにします。

さて、それで、いわゆるポスト構造主義の哲学者における
「倫理の優位性の思想」とは何か、について順を追って解説します。

まず昭和堂では、フーコーが指摘した「歴史の断絶」を引いて
哲学史全体を敷衍する視点は持ちようがなく、ヘーゲルや
ハイデガーのような、哲学の始祖から自らの哲学に至るまでの
道を、大哲学の完成の途(みち)として捉えるようなことは
できようがないことを指摘していて、これもまたモダンと
ポストモダンの断絶を示しているとも取れるけども、まぁ
それはそれとして。

まずジルソンの哲学史観では、古代ギリシアは「善の優位性の
思想」、中世から「存在の優位性の思想」になったことは
すでに述べました。古代ギリシアでは、善は存在の「根拠」と
されて、理性を持って原理を追求することは、それそのものが
幸福とされた。ト・ヘンとかを考えると分かりやすいですね。
それ(存在)に合一することが幸福であり目的みたいに
なっていた。

なので「善の優位性の思想」。

中世からはそうではなくて、理性は倫理的には中性のものと
された。存在をめぐる思索に善悪はなくて、ただこの世の仕組み
とか、主観-客観の一致とか、普遍論争とか、科学技術の
ただただ「正確な解明」が理性の仕事であり、結果として
それが役に立ったこともあるし、色々な罪も生んだけど、
別にそれは理性そのものの咎ではないと思われていた。

これは「存在の優位性の思想」。

これに関しては、一度ニーチェに否定されはしたけども、結局
構造主義、ポスト構造主義にいたるまで継がれてきた哲学の
特徴とも、言えるかもしれない。

では、ポスト構造主義ではどうなのか?
ここでは、理性そのものの「罪」を問い、その更に下の
「倫理」を求める哲学なのだ、とされる。

理性は、古代の哲学者の言うように善なるものでもなければ、
中性〜現代の哲学者の言うように、中性なものでもない。

それ自体が権力や暴力と結託し、「理性の他者」を排除する、
そのような構造を持っているものとして理性を捉える。

「知(サヴォワール)」が「力(ブヴォワール)」と結託
している、なんていい方がされる。

こういう言い方がされるようになったのはもちろん、
ヨーロッパ中心主義とか、ロゴス中心主義などが、
2度の世界大戦とかマルクス主義の失敗で挫折を見たことが
何より大きい。

そして、それ以前の素朴な理性信仰をもっていた哲学者に
その批判の厳しい目が向けられることになる(主にヘーゲル、
プラトンが批判にさらされている)。

しかし、理性に対するそのような問いもまた、理性によって
行われなければならない。ここに少々のジレンマがある。
結局、結論は理性によって導かれるのだから。
かくして、このポスト構造主義における理性への問いは、
理性自身による自己啓発のような形を取る、らしい。

また、無批判に科学的視点で社会構造を扱おうとした
構造主義が問題にしなかった、「その科学的分析を主張する
者自身の視点の拘束性=個別性」という問題にも、言及する。
(これははじめて言及された、と書かれているが、少なくとも
現象学では既に自明となっていることだと思うけれど)

この考え方は、パッと聞くだけでは、一体どのような
実を結ぶのか非常に想像しづらい。

表現も哲学者によってまちまちで、ドゥルーズ/ガタリは
「逃走」、リオタールは「漂流」と言っていたとか。
デリダは有名な「差延」がキーワードになるのかな。
全体的に「差異」という言葉が使われてるみたいですけども。

またこれらの思想は、単純な反権力思想に結びつきがちという
イメージもどうしてもある。けれども、社会批判の理論としては
卓越したものもあるようで、触れておく必要のある哲学では
あるだろうと思う。

ともあれ次から、フーコーから順番にみていきます。
この「ポスト構造主義」というカテゴリというか
枠組みに関しては、少し言及しておくべきことが
あるので、最初にひとつ解説を設けます。

このほかにも、モダンの後、「ポストモダン」て
言い方もされたりするんですけども、こちらは
建築の様式とか、社会学・政治学とかもう色々な
分野にわたって使われるみたいなので、哲学史的には
そう適切でもない言葉かもしれない。でもポストモダンを
自認してる哲学者もいる(ポスト構造主義ではない)。
だから結構意味は色々有るみたいなんですね。
でも多くの場合、ポストモダンというと、ポスト構造
主義を指して使うことが多いかも。あいまいなので、
あまり使いませんけども。

この説明については昭和堂が詳しいので、最初に
はじめての哲学史から簡単に解説したあと、昭和堂から
さきの「倫理の優位性の思想」と絡めて説明したいと
思います。

ポスト構造主義として有名なのは、ミシェル・フーコー、
ジル・ドゥルーズ、ジャック・デリダの3人。
ポストモダンを自認してたのはリオタールって人なんだ
けど、2つの本でほとんど扱ってないのでいずれ扱う機会があれば。

サルトル・ポンティの実存主義が第一世代、レヴィ=
ストロースやラカンの構造主義が第二世代なら、ポスト
構造主義は第三世代。それまでの思想の遺産を継ぎながら
も、構造主義を脱しようとして思索を繰り返し、それへの
批判を通じて哲学を打ち立てたのがこの3人で、構造主義の
後の思想だから「ポスト構造主義」。そのままですね。

しかしその基本姿勢は構造主義の頃から変わってなくて、
「反人間中心主義」、「反西欧中心主義」、「反理性中心
主義」。最後のは反ロゴス中心主義ですかね、まぁ
基本的には構造主義と姿勢は変わっていません。

ヨーロッパ近代を貫いてきた「人間の知」のあり方を
根本的に疑い、見直しを迫るところがその特徴。

と、ここまでがはじめての哲学史の説明。簡潔ですね。

次は昭和堂から。

最初、ポスト構造主義とポストモダンって言葉のあいまいさが
説明されてます。

ポスト構造主義は、ほんとに構造主義の後って意味しか
なくて、構造主義以降の哲学を全てひっくるめることも
可能なくらいのあいまいな言葉(通俗的には、フーコー・
デリダ・ドゥルーズの3人を代表に、似たような考えを
持っている哲学者たちを指すと思います)。

ポストモダンは、機能主義・合理主義によりすぎた
近代の建築への批判から生まれた、ほんとは建築の言葉。

ただリオタールは自らポストモダンという概念を前面に出して、
その条件、現状を提示する。<知は普遍的平和を目指す>
という近代の「大きな物語」の終焉のことを指して、
リオタールはこう呼ぶ。

でもハーバーマスはこれに反対してるそうです。

リオタールは、モダンはもう終わったと考えているけど、
ハーバーマスは、モダンの論理をさらに発展させるべきと
考えているらしい。

ポスト構造主義とポストモダンの意味についてはこれくらいで。

その2でもう少し踏み込みます。
ルイ・アルチュセール(1906〜1995)。マルクス主義の
人です。
マルクス主義っていうと、フランスの現代思想にとって
乗り越えなければならないいわば論敵。それと構造主義が
重なったというところで、少し注目に値するらしい。

マルクス主義を、人間の実存とか決断という側面からでは
なくて、科学的な認識論として捉えようとする考えかたを
強く持っていたので、構造主義と呼ばれることが多かった
そうだ。

アルチュセールで出てくるキーワードはひとつ。
「認識論的に切断」する、というもの。

アルチュセールは当時の社会主義のヒューマニズム的傾向を
批判しつつ、初期のマルクスの理論をも批判。初期のマルクスは
「疎外」とか「物神化」を解消して、全体的な人間性を
回復することを目指していたけども、この人間主義的な
初期マルクスの思想を「認識論的に切断」して、資本論の
時期のマルクスの思想を分析すべきだと主張したらしい。

しかし、なんやら、難しいですね。「全体的な人間性」と
言われてもあまり分からないし。

この「認識論的に切断」というのは、フランスの科学認識論
(科学哲学のようなものかな?)のバシュラールって人から
継いだ理論らしくて、これはどういう意味かというと、
ある思想をその全体の体系において理解するには、その思想の
歴史的発展をある時点で「切断」して考察して、その時点で
ひとつの完成を見たとして扱うほうが都合がいい、というもの
らしい。

実際、やってみると結構画期的な方法なのかも。でもこうして
聞くだけだと、どういうことか分かりにくいですな。

でも、「はい、とりあえずここまでで切って、ここまでで
分かること全てをとりあえず体系化しよう」という風に考える
と理解すると、それなりに理解はできる。俺理解じゃダメか。

これはフランスの構造主義の源泉の1つであるとか。

さらにアルチュセールは、認識論において、主体としての
人間が、客体としての対象を認識するという伝統的な
考え方を批判した。なぜなら人間は社会的な網の目の中で
生きる存在であって、伝統的な認識論では、社会の中を
生きる人間を考察できないと考えたのである。

だから、イデオロギーほかの社会的要因の網の目、
そのような構造の中でこそ人間も理解することができる。
なるほどマルクス主義的だな、となんとなく思う。

次、バタイユを扱おうと思ったんだけど…どっちの哲学史にも
言及がないんですな。「現代思想の冒険者たち」でまた
詳しく扱おうとおもいます。

さてこれで構造主義は終わりですが、構造主義にはひとつ
弱点があるんです。というのは、この「構造」というのは
視点の取り方によって、いかようにも想定しうるものでは
ないか、ということ。実際、色々な取り方があって、
そのバリエーションは尽きることがないのではないかとも
思える。ひとつの捉え方にすぎないのではないか。

昭和堂では「寒天に網の目をかけて形どるようなもの」
という表現をしているが、網の目の形なんて、それこそ
自由にいくらでも作ることができる。

だから、人間を捉える方法原理としては、弱いものを
持っていることは否めない。いくらでも恣意的に構造を
取り出すことすら可能だから。

このあたりで、ポスト構造主義からの批判も受けつつ、
現代思想も移ろっていくわけです。

うーん

2004年8月27日
つけいる隙がないくらいしっかりした人って、かえって
付き合いにくいところがあるもんですよね。

俺みたいに、元々が社会不適合の人だと、あえてしっかりしよう
と思った時に、(実際隙はありまくりだけど)そう見栄を張りたがる
ところが、似たような威圧感を他人に与える、ところがある
のじゃないかと考えてみた。

ルサンチマンの反動で、真理への希求が生まれたようにね。

うーん、いや、眠い。よくわからん。。
ロラン・バルト(1915〜1980)は、様々な分野において、
記号論を活用した構造分析を提唱した。

それは哲学の分野というか、人間の主体の解体だけでは
なくて小説、神話、社会の風俗とかモードなどの
多様な対象を分析する手法として用いたという。

バルトが何を特に問題視していたかは、ここからは
よくつかみづらい。はじめての哲学史では、バルトは
レヴィ=ストロースとは対極の視点を持っているという。

バルトが興味を抱いたのは、対象に内在する構造よりも、
分析する対象に「意味を作り出す人間」の構造であり、
自然や文化において形成される「意味」にそなわっている
構造であるという。

バルトは歴史において決断する実存的な人間ではなくて、
歴史に意味を与えようとする人間の営みが、1つの「装置」の
ように機能するという事態を重視した、という。

やはり意味はつかみづらい。歴史に意味を付与するのは
確かに人間のあり方の大きな特徴ではある。しかし「装置」
とは…?

またバルトで有名なのは「作者の死」という概念。

伝統的な文学批評の理論で重要なのは、作品とその作者で
あったが、バルトは、確かにテクストは作者が書いたに
相違ないが、テクストにとって作者は外在的なものだと
考えた。重要なのは、読む読者のほうだ。

テクストを神のような創造者の位置に有る作者が作った
作品としてではなくて、そのテクストがおかれた文化に
固有のさまざまな「引用の織物」(なかなか難しい表現だ)
として読む必要があると考えた。

またテクストは、読者が新しい「意味」を作り出すための
「装置」なのである。

これはちょっと確かに、構造主義としては少し異質かも
しれないですな。

次はアルチュセール。最初アルセチュールかと思ってた
けど違った。
ジャック・ラカン(1901〜1981)。
「エクリ」って言う書で有名な人ですね。この人は前にも
紹介したとおり、構造主義的な精神分析の理論を構築した
人。

まぁ、この「エクリ」も、一見意味わかんない文章で
書かれてるみたいなんですけどね。まぁ構造主義も哲学書の
例に漏れず、大体そうなのかもしれないですね。今まで
読んだ中では、プラトンとデカルトは比較的簡単だったけど…。

ストロースもフロイトの理論を参考にしていたけど、
ラカンももちろん参考にしている。

フロイトでは「エス/自我/超自我」という精神の構造が
示されたけど、ラカンでは意識は「現実界/想像界/象徴界」
の3つの領域で構造化されている必要があるとされた。
「〜界」って少しプラトンを思い出す。

特に有名になったのは、ラカンの鏡像段階の理論。
子どもは生後6ヶ月から1年の間に、鏡に映る自分の姿を
見ることで、自己の身体的な統一を確立するというのがこの
理論。

これは実際に鏡で見ることが重要なんではなくて、それまで
分裂した状態にあった自己の身体が統一性のあるもので
あることを、自己または他者の像によって認識することが
重要なのだという。

まぁ、幼児期の記憶なんて誰もないので、このあたりは
想像にまかせた感じですね。

はじめての哲学史からはこれくらいしか書いてないので、
現代思想はまた「現代思想の冒険者たち」というハードカバー
のシリーズ本があるので、そっちから念入りにまとめる時に
科学哲学、構造主義、ポスト構造主義て感じでまとめて
いきたいと思います。

ひょっとしたら、原著のほうが先になるかもしれませんが。
<その1からつづき>

またストロースは、実存主義における「歴史の目的」と
いう概念を激しく批判した。

なんでもこの「歴史の目的」は、西洋のそれが主となっている
らしく、そんなものなくても、ヨーロッパ以外の国はそれぞれの
歴史をもっている、ということだ。これは文化人類学者たる
ストロースの信念だった。まったくごもっともな主張。

日本にもちゃんと2000年(?)の歴史があるしね。

また同時に、人文科学の目的は人間を「構成」することでは
なく、「解体」することだと主張した。

学問は、歴史の目的に従いつつ、状況のなかで主体的に
決断する人間を対象とするのではない。

そのような主体的な決断を行う生そのものを可能とする、
社会の構造(システム)を対象とすべきであり、ここでは
主体としての人間の概念は「解体」されるべきだとした。

具体的に、人間をどう扱うのかはよくわかりませんね。
社会の構造だけじゃあ、人間そのものは扱えないし…

しかし、歴史の目的なんて、ヘーゲル的というかマルクス的
(?)というか、そんなのがまだ生きていたんですね。
実存主義本来のあり方なのかなぁ…。

個人的には、歴史はどこかに向かって「進歩」してる
なんて思っていないですけどね。まぁ、観点の取り方に
よりますけども。特殊な観点を持てば、進歩といっても
差し支えないと思う部分は、個人的に思うところがある。

俺の持論なんかええですわな。

とりあえず、ストロースの批判は、この人間の理性の
歴史と目的という、西洋の形而上学に対する批判だった、
そうだ。ヘーゲル批判でもありそうですな。

この人間の「解体」の宣言は、構造主義的な方法の
開始を告げるものだった、とはじめての哲学史では
分析している。

構造主義の特徴は、人間を主体として捉えてそこから
社会を描くのでなく、人間の決断を左右する力をもった
社会の「構造」を捉えるといった、今までにない
新しい視点だという。

またこの、実存主義の次の思想と目された構造主義は
神話学、社会学、歴史学の分野でも並行して進められた
らしい。ストロースは文化人類学だものね。

そこで構造主義の哲学者としても、専門分野はけっこう
バラバラだったりする。

そこで次は精神分析のラカン、その次は文学のバルト、
さらにマルクス主義のアルチュセールを紹介します。
クロード・レヴィ=ストロース(1908〜1992)。もうかなり、
最近の人ですね。
構造主義といえばこの人。

ラカンとかバルト、あとアルチュセールなんかも所によっては
有名なのかな…そのあたりにも関わるので、構造主義を考える
際に重要な、戦後のフランス思想の状況について解説しておきます。

ラカンバルトってあれですね、ゼノがつくナニですね。

昭和堂では、あまり歴史的な考察は入らないのだけど、
はじめての哲学史だとそのあたりによく触れる。

ドイツによる占領下の抵抗運動と、フランス解放運動に
かかわってきたフランスの知識人は、サルトルに代表される
主体的な決断と実存の思想に魅惑されていたそうだ。

サルトルはポンティと一緒に「レ・タン・モデルヌ」を
発行してましたね。

それで、実存主義において決断の価値を決定するのは、
「歴史」という理念だったという。そうだったっけかな。
サルトルはそんな感じもしたかも。

人間の歴史は、例えば人間の解放と疎外の克服のような
一定の目的を備えた運動であり、この歴史の方向に沿って
決断し、行動することが、真の意味での人間の自由だと
考えられた。

うーん、ちょっと危ないかもね。革命思想に繋がりそう
っていうか…

こうした、倫理的な装いのマルクス主義という傾向のある
実存主義に、やがて深刻な疑問が抱かれるようになってきた。

人間が直面する錯綜した状況において、果たして主体的な
決断だけで、問題が解決できるかどうかが、疑問視されて
きたのだ。

それで、ならどうするか?

これに対して最初の疑問を呈したのは、文化人類学の
レヴィ=ストロースだった。ストロースはソシュールや
ヤコブソンの言語学の方法に学び、未開社会における
婚姻と神話を分析しながら、社会は人間の意志的な決断
よりも、無意識的な構造によって構成されていることを
明らかにした。

どういうことだろうか?

未開社会には、近親相姦の禁止の原則に基づいた、複雑な
婚姻制度がある。これがなんのためにあるか外側から
観察すると、これは1つの社会が内部で閉じてしまうこと
なく、他の社会と交流をもつ必要性に基づいて構築された
ものであることが分かるが、しかしそれは社会の内部の
成員には、意識されないものとして存在しているのである。

つまり、自然発生的というか、生活の中で刷り込まれた
知恵というか、そう、無意識的というか。

ストロースはこの仕組みをフロイトの精神分析(無意識では
おなじみですな)とか、言語学の音韻論に基づいて分析し、
このような社会の構造の次元にある規則が、社会の成員には
無意識的なものになっていること、そしてこうした社会では、
主体の決断や歴史の目的より、社会の構造の機能のほうが
重要な意味をもつことを明らかにしたのである。

言われてみれば、それはその通りだ。
社会の構造は、必ずしも成員が自覚的に作るものだけではない。

この構造を研究対象とするから、構造主義なんですね。

続きはその2へ。
はじめての哲学史では、構造主義、ポスト構造主義は「現代思想」
という区分になってます。

どうもぐぐっても出てこないのでよく分かりませんが、
「現代哲学」と「現代思想」って違うんだそうです。

この解説に少し行を割こうと思います。

というのも、現象学とか実存主義に代表される、人間の理性中心の
いわゆる本家「哲学」というのは、とある学派からすると
否定の対象みたいなんですね。

それで…いや、浅学者ゆえ深くは分からないですが、「哲学」
とは一線を画すという意味で、「現代思想」なのかな、と。

プラトンから続いた、人間の理性によって絶対真理へたどり着ける
といった、ロゴス中心主義(デリダの言葉らしい)の考え方。
これと決別するという意味で、分けているのかもしれない。

もちろん、はじめての哲学史は、現象学派に属する見解を
もっているので、そうは取りません(現象学は、真理を求める
哲学ではないという解釈を取る)。
昭和堂のほうは、おそらくではあるけど、ポスト構造主義に
次の哲学の芽を見ている。

昭和堂で紹介されているジルソンの哲学史によれば、
古代ギリシアから中世あたりまでは哲学は「善の優位性の思想」
だった。イデアやヌースに代表される、最上位である善が
目的に据えられた世界。中世〜近世〜現代になると、今度は
「存在の優位性の思想」になってくる。ヘーゲルもマルクスも
ハイデガーもそう。人間という存在の探求の哲学、存在を第一に
置いた哲学。

善の優位性から存在の優位性に移り変わったのは、これは
キリスト教の「万物の創世」が関係してると、昭和堂では
述べている。世界に生まれたのはまず「存在」である。
これが近代科学の、動的な性格を招いた、とも。

しかしポスト構造主義になると、今度は「倫理の優位性の思想」
に、取って代わるのだそうだ。これはまたポスト構造主義の
ところで詳しく。

ともあれ、ベーコンは「知は力なり」と人間の理性の力を
称賛したが、「現代思想」にとって、それまでの哲学が頼みと
していた「理性」は敵である。それは時に権力と結びつき、
人の共同体を野蛮に走らせるからだ。

それはファシズムの暴走と、マルクス主義の悲惨、資本主義の
過去の野蛮や今あらわれている矛盾、理性信仰、科学信仰から
来る環境破壊、等々の問題の表面化で明らかになった。

この人間の理性の暴力をどう回避していくか、そのあたりに
人間の倫理と理性の可能性を見出すのがこれからの哲学の
課題らしいが…ちょっと蛇足が過ぎましたね。

要するに、こんな理由から「現代哲学」ではなくて「現代
思想」なのだと思います。

ちなみにプラグマティズムは「現代哲学」に分類されてるん
ですが、はじめての哲学史にも昭和堂にもほとんど記述がない
ので、そのうち別口で調べようと思います。

まぁ古代も中世も近代も、また数字に連番を重ねて追加する
可能性はありますけども。

時間があれば東洋思想も手を出したいんですな。宗教も神話も…
欲張りすぎか。

それでは、レヴィ=ストロースから構造主義にはいって、
ポスト構造主義を扱って、哲学史を終わりましょう。

うむ

2004年8月24日
今日も有意義なことをほとんどしなかった一日だったorz

ブックオフ行って、また名作3冊仕入れたくらいかなぁ。

来年就活だっつのに、、、ふー
<その1からつづき>

つぎ、2のラング-パロールについて紹介します。

「ラング」は何か?これは、単語の意味、文法、その用法とか
ルールといった、言語の規則を意味する。

「パロール」とは何か。これは、それに従って行われる具体的な
発話行為を指している。つまり、私たちはすでに体系として
存在しているラングに従って、パロールを行っているわけである。

これだけ聞くと、なんか数学的なイメージがある。ラングって
いう厳格なルールがあって、パロールはそれに従うだけという
イメージが…あるんだけど、これも例によって、そう単純に
理解できるものでもない。

確かに、人間はラングを習う。ラングを基にしないと、
パロールが行えないからだ。しかし、パロールはいつでも
完全にラングに従っているか?と問われれば、これはノーだ。

スラングもそうだし、ギャグ、駄洒落もそう。ラングに
規定がないようなことも、パロールは人間の「欲望(エロス)」
や「気分(情状性)」に従って、どんどん増やしていくことが
ある。

そもそも、基あったラングからはみ出したりしないならば、
シニフィエとシニフィアンの流動的な関係は考えられない。
対象が存在しなくなるとかいうことはあるかもしれないが、
「あわれ」などの言語の用法が以前と変わったりしないはずだ。

パロールはラングに従うが、パロールは常にラングを超え出て
ラングを書き換えるようなはたらきも持つ。ラングは、我々が
普段考えるような厳格なルールではなくて、もっと緩やかな、
恣意的で流動的なものなのだ。

これがラング-パロールの考え方である。
こういう構造は、さきの通時(ディアクロニー)-共時(シン
クロニー)、シンタグム(統辞)-パラディグム(範列)の
関係でも同じことが言える。

ソシュールの功績は、実はここまで。この先の、ではその
恣意的な言語の記号と意味のかかわりがどのような仕組みを
持っているか、という考察は、おそらく後期ヴィトまで待たねば
ならない。ソシュールの言語学は、単純に分析していくことが
できない言語の不思議さ、「言語の謎」を残して、後の研究者に
多大な影響を与えていった。

まとめると、ソシュールがここで明らかにしたのは、こういう
ことだ。

我々は普段、言葉が客観世界をそのまま写し取る鏡だと
思っている。しかし、事実は逆ではないか。人間は、
言語によって目の前の世界に秩序を与えている一面が
ある。ラングはその時代の人間ほとんどに共通かもしれない。
しかしパロールは人によって様々な面があったりする。

シニフィアン-シニフィエの結びつきも、人によって
実は違った面があることが考えられる。なぜなら
その結びつきは恣意的としか考えられないからだ。

ならば、誰にとっても同じ絶対的な「客観」などが存在する、
認識できる、言い表せると思うことがまず間違いではないか。

この本質的なところで、フッサールの現象学、後期ヴィトの
論理学、ソシュールの言語学は繋がっている、とはじめての
哲学史では喝破している。

ちなみにこの3人、ほとんど影響関係がなかったそうです。
この3人が同じような本質に行き当たったことは興味深い。

でも、この3人に同じ本質を見るのも、はじめての哲学史
オリジナルといえばそうなんでしょうね。

次は構造主義にいきます。

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