<その1からつづき>

ならばどうすればよいか、と言えば、この根本意志を解体することで
ある、という。この意志の解体への道が、救済への道である。

しかし、世界の原理をどうやって解体するのであろうか?

ひとつは、ショーペンハウアーによれば、「芸術」にカギがある。

人間は日ごろ、いろんなものを認識し、それを欲しがるが、
認識能力は、生きんとする意志に奉仕する能力であるがゆえに、
生に対する効用とか利害から逃れられない。

しかし「芸術」は違う。確かに同じ、生きんとする意志から
生じるものではあるが、これは認識ではなく、直観のみによって
得られるのであるから、効用とか利害にとらわれていない。

確かに、芸術は、悟性によって「ここがドの音だから、私の脳の
この部分を刺激しているからいいのである」とかって認識せず
とも、いい曲だということはそのまま伝わってくる。

ショーペンハウアーは、芸術の諸段階を、建築、彫刻、絵画、詩、
音楽というふうに段階づける。このあたりはちょっと恣意的だが、
音楽は形がないだけに、頭の中だけで直観させられるものだという
感じはする。建築〜詩〜音楽に向かうにしたがって、人間のもつ
五感に頼らず、頭の中で想起するものが重要になってくる。
そういう基準でつけられた段階と思うとなんとなく納得はできる。

しかし、芸術による解脱は、長く続きはしない。生きんとする意志は、
芸術によって忘れられていた生の悩みを、そのうちまた認識させる
からである。

これも理解できる。いろいろの悩みがあっても、映画とか
観にいくまではウンウン悩んでいるが、観ている最中は忘れて
いる。しかしそのうち終わると、また現実に引き戻された気がして
余計鬱になったりもする。

芸術、娯楽には、いっとき現実から自分を遊離させてくれる力が
ある。そのことを言ってるとしたら理解できる。

だが芸術は一時の安らぎにすぎないならば、どうやって解脱したら
いいんだろうか?

 
ショーペンハウアーによれば、人が自らの生きんとする意志を解体して
生の救済へいたる道は、「同情」にあるという。

「同情」とは何か?これは、理性的判断ではないにもかかわらず、
エゴイズムと対極をなす感情である。

生きんとする意志、行為の根本衝動は、エゴイズムである。
エゴイズムとは、人が必要のために他者を隷属させることではなくて、
他者の苦しみに対する自分の喜びのために、他者を隷属せしめること
である。

だからショーペンハウアーは、このようなエゴイズムから
自由であることを、彼の倫理学の課題とする。

エゴイズムは彼にとってかようなものであるが、しかし「同情」は
違う。同情は、他人の不幸や災いに自ら感じ入る心的現象である。

人間は、他人の不幸をみてから、いちいち「これはもし自分なら
かわいそうだな」とか、「もし自分が同じ不幸に遭ったら
この人に助けてもらおう」とか、「考えてから」同情の感情を
得ているわけではない。苦しみに遭っている人を見たら、すぐに
湧いてくる「到来的な」感情だ。

また、他人の苦しみをみて味わう残忍な愉悦感を忌避する感情で
あるから、自分ばかりか、他人の生きんとする意志をも承認する
感情なのだ。
私が、私の生きようとする意志を超えて、他人を慮ることが
同情である。

プラトンの言った「正義」もキリストの言った「隣人愛」も、
結局この「同情」がベースになっているのである、と彼は考える。

そして、人は自らを洞察し、その結果、自らの生きんとする意志を
否定するよう指令することもできる存在である。
生きんとする意志に潜むエゴイズムを否定しようとするのだから、
これは生きんとする意志に奉仕する「認識」より、もう少し高い
位置にある「認識」だ。

この自己認識が、人を意志の寂滅に導くという。
そのとき、人にとって「死」は歓迎すべき救済になるのである。

苦悩からの救済は、私と他人との差異のない、個と全体の融合する
「涅槃」に没入することになる。

つまりは禁欲主義ということだが、それはストア派よりも
エピクロス派のそれに近そうだ。

また彼は、イエスや仏陀のような禁欲の極地には、一般人は
たどり着けないが、キリスト教でいう「恩寵」に拠って可能だと
する。

これが、ショーペンハウアーのペシミズムと、その中で生きる
人間像である。

 
まぁ、最初のほうは割とうなずけもしたけど、最後は宗教に
なってしまいました…

最初のほうにモチーフは見受けられるが、最終的には
ニーチェにとってはまったく評価に値しない哲学になってますね。

次はキルケゴールです。
ショーペンハウアー(1788〜1860)。あんまり有名な哲学者では
ないと思う。かのニーチェが若いころ、ワーグナーの芸術と、
この人の哲学に、最高の価値を見出していた。

のちにワーグナーには失望するし、ショーペンハウアーを超える
哲学をうち立てるわけだが、ニーチェにとってこの人の影響力は
やはり多大だったらしく、哲学にもニーチェの思想をなんとなく
想起させるものがある。

それに、生の哲学としてはけっこう先駆的位置づけを持ってるの
かな。

生の哲学って何かって、ちょっとまだ意味はよくわからない
けど、自分の主観の仕組みを振り返ることで、生きること
そのものを問い直そうとする…といっても漠然としてるな。
まぁ、そんなような哲学のことだと思っています。

科学的検証を必要としない、自分の意識を探る形で得られる、
人生についての考え方、ということだろうか。

時代としては、ヘーゲルも影響受けたフランスの市民革命後の
政治体制が生まれて、産業革命と同時に工業化が進んだころ。

人間が理性によってどこまでも発展していける…という感覚が
人類を希望に燃えさせていたころでしょうかね。
ただ、社会の下層にいた労働者の悲惨さはやっぱり酷かったらしく…

まぁともあれ、ヘーゲル以後にはじめて扱う哲学者が、どんな
思想を持ったのかみていきましょう。

 
まず、ショーペンハウアーはドイツ観念論の主知主義傾向(認識論で、
真理・認識の根拠を理性に置く合理的立場)に反発したという。

反発して、ではどうするのかというと、「根本意志」とか「盲目的な
生命衝動」とかいう、理性では捉えられない人間の本性部分に、人間の
生の本質がある、と彼は考える。

これってけっこう、的を射ている部分も、個人的にはあるとおもう。
というのは、欲望というのは、理性でコントロールできる部分もないとは
いえないが、基本的に「到来的」で、理性の判断に「ついて来る」もの
ではない。認識に対して欲望が自動的に、どこからからやってきて
理性はそれに対して判断を下すことができる、というものだ。

人間が無意識に目の前の世界に「意味づけ」しているときも、
そのことそれ自体は、かなり到来的だと思う。
意識せずとも、勝手にやってくる、やっているのである。

このあたりは、さすがニーチェが心服していた哲学者だけはある。

 
彼は、たとえば身体を例にしてそれを説明してみせる。

それぞれの意志行為はすぐさま身体行為として現れる。
身体行為は意志の客体化である。

身体行為は意志と同じもので、どちらかが先行するものではない。

意志があるから身体行為があるのではなく、身体行為があるから
意志があるのでもない。

しかし、すべて認識されうるものは現象であるから、身体も
物体として認識はされる。けれども、人は身体から、単に
現象以上のものを受け取る。それは、自らの「意志」である。

 
現代の知識からいうと、脳から神経へパルスが流れるから
動くのであって、意志があるから身体が動くわけだけどね。
けど、「動け」と思ったから動くわけでもない身体、この
「動く」ということの不思議さはよくわかる。

頭でいくら「動け〜!」と念じても動かないからね。
動かすには、まぁ動かせばいいんだけど、それが動く原理も
説明は可能なんだろうけど、感覚としては言葉に表しづらい。

 
つづけて彼は、この「根本意志」こそが、世界の原理であると
する。また、「根本意志」において、「充足理由律」を認めない。
この根本意志は、充足理由律と、それを駆使する知性のはたらき
では、決して捉えられないという。
(充足理由律は、それが存在するのには充分な理由がなければ
ならないという論理法則)

わかる気がする。意志の根源の問題、たとえば「意志はなぜ
ここにあるか?」「意識はなぜここにあるのか?」のような
質問に対しては、トートロジー(AなのはAだからである、
という同語反復)でしか答えられないと思う。

そこには充分な理由があるのではなくて、ただ、あるからあるのだ。

そしてまた、この「根本意志」は、盲目的な生命衝動であり、
「理性的ではない盲目的な迫力」であると彼はいう。

根本意志は究極的な目的をもたないが、しかし、常に己を
展開していかざるを得ないような「無意識的衝動」である。

ショーペンハウアーによれば、これが「世界の原理」なのだ。

 
これが「世界の原理」…?独我論なだけではないの。という
反論も考えられる。プラトンのイデア論が、実は「この世界は
究極的には、善のイデアによって解釈される」のような考え方を
していたときも、そう取れなくもない話だった。

しかしこれは、個人的に、大脳生理学とか物理学と、なんら
矛盾して存在するものではない、と思う。

これは人間の「主観のあり方」を、自らの意識を内省することに
よって、うまく取り出した例であるのだ。

むしろ、大脳生理学と哲学はリンクするのではないかと思っている。
というかもう、今では常識となっている、昔の哲学者の分析に
よる人間の精神への理解が、その助けになっている部分も
大きいのではないだろうか?(もし今でもキリスト教の支配が
強ければ、脳のアルゴリズム説明に「隣人愛」とか「信仰」などが
加わっていたことだろう)

脳の仕組み、アルゴリズムを理解するときに、哲学の精緻な
主観分析の積み重ねは役立つと思う(よく知らないけど)。

話がそれた。

 
ショーペンハウアーによれば、「理性を欠いた盲目的な迫力」
である根本意志は、その究極的目的を持たないのであるから、
なんらかの目的をもったとしても、それを達成することで満足する
ことはない。

だから根本意志は、その現前に、つねに抑圧や障害を抱えている。
それは終わりのないことである。なぜなら、意欲のあるところに
かならず障害があり、根本意志にとって最終となる障害が
存在しないからである。

よって人は、努力しても阻まれるから、いつも悩まざるを得ない。

「生は悩み」である、というのが彼のひとつの結論だ。

また根本意志は「理性を欠いた盲目的な迫力」であるから、
その中に残忍な暴力衝動とか殺人本能も潜んでいる。なにせ
理性がないのだから。

だから、それをもつ人間によってつくられる人間の世界は、
実はあらゆる世界(ほかの動物とかと比べてだろうか)の中で
最も悪い。

ショーペンハウアーは、社会進化とか、人類史における進歩を
承認しない。ましてや、道徳的進歩など認めない。
なぜなら、人の愚行と残虐行為は、世紀が移っても何も変わらない
からであり、ここがヘーゲルの考え方との大きな違いだ。
(個人的には、社会制度そのものは、絶対王政の頃よりは、
多少は戦争が起こりにくいものに変化してきていると思う。
ただそれが人間の理性の進化の結果とは思わないが(昔の人間は
平気で人を殺せた生物だった、とは思わない。今と人間の本質は
変わらないと思う)。道徳的進歩に関しては、ある意味ショーペン
ハウアーが正しいと思う)

とすれば、根本意志の衝動を果たそうとする、すべての努力など
むなしいものである。こうしてペシミズム(厭世主義)が訪れる。
ショーペンハウアーの哲学はペシミズムである。

ではこのペシミズムをどうやって乗り越えたらいいのか。
つづきはその2で。

さて〜

2004年8月1日
ヘーゲルの哲学、簡単に言ってしまえば

「人間は皆自己中で、その自己中さを発揮してるだけ
だとうまく生きていけないことを、大人になるにしたがって
覚える」

また、社会そのものも似たような変化を遂げる。

と、いうこれだけのことですな…しかしそれでも、あの時代に
この原理を見出したのは、ヘーゲルの知力あってこそのもの
なんだろうけどね。

それにたぶん、これは基本的な原理なのであって、
ヘーゲルの真価はそこから構築された体系にも見出せる
のだろうけど。

ちなみに「はじめての哲学史」の執筆者の一人であり
編集者でもある西研さんの著作に「ヘーゲル・大人のなりかた」
という本があります。

ま、哲学のことはまだ、こんな知った風には語れないですな、
本当は、、。。

 
きのうの日記。
はー、10時から少し眠ったけど、学校の夢を見た。
学校でいろいろしてから、帰った夢。。。
なんかね、名古屋駅あたりがめちゃくちゃ豪華になっていた。
レンガばりの明治風というか、そんな町並みになってて、
コロッセウムっていうか東京ドームもびっくりの階段数の
階段とか踊り場(?)とかがあちこちに出来ている。
上から下を眺めるとすごい壮観。レンガの階段が綺麗に
模様作ってるんだよね。街灯もなんか明治風というか。
すごいオシャレになっていた。

なんであんな名駅を想像したんだろ??

まぁ素敵な街並みだったけど、でも毎日見てると飽きる
だろね。

それにしても、、、夢の中に、大学で知り合った女の子が
出てきた。。。同じ学校に通ってる設定らしい(実際には違うが)。
会話はしなかったけど、学校から出る時に、授業中の
彼女と笑顔を交し合っただけ、それだけなんだけど、、

、、う〜ん、前の彼女と別れてから、、元々自信なかった人格が
もっと自信なくしてしまって…微妙に好意持たれていることが
分かってても、どうもこちらから積極的になれずにいた相手。

夢に出てくるとは…、、、

確かに、気になる人ではあるんだけど…、、
<その3からつづき>

前までで、自己意識の自由が社会(他人)との衝突を繰り返し
ながらも、相互承認することによって調停していくという
原理が明らかになった。

それで、この「自己意識の自由」の“最終目標”はどこに
あるのかというと、これが「絶対本質」である、というので
ある。

「絶対本質」、、言葉のイメージからもわかるけど、これは
人間が本来的に、何か「絶対的なもの」、「ほんとうのもの」
を目指す心性を持っている、ということである。

考えてみれば、昔からそうだ。宗教などをイメージすれば
分かりやすい。「神」に即する色んなものが想定されている。
哲学だって、カントまでは、形而上学的な絶対者にたいする
希求が多くあった。

これをめざす人間の精神の展開のプロセスについて、
ヘーゲルは「信仰」と「啓蒙」を挙げる。

「信仰」は絶対的で超越的な「ほんとう」を、自分を超え出て
彼岸の「聖なるもの」に思い描く、という宗教行為だが、
「啓蒙」は、これの近代的な希求の形態である、という。

「神」や「キリスト」の代わりに、「誠実」「道徳」「社会」
「革命」という目標を立てるのだと。

そして「啓蒙」は幾度も挫折を繰り返しながら「良心」へと
近づいていく。

「良心(=全的に知ること)」とは、絶対的な「ほんとう」への
希求がじつは「精神」の普遍的本質に由来することを、
明確に自覚している精神のあり方のことを言うという。

良心はまた宗教を、絶対本質への希求のあらわれとして理解する。

そしてこの良心と宗教の最高の統合として、絶対知が現れるという。

要するにそれは、人間が、自分のさまざまな欲望や希求の本質を
このうえなく深い形で理解すること、を意味するのだという。

 
このあたりは「はじめての哲学史」の表現が平易で分かりやすい
ので、見ながらまとめるとほとんど写してしまう(いかん…)。

しかし、今の市民社会の常識は、ヘーゲルによって、哲学が
ここまでつきつめられていたわけからこそあるわけですな。

今ヘーゲルはそのあたりに目を止められずに、絶対真理の
追求とかを批判されてるようだけど、ニーチェとかマルクス・
キルケゴールはそのあたり、ちゃんと見抜いて批判してた、という
ことだろうか。

ちなみにヘーゲルの哲学は、実存論的には少し弱みがあるという。
それがどこかはさっぱりだけど、この後の実存主義者は
そこをついてくのでしょう。

さてヘーゲルの主張のまとめとして、これもはじめての哲学史から
引用します(ほかも引用しまくりだけど)。

──────────────────────────

人間は、まずは自己中心的に存在しているが、関係のなかで自分を
実現するほかないから、一定の条件さえあれば必ず他人や社会と
の「善き関係」を欲求するような原理をもっている。すると、個人
が「善き」存在たろうとして他人や社会と取り結ぶ関係の可能な
全体像をだいたいつぎのように描ける。

純粋な理想に燃える青年期の自己意識

→絶対的なものに憧れる自己滅却

→善きものを彼岸に想定する信仰→善とは世の中の困った
人のためになることをすることだという確信

→革命への情熱

→芸術表現や思想的事業にこそ真の普遍性があると信じる
社会性の意識

→そして、絶対的なものへの希求の本性への深い了解としての
「良心」…

 
この道すじは、人間が自分を「善きもの」へ近づけようと
しながら、徐々に自己中心的な思い込みを脱して関係のなかでの
普遍性を獲得していく、そのプロセスの必然性が見事に描かれて
いる。

────────────ここまで────────────
 
そして、ヘーゲルがここまで見事な洞察ができたのは、
はじめにおいている「原理」…「自己意識の自由」と「絶対本質」
が、非常に優れているからだ、としている。

 
また、このヘーゲルの哲学は、社会批判の思想が、どのように
あるべきか、という点においての非常に根底的な原理論たりえて
いる、という点もかなり重要だとしている。

よく、「仮に人間全員が悪人だとしても成り立つ社会が必要だ」
という話を聞くが、これはヘーゲル哲学からはじまった考え方
なのかもね。

社会関係の基本動因は、自己中心性をもった個体どうしの
ルール関係である
…よくよく聞いてみればその通りだ。

ここでヘーゲルが優れているのは、キリスト教みたいに、
社会のルールをどこか超越的なものにおくのではなくて、
人間の諸関係を考察することによって得られた原理を
つかっている、という点だという。これは、ヘーゲルの
近代哲学の完成者と呼ぶにふさわしい、超一級の功績だった、
のだという。

確かに、これが本当ならば凄いことだ。

 
しかし不思議なのは、なんでヘーゲルはこれをもっと簡単な
言葉でかかんのやろか。(?_?)

 
…さて近代哲学はこれで完成を見た、というが、哲学史は
この後もまだまだ続く。

ジルソンによればきっと、「近世」はここで終わって次からは
「現代」なんだろうなぁ。でも、ここははじめての哲学史の
区分に従います。

次は、ニーチェに凄く影響を与えた哲学者、ショーペンハウアー。
その次はキルケゴール、そしてニーチェ。

前2人はビッグネームのヘーゲルの次じゃかすむけど、
しかしニーチェはこれまた、きっとヘーゲル以上に認知度は
高いですな。
<その2からつづき>

さて、次はちょっと意味が分かるとこにいきましょう。
つってもはじめての哲学史が平易に書いてくれてるおかげ
なんだけど。

ここでは「精神現象学」について扱います。

この書の入門書に書いてあったことには、この本自体が、
ヘーゲルが試行錯誤しながら書いてるのであって、その
時々でほうぼうに論旨がいわば「旅をしてる」のだそうだ。
だから、全体的に秩序だった理解をしようとすると絶対
無理なんであって、ヘーゲルの旅に付き合うつもりで
読むのがいいそうだ。

ウーン、難解なだけに色々な見方があります。入門書の
長谷川宏氏はかなりヘーゲルを専門に扱ってそうなので
割と信頼はできる見解なのでしょうけども。

 
しかし「はじめての哲学史」では、確かに「意識の運動」
とか「弁証法」とかいろんな仕掛けがしてあって、記述は
おそろしく難解だが、その基本構想はいたってシンプルで
あるとしている。

それは、「個人としての人間が他人や社会ととりうる
関係の態度」について、考えられる一切の類型を取り出して
考察してみる、という点にある、という。

おお、分かりやすい!

重要なのは、ちょうど個人の自我が必然的にある段階的
プロセスを経て成長していくのとまったく同じ原理で、
個人と社会との関係の類型も必然的な段階的プロセスを
もつ
、という観点。

全体の枠組みは3つあるらしく、

 
1つは、個人が「意識」→「自己意識」→「理性」という
プロセスを経て、徐々に社会的存在になっていくという流れ。

2つめ、人間の社会的な理性が、実際に具体的な社会制度
という形をとて「現実化」していく、その歴史的な流れ。

具体的には、ギリシャの共同体的人倫、キリスト教的隣人愛、
中世の貴族的忠誠心、近代の市民革命(ヘーゲルはフランスの
市民革命を見て感銘を受けたらしい)→市民社会、という
プロセス。

3つめ、精神が自分の本質を自覚していく歴史としての
宗教史の流れ。これが前の2つと統合されて、「絶対知」に
いたる、らしい。

 
しかしこの進歩史観は微妙な部分もあるらしい。
そのまま受け取れる部分と、そうでない部分があるのだろう。

ただ、ヘーゲルがこれを描く際においている、原理的な
考察が、非常に本質的に優れている、とはじめての哲学史では
言っている。ここが重要である(らしい)。

それは何か?

まず彼は、「世界」とは、単なる自然=環境の世界では
なく、多くの人間の精神のありようが織りなす複雑な“人間関係の
網の目の総体”だ
、と考えた。

だから、世界の全体像を捉えようとするなら、まずこの関係の
網の目を動かす基本動因をしっかり確定し、つぎに
この動因による展開のプロセスとして世界を描くという方法以外
にはなく、したがって、「世界」それ自体の認識の可能性を
問うても無意味なのである
、という。

この基本前提が、抜群に優れている、らしい。

その基本動因を、ヘーゲルは「自己意識の自由」と、「絶対本質」
(絶対実在という訳もあるそうだ)だと考える。

このあたりはフィヒテでも言われていたけど、「自己意識の自由」
は、人間は本質的に自分の欲望に対して「自由であろうとする」
存在であるということ。

事実としてそうでなくても、人間はつねに、自分が世界の主人公で
ありたいと思っている。それをヘーゲルはこんな具合に言う。

人間はみな本来自由な存在だというわけではない。しかしどんな
人間も必ず「自由」であろうとする本性をもっている、と。

建前はともかく、人間はとりあえず絶対的な自己中心性を持ちつつ
他人と関係している。

カントの考えたような道徳的意識を中心とするのは思想としては
弱くて、ヘーゲルはカント哲学を、それではまだ甘い、と批判した
らしい。

これがまず、人間同士の諸関係を編み上げていく上での基本原理
だという。

まぁ、現代人の感覚的にも十分理解できる考え方だ。むしろ
今では、こんなこと当然と思われていることでもある。
(というか、人間は皆自己中なんだ、とかいう極論をよく聞く)

しかしデカルト〜カントまでは少なくとも、人間は素直に
理性による道徳的意識には従うと思っていた。

ここで人間の本来的な自己中心性を逃してしまうと、どうしても
理念先行型の現実味のない思想になってしまうのだそうである。

そのあたりで比べると、ヘーゲルやニーチェの哲学の優位は
揺るがないらしい。

(う〜ん、らしい、が多い)

そしてヘーゲルによれば、そういう自己中心性をもった人間関係
は、はじめは「主と奴隷」の関係からはじまる、という。

というのは、お互いがお互いの自己中心性を通そうとして、
勝ったほうが主人、負けたほうが奴隷になるわけだが、これが
(個人の)歴史的には初期の段階。だんだん、他人との調停を
しつつ、自己実現するすべを身につけていく。

ちなみにこれは社会体制にも言える。

人間社会だけが他人のための強制労働を生み出し、富や権力構造を
つくり、国家体制を作り出す。しかしそれは、「自己意識の自由」、
人間の自己中心性という本性に由来するのだという。

確かにその通りだ、と思う。理念だけで考えると、しかし
こういう観点は逃がしがちである気がするが、ヘーゲルは
前提として当然のようにこれを設置した、というわけだ。

このあたりは、フィヒテの影響もあるんじゃないかなぁ。
わかんないけど。

ともあれ、この考え方だと、原始時代から、国家のはじまり、
そして市民社会の成り立ちがうまく説明できるのである。

最初はお互い、自己中心性ばかり主張していてぶつかり合う。
殺し合いもする。負けた人を奴隷のように扱いもする。

しかし、次第に、お互いの「自己意識の自由」を最大限発現
させるためには、各人が各人の自由を相互に承認しあう
ことが最善であると、やがて気づくのである。

事実、人間個人と同じように、人間の社会もそのような
プロセスを経て発展してきた。そしてヘーゲルによれば、
市民社会の実現こそがその最終段階なのである。

しかしヘーゲルは、市民社会だけでは、酷い競争社会に陥る
(実際、資本主義は競争のせいで酷い矛盾も生み出した)
ので、それを防ぐために立憲君主的国家を、その調停として
つくることを考えたそうだ。

そのあたりはちょっと前時代的だが、時代性の限界のせいもあり、
さきの優れた原理を否定する理由にはならない、とはじめての
哲学史では言っている。これは今の市民社会でも十分通用する
原理的思想だからだ。

 
さて、このへんで「自己意識の自由」の話はおしまい。

次、「絶対本質」の話です。その4へ。
<その1からつづき>

最初に、「絶対精神」の体系について。

著書の中でよく見る用語は絶対精神ではなくて、「分裂」。
キーワードとしては「絶対精神(絶対知)」のほうが重要かも
しれないけど、こっちのほうが確か多い。

またこの「分裂」がよくわからなくて、哲学史の本の簡潔な説明、
入門書の原著を引用しながらの説明でもあんまり分からない。
フィヒテの考え方の応用と考えるといいのだろうか?

 
ヘーゲルの哲学の基本モチーフは分裂の合一、ないしは対立の統一、
らしい。彼はあらゆるところに分裂を見、政治、社会、宗教、
あらゆるところに分裂があるという。

分裂は究極的には主観と客観の分裂に帰着する(?)。

ヘーゲルいわく「分裂が哲学を要求する」のである(??)。

諸説対立ということだろうか、もしくはどれかを「自我」と
設定してそれの「非我」になるんだろうか。どうだろう。
後者っぽい気もするが、なんで全部主観と客観にいきつくのか??
客観というとカントでいうと「もの自体」のことだろうけど…
それは認識不可能と結論が出たはずでは…。いや、分からない。

 
分裂を克服するもの、それが理性である。
そのモデルは「生(生命)」である。

ヘーゲルは分裂を排除するという仕方でそれを克服しようとする
のではない。それでは分裂と合一がふたたび対立することになる
から(合一させようとすれば、それと分裂が対立するということ
か。しかしなんのことかよく分からん)。

ヘーゲルいわく
「永遠に対立を措定(*)しながら事故を形成してゆく生は、
分裂をその必然的な契機としてもつ。生の総体が最もいきいきと
するのは、分裂が最高になった状態から回復するときである」

 
(*そてい。意味は2つあって…

(1)「 S は P である」「 A が存在する」というように、ある命題を
端的に主張する働き。事物の存在を肯定したり、その内容を明瞭に
示すこと。定立。

(2)推論の前提として、とりあえず肯定された、いまだ証明されて
いない命題。定立。

さて、どっちでしょう)

 
生はそれ自身、分裂と合一の合一とでもいうべき運動体である。
理性はこの生の論理である(???)。

意味が分からないので要約不可能です。ほぼ、昭和堂の文章
そのまま。

 
このへんで、カントの言ってた「悟性」が出てくる。これもまた…

理性に対して、悟性は分裂を固定化する、とヘーゲルは考える。

その固定を破壊して流動化させて、分裂においてすでにある
統一をそれとして提示するのが理性。

ヘーゲルいわく
「理性は分裂されたものを結合し、絶対的となった分裂を根源的
同一性によって制約されている総体的な分裂へと引き下げる」

悟性はイギリス経験論を経てカントに流れ込んだもので、
ヘーゲルはこれに理性を対置すると(カントって理性を批判して
限界を定めなかったか…?カントとヘーゲルでいう理性は
意味が違うようだ)。

悟性は矛盾を忌避するが、理性はそうではないらしい。

「矛盾は真なるものの基準であり、無矛盾は偽なるものの基準である」

意味不明だけど、カントが誤謬や仮象に陥るとした理性に、
積極的な意味を与えた、らしい。らしい。らしい…ほんとに
「らしい」としか…

ちなみにこの理性が「絶対精神」「絶対知」であるとか。

 
このあたりまで説明がきたところで、昭和堂では

「しかし、彼の哲学の根本は以上でつきている」と、言う。

 
つきているのはいいのだけど、さっぱり意味が…

 
この後も、精神現象学からつづく彼の哲学の体系の説明が
なされますが、同じような感じで何を言っているのか分かりません。
原著読んだらもっと何言ってるのか不明ですな絶対。

 
でもそれではなんだし、少しは意味がわかる、彼の言った
有名な言葉をあげます。

「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」

これは、彼の哲学史観からもきているようで、理性の現実化の
過程であった哲学史を敷衍しての言葉でしょうか。
え、違うの?(ノДT)

 
まぁ、いいや。そのうちがんばって読む。

これで分かった気になってもまずいとは思うんですが、
最後に「はじめての哲学史」から少し言葉を借りましょう。

「ヘーゲル哲学は大きな体系をなしているが、これがなかなか
難物だが、いちばん根本に「絶対精神」なるものがある。
これが弁証法(ヘーゲルでは、自己否定を乗り越えることで
自己を高めていく運動、みたいな意味?安易にしすぎかも)
的な運動を行って、世界の存在自体をいわば産出する、という
イメージがある。ここから自然哲学、論理学、精神哲学という
大きな3つの枠組みが立てられる。世界の一切を「絶対精神」の
運動として捉え、この3つの側面をそれぞれ体系的に記述した
ものと考えればいい。自然、人間の意識、そして歴史や社会の
ありようを、その必然的運動の全体的統一として捉える、という
発想である」(( )内引用者)

これなら少しは意味が分かる。と同時に、これをヘーゲルみたいに
難しく語られたら意味不明になるのもなんとなく分かる。

まぁ意味不明ということが分かっただけでもいいかも。
「無知の知」ということで…

その3につづく。
さて、次は近代哲学最大のビッグネーム、ヘーゲル(1770〜1831)に
いきます。

フルネームはゲオルグ・ウィルヘルム・フリードリッヒ・ヘーゲル。
フロイトとかキルケゴールもけっこうかっこいい名前だけど、これも
なんかかっこいい名前ですな。

ヘーゲルは、今プラトンとならんで最も批判されている哲学者だと
いう。その理由は、ニーチェも激しく攻撃した「絶対的真理」の
追求の哲学を打ち立てたからだろうか。まだ詳しい理由は俺には
わからない。悪しき進歩史観、とか、立憲君主制を擁護した、
とか、自らの哲学のもとにすべてのものを体系づけようとした
傲慢な哲学者、とか、なんだかいろいろといわれている。

ともあれ、今でなくても、ニーチェもマルクスもキルケゴールも
ヘーゲルを批判している。何かと批判者の多い人。それだけ
影響力も強かったということだろうね。

とりあえず、「はじめての哲学史」と「西洋哲学史(昭和堂)」では
かなり扱いが違う。昭和堂はかなり客観的、冷静にヘーゲルの哲学の
全般を敷衍し、最後に批判と肯定的意見を少し述べているが、
はじめての哲学史では、ヘーゲルの著作「精神現象学」に力点をおいて、
ヘーゲルの最大の功績とされるこの著作を、かなり好意的に扱っている。

好意的に扱っているとはヘンかもしれない。単に捉え方の違いだろう
か。はじめての哲学史から言うと、ヘーゲルの哲学の真骨頂はそこに
こそあり、そしてそれが他の哲学者には見出しえなかった、彼の
構築した卓越した思想なのだという。

彼は哲学をはじめて歴史的に扱った(と同時に、歴史と共に不可逆な
形で進歩していく、理性の発展の歴史とも取った)人ということで
有名だが、他にも、出世作である「精神現象学」、次に「論理学」、
「エンチクロペディー」、「法の哲学」などなど著作をいろいろと
出している。「精神現象学」は、ふつうその後に続く著作の
序論的な位置しかもっていないというふうに取られるらしい。

実際、そういう部分も大きいようだ。ヘーゲルの哲学は「絶対精神」
とか「絶対知」がキーワードとして語られていて、世界をその
絶対精神のもとに秩序付けるような体系が描かれるらしいが、その
体系から見れば、精神現象学はそういう位置づけになる、らしい。

俺個人の感想を言わせてもらうと、この絶対精神という考え方は、
入門書を読んでてもさっぱり理解ができません。哲学における
理性史(?)の進歩史観(ヘーゲルは、これが自分において完成した
と言ったとか?)とか、全てを自分の哲学で説明づけようとしたこと、
あるいはシェリングと同じように、ロマン主義に影響されたちょっと
神秘的な思想が背景にあるために、今の俺にはちっともピンとこない
考え方なのかもしれない(まだ入門書読破してないけど)。

「はじめての哲学史」でも、この「絶対精神」という考え方は、
なんだか汎神論的なあいまいさをぬぐえないし、ここにヘーゲル哲学の
功績はほとんどない、と言っている。
またアリストテレス的体系性(世界のすべてを哲学の体系として
説明しようとする)、スピノザ的一元論(世界の総体を根本的な
1つの原理から説明しようとする)、ドイツ・ロマン派的な自然と
精神一体観、などの、いわば哲学的には遺物となった考え方が軸に
なっているにすぎない、と言っている(けっこうひどいかも…)。

昭和堂はどうかというと、人間の理性を絶対知の高みにまでのぼり
つめさせてしまったのはどうか、とは批判しているが、メルロ=
ポンティの「総合なき弁証法」(←これも浅学者には意味が分かり
ませんが(汗))という言葉を引用して、少々肯定的には捉えている
んだろうか、よくはわからない。

ともあれ、あんまりこの「絶対精神」自体はいただけないようだ。

しかし、ヘーゲルはこの絶対精神の体系に自らの哲学をささげたハズ。
それがダメだということは、なんでフィヒテやシェリングをおしのけて
勝利者、近代哲学の完成者になったのか?

というのはひとつには、ヘーゲルがはじめて哲学を歴史的に扱い、
自分をその完成者であると言ったことと、
すべてを包括するかのような絶対精神(絶対知)にいたる壮大な体系に
よることがある、らしい。

よって、この後の哲学はヘーゲル哲学の解体作業、とも言われるよう
だが…しかし、これを理由に完成者、勝利者と呼ばれるのはちょっとヘン。
それだったら、自称完成者がたくさんいそうだからだ。

絶対精神の思想そのものはたいしたことはないのに、そう呼ばれるのは
なんでか…

ヘーゲルのいた頃はまだ、この哲学の完成、真理の体系は信じられて
いたかも、というのもあるけど、、

哲学の歴史は人間の理性の不可逆的な進歩の歴史である、というのは
実際、マルクスに受け継がれた思想で、これがかの共産主義思想の
源泉になった、、、という話も小耳に挟む。

社会主義国が失敗するまでは、ヘーゲルは絶賛されていたのかも
しれない。近代哲学の完成者というのは、ひょっとしてその頃に
呼ばれていたのかも…(で、マルクスがそれを押し進めたのか?)。

その名残で呼ばれているにすぎない、ということも、ひょっとして
あるんだろうか。このへんはまだ浅学過ぎてよく分からない。

しかし、「はじめての哲学史」では、その点はあんまり問題に
しない。完成者と呼ぶにふさわしい功績があるという。
(ただこの哲学史は傍流なので、完成者と俗に「呼ばれる」の
には、また別の理由があるはず)

ともあれ、この「絶対精神」の体系と、はじめての哲学史で
扱う事項と、このふたつをまとめていきたいと思います。

その2につづく。

きのうの日記

2004年7月31日
バイエル3が割と弾けるので面白くなってきた。
バイエルって4まで?

きのうは大学時代の友達に会って来た。
久しぶりに友との会話をしたという感じだ。

哲学の知識なぞ、日常の友人との会話になんて
まったく役に立ちません。

もう少しで現代哲学に入るわけで。
しかしねむい。寝よう。
フィヒテのうなずける哲学に対して、シェリング(1775〜1854)の
「積極哲学」はちょっと、ほんとにカント読んだ?という哲学のようだ。

このころ、ドイツにはロマン主義(18世紀末〜19世紀にかけて
ヨーロッパに広まった精神的傾向、らしい。近代的個人主義を根底に
おくが、理性とか論理より、自然とか超自然的なものにあこがれる
考え方、という感じかも(詳しくは辞書))が広まっていたらしくて
その影響が強く見られるとか。

同じ時代に生きても、著書を出す順番はあるだろうので…シェリングは
フィヒテの「自我」を拡張させて、独自の哲学を構築した。

自我と非我、主観と客観、精神と自然という対立するものの根底に
完全な「無差別」、絶対的同一性としての絶対者を立てて、
ここから対立が生じると考えたところがフィヒテと違うところ。

ただこれは、ト・ヘンとかスピノザの神とかと、どう違うのか、と
聞かれると困るところ。ともあれ、シェリングは初期から後期に行く
ほど、こういった絶対的な「神」のようなものを想定して、
人間と自然との一体を説くような哲学になってしまったらしい。

人間は論理とか理性的な考えによって、真理に近づけるのではない。
「啓示」とか「神話」を直観することによって、人間は世界の
<ほんとう>にたどりつけると考えるに至ったという。

さすがにこれは…という感じもしないでもないが、カントが
「もの自体」は神にしか認識できない、人間の理性には限界がある、
と言ったところを踏襲しているとも取れる。

ともあれ、自身が「積極哲学」と称し、フィヒテやヘーゲルの哲学を
「消極哲学」と読んで批判したというけども、ちょっと前時代的かつ
積極に過ぎるのではないかと思わないでもない。ロマン主義の影響が
やはり大きいのだろう。

ただ「はじめての哲学史」では、シェリングのこの考え方は、
理性とか論理によって世界のほんとうに近づいていけるという
人間のおごった考え方が今、環境破壊とか社会主義の崩壊、
資本主義の矛盾を露呈させているところを考えると、シェリングの
こうした考え方の<芯>は今一度評価しなおし、受け継がれても
いいのではないか、と言っている。

きょうの日記

2004年7月30日
きょうは、まだ行ってないブックオフとか古本屋に行って、
文庫を見てきた。
100円の本をたんまり買った。

しかし100円の古本にはあんまり、哲学書ってない。
300円とか500円するやつにもないけど。

買ったら売らないし、そもそも買わないんだろうか。
(でもそこそこの大きさの書店にも、哲学書ってあんまり
数置いてないけど…やっぱ廃れてるんだね哲学。図書館でも
倫理とか宗教とかと混ざったカテゴリになってること多いし)

しかし、ケース入りのハードカバーの「日本の名作文学」
みたいな本が100円で売られてた店があったのは驚いた。
たぶんふつーに買うと1000円単位のような本だけど…

 
それにしてもアレですね。本屋って、アレですよ。
アレな本というのがひとつの力場(?)になっていませんか。

Gの次のアルファベット本、もあるんだけど、文庫って
ファンタジーな本もあるじゃないですか。で 哲学本探してる
と、どうしてもその横にそういうのが並んでたりして、
なんか微妙に探しづらくなる。

いや、そういう本嫌いではないです。嫌いではないけど、
「ちっ、違うんだ!誤解だ!」とは思うじゃないですか。。

まったく、私は高尚なる書を探しにきているのにですね…

いや、そんなつもりもないですけど(笑)
無学者が教養のために読もうと思ってるだけで、、
不良のあんちゃんが社会出ようと思って、社会人のための
マナー本読むような感じですな。

まぁ、どうでもよか話ですな。今日はなんか疲れていてねむい。
さて、カント哲学が残した問題には、信念のつくられかた以外
にも、「果たして道徳的理念を認識したからといって、人間は
それにただ従うか?」というものが、実はある。
たぶん他にも細かい課題はあると思うけど、この後のドイツ観念論
で突っつかれるのはそこだという。

 
フィヒテ(1762〜1814)はカントの哲学を踏襲していた。はじめは
自分の哲学とそれはぴったり重なると思っていたが、しだいに
自我の捉え方に不満をおぼえてきて、そこからフィヒテの
独自の哲学の構築がはじまる。キーワードは「自我」であると
いう。

ちなみにフィヒテもこの後のシェリングもヘーゲルと同時期の
人で…シェリングなんかは、一時期ヘーゲルとともに雑誌を
刊行してたりした。

で、お互いの考えがすれ違うにいたってお互いを批判してたり
してたが、結局勝利したのはヘーゲルである。

だもんで、昭和堂でのフィヒテとシェリングの扱いは2人で
1ページと非常に軽い。ただ同じ時代の3人であったので、
お互いに刺激し合い、影響され合っただろうと思うし、
ほかの2人の哲学をも読み込んだであろう。

ではフィヒテの哲学の紹介にいきます。

不満があったとはいえカントの哲学の完成度は凄かったので、
その不満点を解消することをフィヒテは考えただろうと思う。

カントにおいては、「認識する理論的存在」としての人間と、
「欲望をもち行為し実践する存在としての人間」という2つの
本質が、バラバラに捉えられていて統一的でない、とフィヒテは
思った。そこが不満だったのである。この2つはともに人間の
重要な本質だが、これをバラバラに論じるだけではなくて、
その関連性を把握する論理を採らなければならない、と
フィヒテは考えた。

「認識する理論的存在」は、さきにカントで示された、
分析判断と総合判断をする人間の理論的側面のことだと思う。
真、善、美でいうと「真」?

「欲望をもち行為し実践する存在としての人間」は、これは
欲望につき動かされ、これを果たそうとする人間の存在の仕方。
のこりの「善、美」と人間のもつ欲望のことだろうか。

カントではこれが個々に論じられてたにすぎない、らしい。

それで、これをどう関係付けながら論じるのだろう。

 
まずフィヒテがすべての起点としておいたのが「自我」。

そして、この自我を起点に世界を描くと、こうなる。

[第一原則(原理)]
自我は自我に等しい(自我=自我)。

難しく書くと、「自我は根源的に自己自身の存在を定立する」。

[第二原則]
自我に対して絶対的に非我(ひが)が対置される。

難「自我に対して、非我が絶対的に対立させられる」

[第三原則]
自我は自我のうちで分割可能な自我に分割可能な非我を対置する。

難「(絶対的)自我は自己の内部で可分的自我に対して可分的
非我を対立させる」

 
予備知識なしに、これ読んだだけでなんのことか分かる人は、
哲学の素質があると思う。アホの俺を基準にしてはいかんか。

ぱっと見て意味不明なんだけど、なんか意味ありげな文章、
これがある意味哲学の真骨頂である。
第三原則なんて何言ってるのか分からない。

ともあれ、解釈をみてみましょう。
しかし「はじめての哲学史」の解釈がないと、ほとんど意味が
分からないところだ。

第一原則の意味は、人間は「俺は(誰の力も、何の力も頼らず俺だ」
という確信をもって振舞う存在であることを示唆しているという。
確かにその通りだ。しかし、人間はひとりで生きているわけでは
ない。こうした考えは、必ず現実社会で挫折の憂き目に遭う。

つまり、我々のそれぞれが「俺は俺だ」という態度で、自分の欲望を
全部果たそうと思って行動すれば、必ず障害にぶちあたってそれが
できなくなる、ということだ。

これはなんとなく分かる。

第二原則の「非我」は、この社会とか、自分が生きていくにあたって
第一原則を妨害するようなもののことを言うらしい。

非我、自分以外、は確かに、自我にとってそのようなものとして表れる。

ちなみにこの段階では、この非我は邪魔者としか思えておらず、その
原因が探れていない。不満をおぼえるだけになる。

第三原則、この段階では、ようやく、その原因を自我が認識するように
なる。

「自由」というと普通、欲望のままに好き勝手振舞うことだと思い
がちである(これは第一原則の段階のこと)。しかしそんなことは
どだい無理である。では、人間に「自由」はないのか?

いや、フィヒテによれば、これは第三原則(段階)で解決されるのだ。

自我がだんだんと段階を踏みながら非我を克服して、自らを鍛えあげて
いく姿そのものが、真の自由のあり方なのである、とフィヒテは考えた。

これが、自我と非我を、すべてではないが、可能(可分的な)な部分は
調停させるという、現実的な人間のあり方から考えられたものなんだろう。

 
カントでは、道徳的に振舞えることが人間の「自由」なのであるとした。

しかしフィヒテはそのようには考えない。人間の本質は「欲望(自我)」
である。これと現実(非我)との調停(可分的な部分を対置する)にこそ
(おそらく)道徳的振る舞いがある(ありうる)のであり、その段階を
経ていくことこそが「自由」なのである、というわけだ。

これで、カントが別々に扱った人間の2つの本質が、繋がったことに
なる。

うーむ、ヘーゲルはもっと優れた考え方をしてたんだろうか。
これもなかなかいけてる気もする。

ちなみに昭和堂の解釈では、フィヒテは、自我の中に非我をとりこむ
ことによって、「もの自体」をしりぞけたのだ、としている。
フィヒテを読むとそういう書き方もしてあるのだろうか。
しかし上の意味もあるのであれば、これはそう重要な部分でもない
ように思う。

微妙に

2004年7月29日
アトピの記憶とか知識に間違いあるかも(-_-;)
まぁいいか。

ところでカントの二律背反ですけど、確かに言葉尻を
つかまえれば反論は可能なんだが、重要なところは

人間は、もの自体は認識できないから考えられない、
ただ自分の感性の形式を通って得た現象に対して、
分析判断と先天的な総合判断のみが確実な判断として
できるだけ…

そして、「もっともっと先」、「ほんとう」を希求する
人間の本性にしたがって極限を考えることも、その
範疇を出ない。

二律背反はそのたとえなんであって、重要なのはここ。
パルメニデスが一(オン)と言ってたときも、プロティノスが
一者(ト・ヘン)と言ってたときもライプニッツがモナドと
言ってたときも、ただ先天的な総合判断を、あたかも
「もの自体」、客観的実在にも当てはまるかのように錯覚
していただけ…、ということになるのだ。

これは、「概念の実体化の罠」とも言える。

べつにア・プリオリな総合判断に限らないとも思うが、人間は
(人間にとっての)事実を説明づけるために考え出した概念を、
あたかも本当の客観的実在を扱ってるかのように錯覚することが
実に多い。

哲学の世界説明の歴史は、まさにそれの連続であったと言えるし、

「アキレスと亀」をはじめとするゼノンのパラドックスも
そうなのだ。

無限に分割できると(ア・プリオリな総合判断によって)
考えられるから、事実そうであると思い込まされているに過ぎない。

実際は、アキレスは亀を軽々と追い抜く。

何かの原理をもって、世の中の全てを説明しようとする…
整合説でも対応説でも、そのようなことをしようとすれば、
どうしても二律背反に陥るはめになる。

だから、哲学は「そんなことを考える主観はどうなっているのか?」
を問う学へと変化していった。

カント以降の偉大な哲学者に、それ以前の、世界の原理から
客観的実在の変化の説明をするようなものが存在しないのは、
だからなのだと思う。

物理学のように、客観的実在の存在を前提として考えたりしない。
それは哲学的には臆見(ドクサ)であるからだ(とはいえ、
物理学はおそらくは客観的実在、その法則を正確に写し取っている)。

自分の主観を精緻に分析することのみによって、人間に普遍的な
ある原理を探り出す…こうした哲学の本当のはじまりは、やっぱり
カントにあるのだと思う。

はぁ、なんだかまた哲学話になった。それにしてもヘーゲルも
すごいんですよなかなか。

きょうの日記

2004年7月29日
カントの後で俺の俗な日記というのもなんですなぁ。

今日はバイトで肉体労働してきました。

しかしなんですね、俺アトピー持ちなんですけど、
肉体労働すると汗と汚れでアトピーでてきますね。

派遣だから初対面ばっかりの職場、ちっとも落ち着かないし。
精神的にもガテンとは程遠いんでストレスもたまるしそら
アトピーも出るわという感じですかね。まぁ元々もってる
人でないと、同じ状況になっても出ないんですけどね。

まぁそれは慣れでなんとかなると思ってたけど、しかし
アトピは参った。これがどんどん悪化するようだと非常に
困る。アトピって、悪化してから考えればいいってもんでは
ないんですな。悪化したが最後、日常が地獄に変貌します。
去年そうだったので経験アリなんですが…

寝るのが怖いんです。できれば寝たくない。起きたら両手が真っ赤
だから。

ただ寝覚めはいいです。強烈な不快感を伴ってますけど。
まず固まったリンパ液を落としに洗面所へ行き、鏡で自分の
顔を見る。

その時、表情を曇らせようもんならあなた。パリッと固まった
リンパ液が割れて汁が滲み出してきます。

「…」黙って洗う。固まったリンパ液はすぐ溶けて落ちるんです
けど…なんかね、ケガという感じではないんです。洗い落として
キレイにすると分かるんだけど、皮膚の表面に、なんか薄く
ヒビが入ってるような感じ。汁が出てるからもちろん、うるおってる
ヒビですけどね。やわらかいヒビ。

ケガといえばケガなのかもしれないけど(掻いたから出来たヒビ
だし)、デフォルトだとそっから血は出てこなくて、リンパ液が
際限なく滲み出してきて、しばらくすると顔の表面を黄色く
固めるんですな。

洗った直後はしばらくポタポタと黄色い汁が垂れます。

これは顔に限らずで、俺はヒジ・ヒザ裏の間接部分と首・耳で
済んでたけど、ヘタすると全身に広がる。

酷い人は、全身リンパ液まみれで、まともに生活できなくなる
そうだ。俺もヘタすると、そうなっていた。

おいおい、医者は?という感じでしょう、これが、知ってる人は
知ってるのだろうけど、アトピって特効薬がないんですね。
一番近いのは副腎皮質ホルモン、ステロイドなんだろうけど、
これって一時的に治るだけで、すぐ猛烈に痒くなって元の木阿弥。

ただ、酷い時期に、一時的に抑えるのには非常に有効。
汁だくだった頃に一度使ってヒビを治し(これが、ヒビがふさがる
んだ、不思議なんだけど)、汁が垂れないようにして、漢方と
漢方ミックスのお薬(油っていうかワックスみたいなやつだけど)
を塗って日常を耐え忍んでいた。

ちなみにステロイド、すぐ治るならずっと塗ってればどうなん、
ってとこだけど、だんだん効かなくなってくる上に皮膚の抵抗力は
落ちるし、副腎皮質ホルモンて本来人間の体が作るもんだけど、
これが外から入ってくるってんで体が作らなくなってしまって、
ステロイド塗るのやめた途端に体が作らないうえに塗らないから、
リバウンドで急激に悪化する。

それこそ、冗談抜きで日常が地獄に変化するのでおすすめできない
…ということだった。

温泉とか何とか、色々民間療法はあるんです。あるんだけど
どれも効く効かないに個人差があって微妙な上に、保険が効かない
から高すぎる。俺はそれでも漢方飲んでました(めちゃ高かった)。
結局冬になったら治ったんだけど、それは冬になったら治ったと
いうだけなのか漢方で体質改善したのかは不明だった。

が、今回の件で、やっぱ冬だからってのがハッキリしたように
思う…

実は冬は乾燥する時期なので、冬にアトピが悪化する人もいる。

毎年夏→冬→夏→冬と悪化して春と秋に治るって人もいるらしい
が、そのうち一年通して出てくるようになってくるらしい。

恐ろしい。原因は人間の免疫作用の暴走といわれてるが、
ハッキリとは分からないらしい。

しかしこれじゃ、肉体労働続けるのは無理だわ〜…悪化してからじゃあ
遅い。

母親は「汗疹(あせも)じゃないの」とか言ってたけど、
悪化してから「やっぱアトピだったねアハハ」じゃ済まんだろう…。
実際、少し掻いたらさっそく汁出てきてたし(少しだが)。

汗疹も汁出るのかね。ただ去年も汗疹じゃないの、って言ってて
悪化して地獄を見たんだけど…

普段の肌は、ぜんぜんニキビ跡とかはないんですけどね、
特別キレイでもないけど、しみとかそういうのもない普通の肌。
ちょっと酷い敏感肌のようです。

しかしアトピで苦しんで夏休み終わりたくない。
バイトのためにそこまですることはない。仕方ない、別に
嫌な職場ではなかったが、やめよう。

はぁ〜。なんや、インドアで働く宿命を負ってるのだろうか。

まぁ、ともあれ、3日連続肉体労働のバイトはつかれた。
次はインドアのバイトを探そう。

<今日読んだ哲学本>
今日はニーチェをまとめるぞー
<その4からつづき>

その5、って今までで一番長いんじゃ…

2.道徳哲学の創始

これは、昭和堂のほうでは特に扱っていないところ。
たしか「定言命法」とかいう言葉は道徳的行為を
なんちゃらするって意味だったと思うし、「純粋理性批判」
と共に三大著作とされてる「実践理性批判」「判断力批判」
は、「純粋〜」が真とするなら、それぞれ善、美の話
だったと思うので、それなりに大きな業績だったとも
思うのだけど…いや、まだ分かりませんな。

ここでは道徳を扱うので、「実践理性批判」を主に扱う
ことになりますね。といっても入門書も純粋理性批判の
ところしかほとんど覚えてないので、詳しくは扱えないです
が。

 
まずカントは、「何が善であるか」は、とことん考えれば
必ず理性によって分かる、ということを「証明」する。

つぎに、人間はこうして獲得された「善き行為」を意志
すべきである、と主張するのだ。有名な命題、「実践理性の
根本法則」というのが、それを象徴的に示しているらしい。

「君の意志の格律(マキシム。証明の必要がない、明証的な
命題)が、つねに同時に普遍的立法の原理として妥当しうる
ように行為せよ」

「普遍的立法」って何じゃ?という感じだけど、これは、
「世の中全体の平和と調和を押し進めることになるような
行為の基準」、くらいに理解するといいようだ。

道に迷っている人がいたら、教えてあげるのが正解。
重い荷物を持って大変そうなおばあさんがいたら、
助けてあげるのが正解。
溺れている人がいたら、助けてあげるのが正解。

基準があやふやだが、考えれば確かに誰にでも分かる
とも思う。

「はじめての哲学史」では、これには時代背景があると
している。

17世紀当時、やはり宗教戦争の真っ只中。どちらもが
己の真理を主張しあって殺し合う(正確には、傭兵とか
徴兵した民に殺し合いさせてるのだろうけど)という
愚かなことをしてた。

こんな場合、世の中全体を考えれば、戦争をやめて
お互いを認め合うことが「普遍的立法」にかなって
正しい。カントは善はそうあるべきと思っていたわけだ。

確かカントは「永久平和のために」とかいう著書も
出しているし、平和主義だったっぽい。

そして、人間個人における善も、この普遍的立法に
あわせるべきだと考えたわけだ。確かにそうなれば
理想的ではある。

何が善かは、しっかり考えれば必ずわかる(普遍的立法に
合っているかどうか考えたらよい)。つぎは、この格律に
のっとる形で自分の行為を律すればよい。

これが道徳的行為の本質である、とカントは考えた。

また、道徳的行為を意志し行為することができる点が、
人間が、ほかの動物と違って「自由」な存在であることの
根拠なのだ、というのである。

人間の本質は「自由」であることだ─そしてこのことは、
人間が道徳的行為をなしうることによって「証明」される。
これがカントの哲学が出した、最終結論である、という。

 
これは、その時代の善の根拠であったキリスト教から
切り離された、まったく新しい「善の根拠」であった。

「何が善か」、とかいう問題はソクラテス、プラトンが
追い求めたことではあるけど、長い間哲学から忘れられて
いた。カントがもう一度復興したとも取れるだろうか。

その意味で、カントの成したもう業績としては、これも
非常に大きなものであったということができると思う。

 
─ただし、この善の考え方も、さきの超越論的認識論も、
以後の哲学者にとってさらに磨き上げられ、昇華していく
余地はあった。

ともあれ、カントがここで成したこの2つの業績は、
まさに「コペルニクス的転回」と自らが称したものに
ふさわしいものだったということができよう。

しかしこれも、今までの哲学史の蓄積があってこその
ものだということも忘れてはならないと思う。

さらに大事なこととして、今現代の我々がもっている
常識の一部は、じつは、こうして昔の哲学者が
知恵を振り絞って考えに考えて、ダイヤの原石を削り出した、
その宝石を身にまとっているようなものだと思う。
この輝きが生まれたときからあったように思っているが、
じつは、そんなことは人類の誰も考えていなかった
時代が、あったわけだ。

哲学史を追うというのは、そういう時代的な意味を
同時に知るということでもあると思う。

 
さて滅茶苦茶長くなりましたが、次はフィヒテ・シェリング
を介して、近代哲学の完成者、ヘーゲルにいきます。
<その3からつづき>

さて、さきの「純粋理性の二律背反」、微妙に反論も考えられ
そうだが、たぶん純粋理性批判ではもっと厳密な証明がなされて
いる。原著読んでないので分からないけど…

ただこの辺、入門書とかによっても解釈が色々あったりして、
たとえば自由は近代社会の個人における意味(?)を指し、
二律背反は矛盾せずともに成立する、という解釈も見たことが
ある。
 
─っていうかこれは実は哲学史には載ってない証明なので、
以前カントの入門書で見た内容を思い出しつつ即興で考え
ました。違ってるかもしれない…不安。

1と4にも似たような証明があります。いずれにせよ、
これは人間が考えても答えが出ないことが証明された、
ということです。

実はこれって画期的なことで、昔からずーーっと哲学者が
考えてきた、世界の始まりとか、この世の果てとか、
世界は無機質で決定的なのかとか、物質の根源は何なのか
とか、それらの問いを、

「答えが出ない、なぜなら正しいとも間違ってるとも
証明できるからだ」(また同時に、それはカテゴリーの
中であれこれ論理をいじってるにすぎない、という
意味でも、答えが出ないと言える)

とバッサリ切り捨ててしまったからなんですね。

なので、カント以後、このようなことは哲学的問題として
問われなくなりました(と思います)。
既に客観的実在から、主観のありかたに視点変更が
成されているにもかかわらずこのダメ押しなので、
多分考えられてはいないと思います…。いや、わからない
ですが。

こういった理性の限界を示すとともに、人間になぜ普遍的な
理解が可能なのか、主客一致は可能か、について明確な答えを
出した功績は非常に大きいでしょう(もちろん、これで
完成したわけではないです。カントも偉大な哲学者ですけど、
それだけに批判者がこの後続々登場します。ただし、彼が
示した、理性の陥る二律背反は、たぶん破られていないです)。

ちなみに、「人間が信念をかたちづくる仕組みはどうなっている
のか?」という問いがまだ解決していませんね。

実はこれは、この後に登場することになる「現象学」という
哲学の大きな分野に譲られることになります。

さて、カントのひとつの大きな業績を見たところで、
次の2.道徳哲学の創始にいきましょう。

しかしめちゃくちゃ長くなりますね。細かく扱ってる
ということもあるけど、やはりカントの業績はすごい。

さて少し余談でした。つぎ、その5にいきます。
<その2からつづき>

つぎ、形而上学批判にいきます。

 
カントは、主著「純粋理性批判」の(第一版の)序文でこう言う。

「人間の理性は、或る種の認識について特殊の運命を担っている、
即ち理性が斥けることもできず、さりとてまた答えることもできない
ような問題に悩まされるという運命である…」

この「問題」が何かというと、1の解説開始の冒頭で挙げた
ような形而上学的な問題だ。

「世界の果てはどうなっているか?」とかいう問題は、確かに
どの人間にとっても気になる問いだ。子供の頃なら、誰しもが
考えることだろう。

カントによれば、「もの自体」など人間には認識不可能なので
あるし、先天的総合判断の範疇におさまらないような問いは、
これは後天的総合判断なのであって不確実な答えしか得られない、
しかし、先天的総合判断において、人間は確実な共通理解を得ることが
できる。では、この先天的総合判断に照らして、世界の果てなどを
考えたらどうなるのか…?

カントにおいては「認識」は感性と悟性によっておこなわれる
働きだが、認識の次に行われる「分析判断」と「総合判断」のうち、
「総合判断」においては「理性」をはたらかせて、現象的世界を
超えて認識を拡張しようとするのである。

さきの量、質、関係、様相の4つのカテゴリーにおいて、人間は
これに無制限的なものに適用し、「もっともっと先へ」を推理に
よって考えようとする。このはたらきをカントでは理性という。
(理性をこういう意味で使うのは少し意味が狭められている
らしく、だから「純粋理性」なのだろう)

これは先天的総合判断であるから、誰にでも共通である。
だから、無制限な極限を考えようとも、確かな論理的帰結が
得られるはずである…この無制約、無制限なものをカテゴリーに
沿って理性が考え、得るもの、これを「理念」とカントはいう。
カントによれば、「理念」には、「魂」「世界」「神」がある。

 
だがここで注意してほしい。ここで人間が考えていることは、
おのれが先天的にもっている「カテゴリー」に沿って、
その極限状態を考えているにすぎない。決して「もの自体」に
ついて考えているわけでは、ない
のだ。

さらにカントによれば、こんなことを考えてしまうとき、
理性は二律背反(アンチノミー)に陥ってしまう。

二律背反とは何か?これは、相反し、矛盾する結論が、
両方とも正しいと証明されてしまうような命題のことである。

どういうことだろうか?具体的に見てみると、これは
はっきりする。

もっとも有名な「世界」について挙げよう(ってゆーか
神と魂は哲学史にないので知らない。純粋理性批判直接
読みたい…)

1.定立。世界は時間上始めをもち、空間的にも限界をもつ。
 反定立。世界は始めをもたず、空間的にも限界をもたない。

2.定立。世界におけるすべての複合された実体は
    単純な部分からなる。
 反定立。世界の内のいかなる複合的なものも単純な
    部分からなるのではない。一般に単純なものはない。

3.定立。世界の現象を律するのは自然法則的な因果性ではない。
    自由の因果性もある。
 反定立。自由は存在しない。世界における一切は自然法則に
    よって生起する。

4.定立。世界にはその部分としてまたは原因として絶対に
    必然的なものが存在する。
 反定立。世界の中にも外にも、絶対に必然的なものが世界の
    原因として存在しない。

 
ちなみにカントは、1と2についてはともに成り立たないと
しているが、3、4は片方を肯定しているらしい。
なんでも、3については、現象界には反定立が理論的関心の
もとで成り立ち、4については、定立が実践的関心のもとで
成り立つとしたとか。なんとなく分からないでもないけど、
ちょっとよく意味はわからない。

しかし、こんなもの本当に二律背反になるの?という疑問は
湧くので、2と3について、本当にそうなるのか証明して
おきます。ちなみに1も分かるけど、4はちょっとよく
わからない(というか覚えてない…)。

まず、こんな命題は実際に確かめようなどないので、
背理法(帰謬法(きびゅうほう)とも言う。ある命題が仮に
偽であると仮定すると矛盾が生じることで、その命題が真である
とする証明法)を使うしかない。

2の定立から。
「定立。世界におけるすべての複合された実体は
単純な部分からなる。」

単純な物体から成らない、としてみる。

ということは、この世のものは、単純な物体ではない、
何かいろいろの大きさをもった物体が寄り集まって
構成されていることになる。しかし、ものは大きさを
もつ限り、その半分の大きさが必ず考えられるので
あって、その何か大きさをもった物体もその半分に
分割できなければおかしい(無限の硬さをもった物体など
考えられない)。

だから、何か大きさをもった、単純ではない物体から
出来ているとは考えられない。

だから、物体は単純な物体から成っているのである。

よって、この定立は真であると証明できる。

次、2の反定立。
「反定立。世界の内のいかなる複合的なものも単純な
部分からなるのではない。一般に単純なものはない。」

単純な物体から成る、としてみる。

ということは、ものを分割していけば、そのうち
これにたどりつくことになる。
しかし見たように、ものに大きさがある限り必ず
二分割ができるはずなのであって、それこそ
ものを無限に分割しなければこれにたどり着けない。
すると無限小の物体がこの世を構成していることに
なるが、無限小がいくら集まっても大きさをもてない。

だから、単純な物体から成らない。

よって、この反定立も真であると証明できる。

 
今物理学では「プランク定数」っていう最小単位が
考えられてるようですけど、どうなんでしょうね。
理論的には、こうなるようです。

 
次、3の定立。
「定立。世界の現象を律するのは自然法則的な因果性ではない。
自由の因果性もある」

ちなみに自由とは、それ以前に何も、それ自身を規定する
原因が存在しないもののことをいう。

 
自由の因果性がない、としてみる。

この世界で起きることのすべては、必ずそれ以前の原因が
なければならない。しかし、その前の原因にも必ず
それ以前の原因が存在するのであって、以下無限に遡及できる
ことになる。そうすると、第一の原因があって何かが起こる
という、あるべき因果性の仕組みが完成しないことになる。

だから、自由の因果性がはじめに存在すると考えなければ
ならない。

よって、この定立は真であると証明できる。

次、3の反定立。
「反定立。自由は存在しない。世界における一切は自然法則に
よって生起する」

自由の因果性がある、としてみる。

仮に、自由の因果性によってこの世に何かが起きるとき、
それには何もそれ以前の原因がないものがあるということになる。

しかしこの世界の内にある限り、「何かが起こる」には必ず
それ以前の原因がなければ考えられないのであって、
そのような自由の因果性があるはずがない。

だから、自由の因果性は存在しない。

よって、この反定立も真であることが証明できる。

う、この辺が限界。その4へ。
<その1からつづき>
 
もうひとつ、認識能力についてカントが言っていることには、
主観は、取り外し不可能なメガネをかけているような
ものだ、という考えだ。

これはもうイギリス経験論で一部なされていたことではあるが
カントもまた、対象と認識の順序を一転させた。

対象がそうあるから、こう見えているのではなくて、
主観の側に、対象がそう見えるような仕組みが存在するのである、
と。

これを、カント自ら「コペルニクス的転回」と呼んでいる。

実はこれの基本アイデアはデカルトの時点で出ていることだが、
デカルトが「神」によって明証確実であるとした判断能力を
理性の分析のみで行ったところにカントの特長がある。

一体どういうことか?

カントによれば認識は、受動的な能力である「感性」によって
与えられる対象の直観を、能動的な能力である「悟性(感性で
得られた直観を把握する能力とか、判断する能力とかいう
意味)」が思惟することによって成り立つ。

対象に直接関係するのは直観のみで、その対象が「現象」と
言われる。

直観において、対象に「触発」されて対象の表象を受け取る
のが感性であるから、感性がなければ認識はありえない。
しかしこの感性の中に、ただ「知覚の束」を受け取るだけでは
なくて、ある先天的なものがなくてはならないとカントは
考える。

つまりは、目の前にある現象の「形式」は、「感性の形式」に
拠っている、ということだ。この「形式」は、「空間」と
「時間」である。

客観的で自明のものと思っていた、空間と時間が、実は
主観がかけている、取り外し不可能なメガネのようなもの
なのである…!この視点変更は確かに、今までなかったものだ。

(ただ相対性理論とか考え出すと、時間は客観的実在
なのでは…?と問いたくもなってこないではないが、
哲学的にはこういうことにはなると思う)

しかし確かに、空間や時間の把握は、何か経験によって
得られたものではない。言ってみれば、生まれつき主観が
もっていたものだ。
その意味で、感性の形式であるというのは適切な表現だ。

 
またここで、カントは「もの自体」という概念を持ち込む。

この「もの自体」は、感性が感じる表象の向こうにあって、
認識する主観とは独立に存在する「事物そのもの」のような
もの。

(現代人の感覚に即して考えれば、反射して目にあたっている
光子とか耳に届く空気の波、または手で触ったときに生じる
神経パルスが脳で処理された情報ではなくて、素粒子で構成
された「ものそれ自体」のことだ)

人間はこの「もの自体」を認識することはできない、とカントは
いう。なぜなら、人間は生まれつき持っている「感性の形式」を
通してしか、ものを見ることができないからだ。

カントは認識能力について階層的な考えをもっており、
「もの自体」を認識できるのは神だけであるという。
次に人間、次に動物、虫、細菌…と、それぞれに
主観にかかっているメガネがあるとするのである。

たしかに、色を認識しない虫だっているし、アメーバなどに
いたっては、何を認識とするのかさえわからない。

(しかし認識できないものを想定してしまうというのは、
これはロックと同じような誤りという気もする。それに
神とかいう想定は、ただの思い込みにすぎないとは言える)

また、先天的総合判断にも同じようなものが考えられると
し、12の判断表、カテゴリーをカントは想定している。

それは量、質、関係、様相、について3つずつの判断表、
カテゴリーがあって…それについては詳しくは触れません。
(というか、細かいことはよくわからない)

このカテゴリーに属する限り、それは先天的なものなので、
人間に普遍的な理解は可能ということなんでしょうか。

 
以上が、主客問題、普遍論争についてのカントの理解と
考えると理解しやすいと思います。

主客一致は不可能で、普遍性については、先天的なものなら
誰にでも共通だし、それは総合判断においても一部可能で、
それが万人に理解可能、というくらいの結論でしょうか。
(まぁ主客問題については、「もの自体」を想定したことで
ヒュームより後退した感も否めないですが)

その3へ。
イマヌエル・カント(1724〜1804)、ドイツのケーニヒスベルクに
生まれた。近代哲学はデカルトに始まりヘーゲルで完成を見たと
言われているけど、このカントはちょうどその真ん中に位置して、
この2人とともに3つの大きな峰を成しているという。

これまでの哲学は大陸合理論・イギリス経験論の2つに分かれて
いたけど、カントで統合されて、呼び名がかわります。
この後につづく哲学者、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルどれもが
ドイツ出身だからなのか、彼らの哲学は「ドイツ観念論」と分類される。

ニーチェ、フッサール、ハイデガー、ショーペンハウアー、ハンナ・
アレントとかもドイツ出身。著名な哲学者を多く輩出している国ですね。

時間に超几帳面で、毎日決まった時間に近所を散歩して思案していたが、
あまりにその時間が正確なので、近所の人はカントが道を通るのを見て
時計を合わせたという逸話は有名なエピソード。ただルソーの「エミール」
を読んだ時だけは、それが狂ったとか。

あと、カントは80まで生きたが、終生ケーニヒスベルクから出たことが
無かったという、これもほんとかウソか分からない話もある。

では、カントの具体的な思想にはいりましょう。

ちなみにカントは最初大陸合理論の考えを正しいと思っていたが、
ヒュームの哲学を知って衝撃を受けたのだという。そこから、
このふたつの統合が始まったのだろう。

カントは自分の哲学を「コペルニクス的転回」と呼んでいたという。
それまでの哲学を覆すような仕事をしたと自分で言っているわけだから
すごい自信だけど、内容は実にその言葉にあたうものだとは思える。

「はじめての哲学史」によれば、カントが行った仕事は次の2つ。

1.理性批判(=哲学批判)
2.道徳哲学の創始

カントは「もの自体」っていうアイデアが一番有名かもしれない。
この「もの自体」は、1に使われているアイデア。
ただ昭和堂のほうでは、このアイデアは、カントの哲学を覆しかねない
ものだとしている。

確かに、ロックと同じように不徹底な気もしないでもないアイデアでは
ある。

 
1.理性批判

これはカントの頃まで連綿と続いていた、哲学のテーマへの批判。

ひとつには、人間は客観を認識できるのか、という主客問題。
また、人間に普遍的な理解が可能なのはなぜか、という普遍論争。
それともうひとつは、形而上学の問題。

形而上学的というのは…なんか色々意味があって分かりづらい
のだけど、メタ(超えて)フィジックス(自然科学、物理学)と
言われるだけあって、自然科学では扱えないほど範囲の広い
概念について扱う学、らしいです。浅学者にはこの辺が限界説明。

たとえば、スコラ学の「神は存在するか?」という問いとか、
ギリシャ哲学の昔から想定してきた「物質の最小単位」の問い、
または「世界の始まりはどうなっていたのか?」「世界の果ては
どうなっているのか?」等々…

これらを、概念で考えるだけで規定してしまったスピノザ・
ライプニッツやそれ以前の先人たちの考えも、形而上学的なんで
しょうか。物質の根源を構想したわけだから。

 
主にこの3つの問題を、人間の認識能力と「もの自体」の考え方で解決
したのがカントである。特に、人間の認識能力に関する批判は
カントでひとまず完成したといっていいと思う…と思う。
(だんだん難しくなってきてもうずっと自信ナシ)

 
とりあえずは、ヒュームで残った問題、人間は先験的な認識能力を
持っているのか?について。同時に普遍論争も片付けましょう。

知覚の束であるのはいいのだが、ただ知覚するだけでは、
それが認識になることはないのではないか…これに対して、
カントは、人間は先天的な認識能力以前の、超越論的な(先験的
な。認識それそのものが、なぜ可能になっているか、どのような
仕組みなのかを問うときに使う語。認識についてのメタ認識)
ものがあるとして論をすすめていく。

超越論的哲学として、カントは「分析判断」と「総合判断」を
挙げる(ライプニッツのところで挙げた「分析的命題」と
「総合的命題」から取ってるアイデアですな)。前者は、
述語が主語の内にすでに含まれている判断のことで、
総合判断は、主語に含まれていない述語をつけ加えることに
よってつくられる判断である。

なんのことやら?という感じなので、調べてみた。

例えば、この「この玉は、丸い」という場合、玉は丸いに決まって
いるので、玉という語を分析すれば「丸い」は出てくる。

これはなんら知識の拡張をもたらすものではないが、しかし
確実な判断である。これが、分析的判断であり、また、分析的判断
は、「先天的(ア・プリオリ)」である。ア・プリオリというのは
「経験に先立って」という意味。生まれ持った判断能力のみで
判断可能な命題ということだろうか。

つぎ、「この玉は、重い」という場合。この場合、「玉」という
語をいくら分析しても「重い」は取り出せない。しかし目の前に
ある玉は重いとすれば、これは重いとは判断できる。

しかしながら、これは玉を持ってみないと(経験を得ないと)
わからないし、いつでも誰にでも重いかどうかは分からない。
このような判断を、総合判断という。
総合判断は基本的に「後天的(ア・ポステリオリ)」である。
これは、経験の蓄積による判断ということができる。

ちなみに総合判断は経験による判断なのであるから、これは
不確実で普遍性を持てない(後天的だから不確実)。
対して分析判断は、確実だがただの同語反復になっていると
する(先天的だから誰にでも同じ)。

だがカントによれば、先天的な(ア・プリオリな)総合判断、
というものが可能であるという。これはどういうものかという
と、数学や幾何学と、それを用いた自然科学の判断である。
これは主語をいくら分析しても述語が出てこないのに正しい
判断のことで、先天的な総合判断とされる。これが、実は
人間に普遍的な理解が可能な理由である。

例えば「2+3=5」。これは、2にも3にも+にも5は
含まれていないのに、それらの概念をあわせて思惟することで
「5」という間違いない判断が下される。

総合判断なのに、先天的な判断であるから、誰にでも共通なのだ。

とりあえずこうして、知覚の束がどう処理されるかのガイドラインが
できたと思う。

分析判断は、確かなもので全員に共通。
しかし総合判断は、経験によるもので、これが習慣とか蓋然性で
各人バラバラ。ただ共同体によって共通なものとかがあったりする。

もうひとつ、全員に共通な総合判断というのがあって、これが
ア・プリオリな総合判断である。

分析判断とこれについては、普遍的理解が可能、ということ
だと思う。

その2につづく。

やたー

2004年7月27日
ブックオフいったら100円でツァラトゥストラ売ってた
ヤター。でも岩波書店…。

ツァラトゥストラって「ツァラトゥストラ」って書いてある
場合もあるけど、「ツァラトゥストラはかく語りき」とか
「ツァラトゥストラはこう言った」とか色々バリエーションが
ある。

個人的には「ツァラトゥストラ」がバシッと一単語で良い。
次点が「ツァラトゥストラはかく語りき」、大時代的というか
言い方がかっこ良い。

最後のは微妙だ。直訳って感じだ。ダメだ。

で、岩波のがどれなのかというと…orz

あとプラトンの本もいくつか100円やった。

しかしどこの出版社か忘れたけど、プラトンがプラトーンに
なっとるのよね。

ソクラテスはソークラテースになってます…

いや、発音はそうだったのかもしれんけど…語呂悪い…。

「共産党宣言」とかも100円やってん、参考に買おうかと
思ったけどやめた。なんか中身見たら、猛烈に傍線が引いて
あったし、、鉛筆で。

なんで線引く??わけわからん。理解しやすいからか?
まぁ古本ならまだ許せなくもないけど、図書館の本とかに
線引いて勝手に言葉足したりしてるやつがいてほんと迷惑。
何考えてるのかの、、

 
いよいよ買う段になってレジにもっていくと、おじさんが
本の束ごとパッと裏返しにしてささっと手元に値が見えるよう
広げ、値段だけ打ち込んで、また表紙とかが見えないように
束を元に戻してから袋に入れてくれた。

うん、まぁ手早くていいんだけど…なんでそう、表紙とかを
極力見ないようにしますか…?

いや確かに、小説の棚は、哲学の本とかと、アレな本とかの
境目が微妙ですけど…特に安売り本は適当にまとめてあって…

いえ、一番上は確かに、俺みたいなアホ面が読むわけないような
本ですけど。ジッドの小説。

なんや、嫌やなぁ。表紙みろや、表紙!下の本もツァラトゥストラ
やぞこのおやじが!見て驚け!このインテリ本づくしを!

まったく、こんなことなら本当にいやいや

 
世界の名作もいくらか買いました。だって安いから…いいね
ブックオフ。
ルソー(1712〜1778)は社会契約説そのまんま、「社会契約論」と
いう本を書いてます。ホッブズとかロックについては微妙でも、
ルソーは世界史で習ったので、しっかり名前(だけ)は覚えてますね。

ルソーの生きた18世紀のヨーロッパは戦乱の時代でもあったけど、また
すっごい権力が腐敗してた時代でもあった。全人口の2パーセントに
すぎない聖職者とか貴族が、国中の富をほしいままにしてたと。

戦乱の時代だったから戦費もかさんだし、宮廷は無駄に浪費してたから
しわ寄せが農民、市民にいくわけで、貧困にあえいでいたとか。

その悲惨を見かねて、またルソーも社会契約説をとなえる。

とはいえこういう状態って昔からあったんだろうけど、やっぱり
キリスト教の権威の崩壊っていう原因も大きいのでしょうな。

ルソーいわく
「人間は自由なものとして生まれた。しかもいたるところで鎖に
つながれている。自分が他人の主人であると思っているようなもの
も、じつはその人々以上に奴隷なのだ」

さてルソーも、ほかの2人と同じく「自然状態」を想定する。
しかしその状態はロックよりも楽観的で、自然状態において人は
「平和にもっとも適し、人類にもっともふさわしい」のである。

原初の人間は、「自己保存」の感情と「憐れみ」の情のままに
生きている。

ちょっと楽観的すぎる気もするが、つづけてみていこう。

しかし人間が「社会状態」に入るとき、彼らは自尊心や虚栄心が
芽生え、利己心がめざめて所有権のために残忍な闘争が引き起こされる、
と。そして自然状態が維持できないほどにこの障害が大きくなった
とき、「人類は生存の仕方を変えなければ」ならない。
それは自由と権利に基づく社会である。

またロックと違うのは、その権利が神から授かったものではない、
としたこと。あくまで「それは約束にもとづくものだ」とした。

 
しかし道徳の授業みたいで眠いですな…大事な話なんだろうけど

 
ルソーにとって解決すべき根本問題は、人類皆の生命と財産を
共同の力で守ることのできるような人間の結合形式を見つけ出す
ことである。

「それによって各人が、すべての人々と結びつきながら、しかも
自分自身にしか服従せず、以前と同じように自由であること」

これを解決するプランこそが、社会契約説なのだ。

 
社会契約では、各人はすべての権利を共同体に対して全面的に
譲渡する。譲渡は全ての人にとって等しい条件で行われるので
特定の人に何らかの権利は残らないし、共通の上位者も存在
しない。

すべての人々が「主催者」となる。つまり、完全な平等が実現される。

こうして、各人が取り決めたルールによる社会が出来上がるが、
この社会は各人にとっての利益を追求するだけのものではなくて、
社会全体の利益を追求するものだとルソーは考えた。

この社会全体の利益を考える意志が「一般意志」と呼ばれるものだ。
ルソーによれば、「一般意志は、つねに正しく、つねに公の
利益をめざす」という。この一般意志というのは、ルソーの
社会契約論の中心概念であり、また、近代市民社会の根幹をなす
概念でもあるという。これは大事そうだ。

内容は複雑のようだが、「はじめての哲学史」では次の4つに
要点をまとめてくれている。

1.一般意志とは人々の契約によってつくられた<政治体>の
意志である。
2.一般意志だけが国家のもろもろの力を指導できる。そもそも
国家は公共の幸福を実現するためにつくられたものだから、
「公の利益をめざす」共同体の意志つまり一般意志だけが国家を
リードできるのである。
3.一般意志は個々人の利害のなかにある共通なものを保護する。
「社会はもっぱらこの共通の利害に基づいて、治められなければ
ならないのである」
4.一般意志の表明は、法律となる。ここでの一般意志は、
法律の法律(法の根拠)である。

ルソーは、法が提案されるとき
「人民に問われていることは、それが人民の意志、すなわち、
一般意志に一致しているかいなか、ということである」
と述べている。

 
各人が自分の利益を先にするという本性を持っているにしても、
それを社会で一番効率よく発揮するには、一般意志をもって
これを調停するのが一番であるとルソーは考えた。
これは今もって有効な考え方であるといえると思う。

あらゆる社会制度に対するさまざまな批判は、これを根拠に
なされなければならない。

フー疲れた。次はカントにいきます。

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