うーん

2004年7月18日
しかし、アリストテレスって論理学もやってて、ウーシアとか
かなり複雑な論証もありそう。それに、「はじめての哲学史」
では、ウーシアってアリストテレスの説明では、ころころ意味が
かわってよく分からない、としている。

まぁ浅学ってのは分かっててまとめてるし、大筋ではあれでいい
かもしれない、けど、何か間違いはいっぱいありそうだ…でも膨大な
文献らしいし、原著読む気にはなれんなぁ。

そうそう、もう深夜だけど、今日の日記。美容室いってきました。
美容室ってあれだね、話しかけてくるよね、美容師さんが。
なんか俺、キャラが気に入られたらしくて色々話しかけられて
話題もわりと弾む。周りの人はほとんど何もしゃべらずに
切られてることが多いのに。

帰り車を運転しながら、他人と会話がはずむってのはいいことだなぁ
なんて思った。なんか、こう、心に残るものがあるわけです。
いい気分になれる。
人間って、人の間と書いて人間だけど、ほんと、他人との関係性に
身を置くってことが、人としての本来のあり方なんだなぁと
なんとなく実感した。

美容室ひとつで大げさか(苦笑)

<今日読んだ哲学本>
哲学史のほかに、ポール・ストラザーンの「90分でわかるデリダ」
読みました。
このシリーズ、生涯を描いてくれるので、どういう人となり
だったのか分かりやすい。なんか、哲学者ってホモセクシャルの
人がけっこう多かったんですかね。フーコーなんかバリバリ
そうだったようで。
<その1からつづき>

それにしても、哲学者って英語は当然ながら、著名な哲学者を
多く出しているドイツの言語であるドイツ語、またラテン語とか
ギリシャ語なども、原著にあたり、語源を調べるために習得している
ことが多いみたいだなぁ。話せはしないかもしれないが、
読めるのは確かだと思う。すごい。

俺もドイツ語おぼえてイデーンを原著で…なんて思うがまぁ、
無理だろな〜。べつに趣味レベルでかまわんし。

 
さて、ウーシアの説明にはいります。

俺は基本的にバカなので、こういった説明は、自分の生活感覚に
沿って理解しないと、意味不明な言葉の羅列に終わってしまう。

自分がよく理解する意味でも、なるべく平易に説明しようと思う。

目の前になにかものがあったとして、そのものが、なぜ四角だとか
三角だとか判断できるのか、不思議には思える。また、机ならば
なぜそれが机だと分かるのか不思議だ。これをイデアなどという
概念でなくて、「形相」って言葉を使って、説明する。

机には、それが机だと思えるような、外観とか、手触りとか、
木の香りとかを、そなえている。これが「形相」なんだね。
まったく机の形も、手触りもしないものを「机」とは思わない
ので、これは分かると思う。

ところが、それらの性質(形相)をいくらあげても、その
形相そのもので机はあらわせない。机をあらわすのに、「木で
出来ているもの」と言っても、それは机そのものを指したのでは
なくて、ほかの木製製品と共通の(普遍の)性質を言ったに
過ぎないから。

しかし、目の前には、それらの性質を兼ね備えた「もの」が
確かに存在している。その、目の前に存在する「もの」に、
「感じうる限りの性質」を備えたものが「机」と呼べると
思う。

この、「もの」が質料。「感じうる限りの性質」が形相だと思う。
これをあわせた「机」が、「第一実体」であり、「ウーシア」と
呼ばれるもの。

実際、感じうるすべてのものを「机」から省くということは、
それは人間にとって何もなくなるということを意味すると思う。

色、手触り、香り、大きさ、すべて除いたら何もなくなる。それらは
人間が感覚しているものだから。しかし、そこには確かに、
本来人間に何かを感じさせる物体が存在してるわけだ。
これが「質料」、というわけだと思う。

 
この世に存在しているものは、地、水、火、風ではなくて、
スペルマタでもなくて、一(オン)でもない。また、イデアも
存在しない。

この世に存在するものは、目の前にある「もの」と、その「もの」から
感じる「感覚」のふたつのみである、とアリストテレスは
言いたかったのだと思う。

そして、それらがあわさったのが第一実体、ウーシア。

(もちろん、この頃は、人間の精神が思惟(思考)することは
別枠として考えられてたと思うけどね)

ちなみに、形相そのものは、「第二実体」と呼ばれるようだ。
これは、イデア説に対する批判からきていると思う。イデアに
おけるものの性質などは、実体ではなくて、天上界、英知界に
おける絶対的なもの。これをアリストテレスは認めるわけに
いかなかったから、性質も実体として存在するとした。しかし、
形相がそれだけで存在してしまうと、これはイデアとかわらない
ので、この場合の実体は、あくまで第一実体に含まれていなければ
存在しないとして、第二実体となっているのだと思う。

イデア説とは少し観点が違うにせよ、今までの説明と比べると
じつにこの世の説明にかなったものだと思える。
2000年間、これで通ってきたというのも少しうなずける。

 
この世界に存在するものの整理ができたら、今度は、それが
どうやって動くかの説明だ。

アリストテレスは、万物の変化の原理について、ヌースとかケノンとか
いうのでなくて、もう少し分けて考えた。

「第一実体」には、潜勢態(または可能態。デュナミス)と
現実態(エネルゲイア)というふたつの状態があって、前の状態
というのは、つまりは変化する以前の状態。で、後の状態は、
変化した後の状態のことを言う。このふたつは、第一実体に
もともと含まれていて、それが表れることで人間には「変化して
いるように見える」そうだ。

例を挙げると、種が地にまかれると、そこから植物がはえて
花が咲く。これは、種が潜勢態であって、その内に秘める現実態を
出現させて、完全体になったのだと彼は説明する。

だから、ウーシアの、形相が変化するように見えるのは、もともと
ウーシアに含まれていた形相があらわれたにすぎない、ということ
だと思う。これはイデアでは触れられなかった、「変化の説明」で
世界説明としては、たしかにイデア説より優れている。

そして彼は、運動の原因として、「四原因説」をあげた。
種が花をつけて実を結ぶように、この世に存在するウーシアには、
かならず目的とその原因があり、その目的を理解することで、
世界が理解できると考えた。

そのよっつの原因とは、質料因、形相因、動力因、目的因。

質料因と形相因は、そのままだと思う。あわせてウーシアになる。
しかし、このふたつを動かす原因がある。ものは移動するし、
いろいろ組み合わさったりする。これが動力因。また、自然は
ただ無秩序に動き回るだけではなく、どこかに向かって目的を
もって動いているように見える。これが目的因。動力因と目的因が、
ウーシアから、内在している形相(因)を現出させる、という
考えだと思う。

かくして、人間が目にするのは、そのウーシアが有する
形相が、動力因と目的因によって今、現出しているもの…という
ことになる。

よく、「家にたとえると、質料因が木材で、形相因が家の形、
動力因が大工、目的因が住むこと」って説明されるが、たとえが
比喩的すぎてよくわからない。自分としては上の説明みたいなこと
だと思う(まちがっているかも)。

また、アリストテレスはこの世の物質に「目的」を求めたが、
今のウーシアの状態になるにも、それ以前の目的因の影響が
あったと考えるのが自然である。かくして、目的因は無限に
遡及(さかのぼる)できてしまうことになるが、これは不自然だし、
この世の意味を喪失させてしまう考えだと彼は思い、究極的な
目的因として、この時代としてはポピュラーな概念であろう
「神」を想定した。

彼は哲学の目的を、万物の目的を理解することであると考え、
またこの万物の目的のもとである「神」を認識することによって、
すべてを説明づけることだと考えた。人間は神を思惟することに
よって、最高の善を得ることができる、と。

 
締めがちょっと神話的だし、まだ煮詰められていないところは
あるけれど、これ以前の哲学者よりは、世界観は大分整理されて
きている。このほかにも、様々な分野で膨大な文献を残している
だけあって、この後2000年間、彼は学問界のデファクトスタンダードに
なっていくようだ。

さて、もう少しでギリシャ哲学は終了ですな。次、ストア派、
エピクロス派、懐疑派を終えたら、中世哲学です。
次、アリストテレス(B.C.384〜B.C.322)に入ります。

アリストテレスは、かつて存在した最も大きな碩学(せきがく。
碩は大きいの意、学問が広く深いこと、またその人)だった
という…というのも、彼の研究領域は論理学、自然学、形而上学、
倫理学、生物学、天文学、気象学、心理学、政治学、修辞学
(修辞に関する法則を研究する学問。読者の感動に訴えて説得の
効果をあげるために言葉や文章の表現方法を研究するもの。
美辞学。レトリック)、美学、哲学史などなど多岐にわたり、
今日存在する学問は、ほとんど彼によって創始されたか、
先鞭をつけられたかするものだそうだ。

またそれだけに、彼が学問におよぼした影響も深刻で、デカルトが
登場するまでの約2000年間、彼の学問が人類を支配しつづけた
という。

確かに、「方法序説」にもアリストテレスへの言及は出てきて…、
学派による争いが絶えないことをデカルトが憂いていたような。

ここから分かることのひとつ、というか、まぁ哲学ってもともと
そうみたいなんだけど、この頃の哲学って、「万物の原理」つまり
今では物理学が担っている世界説明と、「人間の認識の原理」
とか「論理学」などを、一手に総括するような学問だったよう
なんですね。

つまりは、一人の人間がまとめて考えられるほどに、それぞれの
学問の研究の蓄積とかが膨大でなかったということなのかな?

 
まぁとりあえず、今までの哲学の総括の問題、、つまり、
パルメニデスの「変化するものはなく、一(オン)のみが存在する」
を受け継いでなんとか世界説明をしようとした人たちを背景に
このアリストテレスも色々考えた、ということを前提にして
見ていきましょう。

 
プラトンのところでも少し紹介したけど、アリストテレスは
プラトンの創始した、人類史上最も長く続いた大学「アカデメイア」の
最も優秀な学生の一人であり、学頭候補でもあった。しかし結局
プラトンの甥にあたる人が学頭を継いだので、それをきっかけに
かどうかは知らないが、アカデメイアを去ったようだ。

その後マケドニアの宮廷に教育係として呼ばれたりしてたよう
だけど、結局またアテナイに戻ってきて、リュケイオンという
アカデメイアを凌ぐ教育研究機関を設立した。
(リュケイオンて、なんか響きかがかっこいいなぁ)

彼はここで多くの研究者をあつめて、彼らの研究を統合することで
様々な領域にまたがる、壮大な研究を遂行したという。
彼の学派は、学園の歩廊(ペリパトス)を逍遥(気ままにぶらぶら
歩くこと、そぞろ歩き)しながら教えたことから、ペリパトス学派
と呼ばれる。

アリストテレスの残した研究は膨大で、著作も多いらしくて、
昭和堂の本にも、現代の哲学に通じる事柄しか扱えていない。
(はじめての哲学史にいたっては、そのことにすら触れていない)
彼は哲学というよりむしろ、他の学問への貢献が大きかったのかも
しれない。

(少し彼の著書を図書館で見たことがあるけど、虫や動物の生態に
ついて、古典らしいあいまいさはあるけど、細かく扱ってあった。
おそらく、多少現代の常識を知ってる自分には読むのは辛い…)

というわけで、彼のプラトン批判、ならびに、世界説明の原理に
ついてのみ扱います。というか、ほかは知らないし。

・プラトン批判

プラトン批判とはつまりイデア説批判なわけだけど、それが
少しピント外れなのはプラトンのところでも述べた。

彼はイデア説を、物理学、自然科学のような、万物の原理を
解明するもののみとして捉えていたようだ。まあ、プラトンの
原著を読めば、俺もそう感じるかもしれないが。とにかく
彼は、イデア説では、世界の運動や変化の原理がちっとも説明
できない、とか、「非存在」とか「非人間」という否定的なもの
にもイデアが存在しなければならなくなる、とか、主語がなくとも
述語のイデアが存在するのはおかしい、とか、二十三箇条にも
及ぶ批判をしたようだ。

たしかにイデア説には、今にも通じる本質的な部分はあるが、
万物の原理の説明としては弱いのは確か。万物の原理の解明の学、
自然科学の方法としては、アリストテレスの取った方法のほうが
よりベターであるとは言えるかもしれない。

というわけで
・世界、万物の原理について

万物の原理については、やはりそれまでの哲学史の集積を
無視するわけにはいかないし、タレス〜パルメニデス、ヘラクレイトス
まで、またそれ以降の書物も、穴があくほどアリストテレスも
読んだことだろう。

これらの問題に関しては、アナクサゴラスやデモクリトスが
それなりの回答を出している。またプラトンも、かなり方向性が
違うが、それなりの回答をしている。このあたりが、アリストテレス
のいた時代の、哲学の最先端であっただろう。

彼はイデア説批判から入ったけども、結局は、エンペドクレスや
とかデモクリトスのような、無機質な世界説明はとらず、
イデア説の難点を克服したかのような説を取る。

イデア説では、この物質とはかけ離れたどこかにある、ある絶対的な
ものを想定するがゆえに、誰にも確かめられないし、また実際の
物質とどう関係しているか分からないし、運動や変化についての
説明も何もされていないと思った。

そこで、そういった「どこかにある絶対的なもの」で物質の性質を
説明するのでなくて、現に感じられるものは、現にそこにあるもの、
もしくは内在しているものとして、説明することにしたのである。

その考え方が、「ウーシア」という彼の説にあらわれている。

具体的にどう説明したかは、その2に譲るとして、この
ウーシアについて解説しておきます。

ウーシアというのは、昭和堂の本ではそのまま「実体」として
訳されているが、はじめての哲学史ではそれは適切でない、と
している。ちなみに実体、というのは、哲学においていくつか
意味があるが、変化するなかにおいてもいつも同一のもの、
みたいな感じ。イメージとしては、物体が変化しても、それ自体は
変化しない、原子とか分子みたいなものだろうか。
(たとえば、水が水蒸気になっても、水分子は変化していない)

デカルトの言う実体は、それが存在するのに、他の何にも依存しない
もの、としている。たとえば「熱」のようなものは、感じる人間が
いないと存在しないから、実体ではない。

アリストテレスの言うウーシアは、命題(哲学にはよく出てくる
言葉だけど、意味はわりと漠然としている。判断を言語であらわした
もの、とか、真偽を判定できる有意味な文、などという意味らしい)
において、つねに主語になるものを言う、という。

これだけではちょっとよくわからないので、平易に俺なりに
考えて書こうと思う。これを用いて、どうやってパルメニデス
とプラトンの説を調停するのか、がキーポイントだと思う。

・・・。

2004年7月17日
家族に映画観にいこうと誘われたので「デイ・アフター・トゥモロー」を
観て来た。

現実にあり得る状況というのがいつにもまして緊迫感があり…
なかなか面白い映画でした。

それはええのんけど、まとめできへんわな…_| ̄|○

今日の日記

2004年7月16日
はぁ〜、会話べたの人間には学校はあいかわらず
つらい。笑顔で受け答えするしかできん。

会話がおもしろい人って、いろんなとこからおもしろい話題を
拾ってきたりするよね。自分もだから、いろいろと意識して
まわりを見てみるけど、なかなかそんなもん転がっていない
のです。
ネズミみたいにいつも決まった通(学)路使ってたら、それは
そうか。なんか無駄な寄り道とか…でも、時間の無駄になるだけの
気が…雑誌読むとか、どうかのう。

「会話は、テクニックです。うまい人のしゃべりを真似する
だけで、割と上達するものです」のようなことも、たまに聞く。

うーん、難しい。けど、まあ意識していくしかないですな。
会話に関する愚痴はもうやめとこう。

<今日読んだ哲学本>
うお、今日も読んでないぞ。じゃ今から読もう。今日は
アリストテレスにはいろう。
<その4からつづき>

じゃあ、どう考えようか?
不確かと言われてる感覚だけど、どう考えたって目の前のものは
変化してるじゃん。しかし論理的にいうと、水とかそういう
感覚的なもので語ってもいくらでも反論できるし、論理だけだと
一ってことになってしまう…けどどう見ても変化してるし…う〜ん…

なら、不動の一じゃなくて、四つにすれば、それらの組み合わせ
で変化が説明できるんじゃ?

そう考えたのが、エンペドクレス。

もちろん、ヘラクレイトスが「火」によって説明しようとした
運動の原理も忘れてはいません。

「一(オン)」でなく、「四根」、「万物の根(リゾーマタ)」
である、地・水・火・風のよっつからなっている。

また、運動の原理は、「愛」によってくっつき、「憎しみ」によって
離れることで起こるんだ。

こうした、四つの元素と、二つの運動原理からこの世は成り立つ
とした。
ちなみに四つの元素は不滅なので、永遠に運動しつづけます。

(こうした単純な原理からこの世全てが説明できると考えたのは、
わずかの公理から成り立つ数学的な世界を想像していたからかも
しれない)

ともあれ、エンペドクレスは、「これで説明いったろ!」と
ほくほくだったに違いない。

 
アナクサゴラスとばして、デモクリトスを先にやります。

彼は、「アトム」という、ひとつの性質をもつものが無数に存在し
その組み合わさる形によってこの世の全てのものは区別されてる
とした。運動原理は、アトムとアトムの隙間を埋める「ケノン」
にだけ、支配される。ケノンさえ動けばアトムは無差別にくっつい
たり離れたりするので、実際の世界にはそぐわないアイデア。

 
さて、アナクサゴラス。彼は「種子(スペルマタ)」という、
すべてを含んでいる無限の粒子がこの世を構成しているとした。

まぁ、この点はほかとそう変わったアイデアでもない。
パルメニデスの一(オン)を受けついで、なんとか世界の変化を
説明づけようとしたアイデアのうちのひとつである。

ただ、彼がその運動原理であるとした「ヌース」、これが実は
プラトンのイデア論の着想へと繋がったらしいのである。

というのも、この「ヌース」というのは、「理性」という意味、
また「魂をもつものすべての主人であって、この世を秩序づける
もの」としている。

この点がソクラテス(プラトン)が気に入った点で、というのも、
世界は実は、人間の観点や欲望によって秩序付けられている面がある
という本質を衝いていると思ったからである。

まあ、細かい点で気に入らない点はあったようだが、基本的に
この考え方は、ソクラテス(プラトン)の直観を多少、補強した
ものだったかもしれない。

 
さて、ソクラテスがそう直観していたにもかかわらず、
「論理的に考えれば考えるほど、ものはいくらでもなんとでも
言える」ということを発見した人たち(ソフィスト)が、
この世に確かなものなどない、ということを弁論をもって
表現していたので、激しく違和感をもった。

 
これは俺の勝手な想像だけど、ソクラテス(プラトン)はおそらく
こう思ったにちがいない。

「確かに感覚はときに人をあざむくし、純粋に論理的に考えると
この世は一になってしまうかもしれない。それでもしかし、
確かに変化は存在する、そのことは確かだ。
この世の仕組みは、なるべく感覚に頼らず、論理的に考える
限りで、何か合理的な変化の仕組みが存在することは確か。


これはひとつ、確かなことだ。

そして、もうひとつ確かなことがある。

それは、何かを正しい(真)と思うこと、何かを良い(善)と
思うこと、何かを美しい(美)と思うこと、これは、何をどう
言おうと、確かに存在する。

真、善、美の問題は、抽象概念や、論理をいじくるだけでは
どうとでも相対化されて、絶対に説明できない。また、実際に
この世で感覚する物事でも表現することができない。このことの原理は、
人間の精神、その内を深く探ることで求められなければならない。


これが、もうひとつ。

このふたつが、確かなことのはずだ。そして、このふたつが、
この世を説明する原理のはずだ」、と。

 
ちなみに、現代では、前者は物理学が担当しているが、後者は
いまだに哲学の分野が負っているような気もする。

 
もう後は、以前の内容から推察できるかと思いますが、
ここで考えたのが、イデア説だと、竹田さん(の俺解釈)は
言っていると思うのです。

 
ソクラテスはこのことが何か考えていたが、しかし他人に聞いても
具体例を出すだけで本質が明らかにならない、しかし言葉だと
どうとでも相対化できてしまう、にもかかわらず、確かに
人間の内には、真、善、美の感覚が存在する…

これを、イデアと表現した、のである。

これを神話、ミュートスで表現したのは、当時、いまだ神話的な
世界観が現代では考えられないほど支配的だった時代、その時代的な
限界も考慮して考えるべきだと思う(国家論についても言えると
思うが)。

また、再度記すべき結論として、「この世界が、人間が善と思うことに
よって秩序付けられている面がある」、とソクラテス(プラトン)
が考えていたことだ。

それは確かにその通りで、人間、通常意識しなくとも、何が自分に
とってよいものか悪いものか、常に判別しながら扱っている。
これが「無い」人間など考えられない。世の中のものは、人間が
意識を向ける限り、常になんらかの、自らの欲望にかんする(それが
自覚的であれ無自覚的であれ)「善い」にかんする意味をもって
いる(「善のイデア」が最上位だとされたゆえんである)。

これを、ソクラテス(プラトン)はこんな風に言っている。
これは、人間の魂がこの世を秩序づけるとした、「ヌース」の
考え方を発展させたものだ。

「人間にとって本来考察するに値するものは、そのもの自身について
も、また他の物事についても、ただ、それがどのようにあるのが
もっとも最善かということ、それだけなのである…」

 
さて、どうだろうか。
個人的には、現代人がちょっとやそっと考えても、これほどの
直観にいたれるかどうか、疑問である(俺の基準で考えては
ダメか)。

アリストテレスの項で見るが、彼はイデア説について「存在する
ものを二倍にしさえすれば、この世のものが説明できると
考えただけで、意味がない」のように言っていたそうだ。
しかし、これはピント外れな批判だとわかる。プラトンは別に、
世界の事物や運動の原理としてだけ、これを考えたわけでは決して
ない。

抽象概念についての論理的な考察は確かに重要だが、それだけで
世界の原理は説明できない。この当時、ソクラテス、プラトンが
直観していた問題は、今にも通じる非常に本質的なものだったことが、
竹田さんの解釈からは伝わってくる。
<その3からつづき>

やっと続きが。

3までで、否定的見解のほうを述べてきました。
それはそれで哲学界のひとつの見方ではあるし、どちらが
正しいのかは、自分でいちから考えてみて判断するところである
と思う。古典のものだし、どちらでもよいといえばそうなのかも
しれない。

しかしとりあえず、俺が肯定的見解に納得いった理由を
自分で考えながら、その見解についてまとめたいと思う。
(ほとんど持論になりそうだ)

さて、哲学の開始からプラトンまで…タレス〜ヘラクレイトス、
パルメニデス〜ソフィスト達、ソクラテスのほかの弟子達、において、
いったい何が語られていたのか、肯定論に入る前に、軽く
敷衍しておきたい。単純に、イデア論を、論理の整合性から
はかるのでなく、哲学の流れの中で理解するためであります。

最初タレスは、「万物の原理は水なんじゃないか」と言った。

「確かに宗教の神話(ミュートス)ではああ言っているが、
目の前に広がる事象のおおもとについてそれとは別に考えてみると、
どうも水っぽくない?だって、木とか水やらないと枯れるし
人間だって死ぬし」

そしたら、いやそりゃヘンなんじゃ?って感じでアナクシマンドロス
が異論をのべる。

「水だって言うけど、火とか土じゃいけない理由はなんなの?
説明できないでしょ。そういう性質にしばられたもので、
何かひとつ世界を説明しちゃうと、その原理と正反対の性質を
もつもの(水なら、火とか)は全部消えちゃってるんじゃない?
だって原理と反対の性質持ってるんだし。そういったものじゃない
ほうが納得いくよ。だから「無限定なるもの(ト・アペイロン)」
だと思うよ」

そしたらアナクシメネスが…

「いや、無限定なるものったって、何にも限定されないんじゃ
人間にも知覚できそうにないし、そんなもの確かめようがないから、
もしそうだとしても永久に判明しないんじゃないの。何も言ってない
のと同じじゃない?それより、万物のおおもとは空気だと思うよ。
空気があつまると固体になったり液体になったりするんだよ。
人間だって、息しないと死んでしまうし。温度の差は空気の勢いで
説明いくよ。だって、口から息吐くとき、ゆっくり吐くと暖かくて、
するどく吐くと冷たいし(これは本当に言ってたらしい。実際
やってみると、その通りなのがおもしろい)」

そのころ、別の場所でピタゴラスが…

「誰が計算しても同じ結果になる数というのは不思議だ。
音楽も、数の比率に支配されている。誰にでも理解できるし、
数であらわせないものがないなんてことは、これは世の中すべてに
通じる原理なのではないか」

などと言っていた。

しばらくして、「万物の原理は空気」とか聞いたヘラクレイトスが
「しかし空気だけから出来てるとしても、世の中が変化し続けてる
この運動の原因が何も説明されてないんじゃ?」と思った。

そこで、それ自体がたえず揺れ動く、火がその運動のもとだと
考えた。そして、その火の運動を伝え動いて流動しているのが
この世界なんじゃないかと思った。
そして、すべてのものは流動していて変化し続けるのだから、
この世に確かなものなど何ひとつないと思った。
次の瞬間には全てが変化しているのだ。

さて、そのころ別の場所でもパルメニデスがこんなことを
言っていた。

「感覚的なもの(水、空気、火)を元にして考えても、いくらでも
反対の説をあげることができる。誰にでも納得いくような論理を考える
ことが必要だ。まず、感覚的なものはすべて信用しないことに
しよう。論理だけで考えよう。すると、「ないものがある」などと
いう言い方とか、論理的に矛盾してるものは存在してないと考えるべきだ。
感覚をすべて信用しないものとすれば、感覚がとらえる、変化とか
数とかが廃棄されるから、この世は変化も数もない一(オン)のみが
ある世界になる。これが本当の世界だ」

また、弟子ゼノンが、その説を支持し、数という抽象概念の
生み出す矛盾を指摘した。

 
さて、軽くまとめます。これらの説で言われているのは、

・ものが何からできてるのか(水、ト・アペイロン、空気)
・ものは何によって動かされてるのか(火)
・不確かな感覚でとらえるものは本当に存在といっていいのか
(つねに世界は生成消滅していると感じるのは確か、
感覚はすべて間違いで、この世に生成消滅などない)
・論理的思考が確かなのはなぜか(数が原理だから、とした)

 
ここで、「何からできてるのか」という考え方に、具体的な
水とか空気とかもってくることは、すでにパルメニデスによって
否定されてることに注目。彼は、そういう言い方だとなんとでも言える
ことに気づき、また、感覚はときに人間を欺くのであって、
あくまで論理的に考える必要があるとした。

たいして、ヘラクレイトスは、ものが生成消滅していることは
感覚によって明らかだとした。

またピタゴラスは、数の普遍性に着目した。

 
たしかに感覚は確かではないが、生成消滅を目の当たりにするのも
確か。これを一で不動だとするのは無理がある。どう見たって
目の前の事物は変化してるからだ。

かといって感覚に頼ることもできない。どうしよう?

しかし数などに見られるように、抽象概念を用いた論理的思考は
誰にでも共通なので、ここに鍵があるのではないだろうか?
この鍵を使って、なるべく広範な理解が得られるような、もっと
納得いく原理が作れないだろうか?

つまり、なるべく感覚に頼らずに、生成消滅をなんとか説明づける必要が
出てきた、ということだと思う。

ここで出てくるのが、エンペドクレス、アナクサゴラス、
デモクリトスである。

ああ、プラトンの話ですらない。けど、もう少し、何が問題に
なってきたのか敷衍したい。

その5につづく。

ふー

2004年7月16日
今日は久しぶりに家族でご飯食べに行った…っても、3人ばかし
だけど。

HALは順風満帆というか、俺らしくなく、課題も出席もいまんとこ
未提出・欠席なし。どういうことだろ。
今日はゲームのキャラデザ専科、しかし人物はなんとか描けても
衣装が描けないね…

<今日読んだ哲学本>
今日はなんと、なし!荷物が多すぎて分厚い哲学史の本
持って行かれへんかったので、通学中の読書タイムが…。。

しかし、放課中に哲学書読んでると、ほかの人たちに
突っ込まれた時に返事に窮する(´・ω・`;)
なんかおもろ、、くなくてもいいから受け答えをいくつか
用意しとかんとの…

しかし…

2004年7月14日
なんという語彙?ボキャブラリー?会話センス?の貧弱さorz

出身地聞くだけではなあ。
なんかほかにないかなあ。

まあ、そう気ぃ入れて話しかけられてもかえって困るだろうし、
自然に話しかけられるタイミングみてすればいいだろうとは思う
けどね。しかし、周りの人、誰も彼女に積極的に話しかけない
からな…会話センス貧弱の俺ごときでも、多少役立てれば…とは
思うが…

今日、偶然ドラ*エのモンツターのスラ*ムのゴム人形拾ったから、それで
「ねー、ス*イムって知ってる?」と唐突に話しかけようかとも
思ったんだけど、微妙に席が離れてて踏み切れなかった。

これはダメ話題かも?いや、その後のもってき方次第では意外と…
などと考えてるうちに機会をのがしたわけですが…

イカンな、いちいちくだらんことに悩んでいては。

明日は

2004年7月14日
キャラデザの下書きのペン入れを、学校ですることに…(;゜д゜)

ともあれ今日の日記。

HALではだんだん交流の輪が広がっていていい傾向。
ただ、中国人留学生の女の子が一人いるんだけど、いつも
一人ぼっちで授業がんばってるから、はたから見てて心配なんだな。
話しかけたいんだけど、話題がないしタイミングが…
…なんとかがんばって話しかけてみるぞ(`・ω・´)

いやほんと、下心とかそういうのはないです…なんか、
日本語もまだ十分できないのに苦労してるのを、ほっとくのは
…とはいえ、何を話していいのか。

中国のどこ出身なの?
今はどこに住んでるの?
なんでHALに来ようと思ったの?

日本語がうまく通じなければ、そこで試行錯誤することで
いくらか話題がつくれそうだ。これなら分かる?どう?とか。

中国語で**って何て言うの?

とかも思いつくけど、前もって準備するよりは、割と
タイムリーなものもっていかないと無理だよなぁ。

日本語なら多少教えられるし。

あとピアノ、もうすぐバイエル2が終わります。でも
バイエル3ちょっと見てみたがえらい難しい…。
はやく、多少まともなメロディがある曲を弾きたいなあ。

<今日読んだ哲学本>
哲学史、アウグスティヌスまで読んだ。
今日は明日のペソ入れの準備の下書きが大変です。
プラトン中途半端になってるなぁ…。明日は必ず。

今日の日記

2004年7月14日
僭越ながら、無印コージー様と木立様の日記を相互リンク
させていただきました。勉強させていただきます<(_ _)>

今日の日記、今日はデッサンの専科の授業の最後でした。
紙が出てるティッシュ箱と水の入ってるペットボトルなんだけど
…む、難しすぎる。ほとんどまともにかけなかった。

今日はめずらしく、授業後にクラスの割とおしゃべりな
人たちと話す機会があったけど…、いや、なかなか、難しい
なあ。もちろん、ほとんど初対面みたいなものだから
何話していいか分からないのは普通かもしれない。
でも話上手の人は、どんどん話題が出てくるね、すごい。

<今日読んだ哲学本>
…う〜ん、新たに読んだ本もないのに書く必要もないかなあ。
相変わらず哲学史、今日はストア派・エピクロス派あたりまで
読みました。エピクロス派って仏教みたいな考え方してる。

プラトンについてすすめたいが、今日は絵を描かねばならん。。

1、2年哲学にしたしんでおくと、自然と哲学用語が
出てくるようになるかなぁ。いや、なってもそんなにばかばか
使いたくないけども。

うう

2004年7月13日
さすがに眠い。今日は午後から授業とはいえ、夜中まで
文章を推敲しすぎた…しかし、まとめるのは勉強になる。

つっても長すぎ。そりゃ、まともに扱えば本一冊じゃすまないのが
哲学者ってものだろうから、この先思いやられるなぁ。
でもがんばろう。

ヘーゲルとか、ホッブズ、ロック、ルソー、あとマルクス、
フォイエルバッハ、アルセチュール、ポストモダンの人たちの
理論は多分、歴史学をひもとく上では直接的にかかわってきそう
だが…

哲学に一般人が求めるのは、「神ってほんとにいるのか?」とか
「ものが存在するってどういうこと?」とか、「正義って何?」
「生きてくことに意味はあるの?」とかそういうことのような気が
するんだよね。

この問題の一部は、カントがばっさり終わらせちゃったんだけど
ね。「世界は有限か無限か」「ものは無限に分割可能か最小単位が
あるのか」「世界にはじまりはあるかないか」などなど。
いまだにこれを考え詰めてるひとは、一回カントの入門書でも
読んでみると疑問が氷解すると思う。

それでも、「生きていく意味」とかはさすがに哲学でも答えは
ないように思う。ただ、原理的な思考は与えてくれるが。

しかしまぁ、どうなんだろうね。人生にどれほどこの哲学が
役に立つかは、俺はまだはかれないでいる。
もっと他人と触れ合う機会をもったほうがいいだろう、という
人もいるだろうし、それもきっとまた正しいだろうなぁ。

まあいいや、寝よう。
しかしはやいとこ古典哲学は駆け抜けたいんだけどなぁ。
<その2からつづき>

プラトンが自らイデア説批判をしているのは、『パルメニデス』
という著作においてである。老いたパルメニデスが、まだ青年の
ソクラテスに対して、イデア説の矛盾について議論するという
内容。

ちなみに、プラトンの著作においては、必ずしもソクラテスが
いつも議論に圧勝するという感じではなく、反論する側も
非常におもしろい異議をとなえることが多くあるようだ。
ソクラテスもそれなりに応戦するが、いや読者側としては
イーブン、もしくはソクラテスが分が悪いなんてことも
まま、あるらしい。こういった論議の応酬に、あのニーチェも
わくわくしながら読んだそうである。

ディオティマとのやりとりなんか、ソクラテスが教えられる
立場みたいに描かれていたし、プラトンて文学の才能も
あったのかも。

ともかくも、パルメニデスの反論をみてみよう。
(また蛇足ではあるけど、ここでのイデア批判は、アリストテレスに
よって「イデア論批判二十三箇条」という形でさらにつきつめられる)

二十三箇条、とあるように、パルメニデスの批判もいくつか
あるようだけど、いちばん重要なのはイデアの「無限進行(増殖?)」を
指摘して矛盾している、というものである。

イデアは、人間に認識できるものにはすべてイデアがあるとする
…それは確かに目に見えるものがそれに拠っている、ということには
なるのだが、例えば、ものの大きさが把握できるのは、「大きさの
イデア」が存在するからだ、とするのがイデア説だ。つまりは、
概念にも、それの認識根拠のイデアが存在することになる。

これは、人間が認識できる実体だけでなくて、概念とか性質にも
それに相当するイデアが存在してしまい、たとえば、さきの
「大きさのイデア」と、それが分有される(=イデアによって
認識できるようになっている、というニュアンス)実体とが、
両方とも「大きさ」を有することになるので、するとどちらにも
それの「大きさのイデア」が存在することになる。以下、無限に
これが繰り返されるので、イデアが無限に増殖していくことに
なる、、というものである。

一見ちょっとそうはならない気もする。大きさのイデアというのは
それ自体は「それそのもの」だから、あえてまた大きさのイデアから
分有されなければならない、ということはなさそうだから。

しかしともあれ、論理的にはそういうことになるのかもしれない。
なにせアリストテレスも似たような指摘をしている。

で、プラトン(ソクラテス)がこれにどう反論しているのかと
いえば、たいした論駁はしていないらしい。このあたりから、
プラトンは後期においてイデア説を放棄した、という説が
いわれるゆえんなのだそうである。

これはいったい、どういうことだろうか?
プラトンが、イデア説を放棄したということだろうか?

後期プラトンでは、このような、イデア説を前提とする場合に
得られる論理的な難問(アポリア)が多く提出され、またそれに
明確な反論が加えられないまま通り過ぎるといったことが
幾度も繰り返されるらしい。

んじゃあ、イデアはプラトンの核の思想なんだから、プラトンはそれで
終わっている思想家なんじゃ?という感じだが、その4からは
肯定論にはいろうと思う。これが、目からウロコなんである。

といっても、俺が竹田さんの言いたいことをちゃんと把握しているか
どうか不安ではあるけど…ほとんど自分の言葉で書いてるから…

っていうかこれ、下手するとその8とか9とかまでいきそうだ…
<その1からのつづき>

と、すると、自動的に、というか、現象界、現実世界は、すべてが万物の
生成消滅の原理にてらされて、何者も存在していないということになる。
確かに存在するものはイデアのみで、それに照らされるから、本来何も
存在しないはずの現実世界に、色々な区別が見出せるのである、と
プラトンは説明する。つまりは、例えば目の前に机があるとしても、
これはイデアのように永遠不変の机ではありえない。とすると、「これは
机である」という言い方はできない。「机である」と言い切れる物が、
机であったりなかったりすることはできないからだ。目の前のこの机は
いずれ壊れるから、これは机であったりなかったりするものである。ゆえに
これは机として存在してはいない。
そのような、生成消滅するようなあいまいなものを、存在とは呼べないからだ。

こんな感じで、この世には非存在が満ちているという結論になる。

これがまた、今からすると、イデア説の不合理さの一端を示す要因の
ひとつになっているようだが。

ちょっと専門用語というか、哲学やってると知ってる用語をおぼえると
なんか頭よくなった気もするので、そういうのを書きつつまとめよう。

プラトンは、この世に存在するのは英知界(ノエータ)と可視的世界
(ホラタ)に分けられるとした。イデア界と、現実世界だね。

ノエータはさらに、弁証法の世界と仮定を原理とする数学の世界に
分けられなければならない(ピタゴラスも入ってきてるのだろうか)。

数学の世界というのは、非常に簡素な定理から、厳密で合理的な
結論が導き出せるので、特別視されたようだ。これによって得られる
知のことを悟性知(分別知、ディアノイア)という。

弁証法の世界というのはソクラテスが求めたもので、「それそのもの」
の世界、イデア界で、この世界においてのみ、知(ソフィア)、
知識(エピステーメー)が求められる(エピステーメーって、ロゴスと
同じでいくつか意味がありそうなんだけど)。

可視世界に関しては、現象の世界と、芸術や仮象の影の世界に分けられ、
前者にあるのは臆見(ドクサ)と信念(ピスティス)であり、後者には
想像(エイカシア)があるにすぎないとされる。

さて、プラトンの比喩、たとえ話に「洞窟の比喩」という有名なものが
ある。可視的世界、現実世界にいる人間は、暗い洞窟の中で、壁に向かって
縛られて座らされている囚人のようなもので、洞窟の外からさしてくる
イデアの光によって、その影を見ているにすぎない存在であるという。

われわれはその影を見て、それが実在する存在だと思っているが、
それは影にすぎなく、存在するのはそれを照らしているイデアだと
いうわけだ。

そして哲学者は、この鎖をといて洞窟の外に出られるもののことを言う
という。はじめは目が慣れていなくて、強烈な光に、まともに目も
開けられないが、しだいに慣れてきて、周囲を見分けることができる
ようになる。

そうすると、彼は自分の立場をしっかり認識することができ、
ほんとうに自己を知ることができる。そうしたら、哲学者たるもの、
洞窟の中に戻り、他の人々に真実を伝えようとするであろう。だが
洞窟の中の人々は、彼の話に耳をかそうとはしない。
彼の目は洞窟の暗さに、逆に洞窟の中を見分けることができなく
なっており、立ち振る舞いが無様にならざるを得ないからである。

これが、この世で哲学者がうとまれるゆえんであるという。

このくらいで、イデア説の説明はできたかと思うけれど、
はっきり言って、俺個人としては、もっと平易な言葉に直せないと
ダメなんじゃないかなって思う。比喩もいいけど、これでは
そのあたりに転がっている宗教のたとえ話とそう変わらない
印象だって与える。考えたことは、哲学の原初から追えば
非常にロジカルな部分が多いとは思うのに。

とはいえ、ここで俺の見解を述べると肯定意見とかぶってしまうので
それは後に譲って、次に、否定的見解からの、国家論と、プラトン自身
にもよる、イデア説に対する批判を紹介します。

プラトンの国家論。これに先立って、独裁政治による圧制への失望、
また民主制、衆愚政治によるソクラテスの死、両方を考え合わせた
プラトンがどのような国家観を持ったか、ということを考えてみる
必要がある。

彼の考え方は、基本的に、「哲学王」が国家の統治者、しかも独裁者に
なればよいという考えのようだ。

またプラトンは、国家を人間との類比において、その機能というか、
役割分担になぞらえて考えた。人間は頭によって代表される理性部分と、
胸によって代表される気概部分、下腹部によって代表される欲望部分の
三つからできており、国家も統治階級と軍人階級と商・工・農民階級の
みっつにわけられるそうだ。

統治階級の徳は知恵ないしは思慮、軍人階級は勇気、商・工・農は
節制が徳であり、それぞれがその徳を十分に発揮する社会が正義である
とした。この知恵、勇気、節制、正義はプラトンの四基徳という。

また、そこから、個人の自由は大幅に制限されねばならないとした。
プラトンの国家観は、今からするとナチスに似ていると酷評する人も
いたそうで、確かにそういう面も否定はできない。それぞれの階級が
その分を越えることは悪とされたし、国家管理による集団見合いが
推奨され、子供は幼い頃から能力によって分別されたり、不具に
生まれついた子供は抹殺すべし、などという考え方をしていた。

が、それは今の視点から見ればの話であって、当時(紀元前400年頃である
…)このような国家観が、それほど突拍子もないものだったとは思えない。
ナチスを例にとっても、近代に入ってから成立しているのだし。

また、民主政治がダメなら、哲学王が独裁するしかないと考えるのも
また自然だとは思う。ただ、現実に耐える思想ではないと思うけれど。

次に、イデア説批判にいきます。

このイデア説批判、プラトン自身によって行われているというのが
少し不思議な気がするくらい、そうかもしれないと思える感じの
批判で、もし竹田さんの本を読んでなかったら、俺もその通りだ、
イデア説破綻してるじゃん、と思ったに違いない。

昭和堂の哲学史では、この後期の著作において自説に批判を
加えるまでに時間があったから、反省する機会があったんだろう、
と推測しているが、事実は定かではない。本当に反省していた
とするなら、プラトンほどの人をして、概念の実体化の罠に
引っかかってしまったのかなあ、なんて思う。

ところで、本当に長くなってしまった。批判の内容はその3で。
プラトンは、彼の思想の解釈によって評価が二分される。
二分だから、肯定か否定かっていうことだけど、またその
肯定と否定の中身にも温度差があるみたい。なぜ評価が
そう分かれるのかは後で、といってもまぁ、あまり
色々な人のプラトン評を見たことはないので…

とりあえずは、最初は否定的見解から紹介します。

さて、前はソクラテスの話だったけど、ソクラテスの話は
ほとんどプラトンの著書の中でされていることは述べました。
基本的にソクラテスの考えとプラトンの考えは連続して
発展しているので、区切りのつけどころは難しい。どちらかと
いうと、ソクラテス-プラトンでほぼ一人分の主張としたほうが
分かりやすいかも。

ソクラテスにはプラトン以外にも思想の継承者はたくさんいた
のだけど、正当な継承者と呼べるのはやはりプラトン(Platon,
B.C.427〜347)、この人だった。

プラトンは貴族の名門うまれ。20歳のころ、アテナイでソクラテスと
出会い、彼の知への探究心、知への情熱に傾倒していったという。

元々は政治家を目指していたけれど、その頃(アテナイがスパルタに
破れ、スパルタによる専制政治が行われた頃)の専制横暴な独裁政治を
見て政治に不信感を持つにいたり、またそれが打倒された後の
民主派の政権下でソクラテスが殺されるにいたって、完全に政治に
失望し、その道を断念することになる。

このことは、彼の哲学にも非常に大きな影響をおよぼしている。
(民主も独裁もダメだと思ったのかも)

名門の出だし、ソクラテスの弟子、さらに元々の聡明さゆえで
あろうけども、色々な著作を出し議論を繰り広げるうちに、
しだいにプラトンの名声がギリシャ中に響くようになる。
やがて人類史上最も長く続いた大学「アカデメイア」
を設立し、後の哲学ほか、学問に様々な影響をあたえた。
ちなみにアリストテレスはここの最も優秀な学生の一人であった
らしい。

で、そんなプラトンは、ソクラテス以後の哲学をどう発展させた
か?

ソクラテスは、真、善、美、徳、国家とは何か、などなど、
そういった抽象概念の本質、様々な人に共通する普遍的本質を
対話によって探り当てようとした人であった。
そして具体的な事例などを次々挙げるだけでは、それに
足りないということも分かってきた。

ソクラテスのところでも少し書いたけど、そこでプラトンが
考え出したのは、想起説、いわゆる「イデア説」だった。

プラトンでは、この「イデア説」のほかにも『国家』などで
示されるように、国家制度に関する彼なりの考察などもあって
まあ、まだ把握しきれてはいないけれど、大体そのふたつ、
イデアと国家体制に関する彼の考察がポイントとなるようだ。

プラトンの著作には前期、中期、後期があるが、前期・中期
ではイデア説が最もよく表れ、後期では主にそのイデア説に対する
自らの手による批判、と、国家体制に対する構想が語られる
ようだ…といっても、原著読んでいないので詳しくは…

まあ、とりあえずイデア説の説明にうつります。
(しかし一日一人って無理だなあ。多少は調べてまとめてからでないと)

ソクラテスは善そのもの、などの「それそのもの」で存在する
何かを想定し、人は対話によってそれに近づいていけると確信して
いた。

ここで少し、パルメニデスとヘラクレイトスの考えに立ち戻る。
プラトンはヘラクレイトスの「万物流転」の考えに親しんだことが
あるらしいけど、人間が目の前に描く世界には、少なからず
人間による臆見(ドクサ)、つまり、全てが仮象とは言わないが、
人間の見方によって変化してしまうところがある、とは思っていた
ようだ。

しかし、全てが仮象であり、様々な区別が全て人間のドクサだとすると、
ソクラテスが存在すると思っていた、確実な、人間に善や美の感覚を
与える知識(エピステーメー)が存在しないことになってしまう。
何か確実なものが、人間に確実な知識を与えるものがどこかにあるはず
である(と、師匠に傾倒してたプラトンは思いたかったのだろうな〜、
という感じで否定的見解は進む。個人的に、というか肯定的意見からは、
このような見方はしない)。

そこでパルメニデスにならって、永遠不変の個物が何か存在する
はずである、万物が流転する中にもそれがあるから、人間は
ものを正しく認識する知識を得ることが出来るのである、とした。

また、そのようなドクサに支配されている現実の世界に、その「それそのもの」
が見出せることは考えにくい。だから、人間が通常認識することが
可能な現象界ではなく、人間が感じる「それそのもの」の世界がどこかにあって、
それを基準にして人間は物事を判断していると考えた。

なぜなら、人間は生まれ落ちたときからこの現実の世界にあるものしか見ていない
のだから、「それそのもの」を知る機会があったならば、それは天上などの
現実世界以外の世界においてしかありえないと思ったからだ。

ヘラクレイトスとパルメニデスの主張の、あいのこというか、統合というか
そんな側面もあるようだ。

たとえば、ソクラテス、パルメニデス、ヘラクレイトスはともに人間である。
しかしもし、ソクラテスやパルメニデスなどが、それ自体としてしか
存在しない個物であるとしたら、ソクラテスを人間と仮定したら、パルメニデスは
それとは違うわけだから、同じ人間というカテゴリにはおさまらない
ことになってしまう。しかし実際はそうではなく、ソクラテスもパルメニデスも
ヘラクレイトスも、人間だと認識している。こうした、ひとつのカテゴリが
成立するのは、ひとえに、人間に「人間のイデア」というものが存在し、
それと目の前の個物を照らし合わせて知ることができているからである、
とプラトンは説明する。

もうひとつ例え話をすれば、紙に直線を引くが、どんな人間が線を
引いても、それは絶対に完璧な直線ではありえないことは分かると思う。
しかしながら不思議なことに、人間はそれを直線だと認識できる。なぜ
だろうか?
それは、いつか天上にいる時に目にした「直線のイデア」と照らし
合わせているから、可能なのである。

とまあ、このような説明がイデア説である。

これだけ聞くとまさに宗教、神話的説明。プラトン教でも作ったのか
という感じだ。

イデア説はさらに発展する。

イデアには、上位のイデアと、その下位のイデアがある。これは仕組みを
考えると自然に出てくるが、三角形のイデアの上には、それと四角形とか
六角形のイデアをまとめた「図形のイデア」があると考えるのが自然だから
である。どんどん上位のイデアが、下位のイデアを包括していくわけだ。

そうすると、最後にどこにいきつくか?プラトンによれば、イデア全体を
包括する最上位のイデアは「善のイデア」である。そこから「徳のイデア」とか
「美のイデア」「真のイデア」などが分割されていくことになる。

そして、先に説明したように、これらは見て取れるような現実世界に
存在するのではなくて、「それそのもの」の世界、「イデア界」に存在する
とされる。

やっぱり長くなった。その2にいきます。

きょうの日記

2004年7月12日
きょうは、ふつうにHALでした(まぁ、ふつうじゃなくHALな日
というのはあまりないが)。

授業は相変わらず順調。ただ俺自身の目標設定からすると
まだ己を磨ききれてない日々が続く。
超人ですな、やっぱ。永劫回帰を欲しますよ。

<今日読んだ哲学本>
ヘーゲルそっちのけで哲学史をよんでます。
今プラトン通り過ぎてアリストテレスを少し見た。

アリストテレス後、デカルトまでたいした哲学の進展は
なかったようだけど、デカルト以後になってくると、
ガリレイとかニュートンとか出てきて、物理学的にも
かなり近代的な色を帯びてきます。

その神話的説明ゆえに、物理学とよく対比される哲学。
哲学学んだ後は物理学…というのもちょっとキツイが
よく知るにはそうしたほうがいいのかもしれない。
けど哲学の次は歴史学って決めてるから、物理学やるなら
その後…(´・ω・`)いつになるやら

ちょっと話を横道にそらそう。
なんで俺が哲学をいろいろ学ぼうと思ったのか、について。
なんつったって、つい最近だからね、読み始めたの。
5月とか6月じゃなかったか。ほんとに初学者なんだけど。

理由はいろいろある。まずいちばん大きなものが、
社会問題を考えるうえでの、何か指針が欲しいと思ったから
である。

今色々な問題を日本は抱えているが…、最も大きな問題といえば
自衛隊のイラク派遣だと思う。
まだ勉強中の俺だから、今はまだはっきり何かを言ったりは
できない、新聞も斜め読みしてるし。
新聞読むだけでも、それなりの意見は言えるようになるのかも
しれないね。けど、新聞の記事自体も、ある程度の基礎知識が
ないと、よく背景が分からないものが多くてまともに読む気が
おきない。小〜大まで完膚なきまでに劣等生だった俺は、歴史に
関しても政治経済に関してもその他に関しても、はっきりいって
標準的なレベルよりずっと無知である。

そこで最初は、改めて歴史を学ぼうと思った。歴史をひもとくことによって
今に生かせる知恵を得る…以上に、主に近代史において、日本と
世界がどうかかわってきたか、正しく知ろうと思ったからである。
学校で学んでいれば持っているはずの基礎知識がないから、
えらく苦労するだろうなぁとは思っていたけど、とりあえず
世界の通史などを書いてある本をいろいろ読もうとしてみた。

なにせ、今は歴史認識問題に関しては紛糾しているし、
投票権を持つ自分としても、自分なりの歴史観を持っておく
必要があるかと思ったから。

それで、足しげく図書館に通うようになった。あれやこれやと
歴史の本をあさってみるが…、思ったような、自分の見たい
歴史の本がない。というのも、歴史の本って、著者の考え方が
強く反映する本だよね。だから、なんというか、資料を直接
提示しながら吟味するような本が欲しかったわけだけど、
そういった本ってあまりない。教科書的な歴史の通史本か、
2.26事件とか細かい事例をくわしく扱った本か、歴史認識それ自体
についての考え方の問題とか、そういうのしか、見当たらない。

そのうち、欲しい本がないので、歴史本自体にすこし辟易してきた。
それでもとりあえず、教科書的な通史を読もうとは挑戦したけど
最初のほうで飽きてしまう。しょうがないので、いちばん興味が
ある、近代史の、特に日本の歴史認識問題の本をいくつか並行
して、興味を持続させつつ読もうかと思っていた、そんな折。

地元の図書館て、歴史の棚の裏に、哲学の本があるのよね。
で、歴史、と哲学者、って、ほかのものよりずっと結びつきが
深いような感じがしない?しないか(^_^;)なんか俺的に、
歴史本の文章って、たまに哲学者の言葉と共に引用されてたり
して、哲学者ってその時代時代の、重要な思想の核みたいなものを
つかみ出している人たちなのかなぁなんて漠然と思っていた。

まあ、当たらずとも遠からずという感じかもしれない。

で、棚が近いので、欲しい歴史本が見つからないときになんとなく
本を眺めたりしていた。

ニーチェとか、素人でも知ってるビッグネームには多少興味が
あったし、教養としても役立ちそうだし…
最初は、歴史のオマケ的に、哲学者の考え方も軽く敷衍しておこう
かな、なんて感じで読み始めた。
その時々の、思想の巨人たちの意見が、歴史を知るうえで参考に
なるかなと思ったこともある。
(就活で使えるかな、と思ったこともある)

で、最初は、かの有名な「図解雑学」シリーズの哲学を読んでみた。
図解がしてあって、分かりやすいよね。このシリーズ。だから
最初は期待していた。

だが。これが、大とは言わないが、ハズレだった。哲学者の考え方を
それなりに敷衍してはあるんだが、それぞれの時代における
そういった考え方の意義みたいなものが、ほとんど伝わってこない。

何を意味の無いたとえ話持ち出して、人間の心理とか世界説明
してるんだろうなぁ?物理学とか心理学のが優れているだろ。
と、思ってしまった。

最初から割となめてかかっていたので、その本を読んで、
やっぱこの程度なのかね〜、と少し落胆した。とはいえ、
俺がまだ、その人たちの考え方をよく知っていないから、
そう読めるのだろう、とも思った。そういった、何か深遠な
真理が隠されている迷宮というか、洞窟のようなイメージを
なんとなく感じていた。ともあれ、まだまだ色々読んでみる気はあった。

次に読んだのは。俺が今絶賛している、竹田青嗣さんの
「哲学ってなんだ」という本である。

これが、大当たりだった。

この本はじつに面白く、俺の今の哲学への興味の源泉は、
すべてこの本からきていると言っても過言ではない。
1日で一気に読みきってしまい、その後は、竹田青嗣さんの
ニーチェ入門、プラトン入門、現象学は<思考の原理>である、
はじめての哲学史、などなど、読み漁る、とまでいかないが
ある程度読み、今は恋愛論、恋愛というテクスト、ハイデガー
入門などを読もうと思って借りている。

哲学が築いてきた膨大な知恵の結晶と、それを今後に生かす知恵、
どのように哲学が進化してきたのか、そして今哲学界がどんな
方向に進んでいるか、ということが、非常にわかりやすく
説明してある。

竹田さんに対しては、批判もあるようだ。あるようだけど、
竹田さんの本を読む限りでは、これでほとんど説明し尽くされている
といった感が否めない。

もちろん、そう感じるからこそ、他の人の本と読み比べ、自分の
直観が正しいかどうか吟味する必要があるのだが(それこそが
哲学的思考である)。

えらい長くなった。ともあれ、こうして俺の哲学への情熱は
今にいたる。今では、歴史本そっちのけで哲学本を読んでいる。
とはいえ本義を外してもいかんので、歴史本も、哲学本がきり
ついたら、だんだん並行して読んでいこうと思っている。

次は、竹田さんが凄く評価しているプラトンの紹介ですな。
これも長くなりそうだ…
<その1からつづき>

ソクラテスがとった方法とは、対話(ディアロゴス)であった。
具体的には、さきに紹介したように、街中などで、若者などを
呼び止めて対話をふっかけるのである。
「正義とは何か」…などなど。

で、こんな抽象的な質問の数々に若者はどう答えるか?
現代人でも、答えづらいであろう質問…たとえばこんなものがある。

ここでは、テッタリアからアテナイを訪れている青年、メノンが
ソクラテスの相手となっている。ソクラテスの問いは「徳とは何か?」−である。

メノン「男の徳とは何より国事をよく処理し、友を利して敵を
威圧すること。女の徳は家をよくととのえ、夫に服従すること。
また子供には子供の、自由人には自由人の、召使には召使の
徳があることはいうまでもありません」

この答えに、ソクラテスはこう返す。

ソクラテス「−メノンよ、徳が何であるかについての君の答えは、
まるで蜜蜂がわんさと群れをなしているみたいにいろいろじゃない
か。だけど仮に、いろんな種類の蜜蜂がいるとして、しかし蜜蜂とは
何かと誰かに聞かれたら、君はいろんな蜜蜂における共通して
変わらない点
を見つけ出す必要があるのではないかね?」

ソクラテスはこんな感じで、相手の言葉をとりあえず受け入れ、
その矛盾をついて本質へ導くという、自らをして「産婆術」と
呼んだ対話の方法をとっていた。

続いてソクラテスはこう言う。

「君のあげたいろいろの徳についても同じことが言える。(略)
それらの徳はすべて、ある一つの同じ相(すがた(本質的特性))
をもっているはずであって、それがあるからこそ、いずれも徳で
あるということになるのだ。この相(本質的特性)に注目することに
よって、「まさに徳であるところのもの」を質問者に対して明らかに
するのが、答え手としての正しいやり方というべきだろう」

以上はプラトンの「メノン」からの引用を示したものだが、
この引用部分は竹田青嗣著「プラトン入門」から取り出した。

「現代人でも」と言ったが、ソクラテスの問答を見ると、
別になにも現代人と変わってないなあなんて思う。
現代に生きる人なら、この問いに即答できるだろうか?
できるとしたら、相当に考え詰めている人だろうと思う。
少なくとも、勉強中の俺には無理だなあと思う。

こういう対話の例は「プラトン入門」にもたくさんあって、
善とか美とか愛に対する対話は非常に興味深いものが多い。
原著読むのがいちばんだから、いずれ読もうと思う。

有名な、「ソクラテスより賢いものはいない」との神託を受け、
政治家などとの討論をしてみて「無知の知」を得た、その後の
ことかどうかは知らないが、有能な政治家との討論もしていて
これも結構面白い。ソクラテスは、善とか美のことを正しく知る
ことを、何より国をおさめる政治家などに求めたことでも
よく知られている。

さて、では、こんな言い方をするソクラテス自身は、この徳とか
善とかいうものの本質をどう考えていたのか?偉そうに説教言う
くらいなら、知ってたんだろうか?

善とか美に対して、具体的事例をあげることでは答えにならない
ことは明らかである。そこで、ソクラテスは「想起説」をとった。
(といっても、どこからプラトンの「イデア説」の布石になるのか
は分からないが)

これについては、プラトンの紹介のところでくわしく見たい。
簡単にいえば、「人間は、生まれてくる前に、天上において
善そのもの、真そのもの、美そのものを見ている。だからこそ
この地上世界でただしく真、善、美を判別できるのである」
という考え方だ。

なんじゃこら、ただの宗教?

まあ、そう聞こえてしまうのが普通かも。
ただ俺は竹田さんのプラトン評をいまのところ信用しているので、
この言い方の本質は、単なる宗教的説明ではないと思っている。

最後に、ソクラテスの最期についても、けっこう有名な話が
あるので紹介しておこうと思う。

ソクラテスは、「魂の不死」を信じていた。また、「真に知を
求めるものは、死を厭わずむしろそれを願っている」とまで言った。
なぜかといえば、「善そのもの」「真そのもの」「美そのもの」
といった概念は確かにあるが、人間は生きている限りそれに触れる
ことはできない。生きている限り、魂は肉体的な欲望にけがされて
いるからである。それら「存在そのもの」に触れるためには、
魂を肉体から分離して、魂を純粋な形で存在させたほうがよいのだ、と(ちなみに魂の不死に関しても、彼なりの論証がある)。

こんな考え方をしていたソクラテスは、「青年に有害な影響を与え、
国家の認める神々を認めず別の新しいダイモンの類を祭るがゆえに」
という理由から(実際はソクラテスをうとましく思うものの
謀略だったらしいが)、裁判で死刑が決定したときも、
死を恐れることなく、自ら毒杯をあおいで死に至った。
クリトンというものが脱獄計画を練って伝えても、逆にここで死ぬ
ことが正しいのだと説得してしまい、ホメロスやヘシオドスと
対話できることが楽しみだ、と言って、希望を胸に死んでいった
そうである。

ともあれ、ソフィストたちが言語によってあらゆる価値を相対化
しようとしたとき、いや、善なるもの、真なるものは確かに存在する、
と、人間にとって大事なものの確かな存在を主張したソクラテスは
偉大な思想家、哲学のビッグネームにあたう人であったと言う外ない
と思う。

余談だけど、個人的に、「饗宴」でのディオティマとソクラテスの対話は
恋愛論として非常に面白いと思う。「プラトン入門」にもあるが
原著も読んでみたい。
ついに、哲学史最初の巨人(?)、ソクラテスに入る。
より詳しい哲学史の本を読んで、じつはタレス以後のひとたちに
ついての間違いというか、無理解がより自覚できたように思う
けど、まぁ、初期の頃の哲学って神話的だし、直すのはまぁいいかな
なんて思う…めんどいだけだけど。そんなに大間違いはしてない
と思うし。

半端にしか知らないが、俺的にソクラテスというのは、
哲学で最初のビッグネームかと思う。いちおう、ヘーゲルも
「哲学史上最高度に重要な人」と評している。ビッグネームだし、
このころのソクラテスと他のソフィストとの討論は、今見ても
実に得るものが多いと思う。

今でも人間が子供のころに抱く素朴な疑問などは、このころにかなり
素朴な言葉で議論し尽くされているようなイメージがある。
正義とは何か、美とは何か、真とは何か、等々…

これでプラトンのイデア論、アリストテレスくらいになってくると
複雑な哲学用語が出てきて一般人には意味不明の体を見せてくる。
それでもまだデカルトくらいは読める。スピノザくらいになってくる
と、2ページ目で挫折とかいうレベルになり…、以下カント、ヘーゲル
ニーチェ、キルケゴール、フッサール、ヴィトゲンシュタイン、
などなど…、はっきり言って、意味不明な言葉の羅列集としか
一般人には思えない。(俗な俺には、そこがまた興味をそそる
部分なのだけど)

なんというか、俺も哲学初学者だからよく言い表せないが、
ソクラテスと一般人やソフィスト、政治家たちとの議論は、
それまでの哲学の集積をそれほど膨大に踏まえて展開されていない
(たとえば、ニーチェも言ったように…とか、ア・プリオリとア・ポステリオリ
だとかエピステーメーがどうとか、前提として持っている知識を要求しない)
ので、わりかし庶民がぱっと読んで分かりやすいのだと思う。

蛇足はこれくらいにして、ソクラテスの紹介にはいろう。

ソクラテス(B.C.470/469〜B.C.399)、アテナイ(アテネ)の人。
ソフィストからアリストテレス、このころの哲学は、アテナイを
中心に展開されていくようだ。

ちなみに、ソクラテス自身はまったく著書をのこしていない。
ソクラテスが何をしたかというのは、プラトンやアリストテレスなどの
著書の内容から把握するしかないが、これが編者によって微妙に
食い違っていたり、プラトンの著書は、プラトン自身の主張を
ソクラテスに言わせている部分もあり、どのあたりがソクラテスの
主張なのかははっきり判別するのは難しいようだ。しかし、とりあえずは
プラトンの著書、「ソクラテスの弁明」や「饗宴」「クリトン」
などを信用するのがオーソドックスであるらしい。

で、ソクラテスは何をしたのか?
これはソフィストの項でも言ったけれど、プロタゴラスをはじめとする
ソフィストたちの、「言葉なんてどうとでも言えるし、どんな
意味も相対化できる」というような主張に、真っ向から反対した
のである。

これは、自分の感覚を振り返ってみるとよく分かると思うのだけど、
何かを真(正しい)、善(善い)、美(美しい)と感じる感覚の
根拠は、何をどう相対化しようがあると思う。
概念を用いて抽象化し、どうにかごまかそうとしても、
正しいものは正しいと感じる(感じない人がいるとは信じられない、
自分を省みるに)。これをソクラテスは、どこかに
「真そのもの」とか「善そのもの」というものがあり、人間は
それをめがける心性があると直観していた。

素直な俺の考えをいえば、この善とか真という感覚は、
先験的(先天的)に持ってたものもあるだろうけど、
経験によってつくられてきているものも大きいと思う。
これはカントあたりで総括される問題でもあるけど…
俺の持論言ってもしょうがないですな。

とりあえずソクラテスは、こういった真・善・美の
感覚には、人間に共通の何か「真そのもの」や「善そのもの」
といったものがあると考えたのだ。

ソクラテスは、ではこういう問題をどう扱ったか?

その前に、ソクラテスがどういう人だったのかということも
紹介しておこう。

いつごろからかは定かでないが、アテナイのアゴラ(ギリシア
都市国家の市街地にある中央広場)に、はだしで歩き回り、
みすぼらしい服装をして、青年に対して「正義とは何か」
「善とは何か」といった対話をふっかける醜男のすがたが
見られるようになった。これがソクラテスであった。

これだけだとただの変人だけど、その弁論の鋭さとあいまって
すぐに町中の噂となり、また真理への情熱と人間的魅力によって
たちまち若者の人気者になったらしい。

また、町の若者だけでなく、政治家とか、自分では正義とか美とかが
分かっていると思っている人に議論をふっかけたことは、けっこう
有名かもしれない。

それでは、具体的にどういう議論をかわしたのか?
ちょっと長くなりすぎたので、一旦きります。
<その2につづく>

いやなかなか…

2004年7月11日
上々でした、デザイナーのサンデースクール。
イケメンの彼も、思ってたよりずっと大人だったと思った。
笑顔で接したら、笑顔で返してくれた。
俺とはちょっと合わないかもしれない、と思っていた
ふしはあるけど、クラスの雰囲気のこともあるし、
合わせてくれているようだ。感謝。

しかし、俺ってほんと会話が苦手。どうしたらいいのか、と
少し考えてみても、実際に誰かと繰り返し繰り返し話してみる
しかないように思う。

<今日読んだ哲学本>
哲学史のつづき。ソフィストも、プロタゴラスとか以外にも
かなり色々いるみたいで勉強になる。

ヘーゲルまだ読んでないなぁ。哲学史読んでからにしようかなぁ。

あわわ

2004年7月11日
昨日は休んでしまった。というのも、新たなもう少し分厚い
哲学史の本を借りてきてまとめてたからで、そうこうしてる
うちに1時とか2時になってしまい、気づいたらねてた…

かつて哲学史をまとめた人には、かの有名なヘーゲル、
ヴィンデルバンド、ジルソンの3人がいるらしく。
新しく借りた本では、このジルソンという人の哲学史観を
採用している。

やはり、竹田さんのとは少し食い違いがあるようで…
どうなんだろうか。まだ吟味できる立場ではないのだけど。

でこの本は分厚いだけあって、「はじめての哲学史」より
もう少し内容は細かい。色々と勉強になる。
今のところ、ピタゴラスまでなんとかまとめた。
あとエンペドクレス、アナクサゴラス、デモクリトス、
ソフィストたちを経て、やっとソクラテスに入る。これがまた
なかなか長い。原著読んでから、というわけにはいかない
から、これとはじめての哲学史からまとめていくが…
とりあえずソクラテスにいくまではまとめておかないと。

昨日の日記をかこう。

昨日は歯医者に行ったのと、図書館に本を返しに行ってまた
新しいの借りてきた。
返しに行くとどうしても次借りてしまうね(;’ー`)無限ループだ。

あとピアノを軽く弾いてるんだけど…
なかなか上達しませぬ_| ̄|○
はじめてどのくらいだろう?6月くらいからだから、まだ多分
1ヶ月くらいだけど。バイエル2が難しい。

で、今日は、HALの講師の人おすすめの、デザイナーの寄り合い
に参加させてもらうことになってます(有料だけど…)

サーファーの彼も来るんだよなぁ。どうしようなぁ。
どうしようなぁってのは、話しかけようかどうしようかって
こと。一応がんばってみようかなあ。無理だったらいいし。

<今日読んだ哲学本>
「昭和堂」ってとこの、「西洋哲学史−理性の運命と可能性−」。
これがまた、8人とか9人くらいの教授の集まりで書いてるから
…まあ、「はじめての哲学史」も、竹田さんと西さんが参加する
現象学研究会で、同じくらいの数のメンバーで書いてるんだけど。

なんというか、もう多少知っていることを、もう少し詳しく知る
ために読むというのは、最初に入っていくときよりも、もう少し
楽しい感じを受ける。あれだね、最初の一歩を踏み出すのは
難しいが、踏み出せてしまえば楽しくなるということね。
ピアノもはよそうなりたいんだが、あ、あとCGも。。

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