スイス人の言語学者、フェルディナン・ド・ソシュール
(1857〜1913)。

言語学って論理学とどう違うの。という疑問がまず湧く。
これは、よくは分かりません…

言語学は、言語の構造とか形式を探る学問。
論理学は、正しい思考の形式とか法則を探る学問。

思考は言語以外でしないから、結局、同じことを扱うことに
なりそう。ただ言語学っていうと、色んな言語の特徴とか
を照らし合わせたりしそうですな。論理学でも役立ちそう
だけど。論理学は言語学よりもう少し数学ぽいですね。
極めようと思うと、両方やらなきゃいけなくなると思うけど。

年代としては、ヴィトが1900年近いので、ソシュールのが先
です。言語を、いわば物事に貼り付けられたラベルのように
扱うことを、最初に疑った人。

従来の常識的な言語観(名称目録観)を、はじめて疑った
人です。

 
素朴に考えると、一見、言語とは、事物に貼られた名前の
ラベルに過ぎないと思える。俺も実際、そんな感じに
感じられる。しかし、そうやって考え詰めていくと、
結局、表現行為を含む、生き物のような不思議な言語の
性質をまったく説明できない。

考え詰めれば考え詰めるほど、数学的な捉え方とかが
出来ないことに気づく。
それで結局、後期ヴィトは、個々のルールによってしか
意味・用法が確定できないという結論に至った。

ソシュールはどうか、というと、これもまた独創的な
仕方で、これを分析したという。それは、言語をいくつかの
側面において二項に分ける、という方法。

これを整理すると、以下の4つに分けられる。

1.シニフィアン(記号表現)−シニフィエ(記号内容)
2.ラング(言語規則)−パロール(個々の発語)
3.通時(ディアクロニー)−共時(シンクロニー)
4.シンタグム(統辞)−パラディグム(範列)

はじめての哲学史では、1と2のみを取り上げている。
なんでも、3と4も基本的に同じアイデアだからだそうだ。

 
まず1から。

シニフィアン-シニフィエは、ソシュール言語学では最も
重要な概念。言語記号(シーニュ)は、記号表現(シニフィアン
=文字や音の像のこと)と、記号内容(シニフィエ=意味や
概念のこと)という2つの側面をもつということ。

例えば、「りんご」という言葉(シーニュ)は、「り」と
「ん」と「ご」から成る「りんご」という「音の像の契機
(シニフィアン)」と、「丸くて赤い果物としてのりんご」
という「意味の契機(シニフィエ)」を持っている。

シニフィアンと、シニフィエの意味はそれで分かった。
で、この2つは対応する記号ではないの?と思う。

しかしソシュールによると、このシニフィアンとシニフィエの
結びつきは、恣意的(その時々の思いつきで変わる)なものだ。

平安時代の言葉と、今の日本語の用法を比べてみればよい。
「おかし」にしろ「あわれ」にしろ、随分意味が変わっている。

このように、シニフィアンとシニフィエの結びつきは、
時代によってころころ変わる。

またこういう例もある。

かつてよく使われていた「山犬」という言葉が、今では
ほとんど使われなくなってしまっている。こういう場合、
この言葉がかつて表示していた概念は、現在では「狼」
とか「山犬」などの言葉に「包括」されて、その結果、
「狼」とか「野犬」という現在の言葉は、それ以前より
広い概念を含む、ということが起こりうる。

 
つまりどういうことか。言語が表示している記号と、
その意味は、恣意的にころころ変わりうるものだ、
ということだ。これがシニフィアン-シニフィエの意味。

その2にいきます。

勉強したい

2004年8月24日 連載
ピアノ、バイエル4に入った。手がやたら移動する。
3まではある程度固定的だったんで、練習曲って感じが
否めなかったけど、結構本格入ってきた感じがする。
「エリーゼのために」はどのくらいになったら弾けるのかなぁ。

哲学史、哲学書、歴史、宗教・神話、世界の名作、東洋思想
で、それぞれカッコとか囲いの形を決めておくと後で見返しやすい。

西洋哲学史:≪*≫
哲学書:<*>
歴史:■*■
宗教・神話:◆*◆
世界の名作:○*○
東洋思想:§*§
その他、読んだ本:▽*▽

更に、後から見返しやすいように、便宜的にこの日記の機能で
カテゴリ分けしたらどうだろうか?哲学史はもう遅いけど。。

というわけで、無難なカテゴリを抽出してみた。

哲学書     →趣味
歴史      →学校・勉強
宗教・神話   →ポエム
世界の名作   →読書
東洋思想    →エッセイ
その他、読んだ本→日常

それぞれのカテゴリで更新していこう。

これと哲学書一覧などは、見返しやすいように、「連載」カテゴリに
しておこう。こういう使い方はしていいのかな…
何読んでいいから分からない人は、太字にできないですね。
まぁ、多少知ってる人でも、何読んでいいかわからないんですけど
ね(-o-;)

<現代>
・フッサール
「算術の哲学」「論理学研究」「現象学の理念」「純粋現象学、
及び現象学的哲学のための考案(イデーン)」「デカルト的省察」
「間主観性の現象学」「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」


*未訳の膨大なフッサリアーナ

 
・ハイデガー
「心理学主義の判断論──論理学への批判的・積極的寄与」
「ドゥンス・スコトゥスの範疇論と意義論」
「アリストテレスの現象学的解釈――解釈学的状況の提示」
「存在と時間」「カントと形而上学の問題」「そま道」
「ニーチェ」「道標」「根拠率」「同一性と差異」「言葉への途上」
「思惟の経験から」「ゼミネール」

 
・サルトル
「想像力」「嘔吐」「想像力の問題」「存在と無」「自由への道」
「聖ジュネ──殉教者と反抗」「弁証法的理性批判」「家の馬鹿息子」

 
・メルロ=ポンティ
「知覚の現象学」「ヒューマニズムとテロル」「意味と無意味」
「人間の科学と現象学」「幼児の対人関係」「哲学をとなえて」
「弁証法の冒険」「シーニュ一、二」「知覚の本性─初期論文集」
「見えるものと見えざるもの」「言語と自然」「世界の散文」
「心身の合一」

 
・ソシュール
「一般言語学講義」

 
・ヴィトゲンシュタイン
「論理哲学論考」「哲学探究」

 
・ジェームズ
「心理学の原則」「宗教的経験の処諸相」「信じる意志」「根本的経験論」
「プラグマティズム」

 
・デューイ
「民主主義と教育」「経験と自然」「経験としての芸術」「誰でもの信仰」
「論理学─探求の理論」「評価の理論」「知ることと知られるもの」

 
・レヴィ=ストロース
「親族の基本構造」「人種と歴史」「悲しき熱帯」「構造人類学」
「今日のトーテミズム」「野生の志向」「神話学」

 
・ラカン
「エクリ」「フロイトの技法論」

 
・アルチュセール
「マルクスのために」「資本論を読む」

 
・フーコー
「狂気の歴史」「監獄の誕生」「言葉と物」「知の考古学」
「知への意志 性の歴史1」「快楽の活用 性の歴史2」
「自己への配慮 性の歴史3」「ミシェル・フーコー思考集成」

講義?:「言語表現の秩序」「知への意志」「刑罰理論と制度」
「懲罰的社会」「精神医学の権力」「異常者たち」「社会を守れ」
「保安・領土・人口」「生政治の誕生」「生者たちの統治」
「主体性と真理」「主体の解釈学」

 
・デリダ
「声と現象」「グラマトロジーについて」「エクリチュールと差異」
「余白」「散種」「弔鐘」「海域」「プシュケー」「フッサール
現象学における発生の問題」「時間を与える」「割礼告白」
「マルクスの亡霊たち」「友愛のポリティックス」「法の力」
「死を与える」「ならずもの─理性についての二つの試論」

対談集:「ポジシオン」

*「デリダ、異境から」とか「デリダ」って名前の映画もあるとか。
どういう映画?

 
・ドゥルーズ
「差異と反復」「スピノザと表現の問題」「意味の論理学」
「フランシス・ベーコン─感覚の論理」「シネマ1─映像=運動」
「シネマ2─映像=時間」「襞─ライプニッツとバロック」
「無人島 1953-1968」「無人島 1969-1974」「狂人の二つの体制 1975-1982」

ガタリとの共著:「アンチ・オイディプス─資本主義と分裂症」
「カフカ─マイナー文学のために」「リゾーム…序」「千のプラトー
─資本主義と分裂症」「哲学とは何か」

 
・レヴィナス
「フッサール現象学の直観理論」「全体性と無限」「存在するとは
別の仕方であるいは存在することの彼方へ」

ういー

2004年8月24日 連載
哲学史に目途がついたので、ようやくプラトン「饗宴」を
読み始めました。

それで…歴史も同じように通史を簡単にまとめる、宗教と
神話を学ぶ、東洋思想も調べてみる、世界の名作を読む、
を同時にやっていきたいんですが、とりあえず、読みたい人
限定で、哲学者と原著を簡単にまとめておきたいと思う。
特に読んでおきたいとか主著のものは太字にしておこう。

網羅するのは無理だから、羅列の後に大体「〜など」が
ついてると思っていただけると。。

<古代ギリシア>
・プラトン(ソクラテス)
前期:「小ヒッピアス」「ラケス」「カルミデス」「イオン」
「プロタゴラス」「エウチュプロン」「ソクラテスの弁明」
「クリトン」「ゴルギアス」「メノン」「リュシス」

中期:「メネクセノス」「エウチュデモス」「クラチュロス」
「饗宴」「パイドン」「国家」「パイドロス」

後期:「テアイテトス」「パルメニデス」「ソフィステス」
「政治家」「フィレボス」「ティマイオス」「クリティアス」
「法律」「第七書簡」

偽作?:「アルキビアデス第一」「アルキビアデス第二」
「ヒッパルコス」「恋仇」「テアゲス」「大ヒッピアス」
「クレイトポン」「ミノス」「エピノミス」

 
・アリストテレス
論理学関係:「カテゴリー論」「命題論」「分析論前書」
「分析論後書」「トピカ」「詭弁論駁論」

自然学関係:「自然学」「天体論」「生成消滅論」
「気象論」「宇宙論」「デ・アニマ」「自然学小論集」
「気息について」「動物誌」「動物部分論」「動物運動論」
「動物進行論」「動物発生論」「小品集」

形而上学関係:「形而上学」

実践額関係:「ニコマコス倫理学」「大道徳学」「エウデモス
倫理学」「徳と悪徳について」「政治学」「経済学」

制作術関係:「弁論術」「アレクサンドロスに贈る弁論術」「詩学」

著作の断片:「エウデモス、魂について」「哲学について」
「プロトレプティコス」

 
<中世>
・アウグスティヌス
「告白」「三位一体論」「ヨハネ福音書注解」「神の国」

 
・オッカム
「論理学大全」「自由討論集」「未来の偶然事に対する神の予定と
予知について」

 
・パスカル
「パンセ」

 
<近代>
・デカルト
「方法序説」「省察」「哲学原理」「情念論」「精神指導の規則」

 
・スピノザ
「エチカ」「デカルト論」「神学-政治論」「倫理学」「知性改善論」
「神・人間及び人間の幸福に關する短論文」

 
・ライプニッツ
「個体の原理について」「形而上学序説」「人間悟性新論」「弁神論」
「単子論(モナドロジー)」

 
・ロック
「統治論二篇」「人間悟性論(人間知性論)」「キリスト教の合理性」
「教育論」

 
・ルソー
「学問芸術論」「人間不平等起源論」「新エロイーズ」「社会契約論」
「エミール」
「孤独な散歩者の夢想」「対話、ルソー、ジャンジャックを裁く」
「告白」

 
・ホッブズ
「リヴァイアサン」

 
・ヒューム
「人性論」「人間悟性論」

 
・カント
「純粋理性批判」「実践理性批判」「判断力批判」「プロレゴーメナ」
「道徳形而上学の基礎」「道徳の形而上学」

 
・ヘーゲル
「精神現象学」「論理学」「エンチクロペディー」「法の哲学」
「歴史哲学講義」

 
・キルケゴール
「誘惑者の日記」「あれかこれか」「おそれとおののき」「反復
(「受け取り直し」とも)」「不安の概念」「哲学(的)断片」
「哲学(的)断片への完結的、非学問的な後書き、演技的、情熱的、
弁証法的雑集、実存的陳述」「人生における諸段階(「人生行路の
諸段階」とも)」「愛の業(わざ)」「死に至る病」「現代の批判」
「野の百合」「空の鳥」

 
・ニーチェ
「音楽の精神からの悲劇の誕生」「反時代的考察」「人間的な、あまりに人間的な」
「漂泊者とその影」「曙光」「悦ばしき知」「ツァラトゥストラはかく語りき」
「善悪の彼岸」「道徳の系譜」「ヴァーグナーの場合」「アンチ・クリスト
(反キリスト者)」
「この人をみよ」「偶像の黄昏」「ニーチェ対ヴァーグナー」
「ディオニュソス―頌歌」「権力への意志」

 
・ベルクソン
「意識の直接与件に関する試論」「物質と記憶」「創造的進化」
「道徳と宗教の二源泉」

 
・フロイト
「精神分析入門」「夢判断」

*探したら50冊くらい出てきたんですが割愛。。
みんな実はそれくらいありそうだなぁ

 
・マルクス/エンゲルス(どちらが何書いたかは知りません)
「聖家族」「哲学の貧困」「フランスにおける階級闘争」「ブリュメールの18日」
「フランスの内乱」

「経済学・哲学草稿」「ドイツ・イデオロギー」「共産党宣言」
「フォイエルバッハのテーゼ」「経済学批判」「ヘーゲル法哲学批判」
「資本論」「剰余価値論」

 
 
いったん切り。
<その4からつづき>

しかし、後期ヴィトの指摘を覆すような論理は見受けられない
気もするけども…どうなんでしょう。
それはまぁ、とりあえず前提として、それでも確実に言える
のはなんだろう、ってことかな。

次はクーン。

クーンの主張は、論理実証主義とは少し一線を画すらしい。
というか、根本的に対立するのだとか。

科学哲学に対して、科学革命論とかいいます。
革命って、なんかすごいね。

クーンのキーワードは「パラダイム」。
考え方としては、少しフーコーの思想と似たところがある。

論理実証主義の科学哲学の目的が、普遍的で、歴史を
通じて理解できる「科学の論理」を明らかにすることだった
のに対して、クーンは科学の歴史性を強調して、各時代の
科学が、その時代に特有のパラダイム(クーンでは、科学
研究を一定期間導く,規範となる業績を意味する)によって
規定され、あるパラダイムに他のパラダイムが取って代わる
ことには、累積的発展ではなくて、革命的断絶があると
主張した。

すべての時代の科学を貫く「科学の論理」は存在しない。

何が科学的言明の正当化の基準か、何が説明を要する事象で
あり何がそうでないか、等はパラダイムに相対的にしか
生まれないのである。

これもまた、科学哲学にとってはそれなりの打撃だった
らしい。

 
次、発話行為論という理論で、オースチンて人。

この人は言語哲学において、論理実証主義とは全く異なる
分析を展開した「日常言語学派」の代表らしい。

フレーゲ以降の言語哲学の中心問題が、言語表現の意味
とは何か、あるいは、文の有意味性の条件は何か、という
ことであったのに対して、オースチンは、言語活動を一種の
行為(発話行為)と見なして、言語表現の意味と、その
言語表現の行為自体が持つ力との関係を分析した。

たとえば、「私は約束する」と発言することは、それ自体が
ひとつの行為になっている。これは事実を記述している
のではなくて、行為を遂行していることだとされる。

このような現象に着目したオースチンは、言語を用いた
行為が、次の3つの側面を持つことを明らかにした。

まず、言語を単なる音声としてではなく、言語として
発言する、という側面を「発語行為」。

次に、言語を発言することにおいて成されている行為
(約束する、とか、謝る、とか)を「発語内行為」。

また、ある発言を成すことの結果として聞き手の状態が
何らかの仕方で変化する。発語行為をこの側面から見る
とき、それを「発語媒介行為」という。

オースチンは分析の中心を発語内行為において、
発語内の力を明示的にあらわす表現を列挙して分類し、
それらの表現と社会的約束・規約の関係を考察して、
またそれらの分析の結果もたらされる哲学的問題(特に
真偽への執着とか事実-価値の二分法への批判)を
論じた。

これはいまだ言語哲学のひとつの中心として展開発展
している…とは言うけど、実際どうなんでしょうね。
かなり頭に残りにくい、、、脇役というか、、、
そんなこと言っちゃいけませんか。。。。

現象学や後期ヴィトと、科学哲学の論理実証主義とか
科学革命論の関係を考えてみたいものです。
だいーぶ先になるだろうけど。。

 
ようやく論理実証主義が終わって、次はソシュール。
<その3からつづき>

次にグッドマン。

グッドマン、なんかロックマンのボスを連想するけども…

この人の説明はなんか難しい。

噛み砕くと、科学理論は、単に事実と一般法則の事実関係ではない。
人間がどういう概念を照らし合わせるかという問題も重要で、
いかなる概念をもってそれを説明するかという、概念的問題にも
かかわっている。このことを示すために、概念の「投射可能性」
に関する分析をしたとか。

詳しくは分からないです。

 
次はヘンペル。

このヘンペルの理論は、長いこと科学哲学で公認とされてきた理論
だとか。今はもう破綻気味らしい。

ヘンペルによれば、ある事象を説明するとは、その事象を
一般法則と個別的諸条件から論証することであると考えた。

少し意味は分かりづらい、結局、その事象が普遍的な一般法則
(すべてのAはBである)に従っているか、それとも統計的法則
(AがBである確率はxである)に従っているかで、前者なら
演繹的論証、後者なら帰納的論証とするということらしい。
個別的諸条件てこれに必要なの…?

前者を説明の「演繹-法則モデル(D-Nモデル)」といい、
後者を「帰納-統計モデル(I-Sモデル)」という。

なぜこれが破綻したのか?けっこういけてる気もする。

実は、ヘンペルの条件に従うのに物理法則と認められてる場合とか、
従わないのに認められてる場合があって、破綻気味なのだそうだ。

なので、まだ色々な異説が出てくる。

説明とは論証である、とするヘンペルの説に反対して、

説明とは世界の実在的因果気機構を明らかにすることだとする
因果論的アプローチ、

なぜ?という疑問に対する答えが説明であるとする語用論的
アプローチ、

認識の統一化をもたらすことが説明の目的であるとする統一化的
アプローチがあるという。

もう、何が何やら。異説乱立という感じですね。収集つくん
でしょうか。フッサールの危惧したとおりになってるぽい。

 
論理実証主義から来た科学哲学の流れは、とりあえずここで
終わり。科学哲学はまだ続きますが。

 
次は、相対性理論による時間空間論の変化をのべます。

ここでまたライヘンバッハが登場。

この人がまた何を言っていたのか。

実は物理理論には、事実についての言明と見えながら、実はただの
ある語の使用に関する便宜的な、定義的言明にすぎないものが
存在することを発見した。

例えば長さが合同だとか、同時刻に何があったとかは、
これは客観的事実ではなくて、人間が規約として作った
だけの尺度に合わせたもの、らしい。

うーん、微妙に分かりづらい。

ライヘンバッハは、時間空間の計算的性質の全体が、
時間空間の自体的性質ではなくて、理論の記述の仕方に
関わる規約的なものである、という主張を展開。

つまり、時間とか空間っていうのは、本来定量を比較
したり、計算できるもんじゃない、それは人間が便宜上
そう決めてるもんってだけ、ってことでしょうかね。
よくわかりませんけども。

この説はまたグリュンバウムらによって発展させられて
様々な議論を巻き起こす。最近ではさらに、量子力学の
観測問題をめぐる議論とならんで、現在の科学哲学で
最も活発に論じられているという。
<その2からつづき>

アレ、いずれ扱う、といったけども次は科学哲学です。

今まではウィーン学団のノイラート、シュリック、
カルナップに加えて、ケンブリッジのエイヤー、あと
クワインについて扱いました。

ここではライヘンバッハ、ポパー、グッドマン、ヘンペル、
グリュンバウム、クーン、オースチンの7人を順番に
扱おうと思います。さわりだけって人もいますが。
最後のオースチンは、言語哲学みたいですけどね。
ソシュールとは考え方は違うのだろうか。

しかし、後期ヴィトやクワインの指摘で明らかになった
論理実証主義の根本的な誤り、それを踏まえて今日の
科学哲学は成立できているんだろうか?

それでもめげずに、科学を論理によって保証しようとした
んだろうか。

確かに、科学は今もって非常に有用なツールだ。
数多くの物理法則を用いて作られた技術は船、飛行機、
発電所、自動車、スペースシャトル、色々なもので
使われている。見出した物理法則は、極微の誤差は
あるかもしれないが、ほぼ問題なく運用可能だ。
物理法則がおそらく客観世界の法則を写し取っている、
という確信は俺にもある。

相対性理論で説明できない事象は、この宇宙の中では
ほとんど起きていないのだろう。よく知らないけど。。。

それらが正しいと仮定すれば、論理もそれを保証しなければ
ならない。そういう感覚も、俺には分かるような気もする。

また、物理学はこの世の一切を説明しているのだから、
伝統的哲学なんて無用、物理学からのアプローチで
哲学的問題は正しく解決できる、と考えるのも無理は
ない。ニーチェやフッサールは、そういう考えをこそ
否定していたわけでもあるが。

とりあえず順番に見ていきましょう。

ライヘンバッハから。

現代に極めて大きな成果(よくも悪くも)をもたらした
科学技術。その科学の論理について、それでは一体、
いかなる経験的証拠が、理論を支えうるかという理論の
確証の問題、ある事象を科学的に説明するとはどういう
ことであり、どういう条件を満たすとき、その事象は
科学的に説明されたと言えるのか、という科学的説明に
関する問題がある。

特にアインシュタインの相対性理論の出現に刺激されて、
時間空間の本性に関する哲学的分析がライヘンバッハに
よって行われたという。

それで、物理理論の構築において、「規約(人々が協議して
決めた規則)」の役割を重視する「規約主義(コンベン
ショナリズム。あらゆる原理原則を、人間が便宜的に規約と
して定めた人為的なものと見るもの。真理の客観性とか
絶対性を否定する立場。ポアンカレが主張した)」と
よばれる立場が提唱された。

それで、この規約主義から見て、科学の確証性はどうなるか。

これに関しては、カルナップとライヘンバッハが一緒に
「帰納論理学」というのを考え出した。簡単に説明する
と、経験がある法則を示す「度合い」とか「確率」ごとに
数値で分ける、みたいな感じ。
(帰納っていうのは、事象の集まりから、それに共通する
一般的な法則を取り出すこと)

ぶよぶよで黒くなったりんごを食べたらお腹をこわした。
10回食べてみたけど、9回お腹をこわした。
なら、9割の度合いで、ぶよぶよで黒くなったりんごは
お腹をこわすと判断できる。

こんな感じでしょうか…頭悪いたとえですけども。

しかし、その帰納的確率をいかに解釈するかに関して、
これまた頻度説、論理説、主観説等さまざまな見解の
相違があってまとまらない。まぁそうなる気がする。

でも統計的な確率で、科学法則の蓋然性(確からしさ)を
確かめるというのは、割といけてる気もしますね。

これに関して、次はポパーから新たな見解が。

ポパーは、科学における帰納的方法の使用を否定した。

科学の論理としては、経験の集合から演繹(論理的に結論を
導き出す)できる法則のみを用いる演繹主義の立場から、
「反証主義」と呼ばれる立場を提唱。
単なる演繹は帰納ではないんだろうか。

この立場によると、科学理論は経験的証拠によって
帰納的に支えられることはできない。ただその理論から
演繹される観察命題が、いまだ経験によって反証されていない
ことによって、経験的裏づけを得るのみだ。

確かにそうかもしれない。まったく新しい実験結果とか
物質とかが発見されたら、物理学は大きく揺らぐ。
それがないから、今のところ正しいとされてるに過ぎない。

ってそんな単純な話でもないのかな。
<その1からつづき>

ならば、こう考えたらどうか。

「原理的」に経験可能か否かの問題だ、と。

神がどうのなんて、原理的に経験不可能。

しかし科学的実験なら、原理的に可能だ。これでどうだ。

細かく書くと、こう。

「ある有限数の、原理的に可能な個別的経験からの
演繹可能性」によって、経験的普遍命題の有意味性が
確保できる。

しかしこれが、昭和堂の解説によれば(といっても、
分析哲学的にはもう過ぎた話らしいので、定説なんで
しょうけども)ここにも問題が生ずる。

命題論理の法則(さきの分析のことだろうか?)によって
ある文から「SまたはN」という文が導かれる。

したがって、原理的に経験可能な事柄に関する文(観察文
と呼ばれる)の集合からSが演繹されるなら、同時に、Sと
任意の形而上学の文Nを組み合わせた「SまたはN」も演繹
され(具体例があると分かりやすいんですが、ないです…)
てしまい、この場合、Nも同時に有意味になってしまう、
のだという。

だから、結局この論理を使うと、科学的命題と形而上学的命題を
振り分けることはできない。

うーん、どういうことでしょうね。
具体例がないと俺にはよく理解できませんが、実際にこれは
まずかったらしく、エイヤーって人がまた新たな妥協策を
提示したそうな。

しかしこれが、上とどう変わったかはよく分からない。

昭和堂から引用すれば、

<ある分析的でない文Sが有意味であるのは、それと他の
観察文O1、O2、……、Onの連言「SかつO1かつ……かつOn」
から、それらの観察文のみからは導かれない少なくとも
ひとつの観察文Oが導かれる場合である>

つまり、いっぱい実験して観察して、それらからなんか
法則が導ければ、それは有意味、ということみたいですな。

しかしこれでも無理。

なぜなら、「SかつO1かつ……かつOn」に形而上学の文Nを
加えて「SかつNかつO1かつ……かつOn」としても、観察文
Oが導けるから、だそうだ。

だから、結局これらの方法では、科学的命題の特権性を
保証するには至らなかったようだ。

 
さらにクワインという人が、分析的文と非分析的文の
区分け自体に循環(トートロジーで説明しちゃってる部分が
ある、ということ?)があり、そのような区別がそもそも
成り立たないことを指摘して、がらがらと崩れてしまった。

 
このことはまた、文の意味に関して、決まりごとで分けられる
ところと、経験によって定まる部分が、分けられないことを
意味する、らしい。

そもそも、個々の文の経験的意味を、「固定したもの」として
切り離すことが原理的に不可能なのである。それは確かに
そうかもしれない。ヴィトが直観していた問題と同じ
ですね。言語ゲームのルールによって、文はいろいろな意味を
もつ。

だから、経験的テストの集合によって文の意味を確定しようと
する論理実証主義の企ては、そもそも不可能
なのだ。

ヴィトを見てからだと当然といえば当然だけど、しかし
科学的知識は確実に形而上学と区別できそうにも思えたので
驚きの事実。

ではクワインはなんて言ってたの?といえば、彼はヴィトと
同じようなこと言ってて、真偽が経験によってテストされる
のは、個々の文ではなくて、文の集合がある構造をもって
体系づけられた、理論の全体であるとした。

論理的真理のような、経験によって訂正不能なものも、
理論全体を経験とつきあわせていくと、修正されることも
ありうる、という。

こうしてとりあえず、ヴィトと似た流れで論理実証主義は
受け継がれていく。

しかし前期ヴィトの後の話なのか、後期ヴィトの後の話
なのかわかりませんね。後期ヴィトの後なら、なぜもう一度
破綻したことを蒸し返してるのか分からないから、多分
前期ヴィトの後なんだろうなあ。

その3へ。
昭和堂に、ヴィトの後の論理実証主義の展開があるので
簡単にまとめます。

しかしよく見てみたら、はじめての哲学史もオマケ的に
ラッセルとフレーゲ扱ってありました。
あとホワイトヘッドも…ま、いいか。

さてフレーゲ→ラッセル→ヴィトで発展してきた論理実証
主義。といっても、論理実証主義って、実は「論理哲学
論考」を科学の補強に使おうとした人たちの学派なのかな?
よく知りませんが。「分析哲学」のがよさげですかね、
やはり…いやなんとも。

まあ、とりあえず論理実証主義のその後。
ヴィトのところでも出てきたノイラート、シュリック、
カルナップ等の、ウィーンの哲学者によって作られた
「ウィーン学団」、ベルリンにいたライヘンバッハ、
ケンブリッジのエイヤー等によって押し進められて、
哲学というか、科学的世界像を標榜して、20世紀の哲学界に
大きな影響を与えた。

哲学にはまだ「科学哲学」という分野があって…
まだ浅学者にはわからないんですが、多分これは
ニュートン力学で宇宙のすべてが説明いくと考えられた
頃から続いているであろう、物理法則のみが世界を支配する
という機械論の延長のような哲学分野なのではないかなぁ、
と思っています。

しかしイオニア自然学派のころに成された世界説明にその
端緒を見るなら、今や世界説明の決定版である相対性理論、
または大統一理論(?)とかそのあたりは確かに、哲学の
分野のひとつになっていておかしくない気もしますね。

それらの科学哲学も、基本的にこの論理実証主義を基礎と
している。昭和堂によれば、科学哲学は、論理実証主義の
哲学者から始められたし、また、現代の科学哲学も、この
論理実証主義を超え出てはいない、といわれることもある
らしい。現代の科学哲学にも欠陥があるが、それを乗り越える
のは、論理実証主義によってしかありえないとも考えられて
いるらしい。

まぁ科学哲学はいずれ扱うとして、ここではヴィト以後の
論理実証主義について。と、いっても、前期ヴィトは
踏まえていても、後期ヴィトの内容を踏まえているとは
思えないんですけども…

だからなのか、結局、彼らの「意味の検証理論」は多くの
問題を含み、有意味に語られうる科学的言明と、無意味な
形而上学的言明の分離を成し遂げ得ないことが判明した、
そうです。

まぁ、多分、物理学の結果だけは絶対に正しいという
前提が先にあって、言語の構造をそれに無理やり合わせる
やり方をしてるのでしょうから、そうなるのかもしれない
ですね。現象学とか言語ゲームの考え方からすると、
それは逆説的な事態なわけですし。

まぁ、とりあえず具体的に見ていきましょう。

科学の方法の中心は、実験と観察および数学的演繹である。

対して、形而上学的命題は、その多くが思弁的(経験に
よらず、思考や論理にのみ基づいている)である。

だから、科学のほうが、世界認識のための正しい方法である。

これを、論理学のつきつめによって明確に証明可能だと思った。

それで、「論理哲学論考」の方法をもとに、考え詰めてみよう
と思ったのが、論理実証主義の人たちだと思う。

つまり、論理学において、有意味な(真か偽かが確実に判明する)
命題は「科学的」だし、真偽どっちだか判明しようもないような
無意味な命題は、「形而上学的」になる「ハズ」だ、ということ。

当然、命題が有意味であることの基準を設けなければならない。
そこで、1.分析的であるか、2.経験的検証が可能か、の
どちらかを満たさないと、有意味にならないとした。

1.分析的である、というのは、例えば
「今日は雨であるか、または雨でないかである」
という文は、事実がいかにあるかにかかわらず、「または」と
「〜でない」という語の意味のみによって真であることが分かる、
そんなような文章のこと。確かにこれは、事実がどうであれ
必ず正しい文章のように思う。

対して、事実に対して語る、分析的でない文章の場合は、それが
いかなる可能な経験によってそれが真、あるいは偽であると
判定されるかがその文章の意味である、とされる。

確かにこれだと、形而上学的命題は、どれも分析的でも
なければ経験可能なものについて語ってるわけでもなく、
無意味な命題となる。

神の存在とか、世界の果て、世界のはじまり、とかね。
モナド、ヌース、ト・アペイロン、ト・ヘン、なんでも同じです
けども。

しかしながら、これだと、科学が求めている経験的普遍命題
(科学が前提している、「世界は数学的法則に貫かれている」
というものが端的)までもが、ほとんど無意味になってしまう
のだ。

なぜならば、それを経験的に確かめようと思ったら、過去・
未来にわたってこの世で起こるすべての事象に関して
それが正しいことを経験によって確かめなければならない
からであり、それは不可能である。
だから、科学の前提してる経験的普遍命題のほとんどが、
この理論でいくと無意味化する。

これはピンチだ。それでは、どうしたらいいんだろうか。
その2へ。

最近いろいろと

2004年8月22日
悩んでいても、その悩みに正面から向き合えない自分に
辟易するという、悪循環に陥って、それ自体がまた悩みに
なるっていう悩みに悩んでる(?)んですけども、

こういう時って、やっぱり、そのおおもとの「悩み」を
本質直観して取り出して、それに向き合わなければ
いつまでも鬱、不安な気分の源泉が取り除けないですね。

やっぱり人間、「誰かに認めて欲しい」という欲望が先に
あって、その手段をもてないから悩む、というパターンが
多い気がするんです。

俺の場合も、それは多分変わらなくて。でも手段はやっぱり
人それぞれで、俺には俺なりの手段が多分持てるはずで。
それは大方見通しがついていて、でもなぜか本気になって
それに取り組む「情状性」が起きてきてくれない。

環境を変えなければならないかなぁ、と思う。ずっと親の
庇護下に居て、ここにいれば苦労しなくても生きていける
という無意識下の安心感みたいなものが、どうにも俺の
力への意志…なんか哲学用語が混じる…を鈍らせている
ところがあるんではないかと。

俺もう、20を超えたあたりの大人なので。
来年あたり、住み込みでバイトできるところを学校から斡旋
してもらえるようなら…是非そうしたいと思う自分がいる。
100円で買った文庫、世界の名作もたまってきたので
とりあえず、いまの鬱な気分に合いそうなカフカ「変身」を
読みますた。表紙もこのまんま。

とりわけ、何か大層な感想が書けるわけでもなく。
ネタバレもありません。。

ただ止揚とか形而上学的とか、あとがきに書いてある
言葉の意味が、哲学で色々な文字に触れてるおかげで
分かったのは少し嬉しい感じ。教養がついたように
錯覚できて(^_^;)

確かに面白かったけど、何かこう、ぐっとくるものが
あると良かったですな。次はノーベル賞受賞作品の
ジッド「狭き門」でも読んでみようかな。

「変身」も「狭き門」も薄いのがいいですね。寝起きに
ベッドでごろごろしながらすぐ読み終えられる厚さ。

スタンダールの「赤と黒」も読んでみたいんだけど、
なんというか、厚いから手が伸びない。。

ヘミングウェイとかゲーテ、ドストエフスキー?
なんかを読んでみたいであります。サルトルも小説
書いてるみたいですが。
<その6からつづき>

3.あらゆる判断は一群の信念にもとづく

晩年のヴィトは、学問の論証における判断が、何を根拠にして
行われているかを考えた(これもまた、言語ゲームの一環である)。
そこで下した結論が、これまた、現象学とよく似ている。

真偽を可能にする言語ゲームには、一群の「疑い得ないもの」
があり、それが真偽の判断を可能にしている、とヴィトは言う。

たびたび使うが数学の公理もそうだし、例えば、この世界は
かくかくのプロセスで存在するようになった、とか、色々ある。
人間の能力を進化論的に説明して見せる人がけっこういるが、
これは大昔からの地球の存在を前提しているし、生物の進化も
疑っていない。

これらは実際には要素命題にならないし複合命題でもない、
蓋然的にしか正しいとは言えない命題だが、かえって、他の命題の
真偽を判定する根拠としてはたらく。そのような一群のものが
われわれの「世界像」を形づくっている。

ヴィトいわく、
<私の世界像は、私がその正しさを納得したから私のものに
なったわけではない。
(中略)これは伝統として受けついだ
背景であり、私が真と偽とを区別するのもこれに拠っての
ことなのだ>


驚くほど、現象学の見解と一致するところがある。

ただはじめての哲学史によれば、ヴィトは慣習のみに言語ゲームの
成立根拠を求めたが、これでは少し潔癖すぎる。
<言語ゲームはどこにもその必然性をもたず慣習によってのみ
支えられる>と彼が言うとき、言語ゲームは本当に慣習にだけ
動かされる自動機械のようなものになってしまう。

人間のもつ「力への意志」、「志向性」がそこへ加わることで
人間の「実存」にとっての言語ゲームは、もっと深い洞察へ
至るのではないか。そこに巨大な可能性があるのではないかと、
この書では問うている。

ヴィトはこれでおわり、論理実証主義についてもう少し扱ってから
次はソシュール、構造主義、ポスト構造主義にいきたいと思います。
<その5からつづき>

ヴィトの思索はチェスの比喩にとどまらず、より具体的な、
様々な言語使用の場面に着目する。材料を渡して建物を作る
というゲーム、売り買いをするゲーム、子どもに物の名前を
教えるゲーム…<言語ゲーム>はこうして、私たちが振舞う
制度性一般を指す言葉へと拡張されていった。

ヴィトいわく
<私はまた、言語とそれを織り込まれる行為の全体をも
「言語ゲーム」と呼ぶであろう>。

新たに拡張されたこの「言語ゲーム」を、はじめての哲学史
から、3つの特徴に分けて紹介したい。

1.言語は行為としてある

言語を<言語ゲーム>として捉えることは、言語の本質を
人間の活動ないし行為として捉えるということ。

なぜなら。言語ゲームとして捉える限り、どんな言葉も、
あるゲームの中で取り決められたルールにのっとって、
自分が他人やほかの事物とかかわりあうその時に発せられる
ものだから。

そういった「状況」「文脈」なしに言語が語れないことは
今までの考察からも明らかと思う。

「言語」は、単純に状況や事物を「写し取る」ものではない。

言語ゲームのルールにのっとって、もっと言うならば、
その場の必要性とか有用性に多くを拠って発せられるもの、
である。

これはフッサールの「志向性」、ニーチェの「力への意志」に
よる世界解釈と、深く通じるものがある。

 
2.ルールよりもゲームが先行する/ルールに絶対の
根拠はない


さきに言語ゲームとチェスが比喩で用いられたが、同時に
ヴィトは、チェスと言語ゲームの違いもはっきり述べている。

チェスではあらかじめそのルールが決められているが、
言語ゲームはそうではない、ということだ。

言語においては、文法(ソシュールでいう「ラング」)よりも
実際にあれこれと語り合う行為(ソシュールでいう「パロール」)
のほうが先行している。

人間の言語の身につけ方を振り返ってみれば、我々は
その全体像がつかめないまま言語ゲームに加わっていき、
自然とそれを身につける。
あとからそれをある程度自覚的に取り出すことは可能だが、
そのすべてを明瞭に意識化し記述することはできない。

また、この言語ゲームが固有のルールをもつことは、
どこかにその絶対の根拠があるわけではない、ということも
重要だ。

思えば、チェスのルールだって、そのルールでなければならない
必然的な理由などない。言語も学問も考えてみれば同じである。

ならば必然的ではないにしろ、それを支えている根拠とは
何か…?

一切の文化的な営み(言語・学問・法律・その他の
制度)にはそれを外から支える根拠があるわけではなく、
言語ゲームはどれも、日常的なふるまい・慣習を最終的な
根拠として自らを支えている
、とヴィトは考えた。

みっつめはその7へ。
<その4からつづき>

つぎ、後期ヴィトへいきます。

「論理哲学論考」で一応すっきりして哲学から離れたヴィトだが、
シュリックとかカルナップというウィーンの科学者たちが
この書を聖典にように扱い、そこから「論理実証主義」を
作り上げた。彼らにとっては科学的知識が大切で、この書が
科学的知識と擬似科学的知識をより分ける基準を鮮やかに示した
書物であると受け止められたわけだ。

これはヴィトの意図するところとは大分違っていたけども
確かにこの書の論理から帰結するところではあった、らしい。

単純にその事態に違和感をおぼえたこともあっただろうけども、
きっとこうなったことには誤りがあると考えて、ヴィトは、
もう一度哲学活動を再開する。

前期の言語観では、客観がまず存在して、言語がそれを写し取る
と考えられた。しかし哲学活動を再開したヴィトは、これが実に
素朴な前提であることに気づく。

「この花は赤い」という要素命題がある。しかしこれは、単純に
「この花が赤い」ということを示さない。

「この花が赤い」、と言うと同時に、「この花は白や黄色、黒、
青…etc…の色ではない」ということを含意する
のだ。

つまりどういうことか?

言葉というのは、「客観を写し取る」のではない。

赤とか白、黄色といった「色」を示す「言語の体系」から、「赤」
をいわば切り取って目の前の花の色に当てはめる、のである。
つまり、言語と無関係に目の前の事象がある、のではなくて、
実はそれらは、言語体系によって輪郭づけられているのである!

ちょっと飲み込みづらい事実だが、確かにそうとも考えられる。
もともとは数学的に捉えられると思われていた論理学が、
このような帰結を見たのは驚きだ。

そしてこれは外的な対象だけではなく、内的な感情や感覚に
関しても言える。ハイデガーの「言葉の家」を彷彿とさせる。

ヴィトの思索が深まるにつれて、言語が外的な対象や内的な感情と
どのように一致するか、ではなくて、言語という自律した体系の
中で、語や文がどのように扱われるか、を考える方向に向かって
いった。

それと共に、言語は「事実の像」ではなくて、チェスの比喩に
よってイメージされるようになってくる。

<「黄色」という語の意味がわかるということは、様々な
規則からなるチェスというゲームにおいて王という駒の動かし方を
知っているのと似ている>


言語もチェスと同様、さまざまな規則の束(文法)から成っている。

語の意味とは文法のなかでその語が占める位置であり、語の意味を
知るとは語の使用規則(用法)を知ることである、とされる。

これはソシュールの言語観にも通じるものであったそうだ。

その6から、もう少し詳しくこのルールについて説明します。
<その3からつづき>

ここからは「はじめての哲学史」より。

前期-後期にわたって、重要なポイントをいくつか。

ヴィトが生涯にわたって考えていたのは、「世の中がどうなって
いるか、人生の意味とか、善悪について考えることは、実は
不可能ではないか」ということ。

「人生の意味」とか「善悪とは」というのは、誰もが気になる
問いだ。これについて語ることは可能なのだろうか。

同時に、「世の中に有意味に語れるものは、どこまで
なのだろう」と考えただろう。

そこでヴィトはこう考えた。

<思考が言語によって営まれる以上、言語の本質を明確に
することによってこの課題は果たしうる>
と。

言語に着目することで、謝った知識や無意味な問いを取り除こうと
する「治療的態度」、これがヴィトの生涯を貫く基本的な態度だった。

それでは、「論理哲学論考」では、どのような命題が有意味だと
されたか。

これは、昭和堂の説明ではかなり難しかったが、簡潔に言えば

「目の前のものを見て、「それはかくかくの性質を持っている」と
見たまま判断できる命題」。

例えば、「あの花は赤い」、とか。世界にあるものをじかに扱い
見れば誰だってわかる確実な命題。

このような、実際に見て確かめられる、最も簡単で確実な命題を
「要素命題」と呼んだそうだ。めちゃくちゃ分かりやすいね。

要素命題は、有意味な命題のいわば「原子」。

複数の要素命題を、「かつ(∧)」「または(∨)」「ならば(⊃)」
といった論理的操作によって組み合わせると、「複合命題」が
出来る。

たとえば、「あの花は赤く」かつ「この花は白い」とか。

では、どんな命題が有意味かは答えが出たと思う。

「実際に見て確かめられる事実に関する命題か、それを組み
合わせて出来る命題」


有意味に語れるのは、これだけ、なのだ。

それでは、人生の意味とか善悪は?これはナンセンスな命題に
なる。

じゃあ、「世界は数学的法則に支配されている」という命題は?

これも、仮定にすぎない。見て確かめることなど誰にも出来ない
のだから(目で見える事実から導き出した法則が有用である
ことは疑い得ないが)。ただの信念だ、ということだ。

しかし、これらについて語ってはいけないということはないし、
むしろこのことの中にこそ、人間にとって大事なことがある。
しかしながら、語っても有意味にならない。これがひとまずの
結論で、これで、世界の意味を語る哲学などはすべて破壊されて
しまった。それらはすべて無意味な命題なのだ。

しかし生の哲学や実存主義はまだ生きている。何より、
現象学は「目に見えるもの」だけを問題にするのだから。

その5へ。
<その2からつづき>

では、後期ヴィトにいきます。

キーワードは「言語ゲーム」ですね。これも割と有名な言葉?

後期の主著は「哲学探求」で、これはさきの「論理哲学論考」への
批判も含む。ではどのように批判したのか?

 
前期ヴィトに限らず、フレーゲもラッセルも、言語へのアプローチ
において、命題、つまり平叙文(断定や推量など、物事をありの
ままに述べるのに用いられる文)を分析の中心において、その
有意味性の一般的条件を探るという仕方で探求が進められたが、
しかし我々の言語活動には、平叙文以外にも命令文とか感動文、
疑問文などの表現があるし、平叙文にしても、異なった文脈では
異なった意味が表されうる。

例えば(これは疑問文だけれど)、「What’s the difference?」
という英文。これは、「違いは何だ?」という意味と、
「何の違いもない」というふたつの意味があって、これをポンと
提示されただけだとこの意味は「決定不可能」とされる。
これは記述理論でも無理と思う。完全に、文脈によって意味が
左右される文章だ。

だから、命題の一般形式を求めるというような前期にとられた
アプローチは、その根本に誤りを含む。言語表現の意味は、
個々の文脈においてそれがいかに使用されているか、という
点から探求されなければならない。

よって、このテーゼが提出される。
「言語表現の意味とは、その使用である」。

これが正しいなら、「意味をある原則によって体系的に説明
していこうとする」フレーゲやラッセルの企てに代わり、
「意味をその文脈から求めていく」という仕方で注意深く
点検記述していくことによって明らかにされねばならない。

そうすることで、さきの文章のような、表面上の類似性から
生ずるさまざまな概念的混乱(言語のもつれ)を正しくほどく
ことができる、という。

さてでは、それはどのような方法で行えばいいのだろうか?

ここで考え出された概念が「言語ゲーム」である。

ヴィトによれば、言語現象は、複数の参加者がある一定の
ルールにしたがってとり行う一種のゲームである。

このとき大事なのは、すべてのゲームを特徴づける一般的
性質などは存在しない、ということ。

普通のゲームを思い浮かべればよい。サッカー、野球、
チェス、花札など色々なゲームがあるけども、一対で
比べれば似ている部分もあるが、全てに共通する部分となると
「この世で行われている」とか当たり前のことしか出てこない。

言語ゲームについても同じで、参加者によって色々なルールが
あって、その各ルールの間には「家族的類似性」しか存在
しない。

ここで俺独自の説明を加えれば。
これは、実際に自分に当てはめて考えてみればいい。

友達と交わす、スラング含む意味不明な会話。これを論理学の
原則で説明できると考えるほうがおかしいと思わないだろうか?

一見しただけでは、何のことを言っているのか分からない単語。
あだ名に一般名詞が使われていたりしたら(カッパとか
柴犬とか)、また、その場の特徴だけで名前を呼ばれたりしたら?
(博士だとかプレーリードッグだとか)確かに会話では意味が
通じる。通じるのだけど、語句の意味の集合なんて見地から
考え出したら、全然説明がつかなくなりそうではないか?

「おい、そこのケミカルウォッシュ!」と呼ばれたとしても
状況によっては自分のことだと判断できる(ケミカルウォッシュを
自分しかはいてない場合とかね)。ではこの「ケミカル
ウォッシュ」は自分のことをさす一般的意味を持つのか?
分析すれば「自分」を指す語が出てくるか?否だと思う。

やはり「文脈」から考えねばならないし、状況だって必要。

昭和堂ではこれ以上踏み込んで説明はしていないが、文脈から
考える、という分かりやすい概念「言語ゲーム」の考え方を
使って、ヴィトは色々な考察を行ったという。

それでは、はじめての哲学史からもう少し踏み込んだ解説を。

うーん

2004年8月21日
ラカン、バルトは資料が少ない…明日図書館にでも行って
こようかしらん。

はじめての哲学史は、現象学とヴィトが過ぎるとどんどん
薄くなっていくし、昭和堂は現象学と分析哲学・科学哲学以降は
ポスト構造主義しかほとんど扱ってないような状態。

プラグマティズムは問題外なんですかい〜〜。

秘密、今回は木立様宛。
<その1からつづき>

・画像の理論

さてこの「画像の理論」とは何か?

ヴィトによれば、文章というのは、2次元に描かれた3次元の
世界、画像に似ている。

絵では、絵の中の要素が実物の要素に対応し、絵の要素間の
関係が実物の要素間の関係を映し出す。

言い方が難しいけれど、つまり絵に描かれている物体は
実際に存在する物体と対応していて、また、その描かれている
物体は、他の物体と一緒に存在することで、それが何であるかを
また詳しく教える、ということだと思う。

そしてまた、絵の中に描かれるのは、対象の可能な配列であり、
それは現実に生起していることも生起していないことも
ありうる。

論理空間も、絵の空間と同じ。現実と対応する事物もあれば
そうでないものもあるし、それは互いにお互いの位置、意味を
教えるし、キャンバスに描かれる限りどのような配置も可能。

 
うーん、これは直観的で理解しやすいですね。

 
そして、ヴィトは一度はラッセルが解いた確定記述の問題を
どう解きなおしたか?

対象は、命題中の名前によって指されるもの。これは変わらない。
また、論理的名前は、有意味であるためには、必ず現実にある
対象を指さねば成らない。ここも同じ。

違うのは、論理的名前と、日常使う名前は違うということ。
なぜなら、通常の名前の対象は破壊消滅しうるのであり、
その場合でもその名前は有意味に用いられるから、だそうだ。

したがって、論理的に正しい表記法においては、通常の名前は
ラッセルの記述理論によって分析され、破壊消滅できない、
永遠的な対象を指す論理的名前のみが残る(ラッセルの最後で
出てきた「私」とか「これ」などか?)。

論理的名前からできた、つまり最も単純な要素から出来た命題を、
要素命題という。

すべての有意味な命題は、そのような要素命題の、どれが
成立してどれが成立しないかをいう真理条件であって、
すべての有意味な命題は、要素命題の真理関数である、と
される。

真理関数の詳しい意味はちょっと分かりませんが、まぁ
なんとなくニュアンスは伝わるかと。

しかしながら、この要素命題が具体的にどのようなもので、
対象とは実際に何なのかということを挙げるのは、これは
不可能だとされる。しかしある命題が意義をもつためには、
それの真理条件を確定する要素命題がなければならず、
その要素命題にあらわれる名前は、単純な対象を指さねば
ならない。

なぜならば、複雑な名前を指すなら、それもまた単純な
名前に分割できるから、である。

これが「画像理論」と呼ばれるもので、前期ヴィトの主張
ですね。後期ではどう変わったんでしょうね。

 
これらが説明されているのが前期の主著「論理哲学論考」。
世界観についても、似たような原子論的、形而上学的な
ものを打ち立てたとか。

その3へ。
ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン(1889〜1951)。
ヴじゃなくて、ウィトゲンシュタインなんていわれたりもする。
ドイツ語表記だとWittgensteinなので正しいのはウィ?
ドイツ語の発音分からない。

でもヴィトのほうがメジャーぽいのでヴィトでいきます。
名前長いので、呼称も主に「ヴィト」を使います。

ヴィトゲンシュタインというとこれまた、現代哲学のビッグネーム。

ハイデガーと同じく、前期と後期があって、それぞれでかなり
主張が違うのだとか。これははじめての哲学史でも大きく扱って
あるので、昭和堂→はじめての哲学史という順番でいきます。

「90分でわかるヴィトゲンシュタイン」も読んだことあるけども
かなり気性の激しい人だったようですね。気難しい人だったとか。
ただやはり知能は一級だったようで、師であるラッセルも
ついていけない程に己の論理学を発展させていったらしい。

まず前期ヴィトから、目次。

・語りうるものと語りえぬもの
・画像理論

 
まず最初のものから。
・語りうるものと語りえぬもの

結構有名なヴィトのテーゼですね。

見てわかるとおり、文で語れるものと語れないものを分けて
語れないものに関しては沈黙せねばならない、という主張です。

具体的にどういうことか?

ラッセルの「タイプの理論」(どういう理論かは知りませんが)
のような、パラドックスを避けるためだけの論理主義的企ては、
言語で言い表せないものを言語によって語ろうという不可能な
企てであり、タイプ理論が解こうとしたような問題は、
適切な論理的表記法を作り出すことによって解決されると
考えた。

適切な表記法をもって「語りうるものと語りえぬもの」を
考えていけば、哲学や倫理学や宗教において、重要な主張と
考えられてきたもののほとんどすべてが、実際には有意味性の
条件を満たさないがゆえに、無意味な命題になり、実際には
それらは「語りえぬものを語ろう」とする企てであった
ことが、判明すると考えた。

恐ろしいことに実際にこれは、ある程度成功したようで、
ヴィトはだから、哲学を破壊したと言われたりもする。

もちろん、哲学はいちから考え直すことがそのルールなので
あるから、破壊大歓迎なのですけどね。

しかしヴィトにとって、だから語りえぬものが無価値になる
のではない。むしろ語りえぬものこそ、人間にとって真に
重要なものが含まれているのだという。

ただそれについて語ろうとすれば、人間はナンセンスな命題しか
作ることができない、とヴィトは言う。

 
ふーむ、はじめての哲学史からの説明なら、もう少し踏み入った
説明が書けそうだけど、昭和堂ではこれが限界だす。

 
きりがいいのでその2へ。

ウッシャー

2004年8月20日
ピアノ、バイエル3が終わりそう。
なかなか曲らしい曲が増えてきて、弾いてて楽しい。

バイエル4ってあったっけ?それともバイエル卒業?

哲学も、あと構造主義とポスト構造主義をまとめたら
おおかた終わりなので…

あ、でもプラグマティズムとか、政治学とか社会学の
人もあるんだよなー

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 >

 

最新の日記 一覧

<<  2025年6月  >>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293012345

お気に入り日記の更新

この日記について

日記内を検索