警備員のバイトしてます。アトピ関連で派遣の仕事をやめて、
立ちっぱなしはキツイけど、空調の効いた建物の中で
アトピの悪化を気にせずに仕事できるかな〜とか安易に考えて
たら…

いや、警備員て、つまり交通誘導員のことなんですね。

この残暑、日光のキッツイさなか、熱をたくさん吸収する
紺色の服で長時間たちっぱなし。しょっちゅう汗がほほを
濡らします。

もちろん、面接と研修でそれは分かったんですけどね。
人がいないらしいんですよ、それで忙しいらしい。
「頼むよ、やってくれよ、頼むよ」と表情で訴えられると…う。

アトピは、まぁ、掻かずに耐えるしかないかと。ほんとに
何やってるんかなぁ、自分。そんなに酷くはでてきてないけど。

で、交通誘導のほかにも、駐車場(パチンコ屋なんですが)の
巡回なんかもやってるのです。立体などではないから、ずっと
太陽の恵みを受けていますが。

それで、パチンコの客なもんですから、まじめでない人が
多いですよね。そこはダメですよって∧←こういうカラーコーンを
置いているのに、停めるわけです。

そういうクルマを、ナンバーと車種を紙に書いて、店内のフロントに
渡して、放送で、どかすように言ってもらうわけですが
そこでなんとなく「これはもしや通報でつか?」とおもった。
なので、通報するときにはいつも心の中で「通報しますた!」と
叫んでいるのです。ポーズはさすがに取れないけど。

 
…だって、暇なんだよ〜
<その5からつづき>

はじめての哲学史の解説は、それを是とするか否かは
ともかくも、やはり、かなり分かりやすい。

まずデリダは、最初はハイデガーによって着手された仕事に
連なりながら、しだいに「差延」とか「脱構築」という
新しい概念を導入して、独自の思想を築いていったとか。

デリダの仕事は批判が多いようで、現象学批判もしてる
らしい。フッサールは、体験を反省することで体験の
「ありのまま」を言葉にできると考えたが、デリダは
この「ありのまま」が怪しいと考えたそうだ。

つまりどういうことかというと、はじめての哲学史の
たとえを借りれば、人がありのままを言おうとする時、
「言葉」、例えば「このカップは白い」という記号を
使わなければならない。だがそこでは、この記号が
「本当のもの」を「再現前」させているのではない、
という(「再現前させている」、と考えることを
「ロゴス(音声=理性)中心主義」とか「現前の形而上学」
と呼んでデリダは批判したらしい)。

むしろ「このカップは白い」という直観それ自体が、
まず「このカップは白い」という記号の反復可能性によって
成立しているのだ、とデリダは言う。

反復可能性という言葉が分かりづらい。俺なりに理解
すれば、ヘラクレイトスではないけど、目の前の事象はいつも
同じではなく流転しているのに、いつも同じ(何度でも
同様に反復させることが可能な記号)で表している
ことで、同じ記号であらわせるものがあたかも同一かの
ように錯覚すること、ということだろうか(激しく違うかも
な予感…)。

「現前」は、そのように不動の記号であらわせる「同一性」
は持っておらず、むしろいつもすでに「差異」化されている。
記号の反復可能性によって汚染されている、という。

「同一性」という言葉が出てきた。

そしてそのような差異の運動をデリダは「差延」と呼ぶ。

昭和堂では確か「現在の知はつねに遅れ、しかも野生状態とは
異なってしまう」ことをそう呼んでいたが、けっこう近い気も
しますね。

さらにこの「同一性/差異」という二項対立の手前に、
それを成立させている流動的な起源を考えた。

それをあらわす言葉はいつも同じ、しかし実際に現前にある
ものとはつねに差異を含む。その原因は何か、ということだろうか。

この起源が具体的に何かはここでは言及されていないけど…
(ヴィトの論理学とか、現象学の改良ではだめなのだろうか。と
少し思う)

ともかくも、デリダはそうやって形而上学をいわば「内側から
批判する」のだそうだ。形而上学の内部に立ち入り、その
内部から形而上学の立てている問題設定そのものをみずから
演じながらその不可能性を明らかにし、脱臼を起こさせる。
それが「脱構築」なのだとか。

「脱臼を起こさせる」という表現は、他の本でもみたこと
ありますな。

ともあれ、デリダの思想は、とりあえずここで終わっておきます。

このように大きく扱う哲学者は、デリダが最後です。
次は、この後につづいた哲学者を簡単に扱って、ほんとに
哲学史を終了したいと思います。
<その4からつづき>

・昭和堂の結論

さて、実際ほとんど理解しないままに、いわゆるポスト構造主義
の哲学(思想?)史も、終わりを迎えます。まぁ、他の哲学も
理解できているわけではないですが。これは全然わからない。

昭和堂での総括の後、はじめての哲学史から説明を加えて
終わりです。

さきの話からどう繋がっているかはともかく、この総括では、
自己同一性と他者についてのさきほどの考察から続けて、
では「ヨーロッパ理性、知は、「他者」に応答すべきなのだろうか」
ということが論点にされる。

他者を無視しては「いけない」のならば、「知は義務に従属
させるべき」という要求が働いていると言えるのだそうだ。
知を良心に従属させるべきという要求と言ってもいいのだとか。

もしそうなら、これは結構プラトニズムに似ていなくもない。
と思う。

そのあたり、昭和堂でもこう説明されている。

<だが、この従属の要求は、場合によっては、誠実すぎる
要求にはならないのだろうか。誠実すぎること、くそまじめ
であることは、ある種の欺瞞にはならないのであろうか。(略)
知と良心のあいだの差異を、ギリシア(とりわけアリストテレス)
以来の理性は「目的論」のなかに取り込み、さらに近世
(とりわけカント)以来の理性は「義務論」のなかに取り込もう
としてきた。知を良心に従属させる論理としては、目的論と
義務論は同類である。「義務はつねに、達成されるべき目的
という条件のもとに置かれて」いるからである。>

ヨーロッパ理性はこれまで、目的論か義務論以外の仕方を
知らなかったが、やはり、知と良心の間には取り込みきれない
差異が介在している、という。

そこでこの差異を極小化して知を倫理に従属させるのか、
差異を極大化して知を倫理から切り離して戯れるのかで、
ポストモダンをめぐる態度決定が問われる、と締めくくって、
昭和堂の哲学史は考察を終えている。

次は、はじめての哲学史からまとめます。
<その3からつづき>

いわゆるポスト構造主義のそれぞれの思想は、根本的に
理解できていない人が多いので、俺なりに用語を解釈する
というのが不可能です(’Д`;)読みにくいところはご容赦を。

 
・デリダの倫理

デリダは「一種の混血ヨーロッパ人」を自認しているという。
これが哲学的意味をもつわけだが、どういうことか。

デリダはアルジェリア生まれのユダヤ人であるらしい。ユダヤ人は
レヴィナスもそうだったが、いわばヨーロッパ的理性からの排除を
顕著に受けた。その意味でヨーロッパの他者的位置にはいるが、
しかしフランス教育を受け、フランス思想の土壌で育ちもした。
自らの内にその二つの性格をもっているということで、混血
ヨーロッパ人という表現をしたらしい。

ヨーロッパの文化的自己同一性は、たえず他者から自分を切り離し、
同時に他者を排除しようとする努力の成果(けっして完全には
成功しない成果)である、という。

この前提がなぜ出てくるのかはわからないが、とりあえず
そういうことらしい。まぁ、第一次・二次大戦あたりの歴史を
少しでも知っていると、ヨーロッパの歴史はまさに、世界中に
侵略の火を撒き散らしたそれであるというのはなんとなく分かる
けども。他者の排除って表現は、それも含んでるのだろうか。

ヨーロッパの自己同一性は他者の排除への努力の成果であるが、
仮にこの努力が完全に成功したとすると、そこに残るのは
自己だけであるから、自己同一性はそもそも不要になる。
他者を排除するわりに、他者がいなければ意味をもたない
ようなもの。自己同一性は、それだけで完成するものでなく
他者の存在なくして意味をもつものではない。他者に「開かれて
いる」ものらしい。

 
少し飲み込みにくい。哲学としては、つまりロゴス中心主義
が他者排除の傾向をもっているところを指していそうだけど、
ヨーロッパの文化の自己中心性も同時に論じているのだろうか。

こうした、自己同一性を求めつつも他者に開かれているという
原事実に対して、デリダは<応答する=責任をとる>という態度を
取るらしい。

応答する?責任をとる??字通りに受け取るとそのまま
解釈してしまいそうだが。

ヨーロッパの文化的自己同一性は、他者を排除して自分を
自己集中させてはならない。しかし、だからといって、
他者(の自己同一性)を増殖させて、そこに排外主義を
産み出させてはならない、そうである。

すぐに思い浮かぶのは外交政策についてのことだ。
ヨーロッパの自己中になりすぎてもいけないし、ヨーロッパ
以外の国を増長させてもいけない、ということか。

このふたつを同時に実行することがデリダの「倫理」で
あるという。
しかしながら、このふたつは相反する。同時に果たすことは
不可能。両輪において、バランスを取るということだろうか。

デリダはこの両立が不可能であることを積極的に認め、
「責任はそれが可能なものの次元において果たされるとき、
…プログラムを実行しているにすぎない」

また「不可能なものの経験でないような責任は存在しない」

と言っていたそうだ。

このふたつの二律背反性を認めつつ、それに「耐え抜く」のが
デリダの倫理だとか。

この文だけだとよく意味が分からない。つまりは、
「できないことをやろうとするところに責任が生じるので
あって、できて当たり前のことはできて当たり前」という
ことか?

確かに、「確実にできるかどうかわからない」ことに
関してのみ、責任という概念が用いられる気がする。
とはいえ、厳密に言えば、それが確実に実行可能なものか
どうかなど、実行前に知る方法がないような気がするけども。

それに、そもそもが「ヨーロッパの自己同一性」というのが
どういうものなのかいまいち曖昧だ。ポスト構造主義の人は
ほんとに、実際読んでみないとアカン。

その5へ。

ふー

2004年9月10日
昨日カレーにナスはいってなかた(’へ`)(’へ`)(’へ`)(’へ`)
(’へ`)(’へ`)

しかし!今日ははいっていた(’▽`)(’▽`)(’▽`)(’▽`)(’▽`)

デリダもう少しなんですが、学校の課題が最近ラッシュで
詰めができません。本は通学中とか、学校の暇なときに読めるん
ですが…明日明後日くらいには…う、眠い。

プラトンはさらに「プロタゴラス」「メノン」「ラケス」を
読んで、今は「アルキビアデス」を読んでます。なんか
手に入る限りで網羅しそうな勢い。「法律」「国家」も読んで
おきたいところ。

一身上の都合で、現代思想が終わって後、ラカンと関係が深い(?)
「オイディプス王(オデュッセイアじゃないですねorz)」を
読んで、ラカンをまとめてからは、ケルト神話とヘシオドス
「神統記」、あと西洋武具の歴史をちょっとまとめるかもしれません。

ふー

2004年9月8日
なんだか、最近、眠い。今日も授業中寝てしまった。
いまもねむい。

今日の昼は久しぶりに、学校で売ってるカレーを食べた。
いままでにんじんとジャガイモだったのが、にんじん?とナス
(もう覚えてない…ナスは絶対はいってた)になってた。

ナスは個人的に好きな野菜なのでうれしい。
ちなみに大根って、薄切りにしてやきそばの具にすると
けっこうおいしいです。

秘密:Cafe-LaFaloさん宛
<その2からつづき>

・レヴィナス批判

昭和堂では少し難しい表現をしているが、内容はそんなに難しいとは
思えない(俺が浅学なだけだと思うけど)。

要するに、レヴィナスが言った「他人」なんてものは、この世の
誰もが認識できないことについて語る試みなんであって、
レヴィナスはそれを≪無限的他人≫というが、そうやって
表現することが果たして可能なんだろうか、ということだ。

つまり、「人間の誰もが認識できないこと」という言葉を
口にすることは確かに可能だが、誰にとっても現れない
ものは、そもそも問題にできないということ。

それは、確かにその通りだ。というか、当たり前に聞こえる。

レヴィナスはこの≪無限的他人≫に優先権を認めることで
認識する主体中心のフッサール現象学を批判するが、しかし
とりあえず現前に現れているものを問題にしている点で、
フッサール現象学のほうがどうしてもレヴィナスの倫理学に
先行してしまう、のだそうだ。この古代ギリシアから続く
伝統哲学というべき、フッサール現象学を前提にしてしか、
レヴィナスの倫理学は成立しない。

またこの≪無限的他人≫という言葉に使われている「無限」も
これも古代ギリシアからつづくロゴスの営みの延長線上にある
概念(アナクシマンドロス以来の概念)であり、また他者も理性に
よってしか捉えられないものである。

 
・脱構築

「差延」と並んで「脱構築」もけっこう有名な言葉ですね。

これまでの考えで、理性によって用いられる限り、目の前の
事象と認識をあらわす言語には「ズレ」が存在することが
明らかになった。

そして、それを探求できるのもあくまで「理性」によってである。

理性によって考えることで理性の外に出られると考えるのは
不可能だから、デリダはあえて自覚的に、理性の限界に
踏みとどまる。そして、かつて理性が無自覚に強引に、
ロゴスへ取り込んできた「ズレ」と、そのズレを覆い隠す
トートロジーを、その当の言語=ロゴスによって解体して、
理性な強引な行いを告発する。こうすることによって間接的に、
理性が排除してきた「理性の他者」を示すのである。
この作業のことを「脱構築」というらしい。

 
・デリダの真理

フーコーのところでも問題にされたが、このような「理性」によって
「真理」が得られることなど一体、考えられるのだろうか。
真理は理性以外では求められないような気がするが、理性によって
得られるものは必ずズレを含むのだから、唯一の手段なのに、
その唯一の手段が致命的な欠陥を抱えていることになる。

結局、理性による論理の構築と、その脱構築との、引っ張り合い
しか存在しないような気もする。

デリダも似たような考えをしているようで、理性には絶対に理性の
他者(の真理)が手に入らないゆえに、理性は真理を求めるが
男性が女性を追い求めても決して手に入らないように、決して理性も
真理に到達することはないそうである。

真理は「宙づり」にとどまる、のだそうだ。

昭和堂では、<この仕組みの解明は、まさに超越論的方法論と
してはひとつの結論を与えている>と延べ、<ここに真理の宙づり
という形で、理性の他者に出会った哲学的理性の運命が見定められた
といってよいだろう>と高い評価を与えている。
昨日、なぜだかマフィアに捕まって、眠るように死んでいく
薬を飲まされそうになった。

日ごろ、なんとなく死にたくなる(思春期じゃあるまいしね、
と思うんだけども)とき、自分が死ぬ状況をあれこれ想定したり
する。誰でも経験あることだとおもう。

「今目の前に、「あと3秒以内にこのボタン押さないと死にますよ」
つってボタンが降ってきても多分、押さないだろうなぁ」とか
なんの益にもならないことを夢想しては、救いのない気分を
少しでも中和させようとしている。

でも、夢の中の、夢特有のリアルさの中で、その薬の入った
マグカップを手にしたとき、「これ飲んだら死ぬのか」と思うと
凄く怖くなった。一口、口に入れたら、大きめの粉末が解け
きってないのか、ジャリジャリした。やっぱり飲み込めなくて、
その場で吐き出した。そこで目が覚めた。

なんだかんだ言って、そういう場面にさしかかったらやっぱり
俺は死ねないんだと思う。情けないというか、でもそれが
普通だろうか。まだ俺のなかに生きる理由が何か、無意識的に
でも、見つかっているのかなぁとか、少し前向きに考えてもみる。

 
生きるってなんて難しいんだ、と改めて思う。

まだ学生しか経験してない俺は、社会に出てからぶつかる壁に
果たして耐えられるんだろうか?

哲学を学んでひとつ得た考え方としては、アイデンティティ
というのは、必ず他人の承認を前提して成り立つものだという
こと。これがずっぽり抜け落ちると、どこまでも救いがない、
果てしないアイデンティティ・クライシスに陥ることが分かった。

実際、自分の生活を振り返ってそう思う。

こういう状態に陥ると、恋とか、自分なりの良さとか、
プラス思考とか、ポジティブな考え方がなんだかバカバカしく
思えてくる、凄く不安定な状態に陥る。
こういう状態に陥るのはしょっちゅうだ。

ニーチェのニヒリズムをちょっと思い出すけれど。俺はこの不安の
心理的打消しを、自分を攻撃することで果たそうとするものだから、
ほんとに自分の存在が希薄になっていく感覚に、よくなる。
今日の台風の風の中でそんなことを考えると。自分の中の空虚を
風が通り抜けていってるような気がした。

ウワ、なんか詩的だなぁ。でもほんとにそう思った。

思春期の子供ならこんな状態もおかしくないけど…いくつやねん、
自分、とさらに自己嫌悪の悪循環、、

はたから見ると、たいしたことないことで悩んでいるように
見えるか、もしくは、どう見ても俺が情けないから悪いんだろ
という理由だと思う。そう思うだけに、さらにこの状態は深刻な
様相を呈する。

「それでも、まぁ、がんばるしかないだろう」と思う。

俺なりの、共同体の中でのアイデンティティ確立法を、今からでも
模索していかないとなぁ。難しいなあ、生きるのって…

 
 
、、、、いかんなあ、こういうことは書かずに日記を続けよう
と最初に思ったはずなんだけど…ちょっとでも気楽になりたくて

うーむ・・・

2004年9月6日
「リュシス」を読み終わったす。明日図書館にいこう。
あと久しぶりにピアノ弾きました。最近弾いてなかった。。

今日、学校でも少しそういう話題が出たけど、弟とも、恋愛に
ついてちょっと話した。
別に哲学的な小難しい話ではないし、何時間も話し込んだわけ
でもなくて、車ん中でちょちょっと話したくらいだけど。

論点っていうか、話したとこはいくつかあったけど、一番
突っ込んだとこを話したのは「どんな人が好きか?」という
ところ。弟はもう決まった相手がいるので、自然、それを
聞かれるのは俺ですね。

どんな人が好きか。パッと答えづらい。ちょっと考え込んでしまう。

タレントで誰に似てるとか、髪は長いほうがいいか短いほうがいい
か、年上がいいか年下がいいか、お金あったほうがいいか
なかったほうがいいか、背は高いほうがいいか低いほうがいいか、
童顔がいいか大人びた顔がいいか、性格は優しいほうがいいか
ちょっとキツイほうがいいか、しっかりしてるほうがいいか
ちょっと頼りないほうがいいか…等々…

さらに弟から聞かれたことには、ちょっとした仕草、ちょっとした
気遣いとかで、急に気になり始めたりしないの?とか。

難しいと思う、そう恋愛経験は多くないし。
上に挙げたような特徴とか分かりやすい性格分類なんかは、
普通の人が好みのタイプを聞いたり、話したりするときの
テンプレにもなるようなものだろうか。
これも、そんなに経験は多くないけど、友達とかとそういう話は
話したことはある。

俺としては、上に挙げたような特徴は、確かに女性の魅力として
けっこう大事なものだとは思うけども、しかし俺にとって
恋をする絶対条件になるようなものではないように思う。
どれが、どっちであろうと。もちろん、容姿とか性格が
あまりに低くても構わないって意味ではないですけども。

もちろんそれらも大事なのだけど、俺にとってもっと大事
なのは、「共有した時間」。

心理学用語に「単純接触効果」というものがあるらしい。同じものに
何度も触れ合っていると、それだけでなんとなく好きになる
というもの。

まぁそれはそれとして、俺は、誰にでも分かるような、
誰にでも見せているような、表面的な姿かたち、性格、仕草とか
礼儀などでは、軽い好意をもつことはあっても、それだけで
恋に発展することはたぶんない。

恋という感情の一側面を端的に言えば、それは異性に対して
「かけがえのなさ」を感じることである。それは、容姿とか
表面的な性格を知るだけで、とても得られるものではないと
個人的には思う。

お互いの人生の一部を、話し合って共有したり、色んなところに
一緒に出掛けて思い出を共有したり、そういうものの積み重ねで
相手が自分にとってかけがえない存在にまで昇華するのだと思う。

と、なぜ思うかというと、俺の経験の中では、付き合う前より、
付き合っている間、その後のほうが、よりその人に対する
「かけがえなさ」を感じる度合いが強いから、なんだと思う。

だから俺は、付き合い始めから、しばらくして、倦怠期を通り過ぎて、
それから本当に相手に恋をするタイプ、だと思う。

…だと思う…というのも、そういう恋をしたのが今までに一人しか
いないからなのだけど…

よく言われるが、「最初は燃えるような恋、そのうち冷める」
という恋の感覚が俺には分からない。その人の内面を深く
知らなければ、燃えるような感情をもって欲することなんて、
できないのに。
と、本当に個人的な考えと思うけども、そう思う。

肉体的な美しさとか、表面上の性格が合う合わないも、もちろん
大事だと思う。でもそれ以上に、相手に「かけがえなさ」を
感じるに至るほどの「恋」「愛情」を抱く条件は、俺にとって
「どれだけの時間を共有したか」、、なのだと思う。

これは、ある程度は─とても個人差があると思うけど─誰でも
同じかと思う。俺の場合、このプロセスを過ぎないと、
自分として「恋」と呼べる感情が、自分に芽生えてこない。

だから、「どんな人が好きか」と聞かれると返答に困る。
容姿・性格がある程度のボーダーを超えていれば、後は
良い思い出を二人でつくり、お互いの人生について話し合い、
考え方をすり合わせ、共有する機会さえ持ちうるならば、
誰とでも恋をすることができると思うから。

 
。。。。。。。なんてこっ恥ずいことを書いて氏も田、、、、、
でももったいないので挙げておこう

プラトンの提唱した、肉体的のそれよりも精神的な人との
交わりを重視する主義を「プラトニズム」というらしくて、
「プラトニックラヴ」はこれが語源なのだそうですね、
「饗宴」読むと良く分かりますが。

と哲学話でお茶濁し。。。
<その1からつづき>

・フーコー批判

デリダは、なんでもフーコーの弟子を自認していたらしい。
師とあおぐだけあって、とりあえずフーコーの、狂気など
他者が知によって排除されていく仕組みの告発については
賛同し、同じく排除を告発する。

だがデリダは、この他者-外部を知が語ること、そのものに
ついても言及する。どういうことか。つまり、フーコーとか
レヴィナスのように、西洋的理性が排除してきた他者に
目を向けること、そのものをも、問題視するということだ。

これは、フーコーのところでも述べたけれど、つまりは
フーコー自身もエピステーメーから自由ではないし、
フーコーの試みそのものすら、西洋的理性、ロゴスによる
ものだということである。
理性の他者の探求も、理性によってしかできない。理性そのもの
への問題視も、理性がするものだ。

まぁ、それは確かに、その通りだとは思う。

だからデリダは、自分の言説に対して、まずこの点について
次のふたつのことを認める。

1つは、古代ギリシアでロゴスが用いられる、それ以前の
状態、狂気と理性がいわば一体であった、野生状態の回復は
不可能であるということ。

既に狂気から分離された理性をもって考える限り、理性によって
それを取り戻すことなど不可能、ということだ。

そして、ここから少し飲み込みにくいのだけど、

現在の知はつねに遅れ、しかも野生状態とは異なってしまう
のだそうだ。こうした遅れと異なりのことを、デリダは
「差延」という言葉で表す。こういう意味だったんですな。

といっても、どういう意味かよくわかんないけど。

哲学はこの差延を克服することはできない。哲学は、差延の
中でのみ活動する。

2つは、倫理的な問題…と昭和堂には書いてあるけど、どうも
どのあたりが倫理的なのかは分からない。

<デリダは自身の哲学を、安全な高台に置こうとはしない。
哲学は、理性(あるいはロゴス)をもちいる哲学であるかぎり
(そうでない哲学はない)、「無実」ではありえない>

という風に表現している。

つまり、例えが悪いけども、泥棒が泥棒を告発しているような
もの、ということだろうと思う(このあたりに倫理が関係して
くるのだろうか)。

確かにフーコーは「狂人を解放」したけども、しかし、理性は
それでも、あくまで「閉じ込めながらしか解放しない」のだそうだ。

理性の背負った業、みたいなものとして考えると分かりやすい?

その3へ。
フーコーが現代フランス思想の「巨匠」ならば、ジャック・
デリダ(1930〜)は「鬼才」だと昭和堂では述べている。

俺の感覚でも、デリダとフーコーの2人が、現代思想では
まずビッグネームに挙がる。

デリダは沢山批判をしているので、昭和堂では批判を中心
に紹介されてます。昭和堂→はじめての哲学史で行きます。

デリダの思想に傾倒してる人を「デリディアン」という
らしいですが、ドゥルージアン、アルチュセリアン、
フカルディアン(フーコー)なんて呼ばれる人もいるらしい
です。

それでは、昭和堂の観点から。

デリダの着眼点は、哲学の内部、西洋的理性にもともと
潜んでいた、「ズレた他者(フーコーが言う狂人とか?)」を
排除し覆い隠す論理、<同じもの本位の/自己本位のロゴス>
=<トートロジー>をもっているところ。

エピステーメーと同じような感覚で理解するといいだろう
か?昭和堂でも、フーコーやレヴィナスと着眼点は
近いと言っている。

つまり、理性が理性から外に出られないような構造、
ということだと思う。トートロジーは本来「同語反復」
という意味だけど、少し言い回しが違いますね。

フーコー、レヴィナスと着眼点は近いけども、しかし
デリダの言い方はもっとキツくて、西洋哲学はそのような
トートロジー的論理「しか持っていない」ことを強調する
のである。

他者を救出しようとする哲学的言語=論理も、フーコーや
レヴィナスの他者救出の思想すらも、トートロジーしか
持っていない。だから結局、他者を排除してしまう
ような傾向があると言うのだ。

これは、デリダ自身の思想も例外ではない。
トートロジー的論理に取り込まれているがゆえに、
それを自覚している自分自身の思想すら、おのれを裏切る。
おのれから「ズレ」る。

理性によってズレた他者の排除・隠蔽を、理性の
トートロジー的言説の中から嗅ぎ分け、さらに、
それを告発する自分の言説自体が、自身に含むズレをも
嗅ぎ分ける。デリダはこの二重の意味において、現代で
もっともズレ=差異に敏感な哲学者であるという。

しかし、具体的にどういうことなのかは分かりづらいですね。

デリダは、現代の最も超越論的な哲学者だという。
超越論的っていうのは、卑近な言い方をすれば、一歩引いて
見たものをさらに一歩引いてみるみたいな、そういう
「もう一段階客観的に見てみる」のようなニュアンスを含む
と思う。超越論的=先験的(経験の前提として)という意味も
あるから、色々だろうけど(これも、体験を一歩引いて見る
みたいなニュアンスがあるけど)、この場合そうだと思う。

理性によって排除されたという「理性の他者」すら結局
理性によってしか言及し得ないものだし、理性によって
捉えようとすれば、必ずトートロジーによってズレが生まれる
のだから、他の哲学者の「理性の他者」への言及に対しても、
メタ批判にかけてズレを取り出さねばならない。

昭和堂のタイトルから目次をつけます。

・フーコー批判
・レヴィナス批判
・脱構築
・デリダの真理
・デリダの倫理
・昭和堂の結論

ちょと長くなったので、その2から。

うーん、うーん

2004年9月5日
つづいて「パイドン」「エウチュプロン」を読破しました。
いま「リュシス」読んでます。これ読むと、手持ちのストックが
尽きるなぁ…。。借りてこないと。

しゃべり場に似た番組を今みています。

こういう番組をみていると、色々と思うところがある。

けど、まだうまく言葉にできない。

学生とか、若いフリーターの意見では、あまり感心することが
ない。自分も同じこと考えた/考えるなぁ、と思う。

年配の人、専門に何かに従事してきている学者とか経験者、
の言葉は、なるほどとうなずかされることがある。

今日みたもののテーマは…「少年犯罪」「麻薬」「援助交際」
で…

それに手を染めている人もいるので、「やって何が悪いん?」
という意見もたくさん出る。
もちろん、反対意見も出る。

難しいなあ…
<その3からつづき>

またレヴィナスは、男性によって求められる他者自身を
女性の「処女性」という言葉でも言い表す。

「愛される女性は、処女性をその本質としている」
そうである。なんだか深い表現だ。

こうした女性への愛の関係が「エロス」だが、エロスは
成就されない。
エロスは、それを手に入れようと、取り込もうとする
欲望だが、他者は決して取り込まれはしない。

「処女は<エロス>によって覆いを剥がされると同時に
<エロス>を拒む」。

男性(自我)と女性(他者)は、絶対的に隔てられている。

 
またレヴィナスは「息子」に関しても言及している。

女性との関係のエロスは、「繁殖性・多産性」を可能にする。
すなわち「息子」が生まれる。
息子は自我が存在せしめた他者であり、息子は自我に依存する。

自我、父にとって息子は唯一であり、かけがえがない。
ところが同時に、息子は、兄弟のなかの一人、複数の中の
一人である。

この、どちらにも還元できない息子のあり方の中に、
他者との最終的な倫理的関係が求められるという。

女性ではなくて、息子なんですね。

<かけがえのない者=唯一者>同士としての兄弟の
倫理的関係が、社会を倫理化するという。

…う〜ん、レヴィナスはユダヤ教?らしいけど、
唯一者というのが出ましたね。

さらに、繁殖性は時間の無限化を可能にするという。
自我が支配できない、他者の到来性による時間のなかで
父は老いさらばえて死ぬが、息子は「再開」であり、
これによって時間が無限化されるのだそうだ。

考え方としては分かりやすいが、哲学?という感じもする。

しかしこの無限化された時間を全体として捉え、それを
均質化してしまうならば、倫理は訪れない。
時間が本当に無限化されるのは、それが他者と関わるとき。
<無限化された時間の他者>が<無限化された時間>に
到来するとき、<無限化された時間>は「メシア的時間」
として成就されるのだそうだ…

これはちょっとユダヤ教色が濃すぎる気もしますね。
いや、ユダヤ教の内容はあまり知らないですが。

とりあえず、レヴィナスは、他者に絶対の優位性を
置くことで、倫理が可能になると考えた思想家らしい。
原著は滅茶苦茶難解とも聞きますが。。

次はデリダです。
<その2からつづき>

つぎに、<存在/認識/真理>のうち存在の問題。

デリダは、レヴィナスが安易に「他者の存在」という表現を
使ったことを批判した。なぜなら、他者の存在という
言い方をしてしまうと、最優先であった他者が「存在」という
上位カテゴリの下に来てしまうからであり、これを回避する
ために、レヴィナスは「存在するとは別の仕方で」という
言葉を使うようになる。

こういう言い換えに意味はなさそうにも思えるが、でも
レヴィナスの語りたい「他者」はこのギリギリの表現を
使うことでしか語れないものであるらしい。

つづいて、レヴィナスの「責任とエロス」論にうつる。

エロスというとアレですが、哲学的には、美しいものや
欲望の対象を欲する力とか、そういう意味をもってます。

従来の哲学がもっていた自我主体のイメージを
「男性」という雄々しい表現であらわし、それを歓待する
他者は「女性」として表現した(これは原著も表現が難しそう
だ…)。

女性は男性によって暴行=認識を受けやすく、弱く、
傷つきやすい(さきの認識論にも絡めていますね)。
「弱さは他者性そのものを形容している」。

男性が女性を認識しようとしても、女性自身は手に入らない。
この事態が、女性の「慎み深さ」あるいは「神秘」として
表現される。

他者自身は決して現出しないので、自我は他者を手に
入れたり、理解したりすることはできない。

これを、他者は「顔(視覚で捉えられる像?)」の
向こう側に、無限として他者が存在している、と捉えては
ならない(理性の探求の対象になるからだろうか?)。

自我は、他者をあくまで「痕跡」としてしか知覚できない。

「愛」はこうした男女間に成立する関係だが、それは
「いつまでも永遠に逃れ行くものとの関係」である。
なかなか、言いますね。レヴィナス。
そういえば竹田さんの「恋愛論」にも、レヴィナスは
引用されてた。

女性は「恥らい」、男性の目から逃れる。しかし、
女性を求める男性の欲望は「破廉恥」とか「冒涜」と
言い表される。
到達不可能・認識不可能な女性を前にして、男性は
女性を「愛撫」しようとする。

「愛撫は愛を表出したいけれどもできないという飢えで
あり、この飢えは不断に増大していく」

…う〜ん、こんなにがつがつしてるもんでしょうかね。

これは多分、自我-他者になぞらえてるんでしょうね。

少し長くなったので切り。
<その1からつづき>

まず、伝統的な<存在/認識/真理>の哲学では、
時間というものが、自我を中心に成り立っていると
考えられた。「過去/未来」は「もう/まだ」存在しない。
あるのは現在だけである。にもかかわらず時間が存在
するのは、自我が心で過去-現在-未来を統一している
からである、と。

これは自我優先の思想だ。レヴィナスはこれも批判する。
時間を構成するには、もちろん構成以前のものがあった
のであるから、時間に先立つ何かから出発せねばならない。
これをレヴィナスは「イリヤ」と呼ぶ。

イリヤはまた「不快・悪」であり「恐怖」であり、
また「不眠の夜」とも呼ばれる。多分原著ではこれらの
言い回しが使われるのでしょうね。

イリヤは存在に先立つ「流れ」で、この流れの中から
存在者が成立(実詞化という)してくる。

そこに自我が確立するが、これはまだ純粋な現在で
あって、時間は出来ていない。

そこに他者が到来する。他者の到来は未来である。
「他者の到来をまってはじめて」、自我は時間を認識する。
逆に他者こそが、自我に対して「優先権」をもつ、という。

 
また時間に続いて、認識に関しても同じような考察を
行う。他者の到来以前は、自我は自我として成立して
おらず、先自我として存在する。ここに他者が「顔」として
(単純に人間の部位としての「顔」ではなくて、人間の
視覚のことらしいが)あらわれ、先自我に侵入してくる。
ここで主体の主体性とは、「いかなる受動性よりも受動的な
受動性」だといわれる。自我は他者に対して徹底的に受身。

視覚に対して、主体は受け入れないことなどできない。
これを許諾することしかできない。自我は一方的に有責
である、という。

対して認識は一種の暴力になってしまう。認識行為は
見ることだけを許し、相手にも同じく、受け入れ以外を
許さないからだ。サルトルの「他者のまなざし」を少し
思い出す。

さらにレヴィナスは、言語の本質に着目。
言語は真理の媒体とされるが、だが言語の本質は「何を
語るか」より「誰に語るか」がその役割だ。
他人の関係いかんが、真理の前提となる。

確かに、そうだ。他人と共有できてこその真理ではある。

他人の身分に相応しい言説、他人を優先する言説を行うとき、
それは「真なる言説」であるし「正義」ともいえる。
しかし、他人を従わせる目的で発せられるレトリックは、
他者を誘導して他人の許諾を無理矢理引き出すところに
その目的があるのであり、暴力であって不正である。
エマニュエル・レヴィナス(1906〜1995)。エマニュエル
とは、カントと似た名前(同じ?)ですね。ユダヤ人の哲学者。

ユダヤ人というと思い出すのがナチスだけれど、彼は
なんと、収容所に送られた経験がある。その上家族を
皆殺しにされ、なんとかレヴィナスだけは助かったという
過去があるらしい。

だから、自然、全体主義とか、国家権力、そしてまた
ナチスの加担者でもあったハイデガーに、批判の目が向く。

極端に言うと、彼の著書は、一言一句にいたるまで
ハイデガー批判に向いたという見方さえできるとか。

ともあれ、具体的にみていきます。

 
レヴィナスの哲学は、「他者の倫理学」だという。

他者=他人?と思ってしまうが、実はこれは全然違って、
レヴィナスの「他者」は、従来の哲学では定義不可能な
難解なものだという。

というのは、簡単に言えばこう。
「五感で感じられるもの」「想像できるもの」「言葉に
できるもの」以外のもの、ということだ。

人間には、どうやってもそれを言い表せないし、
想像もできないし、感じられもしない、神の視点でも
なければ、扱えないものだ。

いや、「神の視点でもなければ、扱えないもの」という
言葉にできている時点で、それは「他者」ではないのかも
しれない。とにかく、文字では表現不可能だ(文字では
表現不可能、ですらないのかもしれない。もうよくわからん)。

レヴィナスはこれを言い表すために、ほとんど英雄的とも
言える努力を繰り広げ、言葉を紡ぎ上げていくのだとか。

しかし、なぜそんなことをする必要があるのか不思議だ。
順に見ていこう。

 
ドゥルーズと少し似ているけど、「同じもの」と「他者=
他なるもの」を対比させてレヴィナスは論じる。

そして、「同じもの」「自己同一者」の最たるものは
「自我」であり、「他者=他なるもの」の最たるものは
「他人」である。その他人は「顔」として現れてくる、
とレヴィナスは言う。

そうした他人との関係を、「形而上学」的な関係あるいは
「倫理学」的な関係として示すことが、レヴィナスの根本的な
意図であるという。

倫理的はまだしも、形而上学的な関係とは一体。。
「他者」が言葉で語れないような形而上学的な存在だから
だろうか。

レヴィナスは、「他人も自分と同じ人間なのだから、他人の
身になって考えよう」という考え方はしない。他人は
私と同類ではない。他人になることなどできない。
あくまで「自分」立場から、他人を語る。
そうでなければ、真に他人を語ったことにならない、という
のである。

彼の倫理学は、他人に対しての倫理学だけでなく、西洋哲学
そのものに対する倫理学でもあるという。西洋哲学の
<自我主体が/対象を/認識する>という理性中心主義の
基本図式を根本から問題視する。

言い換えて<存在/認識/真理>に対してレヴィナスは、
「存在」に対しては「存在するとは別の仕方で」を、
「認識」に対しては「責任とエロス」を対置させ、
「真理」は「正義」に従属するものとして扱う。

レヴィナスにとって第一哲学は「倫理学」であり、
真理の追究など、その下にあるものでしかない。

レヴィナスは論理以前の「前-論理」に依拠して
論理を展開するのだとか。なにやら難しい。

うむむむ

2004年9月2日
ロックマンをプレイしまくっているせいか、最近脳内音楽が
↑のBGMになっております…

でも、ロックマンの曲、いいの多いっす。
FM音源(?)ならではの味もあって、いいなぁ。
普通のステージ曲だと、3のジェミニマン、5のスターマンの
曲がいい。
ワイリーステージなら、3と4と、6がいいですね。

プレステのリバイバル版だと、BGMを荘厳な感じに(音の種類
とか和音増やした?まったく音楽分からない)グレードアップも
できるんだけど、FM音源のままのほうがはるかに味があってよいです。

それにしても、ネットで配信されてる(違法ではないのかな???
不明)ロックマン1〜6のタイムアタックはすんげーの一言です
な…何やってる不明です、ほんま。
<その2からつづき>

「はじめての哲学史」ではどう言っているか。

ドゥルーズは徹底した反ヘーゲル主義者だという。
それは、そうかもしれない。ヘーゲルは理性信仰とも言える
考え方をしていた。人間が理性によって歴史の完成時代へ
至れるという主張をもっていた。

さきの「差異」を強調する主張は、確かにこれを真っ向から
否定する主張かもしれない。

しかし、共同体とかの統括機関が提供する基準をまったく
受け入れまいとする姿勢は、どこか子どもの姿勢のようにも
思える。はじめての哲学史では、これを「「大人になること」
を説いたヘーゲルに対して「いつまでも子どもであり
つづけよう(というより、いつまでも子どもに<なり>
つづけよう)」としたのがドゥルーズだ、と表現している。

ドゥルーズの批判は、基本的にニーチェに依拠している。
人間が理性によって真理を知り尽くそう、世界のすべてを
知り尽くそうとしたことは、ニヒリズムに起源を持っている
と考え、ルサンチマンの産物だと断じた。
そこで否定的になってしまっている「力への意志」を
肯定的な向きへと「逃走」線を引いて誘う。

決して闘うわけではない。それではヘーゲルの弁証法と
同じ。知と闘争するわけではなく、逃走することで
力への意志を肯定的な方向へ誘うことを考えたのかも。

「欲望」の肯定性を強調して、「リゾーム」「多数多様体」
「欲望する機械」「器官なき身体」という、<従来の哲学
用語とはまるで異なった言葉を駆使してスピード感のある
文章を書き連ね、異質なものが領域から領域へと横断し、
かけ合わされ、混合し、増殖していく運動や流れを、
まるでドタバタ喜劇やポップ・アートのように描き出す>。

また、<それは過激なまでのアジテーションだった>とも
はじめての哲学史では述べている。

次はデリダを扱う前に、レヴィナスにいきます。
<その1からつづき>

ドゥルーズは「反復」を批判する。「「異なる」ものの
反復」という考えをそれに対置して反復概念を拡張、
さらに差異そのものを「作り出す」第三の反復に論を
すすめる。

同一のオリジナルとそのコピーという図式を否定して、
シミュラークルが復権されて、そのたえざる生産が
問題にされる。

ふーむ、「上から言われたものを反復だけしてるんじゃ
なくて、類似物でいいから自分で作り出せ!」ということ?

俺のアホ脳ではこのくらいしか…

その生産は何によっておこなわれるか。これはもちろん
人間の「欲望」だ。さらにこの欲望は無意識による。

人間はこの無意識の欲望につき動かされて、目的を
もたず、ひたすら生産し続ける「機械」である。
これは、ニーチェの「力への意志」の現代版だという。
ディオニュソスもそうだけど、ドゥルーズはけっこう
ニーチェを支持してたみたいですね。ポスト構造主義
は、ニーチェは支持してる人が多いらしい。真理への
批判者だからか。

また生産の媒体は「器官なき身体」ともいわれるらしい。

なにやら、怖いですね。無意識につき動かされて
ひたすら生産にはげむ機械的な身体。

まぁ、ドゥルーズの言いたかったのは、人間のそういう
部分を権力に塗りつぶされるなよ、ということでしょうか。
うーん…

 
この観点から、ドゥルーズは現代資本主義社会を批判する。

彼らは同一性に固執する「偏執者・パラノ」に対して、
同一性に固執せず欲望の多様性を実現する「分裂者・パラノ」
とか「遊牧民・ノマド」を対置する。

欲望を一方向に収束させるべきでない、マルクス主義も
ファシズムも、その点で同じなのだ、とドゥルーズは批判する。
それはそうかもしれない。

そういう一方向の目的から解放させ、目的から「逃走」させる。
これがドゥルーズの哲学…じゃなくて思想か。

ガタリって人と組んで、色んな書も出してたみたいですな。

しかしこの考え方だと、つまり、既成物をマネすることが
忌避されてしまうので、各人のいろんなシミュラークルが
登場して、目的や基準がないのだから、収集がつかなくなる。
結局争いに帰結するのではないか、という意見も昭和堂では
提出されている。

おそらくこれは権力批判の考え方なのだろうけど、個人的には
昭和堂の指摘はその通りだと思う。共同体の中の人間の意志を
有る程度統一しうる権力は一見、禍々しいものにも取られうる、
弊害も多いから。でも、それらが全くない世界は、権力が
少し強く機能している世界と比べて、はるかに弱者が虐げられる
世界になってしまうと思う。なぜか。権力が保証するルールが
無くなれば無くなるほど、「人心をつかむのがうまい者」、
「腕力が強い者」が勝つことになるに決まっているからである。
自然状態は、ホッブズが言うほど酷いものとも思わないが、
ルソーが言うほど楽観的なものでもない、と俺は思う。
弱者を守るためにも、権力は絶対に必要なものだと思う。

だから権力を強めていい、とはもちろん言わない。強めすぎも
また野蛮な世界を招くことになるだろうから。権力批判も
当然必要だし、適切な強さで保たれるべきだと思う。

まだ勉強中なのに持論を書いてしもたヽ(’Д`)ノ

あとドゥルーズは哲学史にも新たな視点を持ち出していて、
これが「存在の類比性」と「存在の一義性」で分かつもので、
ドゥルーズ/ガタリの「生成の優位性の思想」は後者に属する
らしいけども、そう重要とも思えないので、割愛します。。

その3へ。

フーム

2004年9月1日
「饗宴」「ソクラテスの弁明」「クリトン」は読みました。
今「パイドン」を読んでいます。
とりあえず原著にしろ、現代思想の〜シリーズにしろ、
まとめるのは、哲学史をいちおうは終えてからにしようと思います。

フー、それにしても学校行くのが益々苦痛になってきた。

うおーーーーあふぃおあtじあたたqwとぇtywpt「

 
はー

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