<その2からつづき>

・記述理論と見知りの原理

まず「記述理論」から。

確定記述を用いると、偽である有意味な命題が作られるたびに
どこかでその記述に対応した存在が作り上げられてしまう。

こんな逆説的なことは認められない。しかし確定記述は
確かにある(theがつく記述?)。

ならば、確定記述をなんとか別の形に変えられないだろうか。

これが記述理論の基本アイデアで、論理分析の方法の模範と
言われているとか。

確定記述を用いた命題は、それ(確定記述)を含まない命題
へと、置き換えることができる。

たとえば、どういうことか。

「現在の総理大臣は、スキヤキが好き」という場合。

これは記述理論によれば、

「あるxについて、(1)xは現在の総理大臣である、
かつ(2)すべてのyについて、yが現在の総理大臣ならば、
y=x、かつxはスキヤキが好きである」

と分析される。なんか、頭がくらくらしてくる。

この理論のポイントは、(2)においては「現在の総理大臣」
が、theがつく確定記述ではなくなっているところだという。
ただの述語(判断・命題において、主語について何事かを
述べる語)になってしまっている。

(1)では、「現在の総理大臣」という述語を満たす対象が
少なくともひとつ存在することを表し、

(2)ではそのような対象が多くともひとつしかないことを
表し、

両方あわせて、「現在の総理大臣」の一意存在を表している、
という。

簡単に言うと、この方法は、一見主語になっているかに見える
確定記述の語句を、述語に置き換えることによって、その語の
実体化を防ぐ、という感じかもしれない。

さきの「宵の明星=宵の明星」のアポリアも、記述理論によって
それぞれの命題を分析した結果が別のものになって、その
認識価値の違いが示される。

 
次に、「見知りの原則」。

さらにラッセルは、ある命題の意味が理解されるためには、
論理的品詞のような(つまり、助詞とか助動詞とか?)を
除けば、その命題に現れるすべての語の指示対象を見知って
いなければならないという原則を立てた。これが「見知りの原則」。

そうだろうか?見知ってもいないものに対して色々と言及も
できなくもない気がする。少なくとも、概念上だけならば。
(それも、どこかで見ていなければありえないだろうか)

しかしラッセルによれば、日常的な対象の名前である固有名は、
それのほとんどが実際には変装した記述であると考えられた。

真の固有名は、それの指すものの存在に関する認識論的疑いが
決しておこらないもの、でなければならない。

例えば「これ」とか「私」とか、だという。

 
うーん、消化不良。
実際よくわからない、詳しくやる機会があればまた…
<その1からつづき>

なぜラッセルが、文章の意味とか真偽を、語句に分割することで
求めようとしたか。フレーゲの影響があったかどうかは
分からないが、多分「実在(実際に存在するもの)」としての
「真偽」なんて存在を認めたくなかったからだろうと思う。

フレーゲによれば、命題の真偽はその実在としての真偽を指す
「名前」なのであるから、真偽という思想的存在がどこかに
なければならない(多分)。

それを拒否するがゆえに、意味内容を全て文章と、それを
構成する語句に求めた、のだと思う。

 
さてここからが訳が分かりませんけども

この考え方をもってすると、「すべての、ある、その」等の
語句が一般名称の前についた、表示句と呼ばれる句「すべての人、
ある人、その人」を含む命題においては、命題の意味が語句の
意味を成分とする統一体とは、言えなくなるのだそうである。

たとえば、「私はある人に会った」という命題が意味するのは、
私が「人」という語の意味するある一般者に会った、という
ことではなく、「具体的なある個人」に会った、ということ
である。

「ある」がつくことで、一般名称から、具体的な物理的存在を
指す語へと変化する。これがいかにして可能なのか?

「すべて」に関しては一般名称の指す全てに会ったのだから
実際には検証不可能としても、文章としてはヘンではない
ように思える。

問題は「ある」と「その」なんだろうなあ。

「ある」に関しては、これはフレーゲと同じように、論理記号
とか、例の変数と関数を使う。

「あるxについては、私はxに会い、かつ、xは人であった」

このように変形することで、xという一般名称にあてはまる
ある個物に会ったことが、すんなり記述できるという。

「その」に関しては、これは難しいようだ。確定記述、と
言うらしいけども。英語なら「the」がつくやつですかね。
先の関数だけでは扱えず、もうひと工夫必要だとか。
なぜだか、理由は分かりません。

「ある」と「その」はどう違うのだろうね。「その」はもう少し
対象が固定されてる気がするね。前の文脈に出てこないと
使えない語だとも思うけれど。

この「確定記述」を使うと、これまでの理論では解けない
難問が、ふたつ出てくるのだという。

ひとつは、たとえば「黄金の山は存在しない」という文章。

(「その」は使われてないけど、まぁ確定記述ということでは
「黄金の山」は同じ語なんでしょう)

これは真偽が判定できる有意味な命題である。しかし、
この命題が有意味であるためには、その確定的記述は
なんらかの対象を指していなければならない。すると
この「黄金の山」で指される対象が、実際には存在しない
にもかかわらず存在していなければならないことに
なってしまうが、これは逆説的だ。

ふたつは、フレーゲで出た「宵の明星=宵の明星」の難問
(アポリア)。ラッセルは「意義」を認めないのであるから、
別の方法でこれを解かねばならない。

これを解決した(?)のが、次に出てくる「記述理論」だ。
はー、もう少し我慢して分析哲学。といっても、哲学やるなら
今やかじっておかなくてはならない学派なんでしょうね。
語源なんかを、例えば人類が最初に生み出した言葉にまで
さかのぼって正確な意味をつかむ、なんてことをするのも
分析哲学みたいで。最初っても、文章が残ってないと
検証できないだろうから、ラテン語とかギリシャ語なんでしょうか。
いや、ヒエログリフとかあるんでしょうけど。よく知らない…

ドイツ語とか英語はそのあたりに語源をもってるので、
意味をつかむために必要のようですな。

 
蛇足だった。次はバートランド・ラッセル(1872〜1970)。

新しい論理学の祖はフレーゲといってた割には、ラッセルは
独立に論理学を作り上げたとかなんとか。ちなみに後の
ヴィトゲンシュタインとは師弟の仲であります。

ちなみにフレーゲもそうだったけど、論理主義というのは
数学的真理の絶対確実性がいかにして可能か、という見地から、
論理学の明証性が先立ってあるという考え方、だと思う。

確かに、数学の公理を理解するのにも、まず言葉で確かめつつ
理解する。1はこういうものをあらわす数字で、+は数字を
加えることで…(実際はもっと詳しい説明があるみたいだけど)
数学より、論理学のが先立ってあるものかもしれない。

ラッセルの関心は、「われわれは何を確実に知っているのか、
また、それはいかにしてか」という問いが常に潜んでいた。
(前期の)ヴィトはそのような問いに関しては、「哲学より
むしろ心理学に属するもの」として軽視していたけれども、
ラッセルはそうは考えなかった。だから、分析哲学の中でも
ラッセルは、近代哲学的な問題関心をもつ哲学者とよく言われる
らしい。

ここでも、目次を二つつけてそれぞれについてまとめます。

・論理的分析
・記述理論と見知りの原則

まず・論理的分析から。

ラッセルによれば、事実の分析は、それをあらわす命題
(簡単に言うと、真偽が判定できるような意味のある文章)の
分析を通じて行われる。

ある命題を分析するとはどういうことか。

それは、どのような種類の、他のより単純な命題を、
論理的に前提しているかを解明し、そのような仕方をもって
論理的単純者(論理的原子ともいう。物質を構成している
原子のイメージで、命題を分析するのだろう)を発見する
こと。

それによって、ふだん何気に使っている命題に対して、
実際にはどんな知識などを前提にしているのかが明らかに
なるのだという。

 
はい、とりあえずここまでのまとめとしては、
「とある文章の意味を詳しく知ろうと思えば、その文章を
構成している語句を小分けにして、それが前提にしている
情報を明らかにするべき」くらいに理解するといいんでは
ないでしょうか。

もっと短くすれば「文章の意味は、小分けにして見れば
分かりやすい」はい、これですね。頭がついてかないので
こんなもんで…論理学を基礎からやると、すんなり入る
のかもしれないですけども。

 
次、その小分けにした語句が具体的には何を指しているべき
なのか?について、

ラッセルによれば、有意味な命題に含まれる語句は必ず、
現実にある何らかの対象を指す名前であるとされる。

無意味な命題なら、現実になくてもいいんでしょうね。
しかしながら、「必ず現実にある対象を指している必要が
ある」というのはどう考えてたどりついた結論なんです
かね…。

 
語句が有意味であるためには、現実にあるものに対応
していなくてはならないが、命題はそうでもない。

まるで無意味な命題もあるが、偽であることで、それは
それで有意味な命題もある。真であることも偽であることも
できる、という二重性を命題はもっている。

そういうところで、名前と命題は違う、のだという。
(しかし辞書の意味からすると、「無意味な命題」という
ものが存在するのか疑問にも思う)

もうちょっと基礎からやりたい気分。その2へ。

うぬ、

2004年8月19日
サボり気味なのでストックが尽きたw(゜Д゜)w

ラッセルからまた気張らねば(・`ω’・)=3

秘密、無印コージー様宛。
<その2からつづき>

「意味と意義」。これが、聞いてみると確かにまぁ、
そうかもしれない、とは思う。でも、考えれば考えるほど、
答えなんて出るの?と不思議になる。

文中の名前(一郎とか、ポチ、現在の日本の首相)などの
「基本的役割」は、「何らかの対象を指す」ということで
ある。

またフレーゲは、文もまた一種の複合的な名前であると考える。

文の意味は、文中の言語表現の意味から合成されるから、
ある文にあらわれる名前を同一の意味(指示対象)を
持つ他の名前で置き換えても意味の変化は起こらないはず
である。

例えば、

「宵の明星は金星である」

という文は、「宵の明星」と同じ「明けの明星」を
代入して

「明けの明星は金星である」

と言い換えても、真であることを変えない。

そこで…これまたすんなり理解しにくいんだけど、
フレーゲは、文が、真または偽という対象(真理値と
呼ばれる)の、「名前」であると考えた。

文章は、真か偽のどっちか(の名前を指示している)
だよ。ということかもしれない。

しかし、ここで実は問題が起こる。

「宵の明星」と「明けの明星」は同じ対象を指すので
あるから、「宵の明星=明けの明星」は成り立つ。
また同時に「宵の明星=宵の明星」も成り立つ。

ここが問題で、前者は天文学上の偉大な発見であるのに
対して、後者は「すべてのものは、自分自身と等しい
(同一律)」という、自明な原則の事例にすぎないから
だ。

一瞬、そうかな、とも思うが、これは単なるニュアンスの
違いではなくて、認識価値が違うから、重大問題なのだ
という。

これを解決するのが、「ある対象を指示する名前」である
「意味」とは違った「意義」という考え方。

「明けの明星」は、「明け方の空に最も目立って明るく
光る星」という意味を持ちうる。

そしてまた、この「意味」と「意義」の関係も、文脈原理
と合成原理で関係付けることができるとした。

つまり、「意義」の文脈を合成すると「意味」になりうる、
ってことだろうか。よくわからない。

また、文のあらわす意義は「思想」と呼ばれる。
フレーゲにおいては、「思想」は、我々の考えの内にある
主観的なものではなく、物理的なものとも心理的なもの
とも違った客観的実在であるという。

文の意味は真理値。文の意義は真理値の与えられ方、
その文が真または偽になるための条件(真理条件)である
とされる。

うげ、難しい。何を言ってるのか。

これだと、「私は〜を信ずる」とかいう文章の真理値の
分析もできる(?)とかなんとか…

しかし問題点もあって、

1.真理値を「対象」と考え、文をその「名前」と考える
ことは妥当なことであるか(つまり文を複合的な名前と
考えて、それが「真」という対象をさす名前だと考える?
ことが妥当なのか)。

2.固有名に対して「意味」ばかりでなく「意義」をも
認め、「意味」が常に「意義」を介して定められている
という考えは受け入れることが出来るか。

3.物理的なものとも心理的なものとも区別された領域
である「思想」というプラトニックな世界を認め、文の
意義を、その真偽がいかにして確かめられるかという
検証条件ではなく真理条件に求めるというような、極端に
強い実在論的傾向が哲学的に認められるか。

という点が挙げられるという。

これらはいまだに分析哲学上で議論が交わされているらしく
相当、難しくなりそうだ。

しかし、確かに「宵の明星」と「明けの明星」は同じものを
指すのに、持っている意味…いや意義が違う。

これをどう表すのか、なんて、考えてもそう簡単に答えが
出そうにないと思いませんか。数学とかみたいに明証的には
いかないような気がする。ラッセルやヴィトはどう考えたん
でしょうね。
<その1からつづき>

数学に関数とか変数という概念がある。うん、代数だったっけ。
まぁ、覚えてないんですが、y=x^2とかそういうものですね。

フレーゲはこの考え方を応用して、新しい論理学を作り出す。

例えばさっきの「AはBを愛する」という場合。

これを、「A」という主語と「Bを愛する」という述語に分解
するのではなく、「A」と「B」という独立変数と、「〜は〜
を愛する」という関数に分ける。

さきの「誰でも誰かを愛する」という場合も、この「〜」に
代入することになる。さらにもう少し変形すれば、

「すべてのxについて、あるyがあって、xはyを愛する」

という形になっていると解釈される。

また少し難しいのだけど、このような関数の形式を使って、
さらに「すべて」とか「ある」にかかわる論理的規則を
挙げることによって始めて、このような文が現れる論証の
妥当性をテストすることが可能になった、のだという。

 
…う〜ん、さすがに数学だから、俺の手に余る…

文はその意味のうちに様々なニュアンスとか強調、情緒の
違いを含みうるが、それが伝える認識的内容に関しては、
それがどういう文とどういう論理関係にあるか、ということが
重要なんであって、他のものは捨象(しゃしょう。性質や
共通性とかを考察する際に、その本質のみを抜き出して他は
捨てること)されるべきである。

そして、文の論理内容は、上のような論理的記法で正確に
記述されうる、とした。

そこで、この関数を使った原則をつかって、文の認識的
意味を、その論理的分析に応じて解明していこうとした。

 
それで、フレーゲは、言語表現の意味を分析する際に、
次の二つの原則を立てた。

1.ある言語表現の意味は、それがあらわれる文全体の
意味に対していかなる貢献をするか、という点から考察
されるべきである。

2.文全体の意味は、それにあらわれる言語表現の意味
合成による、という原則。

 
つまり、とある単語はつねに文全体に関係しているし、
文全体の意味は、単語の合成による、ということか。
前者は文脈原理、後者は合成原理と呼ばれる。

これプラス、文は独立変数(名前)と関数、および
量化記号(量記号、量化子ともいう。∀(すべてを表す、
全称記号)とか∃(存在を表す、存在記号)とかのことを
総称してこう呼ぶ)、等の論理的品詞とに分析されると
いう、さきに見た洞察とをあわせて、意味に関する体系的
考察が押し進められた。

 
ちょっとコーヒーブレイク。これは大変だ、疲れる。
何せ、ほとんど、本質的には理解できないまま進んでいる
から…(’Д`;)

それでフレーゲの考察ははじまるのだけど、簡単に言って
これでフレーゲは半分終わり。

次、「意味と意義」でもう半分が終わって、フレーゲ終了。
では現象学を終わって、論理実証主義、論理学、というか
「分析哲学」の分野の祖らしいですが、ゴットローブ・
フレーゲ(1848〜1925)にいきます。

いちおうはじめての哲学史に倣って「論理実証主義」とは
したんですが、どうも「分析哲学」という言い方のほうが
有名みたいですね。で、「分析哲学」とは何か?

俺の理解の範囲内で言えば、これは「言語の分析によって
思考の構造を根本から分析し、ある哲学的命題がどれほど
論理的に確かなものか判明させる」、、くらいのもの。

例えばまぁ、ヘーゲルの「絶対精神」にしろ、フィヒテの
「自我」にしろ、ニーチェの「力への意志」にしろ、
それが論理的にどういう下支えを持っているのか、もし
持っていないのであれば、いくらそれらしく見える論理でも
それは根拠薄弱なものと言わざるを得ない。

思えば、人間は思考を全て言語で行う。その言語体系は
幼い頃に無意識的に吸収して覚えてしまうものだが、
思考が全てこれでおこわなれる以上、この「言語」の仕組み、
その限界などを詳しく分析すれば、今まで哲学が行って
きた論理的つきつめを、もっと根本からやり直すことが
できる。さらに、今まで無根拠なのに信じられてきていた
ような論理も、覆すことができる(たとえば形而上学的命題
とか)。

現象学もなかなか説得力があったけど、これも哲学への
アプローチ方法としては、かなりいい線いっている気がする。

しかし論理学って数学みたいで難しそう。実際、難しい。
ややこしい。と思った。

本格的にやるのは後回しにして、とりあえず分かりやすく
まとめようと思う。

分析哲学で一番有名なのは、ヴィトゲンシュタイン。
次にラッセル、フレーゲかもしれない。時代としては
フレーゲ→ラッセル→ヴィトゲンシュタインという流れ
かも。ただラッセル→ヴィトゲンシュタインのつながりに
比べて、フレーゲはそう緊密でもなさげ。よく知らないけど。

ちなみに論理学の祖の祖というか、おおもとはアリストテレス。
有名な三段論法などは、アリストテレスが体系づけた論理学で
言われてたもの。

 
最初はフレーゲです。

フレーゲは元々、数学の一分野である算術の議論や概念を、
厳密な論理的概念によって基礎付けようとした…小難しいけど
要するに、数学の研究してたんですな。

それで、そのためにまず論理そのものに関して、従来の
アリストテレス的三段論法の論理をはるかに超える、革新的な
論理学を自ら構築する必要があった、とか。

三段論法には限界が見えてたんでしょうね。

しかしこれを成し遂げたのであれば、たいしたものです。

ちなみにアリストテレスの三段論法はどういうものか、
有名なのは

AはBである、BはCである、ゆえにAはCである。

のようなものですね。

このとき、
Aは「大前提」、Bは「小前提」、Cは「結論」と呼ばれる。

実例を挙げれば、

大前提:すべての人間はいつか死ぬ。
小前提:のぶちんは人間である。
結論:ゆえに、のぶちんはいつか死ぬ。

大前提か小前提どちらかが誤っていると、正しい結論が
導かれない。大前提で「すべての人間は永遠に生きる」と
してしまうと、のぶちんは不死という結論が出る。

そして、この3つの命題は、かならず以下の4つの、
どれかの形を取る。

「すべてのSはPである」(全称肯定判断)
「すべてのSはPでない」(全称否定判断)
「あるSはPである」(特称肯定判断)
「あるSはPでない」(特称否定判断)

これらは全て主語名辞(めいじ)と述語名辞とを繋辞(けいじ。
「である」とか「でない」のこと)でつなぎ合わせたもの
であり、文の意味は、主語名辞で表される観念と、述語名辞で
表される観念との結合(肯定)または分離(否定)であると
理解されていた。

全部がこうだ、と言ってるのが「全称」の命題で、個別のもの
がこうだ、と言ってるのが「特称」ということですね。

しかし、ここからが難しいのだけど、

「AはBを愛する」とか、
「AはBにCを与える」とかの場合、三段論法を使うと、かなり
不自然な変形をせねばならない、のだという。

具体例は昭和堂にはない。はじめての哲学史では、ラッセルは
扱ってないし、フレーゲは記述が一切ないのでなんとも…

確かに三段論法に直そうとすると、ちょっと悩む。

「Aはある人を愛している人である」
「ある人はBである」
「ゆえに、AはBを愛している人である」

こんな感じ?でも、いちいち「ある人」を入れる理由もないか…
いや、三段論法を理解してないので、全然違うかもしれない。

二番目の文章は、全然どう直していいか分からない。

そしてまた、「誰でも誰かを愛する」とか、「誰でも誰かに何かを
与える」という文章は、三段論法を使った分析では、そのような
文の現れる論証の妥当性を調べることが、きわめて怪しくなる、
のだという…ちょっとどういうことか分かりませんが。。。

三段論法でなくても、妥当性を調べるなんて難しいような気がする。

その2から、フレーゲの論理学をみていきましょう。

ぐぐぐぐぐぐ

2004年8月18日
無気力…チクショー、なんでこんなに気力が湧かない。
モーリス・メルロ=ポンティ(1908〜1961)。メルロ=
ポンティとセットで呼ばれることが多いけど、ポンティとも
略されます。ここではポンティと呼びます。

主著は「知覚の現象学」。彼はゲシュタルト心理学(人間の
心理を、要素とかに分割してその集合と見なすやり方では
なく、全体性とか構造性に重点をおいて分析する心理学。
この構造のことをゲシュタルトと呼ぶ)とか行動主義心理学
(心が目に見えないことから、目に見える部分だけを対象と
した心理学。ただこれだけではやはり心をつかみきれない
ことが分かり、次第に衰退した)、フロイト発の精神分析
などを系統立てて研究して、それとフッサール現象学を
組み合わせて、独自の論理を作り上げた。

独自の…とは言うのだけど、サルトルでもそうだったけど、
基本アイデアはフッサールのそれから脱せているとは言いがたい。
俺の今のイメージとしては、少し鋭い視点が加わった程度…
例えばサルトルなら「無」「他者のまなざし」とか。だと思う。

昭和堂では、微妙に違うのだろうか、フッサールの現象学を
彼なりに理解したということが書いてあるけど、これを読む
限りでは、フッサールの洞察の範疇内という感がぬぐえない。
俺なりに解釈しても、同じ結論に多分なる。
はじめての哲学史では、「野生の存在」「生まの存在」とかが
フッサールの生活世界から派生している、と書いているが
どれほど違うのかはよく分からない。
実際に読んでみる必要がある。

サルトルでは「無」とか「他者のまなざし」に重点が置かれた。
ポンティでは何かというと、「身体」である。

身体は、「心理的なもの(対自)」でも「生理的なもの(即自)」
にも、単純に還元されるものではない。身体は「世界内存在の
媒質」であるとされる。

確かに、一見「即自」のようにも見える身体は、「対自」と
深く結びついた存在だ。現象学的にも、そのようなものとして
身体があらわれるというのはよく分かる。

さらに、この身体的実存という観点から、物心二元論についても
独自の解釈を出す。

ポンティが特に注目したのは、言語による思惟(思考)である。

現象学の立場に立つと、純粋自我がただ思惟していて、その
結果が、頭のなかで言語として表示されているだけ、と思いがち
だが、そうではない。そうであるとすると、思惟が「言語」に
よって為され、時に、はっきりしなかった自分の考えが、言語に
よって完成したりすることが説明できない。「言語」それ自体が
意味を含むことによって、それを使うことで自分の思惟を
はっきりさせることができると考えれば分からなくもない。

しかしながら、言語が湧いて出てきたものでない以上、「言語」の
手前に、その言語に意味を与えたものがあるはずである。

ポンティによれば、これは身体的な実存のあり方と深く関係
している。これはまたソシュールで扱う概念だが、「言語行為
(パロール)」が先にあり、それを言語が示している、と
考えるのである。

言語によって色々思索すること、言語活動も「身体的動作」の
一環、と考えるらしい。

しかし、これだけだと少ししっくりこない。
ソシュールでもう少し詳しく扱おうと思う。

またポンティは、最後の作品であり未完の遺稿「見えるもの
見えないもの」で、「世界の肉」「存在の肉」「私の身体と
世界はおなじ肉でできている」という考えがあって、
ここでいう「肉」は、自らを引き裂きながらも折りたたんでいく
という風に、反転的に増殖する動きを指すのだとか。

世界の誕生はそのような肉の裂開であると考えたらしい。

なんか脂肪たっぷりでぶよぶよのお腹がたたまれていく
のを想像してしまう文章で、さっぱり意味が…

次は、分析哲学、論理実証主義にいきます。
これも、今もって哲学の大きな一分野をなしている学派。
<その2からつづき>

知覚の束で与えられるもののうち(おそらくハイデガーの
いう「道具」も含めて)、己れを問いただすことのない
「即自存在」と、常に問いただす存在である「対自存在」が
あり、人間は後者である。

「対自存在」はいつでも自己を否定する契機を含んで
おり、未来に向けて自己を乗り越えていこうとする
本質をもつ。人間は、そのような未来に向けて自分を
超えていく可能性において(そのような実存として)
定義される。

しかしそのような個人も、他人によって対象化(物化)
される、「お前は××だ」「あなたは○○である」の
ように。自分はそれを受け入れる自由もあるし、否定して
乗り越えていく自由もある。そのような選択の自由を
もつのが、実存としての人間のあり方だ。

しかし他者の一方的な決め付けからも逃れられない
(「他者地獄」)が、それに自己自身の可能性を投げ返す
ときに、自分は他者でない、という風に自分を規定する
ことができる。

う〜ん、こっちのほうが理解しやすいですね、やはり。

 
見るところはあるのだろうけど、マルクス主義に接近
したところからも、ちょっと「他者」に重点おきすぎ
のような気もする。

 
・アンガージュマン

サルトルは「世界内存在」という人間のあり方を、
「状況」に投げ入れられた「自由」を持つ人間として
捉え、そしてこの「自由」とは、社会の状況を変えていく
あり方だと考えた。よって自由というのは、政治的状況への
参加(アンガージュマン)という形をとる。

そこでサルトルは「現代(レ・タン・モデルヌ)」っていう
雑誌を、メルロ=ポンティとか、ボーヴォワール(妻?)
と一緒に創刊して、活動していたそうな。

さすが今もって名前が残っているだけあって、サルトルは
当時の言論界のスーパースターだったらしい。

またサルトルは論争家でもあったから、メルロ=ポンティに
共産主義的政治的立場を批判されてけんかして別れたりも
したとか。

ともあれ、マルクス主義に接近しはしたが、それを
なんとか乗り越えることも考えていたようで、生涯かけて
社会における人間の主体性の根拠はどのように求められるか、
を考えとおしていたようだ。

次、メルロ=ポンティで現象学は終わりです。
<その1からつづき>

・「即自」

これは、世界内存在として、世界を解釈する現存在にとっての
到来的な「知覚の束」のこと、だと思う。

ただサルトルは存在に関しては、<それがあるところのもの
であり、あらぬところのものではあらぬような存在>としか
言いようがないもの、としている。これは割と分かりやすい。

「ものがなぜ存在するかって?存在するから存在するんだ、
他に言いようがない」ということだ。

これが「即自」。現代の一般的な認識としては、原子とか
素粒子、クォークから出来ている物質ということになるかも
しれないが、現象学的には、やはり現存在にあらわれる
「知覚の束」ということになろうか。

これに(たぶん)「対自」による「力への意志」が加わって
知覚の束+解釈で「世界」がかたちづくられると思うのだが、
サルトルにおいては、この即自に独自の視点が加えられる。

 
・「対他存在」

サルトルは、「他者のまなざし」を特別視する。
昭和堂から引けば

<対自である私は、世界-内-存在として、ひとたび他者の
「まなざし」を体験するや、「対他存在」という仕方で
存在するようになる>

そして、

<この他者のまなざしによって世界のただ中で凝固し
対象化されてしまうため、自らの自由を回復するために
は、この他者を私のまなざしの対象とせざるを得ない>

こうして、他者と私は「相克(そうこく。相容れない
二つのものが、互いに争うこと)」の関係を生き抜くことに
なる、という。

ちょっとヘーゲル入ってきた?という感じだけど、まぁ
ヘーゲル的「自己中心性を持った自分と他者とのルール関係の
網の目」というのはこの頃すでに常識化しているでしょうね。

 
・「実存は本質に先立つ」

またサルトルは、元々人間が持つ本質などは存在しない、
本質は実存が未来をめがけることによって、それに成っていく
のであって、神などがそれを人間に持たせておいたもの
などはない(サルトルは「無神論的実存主義者」を自認
していた)。

そして神がそのようなものを規定していないのであるから、
人間は己れの無を己れで超越していかざるを得ない(「無」は
このモチーフからきているアイデアかもしれないですな。
神が元々与えていないから、「無」なのである、と)、
これは「自由」であるが、しかしすがるべき何物も存在しない
「孤独」である。「自由」であるが、それがゆえに自分の
行動の一切に「責任」を負わねばならない。

これをサルトルは「人間は自由の刑に処せられている」と
表現した。

こうして人間は、自由に主体的に選び、己れを「企投」し、
行動の中で己れを実現していかざるを得ない。そして
その際、「他者の面前でわれわれ自身を捉える」のである。

その後サルトルはマルクス主義に接近していくらしい
けど、確かにこの「他者が己れを規定する」というのは
マルクス主義に近い…。

その3で、はじめての哲学史からまとめて、最後に
アンガージュマンを扱っておわりです。
ジャン=ポール・サルトル(1905〜1980)、パリ生まれの
実存主義の哲学者。実存主義と現象学ってかなり緊密な関係
みたい。

彼は哲学だけでなくて、社会運動にも参加してるようです。
マルクス主義にも接近していたとか。

サルトルはロンパリの知識人で、割と有名なのかなぁ?
最近の人だし…まぁ余談はいいですね。

彼はフッサールのイデーン、またハイデガーを熟読して、
そこから更に独自の現象学を構築していったとか。

その立場としては、フッサールのように超越論的現象学
(メタ(高次の、一つ上から扱う、というニュアンス)な
地点から認識を扱う、ということか?)ではなくて、
反省において直接に与えられる、世界内の人間の心的意識
作用の本質的構造を、ありのままに記述しようとしたことに
あるという。

まぁ「無前提性という原理」をもっていても、アプローチの
仕方はいろいろあるかもしれない。それも「前提」といえば
そうだけど、アプローチ法を画一化したら皆同じ哲学に
なっちゃう気もする。

サルトルの主著は「存在と無」。「存在と時間」を意識した
書名だろうか。とりあえずみていこう。

目次。
・「対自」
・「即自」
・「対他存在」
・「実存は本質に先立つ」
・アンガージュマン(参加)

 
・「対自」から。

ハイデガーが「現存在」と呼んだものに近いニュアンスだと
思うけれど、もう少し意味が狭められている感じ。

自己自身に向いている意識のあり方、をサルトルは「対自」
と呼んだ。

これはハイデガーでいう「情状性」に態度を取る、「了解」
する現存在の部分のことを言っているように思える。

ただ言い方が複雑で、昭和堂の書き方では、サルトルにとって
意識とは

<「志向性」を本質とする「何物かについての意識」、すなわち
己れでない何物かについての定立的(≒肯定的)な意識>
(()内は引用者)

であり、しかし同時に

<自己についての非定立的な意識、すなわち「自己(について
の)意識」でもあった>

とする。

また、

<意識は、己れを非定立的に意識しつつ己れでないものを定立
することによって、世界の内に「無」を生じさせる。
また意識は、時間性の面で、己れが現にあるところのもの(過去)
で“あらぬ”ように、また未だ“あらぬ”ところのもの(未来)
で“ある”ように、「脱自」的に生成し、己れを「超越」して
いく存在でもある>(“”は引用者)

であり、つまりは

<対自としての意識には「無」があまねく浸透しており、対自存在
とは、この無を生み出す「無化」の働きとして「自由」そのもの
であるとさえ言えるほどである>

というのだ。

何が何やらという文章だが、なんとか解釈に挑戦する。

“「己れでない何物か」”、“現にあるところの「過去」で
「あらぬように」”、とはこれ全て、いわば過去の「後悔」に
ついてのことだと思う。ハイデガーでいう、「先駆」を可能に
している「時間性」における「過去」だ。
ただ肯定的に捉えられる過去もあると思うのだが、それについては
なぜ扱わないのか分からない。肯定的な過去は、自然と習慣化
していくから、あえて定立することもないからだろうか。

そして“「あらぬ」ところの未来で「ある」ように”、
“対自が生み出す「無」”、“意識に浸透している「無」”は、
未来に対する可能性、ハイデガーでいう「企投」なんだと思う。

もう少し噛み砕くと、こう。

過去を“あらぬ”ようにする、ということは、俺はあほなので
そのまま解釈してしまうが、過去にあったことを、これから
無くなるよう努力する存在としての、人間を指していると思う。

しかしこれだと、過去の失敗を否定するだけなので、未来に
対する指針とはならない。これが「無」。

対自存在として「無」を生み出すとは、過去の後悔を心理的に
打ち消そうとして過去を“あらぬ”ようにして、未来を目指す
(脱自する)のかなーと思った。そして非肯定的な過去しか
もたないので、肯定的な未来を、何か肯定的な過去のサンプルから
引っ張ってくることはできない。「無」の中から「自由」に
思い描くしかない。

うーん、あまりに解釈が卑近過ぎる気もする…。

でも、過去の大きな失敗が自分を「無化」するかのような力を
持っていることは、俺は後悔の多い人生なので、なんとなく
分かる。

毎回そうだけど、今回は特に解釈に自信ない。
でも、自分でも理解できないような難しい言葉並べておしまい、
じゃ寂しいし、自分の生活感覚に即して理解したいんだな〜
これが。まだ早いかもしれんけど、原著読んでから解説書
見るときに、自分でも考えておくのは多分役立つと思う。

うおー

2004年8月16日
野暮用があってきのうは書けなかった。

人間が2人だけで、同じとこに住むっていうのはやっぱり
よっぽど相性良くないと難しい。

男-女だと、男が大人になろうと頑張ればいい話だと
思うけどね。・・・_| ̄|(;Д)

しかしサガフロ2の曲いい。

<今日読んだ本>
哲学史
<その7からつづき>

冒頭で、ハイデガーはナチスと深い関係があった、と言った
が、この頃は第一次大戦に続いて、二次大戦が行われた年だった。

つまり、ニーチェの予見したニヒリズムに近い状態、人間の
理性と科学が理想の社会を作れる、という期待が、がらがらと
音を立てて崩れた時代。

技術は進歩しようとも人間の理性は進歩せず、結局は大掛かりな
殺し合いにしか繋がらないのではないか、と人々は落胆して、
人類がまだ自然と調和できていた無垢な時代を懐かしんだころ、
かもしれない。

後期ハイデガーは二次大戦中〜後だから、丁度そのあたり。
端的に言えば、人間は、自らのおごりの象徴である技術を捨て
自然に還るべき、というロマン主義的傾向のあらわれだと思う。

 
・「頽落」と後期ハイデガー

さてこの「存在の真理」という考え方、現存在が「脱-存」すべき
という考え方、先に見た「非本来性」と「本来性」に似ていません
か。

実はこれは、今のこの世は虚飾にまみれたウソの世界であり、
その虚飾を取り払って真の世界に触れることが必要である
という、「頽落」の「存在バージョン」ともいうべきもの…だと
思う。

後期ハイデガーのアイデアはこれに尽きていて、実存主義、
現象学としては非常に弱いものになっている。今見えている存在
とは別に、どこかに「存在の真理」がある…こんなことは、
ノエシス-ノエマとしては現れないし、証明しようがない、
言ってみれば「形而上学的」だ。

誰もが自明のものとして持っている漠然とした「存在とは何か」
をつきつめていくとしたところが前期ハイデガーの実存主義の
白眉だった。これなら誰でも存在について追求できるし、
かなり普遍的な考え方もつきつめていけそうだ。しかし後期では、
どこかにある「存在の真理」を追想によって得るべきだとする…
もはやそれは誰にでも追求できるものではなくなり、昔の思想家や
詩人にしかたどり着けないものとなっている。これでは、到底
哲学としては成り立たない。哲学はそういうものではないのだ。

ハイデガーはプラトニズムを批判するが、実はこの考え方こそが
(おそらく)ハイデガー自身が批判した、プラトン発のロゴス
中心主義(人間が理性(ロゴス)によって真理にたどり着ける
という考え方)と同根のものなのであり、哲学が陥りやすい罠、
なんだと思う(実際はプラトンは、実存主義の先駆けだと思う
けれど)。

どこかに「真理」があり、それと「一致する」ことこそが
哲学の本分である…これは現象学とは、真っ向から反対な考え方
だ。人間の有限な知性で「真理」など認識できない。人間に
持てるのは「確信」だけなのだ。

だから後期ハイデガー、いや、前期-後期を貫いている「本来性」
「非本来性」という考え方、つまり「頽落」のアイデアそのもの
が、あまり評価に値しない、というのが竹田さんのハイデガーの
結論だった、と記憶している。

ただ、人間が「本来性」を本質的に「求める」ような存在である、
という本質をあらわしている、とも取れる。そういう肯定的側面もある。

次から、はじめての哲学史からまとめて…いこうと思ったん
だけど、開いてみたらもうほとんどカバーしていた(-_-;)
追加説明の要はなさそう。

ハイデガーはこれで終わり、次はサルトルです。
<その6からつづき>

・存在の真理

後期ハイデガーでは、現存在のあり方も少し変化する。
いわく、「存在そのものによって存在の真理の内に「投げ」
入れられている」。

プラトンで、存在がイデアに与(あずか)って(その
おかげで存在できている、というニュアンス)いたのと
同じように、存在が「存在の真理」に与って存在できている
という感じが出てくる。

現象学的には、本来「気分」でつきあたりである(俺的には
「気分」と「知覚の束」とその間の「現存在」という構図は
動かないが)。これ以上さかのぼろうとすると、人間の
「気分(欲望)」は何で存在しているのか?を説明する
ことになり(大脳生理学の知識は「現象学的還元」で
削り落とされている)、トートロジーかもしくは神話的説明
でしか、説明できなくなるのだ。

ところがハイデガーはこれを「存在の真理」によるのである、
と、してしまう(のだと思った)。
存在と時間が「存在の真理」の「性起」によって贈り届けられる
もので、しかし人間は「言葉の家」でしかこれを受け取れない
から、言葉の家に住みながら、この「存在の真理」を守らねば
ならない、という。

 
・どう生きるべきか?

こうして、後期ハイデガーでは、言葉の家に住む存在として、
その「存在の運命」に従いつつ、「存在の真理」を守りつつ
これに属する、という形で「脱-存」するものとして、
「存在の牧人」として生きねばならないと主張する。

よく意味はつかみづらいが、では具体的にどう生きたらいいか?

ハイデガーによれば、プラトン以後、ニーチェに破壊される
までの全形而上学は(といってもニーチェ自身をも含むらしい
が。ただフッサールは含まないのだろう)、その「存在の真理」
を見失った「存在忘却」の状態にあった。

だから、ソクラテス以前の思索家たちの言葉を聞き、また、
ハイデガーはヘルダーリンという詩人の詩もかなり研究していた
らしいが、このヘルダーリン、リルケ、トラークルといった
詩人の詩作、「思索する者たちと詩作する者たち」の語る言葉の
内に「存在の真理」を聞き取らねばならない、とするのである。

さてオカルトじみているのだが、これには少しわけがある、
らしい。次で詳しく述べます。

その8へ。

2004ヒットげと

2004年8月14日
硬筆書写検定の勉強を始めます。
基本情報技術者も、勉強します(3回目の受験_| ̄|○)

それにしても、硬筆検定に必須の持ち物につけペンが
あるんですね…そうGペンとかカブラペン(?)とか。

あぁ〜夏休み、嫌い。時間だけ有り余ってて気力が湧かない。
<その5からつづき>

前期のまとめ。

「現存在(人間)」は、「世界の存在がそこに開示されており
世界の内に自らを位置づけるような存在者」である。
現存在は「情状性(気分)」によって突き動かされ、常に
「死への不安」を根底に抱えながら、不断は大衆的な
生き方に「頽落」し、「非本来性」の生き方へと堕している。
しかし「死への不安」、「死の交換不可能性」に直面
させられる時、「頽落」を脱し、「非本来性」から
「本来性」としてのあり方へと「先駆」する。これが
「先駆的決意性」であり、人間の「時間性」としての有り方
(実存としての有り方)があってこそ可能となっている。

なかなかつきつめられてきているように思う。
ここから「頽落」を除けば、竹田現象学にかなり近いのだろう
(実は「頽落」はいらない概念らしい。後で詳しく)。

 
・そして「転回(ケーレ)」を経て、後期ハイデガーへ。

後期ハイデガーの文章は、前期にも増して難解複雑らしく
一回や二回読んだくらいじゃ何も分からなそうな感じ。

結局未完となった「存在と時間」で、最後の仕上げ「存在
一般の意味」を追求していくうちに、思想のケーレが起こる。
考えが変わったのでこれを断筆して、違う著作に取り掛かった
ということですね。後期の著作で、「存在と時間」を自ら
批判したりもしてます。

どうケーレしたのか、というとこれもまた、解釈する人に
よって様々なんだけど、とりあえず昭和堂の解釈+α、
竹田さんのハイデガー入門で覚えてるところで紹介します。

はじめに目次

・「情状性(気分)」と言葉による感情の分節
・存在の真理
・どう生きるべきか?
・「頽落」と後期ハイデガー

 
・「情状性(気分)」と言葉による感情の分節

ではこれから。

人間の気分は、ただぼんやりと「感じ」が与えられているもの
で、人間がそれに後づけで「言葉」を当てはめていると思う
だろうか?たとえば、「赤い」と感じるのは、その「感じ」が
やってきてから、「赤い」と判断しているのだ、と。

ハイデガーによればこれは違って、人間はあらかじめ、「感じ」
に、言葉によって分節を与えている。

またヘンなことを言ってる、と思わないでもない。
しかしこれもニーチェ、フッサールの時と同じく、「世界」は
与えられているだけでなく、現存在が解釈を与えている部分も
あると思うとなんとなく分かる気もする。

人間が「言葉」で解釈を与えるからそのものを赤いと感じる、
というのはいくら何でもヘンなので、人間は「言葉」による
分節の中で自分の感情や感覚を、一定のステレオタイプの集合
の中で理解している、くらいに理解するといいだろうか。

しかし人間、嫌でも「赤い」と思いたいものは、実際赤く
なくても赤いと勘違いできそうな感じもあるし、「知覚の束」
と「力への意志(情状性、気分)」は相互浸透の関係にある
かもしれない。

「世界」の気分による解釈だけではなくて、その一歩手前になる
現存在による「気分」の「了解」についてもこれは言えて、
人間は「言葉」による分節の中で自分の感情や感覚を、
ある一定の構造の中で理解、解釈するところがある、という
意味だと思う。

ここでハイデガーから引用すれば、
「言葉こそが存在の家である。言葉という住居の内に人間は
住んでいる」。

ただハイデガーの言ったことはこれにとどまらず、彼は
言葉の内で存在の真理が宿っていて、言葉のうちで存在そのもの
が語りかけてくる、さらに存在のそのまた奥に「性起」なる
働きがあり、この「存在の真理」に耳を傾けて、「性起」を
思索して追想しなければならない、とした。

さてこの「存在の真理」とは何だろうか?
<その4からつづき>

・「先駆」について。

これも難しい。最初に少し、さきの「頽落」と絡めて
ハイデガーの考え方を紹介します。

ハイデガーは、「善」について、現存在が個々で
思い描く「本来性」に向かうことだとしている。
「頽落」を脱し「本来性」に近づけば近づくほど、
善を為せる存在になる、これもなんとなくわかる。

要するに「先駆」というのは、このことを指している
のだと思う。

「死」はいつ訪れるとも知れないし、誰とも交換する
ことなどできない。

孤独にこの「死」に対して態度を取るとき(先駆)、
あらわれる現存在の「本来的」な「気遣い」。
これを「先駆的決意性」と呼ぶようだ。

 
・「時間性」

次は「時間性」。これもまた難しい説明がしてあって、
ベルクソンが「純粋な現在は未来を侵食する過去の捉え
がたい進行」と言っていたけど、これをベースに理解
するのでなければ、俺にはさっぱりなんのことやら…

昭和堂の哲学史によれば、さきの「先駆的決意性」を
可能ならしめるものがこの「時間性」であるという。

というのは、ちょっと難しいのだけど

現存在の存在である気遣いには
<世界内部的存在者のもとでの存在として、己れに先ん
じて世界の内で既に存在している>
という構造が含まれていて、

その気遣いの本来的なもの、本来的気遣い、先駆的
決意性は、
<既に在る己れの責めある存在を引き受けつつ、その
時々の状況における世界内部的存在者のもとで、己れの
もっとも固有な可能性に関わり決意する>
というあり方であるから、

このあり方が可能であるためには、現存在は
<己れに先んじて己れの可能性をめがけて己れ自身へと
到来しつつ、既に在った己れに立ち戻りながら、現前
する存在者を出会わせている>
のでなければならない、という。

前・中・後で俺なりの解釈をすれば、

前の文章では、世界において、現存在の前にすでに
何かがあった、みたいな事を言ってるみたいに取れる
けど、これは「到来的」である「気分(力への意志、
欲望(エロス))」のことだと思う。

現象学的には、この「気分」の「到来性」は
世界解釈のもっとも根本をなすもの。
なぜなら、「現象学的還元」においても排除されず
「世界」が解釈される以前にすら、「本質直観」に
おいて対象とできるものだから、である。

そういう哲学用語を使わなくとも、行動以前に存在
するもの、学問を作った原因となったもの、人間が
生きるのはなぜか、といえば、これにつき動かされる
からだ、と言えるもの、というと分かりやすい。

現存在が世界を解釈する以前(それによって解釈
されるのであるから、当然だが)にどこかからやって
くる「気分」、、という感じだろうか。

中の文章は、これは、「死」へ向き合ったときの、
いつわらざる人間の「本来性」からくる「先駆的
決意性」のことだと思う。

さらに後の文章では、前を前提にして中が可能である
ためには、今までの己のあり方を振り返りつつ
目の前の世界と向き合っているのでなければありえない。
つまり、
今までの経験(過去)を振り返りつつ、可能性(未来)
へとめがけるのでなければ、現存在のあり方も存在しえ
ない。この経験(習慣、知識)→可能性(未来)という構造、
これこそが「実存」としての現存在にとっての
「時間性」、、ということだと思う。

本質直観をしてみれば、現存在にとって、時間とは
数学などで扱うときのように、数直線上の一点の
ように現れたりはしない。確かに、このように
現れるといったほうが適切かもしれない。

まだ少し細かい論点もあるようだけど、昭和堂でも
割愛しているので、後期にいきます。

ハイデガー入門の内容、あんまり覚えてない(-o-;)
<その3からつづき>

・次は「頽落」。
この「頽落」、辞書にないんですよね。「頽廃(たいはい)」
とかいう使われ方もするのでたぶん「たいらく」でいいと
思うんですが。

見た感じでわかるとおり、何かから落ちてしまってる
わけだけど、この表現が使われるときは「現存在が、
その本来のあり方(本来性)から、世俗の価値観とか
俗なあり方などに染まり、それ(本来性)を忘れて
しまっているあり方(非本来性)へと落ちてしまってる」
ことを指します。

それで、現存在は気遣いによって(?)世俗の価値観に染まり
頽落してしまっているのだが、そんな現存在に本来性を
取り戻させるものは何か?

これはちょっとわかりやすい話なので、説明しやすい。

ハイデガーによれば、それは現存在の誰もがもつ「死への
不安」なのだそうだ。

え〜?死への不安なんて、誰もがしょっちゅう抱いてる
か?とも思えますが、もう少しつづけます。

つい先ほど、「被投性」から来るなんとなく無気力な、
アンニュイな気分について説明したけれど、あれは実は
この「死への不安」の「頽落」バージョンともいうべき
もの。それは本来、いつか死ぬ(と確信している)現存在
の不安のあらわれであるが、頽落しているのでそれに
気づかない。

現存在は、いつか死ぬことがわかっている。他人の死を
見るし、そういう知識を誰もがどこかで知るから。

「死」の先は誰も知らないが、なんとなく「無」のイメージ
がある。そこへたどり着いたら、もう終わり、という。

さらにここが大事だが、物とかなら、他人といくらでも
交換できるし、無くしても取り返しがつく。責任とか
つらいことも、他人に代わって受けてもらえなくもない。
しかし、「死」は絶対に他人と取り替えることができない。

ハイデガーは<死の絶対交換不可能性>と確か
呼んでいたけど、このことが、現存在を世俗の価値に
頽落した状態から本来性へと引き戻すカギとなる、のだそうだ。

また人間誰しも、毎日をある程度努力して生きているのも
この「死への不安」ゆえだという。

んなこたない、と思うかもしれない。しかし、もし永遠の
命が自分にあるとしたら、今この場で努力をしようと思う
だろうか?もっと堕落した生活になってしまわないだろう
か。何せ、何をしていても永遠に生きていられるのだ。
もし夏休みが永遠に続くなら、宿題なんてやりもしないのと
同じである。人間のあり方の根底には、実は「死への不安」が
横たわっているのである…なかなか鋭い洞察だと思う。

…う〜ん、まだ説明足らずのような気がする。

「頽落」との関連としては、人間(現存在)は、死を前に
した時、自分を偽ることはできない、というくらいに
理解しておくといいかもしれない。

それで「頽落」している現存在のあり方の具体例なんかは
どういうものがあるのか、というと…

これは、欲におぼれたり、富とか名声に執着する人間の
あり方とか、と思う。

これらは「死」を前にしたら吹っ飛ぶ、薄い価値だ。
今際の際に思うことは、それよりもっと「本来的」な
ことだろうと思う。

少しごちゃごちゃしてしまった。重要なのは「頽落」を
「本来性」に引き戻すのが「死への不安」というところ
です。

その5へ。
<その2からつづき>

さて、これまでで、現存在の世界内存在としてのあり方が
明らかになった。フッサールのノエシス-ノエマの考え方に
かなり近いと思う。同じ現象学だから当然だけど。

昭和堂の言葉を借りると、<われわれは世界-内-存在と
して、この世界の内に投げだされ(被投性)、何らかの
「気分」のうちで、己れの可能性を「了解」しつつ「企投」
する>。

これは基本的には、つねに己れのあり方を問題にしつつ
それに態度を取るあり方、「到来的な欲望(気分)を
受け取りつつそれに態度を取り(了解)、また世界に
対して態度を取る(企投)」存在である、という「実存」
としてのあり方として考えていいと思う。

ただハイデガーで少し違っているのが「被投性」という
考え方で、われわれは望むと望まざるとにかかわらず
この世界に存在しつづけ「なければならない」という
ニュアンスを含んでいると思う。

無理に生きたいとも思わないが死ぬのもいやだ、そういう
けだるい、無気力な気分の時に実感するのがこの「被投性」
で、いっそのこと「無」になってしまいたいのに、いや
元々そうであればよかったのに、何も感じないアメーバ
とかに生まれていたほうがよかったのに、なぜ私はここで
人間として存在していなければならないのか、なんて思う時は、
人間は自分の「被投性(「世界」に投げ入れられている、
という受動的なニュアンスと思う)」としての自分の存在が
「重荷」になっているのだという。

これは、少し後で出てくる「頽落」「先駆」における
「死への不安」と、繋がる概念。

…と思うんだけど正直自信がない。
昭和堂の解説は難しいので、どうしても自分解釈が入ってしまう。

 
・つぎ、「気遣い」。

この「気遣い」のニュアンスは非常に難しい。
とりあえず昭和堂の自分解釈でいきます。

それだと不安なので、最初に昭和堂からの引用。

<われわれは世界-内-存在として(略)、己れを取り巻く
さまざまな道具に意を配り、また己れと共に在る他者たちを
顧み、最終的には己れ自身を気遣いながら生きている。
ハイデガーは、特に道具への配慮を「配慮的気遣い」、
他者への配慮を「顧慮的気遣い」と術語化したが、被投的
企投におけるこのような気遣いこそが現存在を現存在
たらしめている当のもの(すなわち現存在の存在)だと、
彼は洞察した。そしてこの気遣いには、<世界内部的
存在者のもとでの存在として、己れに先んじて世界の内で
すでに存在している>という構造が含まれていることを彼は
見て取るのである>

なんとなくしかわからないので自分解釈するしかありません…

現存在の根本は「気分」である(ハイデガーは「情状性」と
呼んだが、分かりやすいのでこちらを使う)。現存在は
この「気分」を受け取りつつ、それと目の前の「世界」とを
考え合わせて自分の行動を選択するような存在だ(「気分」が
ノエシスの根本的なもので、目の前の世界はノエマであり
「知覚の束」、人間が感じるのはこれ以外はない)。

このときの「考え合わせる」ところが「気遣い」だと思う。

もう少し違う言い方をするなら、到来的な「気分」を
「了解」して世界に「態度」を取る時の構造、仕組み。
もうちょっと噛み砕くと、「目の前の世界にどう関わって
いくか」に対する気遣いという感じ。

またもう少し言い換えるなら、欲望と目の前の世界とを
考え合わせて思考し、また欲望によって世界を解釈していく、
こと、それを適切に行おうという気遣い。

<志向性>に<力への意志>が少し加わったイメージ
だと思う。

だから単にノエシスとノエマになってしまうのではなくて、
ノエマの中にも「道具」と「他者」と、あえて追加すれば
見えているが気遣いの対象とならない「背景」といった
ところだろうか、という区別ができてくる。

ハイデガーが「情状性」と呼び、ニーチェが「力への意志」、
竹田さんが「欲望(エロス)」と呼んでいるものが、
世界を解釈する、という例の「欲望相関関係」としての
世界の解釈の仕方というか、そのあらわれというか。

道具は、気分、力への意志、によってそのありようを
いくらでも変えうるし、他者にいたっては、自分と
同じように、他者を「対象化」する存在である。
どうしても特別な「気遣い」を向ける対象になる、と、
ほんとに簡単な表現だけど、そういうことだと思う。

昭和堂では、この「気遣い」が元々「頽落」にいたる
必然的なプロセスをもっている、と書いている。
理由は、気を遣うことによって、周りの人間に合わせて
生きてしまっている、というくらいの書き方。もう
返してしまったので読み返せないが、竹田さんのハイデガー
入門では違った読み方がしてあったような。

その4につづく。

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