なぜ良いと思うのか、なぜしたいと思うか
2005年3月6日そういう思いを言葉にするのって凄く難しい。なぜ良いのか
というのも特に。いわゆる評論家といわれる人たちは、
それをするのが上手い人たちのことを言うのだろうと思う。
しかし、それが上手いかどうかを判定するのもまた自分だし、
その判定にシビアでないと、ある効果が生まれる。それは
何か。
人は感じたものを言葉にすると、その言葉にあらわれる
一般的な意味に、逆に感情を規定されてしまうような生き物だ。
例を挙げると。たとえば、二重まぶたの男性を好きだと思った
とする。実際には、二重まぶた以外の、例えば性格などを
気に入っただけなのだけど、その女の子の中では「自分は
特に二重まぶたの男性が好きなのだ」という思いが言語化される。
すると不思議なことに、ほんらい好意を抱く要因ではなかった
「二重まぶた」が、急に好意を抱く条件に入ってくる。
例えばフェティシズムというのは、こうやって生まれるものだと
理解している。
自分が好意を抱いたり悪意を持ったりするときに、なぜその
好意や悪意が生まれたのかをよく反省しない人が多い。
簡単に分かる相手の特徴に目をつけ、「〜だから好き」「〜だから
嫌い」と勝手に自分で理由付けをしてしまう。すると、
今度から、その要因が好き嫌いの決定要因になってしまう。
言語化した動機や理由によって、逆に動機や理由が規定される。
さてまるで悪いことのように書いてしまったが、これは悪いこと
だろうか?それも、単純に悪いこととは言えない。誰もが自分の
動機や理由を深く反省する人間でもそれはそれでおもしろくない
し。勝手な幻想や理屈を考え付くのが人間で、だから個性があって
世の中はおもしろい。困ることもおおいにあるけど。
というのも特に。いわゆる評論家といわれる人たちは、
それをするのが上手い人たちのことを言うのだろうと思う。
しかし、それが上手いかどうかを判定するのもまた自分だし、
その判定にシビアでないと、ある効果が生まれる。それは
何か。
人は感じたものを言葉にすると、その言葉にあらわれる
一般的な意味に、逆に感情を規定されてしまうような生き物だ。
例を挙げると。たとえば、二重まぶたの男性を好きだと思った
とする。実際には、二重まぶた以外の、例えば性格などを
気に入っただけなのだけど、その女の子の中では「自分は
特に二重まぶたの男性が好きなのだ」という思いが言語化される。
すると不思議なことに、ほんらい好意を抱く要因ではなかった
「二重まぶた」が、急に好意を抱く条件に入ってくる。
例えばフェティシズムというのは、こうやって生まれるものだと
理解している。
自分が好意を抱いたり悪意を持ったりするときに、なぜその
好意や悪意が生まれたのかをよく反省しない人が多い。
簡単に分かる相手の特徴に目をつけ、「〜だから好き」「〜だから
嫌い」と勝手に自分で理由付けをしてしまう。すると、
今度から、その要因が好き嫌いの決定要因になってしまう。
言語化した動機や理由によって、逆に動機や理由が規定される。
さてまるで悪いことのように書いてしまったが、これは悪いこと
だろうか?それも、単純に悪いこととは言えない。誰もが自分の
動機や理由を深く反省する人間でもそれはそれでおもしろくない
し。勝手な幻想や理屈を考え付くのが人間で、だから個性があって
世の中はおもしろい。困ることもおおいにあるけど。
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