そういう思いを言葉にするのって凄く難しい。なぜ良いのか
というのも特に。いわゆる評論家といわれる人たちは、
それをするのが上手い人たちのことを言うのだろうと思う。

しかし、それが上手いかどうかを判定するのもまた自分だし、
その判定にシビアでないと、ある効果が生まれる。それは
何か。

人は感じたものを言葉にすると、その言葉にあらわれる
一般的な意味に、逆に感情を規定されてしまうような生き物だ。

例を挙げると。たとえば、二重まぶたの男性を好きだと思った
とする。実際には、二重まぶた以外の、例えば性格などを
気に入っただけなのだけど、その女の子の中では「自分は
特に二重まぶたの男性が好きなのだ」という思いが言語化される。

すると不思議なことに、ほんらい好意を抱く要因ではなかった
「二重まぶた」が、急に好意を抱く条件に入ってくる。
例えばフェティシズムというのは、こうやって生まれるものだと
理解している。

自分が好意を抱いたり悪意を持ったりするときに、なぜその
好意や悪意が生まれたのかをよく反省しない人が多い。
簡単に分かる相手の特徴に目をつけ、「〜だから好き」「〜だから
嫌い」と勝手に自分で理由付けをしてしまう。すると、
今度から、その要因が好き嫌いの決定要因になってしまう。

言語化した動機や理由によって、逆に動機や理由が規定される。

さてまるで悪いことのように書いてしまったが、これは悪いこと
だろうか?それも、単純に悪いこととは言えない。誰もが自分の
動機や理由を深く反省する人間でもそれはそれでおもしろくない
し。勝手な幻想や理屈を考え付くのが人間で、だから個性があって
世の中はおもしろい。困ることもおおいにあるけど。

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