人と人との難しいところ
2005年2月7日竹田現象学の考え方は、日常と関係ないただの純粋思想ではなくて
日常生活での自分の考え方について、深く影響を及ぼしている。
少なくとも俺にとっては、そのようなものだ。
人の考え方が一種の「信憑構造」、物語形式を取ること。
そこから、今までの経験をかんがみて、なるほどこういう
経緯なら今の考え方に落ち着くだろうな、と深く了解できる
こと。
そしてそれはまた、他人に関してもそうであること。
このことは、本当に信念対立を解く重要なカギになる考え方
だと思う。
信念対立なんて言うと難しい。そうでなくて、友達や知り合い、
恋人同士、親とのケンカとか、そういうものでも。
「あいつはああだからおかしい」「こうだから嫌い」
そうではなくて、
「なぜあいつはああなのか?」「なぜ俺は嫌いだと思うのか?」
こういうところを内省してみると、その相手の人間性の奥には
実に、自分のまるで知らない背景があるのだろうな、と思える。
そしてそれは、正しいことだろうと思う。「確信」できる。
最近、自分から見てあまりいけてない人を見たとしても、
「親はどういう育て方をしたんだろうか?」「どういう日常を
送ってるんだろう?」など、背景が気になる。だからといって
特に知りたいとは思わないが、そういう、割と老いた考え方が
できるようになった。
今ダメだとしても、その背景がある。今良いとしても、やはり
その背景があって、そうなっている。そう考えてくると、
単にその個人を責め立てる気にもなれない。
もちろん、明らかに責任を問うべき状況では、問うべきだ。
やるべきことをやらなかったり、何度も注意されてることを
したりした場合とか、明らかに道徳に反したことをした場合
とか。
でも、本人の意思とは関係なく、習慣などで形成されてきた
人格などを責め立てることは、本人の責任にあまることだと
思う。環境、それが与える経験によって人はいろいろな「信憑
構造」を持つのであって、一部は変更可能な「確信」である
場合もあるが、認め合うしか道がない場合もある。
そして、元々他人に多くを期待しない性格も影響して、
他人に激昂するなんてことが少なくなった(元々あまりないが)。
精神的に老いた、悪く言えば、感受性が弱まってるのかも
しれないが、ともかく今はそういう状態になっている。
そこで、常識的な一般人の若い人を想像するに、やっぱり
あいつはここがダメとか、ムカつく、キモイ、ちょっと見た
だけの人相手でも、思ったらそういうことを言うのが普通で、
俺は一方でその「普通」にもあこがれるので(もちろんこの
「普通」は暗部ばかりではないし)、やっぱりやっぱり
「哲学してる時の自分」と「日常生活の自分」の2つの顔を
分けて持つべきかなあ、と思っている。
どっちが本音でどっちがタテマエとかはなくて、うまく
両方の、本音であり、タテマエである意見を使い分けたい。
キレイゴトはよく非難される。けど、俺はキレイゴトは
手放しで否定されるようなものだと思わない。人は自己中な
ところもあれば、キレイゴトがなくちゃやっていけない部分も
ある。その部分をよく見極めて、うまく使えばいい。
見極めたうえで、キレイゴトを言っていられる時間は、それは
それで気持ちいいから。
日常生活での自分の考え方について、深く影響を及ぼしている。
少なくとも俺にとっては、そのようなものだ。
人の考え方が一種の「信憑構造」、物語形式を取ること。
そこから、今までの経験をかんがみて、なるほどこういう
経緯なら今の考え方に落ち着くだろうな、と深く了解できる
こと。
そしてそれはまた、他人に関してもそうであること。
このことは、本当に信念対立を解く重要なカギになる考え方
だと思う。
信念対立なんて言うと難しい。そうでなくて、友達や知り合い、
恋人同士、親とのケンカとか、そういうものでも。
「あいつはああだからおかしい」「こうだから嫌い」
そうではなくて、
「なぜあいつはああなのか?」「なぜ俺は嫌いだと思うのか?」
こういうところを内省してみると、その相手の人間性の奥には
実に、自分のまるで知らない背景があるのだろうな、と思える。
そしてそれは、正しいことだろうと思う。「確信」できる。
最近、自分から見てあまりいけてない人を見たとしても、
「親はどういう育て方をしたんだろうか?」「どういう日常を
送ってるんだろう?」など、背景が気になる。だからといって
特に知りたいとは思わないが、そういう、割と老いた考え方が
できるようになった。
今ダメだとしても、その背景がある。今良いとしても、やはり
その背景があって、そうなっている。そう考えてくると、
単にその個人を責め立てる気にもなれない。
もちろん、明らかに責任を問うべき状況では、問うべきだ。
やるべきことをやらなかったり、何度も注意されてることを
したりした場合とか、明らかに道徳に反したことをした場合
とか。
でも、本人の意思とは関係なく、習慣などで形成されてきた
人格などを責め立てることは、本人の責任にあまることだと
思う。環境、それが与える経験によって人はいろいろな「信憑
構造」を持つのであって、一部は変更可能な「確信」である
場合もあるが、認め合うしか道がない場合もある。
そして、元々他人に多くを期待しない性格も影響して、
他人に激昂するなんてことが少なくなった(元々あまりないが)。
精神的に老いた、悪く言えば、感受性が弱まってるのかも
しれないが、ともかく今はそういう状態になっている。
そこで、常識的な一般人の若い人を想像するに、やっぱり
あいつはここがダメとか、ムカつく、キモイ、ちょっと見た
だけの人相手でも、思ったらそういうことを言うのが普通で、
俺は一方でその「普通」にもあこがれるので(もちろんこの
「普通」は暗部ばかりではないし)、やっぱりやっぱり
「哲学してる時の自分」と「日常生活の自分」の2つの顔を
分けて持つべきかなあ、と思っている。
どっちが本音でどっちがタテマエとかはなくて、うまく
両方の、本音であり、タテマエである意見を使い分けたい。
キレイゴトはよく非難される。けど、俺はキレイゴトは
手放しで否定されるようなものだと思わない。人は自己中な
ところもあれば、キレイゴトがなくちゃやっていけない部分も
ある。その部分をよく見極めて、うまく使えばいい。
見極めたうえで、キレイゴトを言っていられる時間は、それは
それで気持ちいいから。
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