訳したのは山田道夫という人です。。

さて、確かアランて人の「プラトンのための
十二章」と、昭和堂の哲学史、図解哲学の
哲学史以外では、はじめて竹田さん以外の
プラトン像に触れたこの著書。
アラン氏のは、ややこしくて途中で断念して
しまったけど。。。
 
自分を客観視してみて正直なところを言うと、竹田現象学の
説得力に圧倒されて、ほかの人のプラトンの読み方が素直に
入ってきにくい状況になってきているかもしれない。
竹田さんも、ニーチェのプラトン批判が強力すぎて、しばらく
それ以外の読み方ができなくなった時期があったいうが、
まさに似たような事態なんだろうと思う。

しばらく、原典か竹田さん以外の人の本を読んで、
距離をおいてみる必要があるかもしれない。再度読み返して
みて、さらに納得が深まるのか、違和感があるのか、試して
みたい。

 
この本では何を扱っているか。書名の通り、ソクラテス以前以後で
哲学がどう変化したか、言い換えれば、なぜソクラテスが
哲学史上のエポックに数えられるのか、ということを明らかに
することである。

そのポイントとなる考えは何か、割と受け取ったことを素直に、
単刀直入に述べるべきだと思うので簡潔に言うと。

ソクラテスは、それ以前の哲学が持っていた「原因を過去に
求める世界説明」ではなく、「原因を未来に求める
世界説明」を行った(希求切望の哲学)。そして実は、
プラトンの痛烈な批判者であるアリストテレス、またアリスト
テレスを祖に持つ自然科学においてさえ、その思想の輝きは
失われてはいない。

だからこそ、ソクラテス-プラトンの哲学は、哲学史上の
エポックとして数えられるにふさわしいのだ、ということである。

 
希求切望の哲学とは具体的に何か。むずかしい言葉を使いたく
ても使えないので、中学生レベルの語彙で書きますと。

まず、なぜそのような考え方が生まれたかの説明をするために、
ソクラテス以前の哲学を振り返ってみる。ソクラテス以前では、
世界説明が主な哲学の課題だった。
ソクラテス以前の世界説明とはどのようなものだったか?

もともとは、神話だった。最初に神がいて、神がうんぬんで
色々造ったから、そこを始まりとして今の世界が動いている
のだ、と。

そこから時がたって、神話を用いずに世界説明を行う人が
現れはじめる。哲学の祖タレスから始まって、イオニア自然学から
だんだんと考察は深まっていく。

例えばデモクリトスは、結局、世界のすべては原子だと考えた。
あるのはただ原子と、その運動を起こさせる虚空(ケノン)のみ。
ものを分割していくと最後にはこれにたどり着くという究極の
物質があって、その機械的運動のみによって世界は描かれている。
とある原子の状態から次の原子の状態へ移るのにも、原子間の
隙間である虚空(ケノン)が全てそれを決めるのであるから、
出来事は全て決定的。出る結果は過去において全て決まって
いた必然の結果である。
機械的な因果関係をもって世界説明を行うという点では、
ほかの哲学もほぼ似たようなものだと言える。

こうなるとほとんど神話の出番はなくなる。そして、この
デモクリトスの考えは、今の自然科学にけっこう近い。

それで、これに対してソクラテスはどう考えたか。

ソクラテスにとって、神話はともかく、そういう機械的、唯物論的な
世界説明は、ほとんど自分の知的欲求を満たすものではなかった。
アナクサゴラス以外の哲学は、ソクラテスの興味を引かなかった。
これはプラトンの著作にそのまま書いてあることではあるが、
コーンフォード氏はどう考えたか。答えは、それらの哲学は
外的自然をうまく説明しはするが、自己自身の分析にはほとんど
役に立たないからだ、という。また、今この世界の状態が
「どのように」こうなっているかを説明しはするが、「なぜ」
こうなっているかを説明しないから、という。

ソクラテスいわく、機械的な世界説明によれば、今自分が
イスに座って死刑を待っているのは、体を構成する骨、足を走る
筋肉、またはそれらを構成する物質の運動の因果関係から説明が
つくのだろうが、そうではない。これは自分の精神が、
アテナイの法律に従って死すべしと思っているからこうしている
のだ、と。

この世に存在するのは原子のみ、と考える世界観からは、
これは受け入れられない。精神なんてものは、原子の組み合わせの
一状態でしかないのだから。早くもここから、唯心論と唯物論の対決が
始まっているようにも思える。コーンフォード氏はどうも、
唯心論というか独我論の立場には立っていないようで、
どちらかというと唯物論的立場のようだ。自然科学の成功を
称える言辞が割と書かれているし、今の自然科学にも通じている、
というところでソクラテスの株を上げている感じが読み取れる。

この「希求切望の哲学」を評価するのも、自然科学の採用している
「目的」の概念を導入することにより説明を理解しやすくする
ところに功績があったから、というニュアンスがある。
というのはもちろん、アリストテレスの「可能態(デュナミス)」と
「現実態(エネルゲイア)」の考え方とか、四原因説(質料因、
形相因、動力因、目的因)の考え方が自然科学の基礎を築いたから
という考え方で、特に目的因などの考え方は、原因を未来に求める
希求切望の哲学を受け継いだからこそ、というのである。

ほかにも、この希求切望の哲学を、倫理的問題、たとえば
精神の完成段階を目指すのに機械論が役に立たないので
打ち立てたのだ、という理論も納得がいった。自然科学は
因果関係は説明するけれども、人間の生のありかたは扱えない
からだ。フッサールの直観していた問題と重なっている。

ほかにも色々な視点があったが、個人的に納得いったのはこの2点で
確かに自然科学の発展という視点で見れば、これも妥当な読み方と
言えるかもしれない。色々な著者の視点に触れる重要さをあらためて
実感した一冊でした。

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