≪現代思想(11)−現代思想のその後<その5>−≫
2005年1月23日<その4よりつづき>
最後の哲学史のまとめになります。ここまで読んでくださった方、
ありがとうございますm(T_T)m
・アラスデア・マッキンタイア(1929〜)
ロールズとノージックは考え方は違えど、「近代的な、自由で自立した
個人」という人間観は共通している。しかし、この「近代的個人」という
人間観そのものを疑う議論が彼らに対して向けられたらしい。
その立場は「共同体論者(コミュニタリアン)」と呼ばれているが
具体的な政治の立場より、アカデミックな議論のなかでの反対意見として
提出されているらしい。
リベラリスト vs リバータリアン vs コミュニタリアン、
ですかね。
そのコミュニタリアンの代表者の一人が、マッキンタイアである。
さて、このコミュニタリズムというのはどういう考え方か。
読んで字の通り、個人とは共同体から規定を受ける存在である、
というような考え方。
<人間は特定の共同体<家族・地域共同体・職業団体>などに属し、
そこからアイデンティティを受け取る。共同体とのつながりを欠いた
「幽霊のような自己」は、具体的に善を追求したり徳を求めたり
することはできない>という。
マッキンタイアはアリストテレスの「共同体における善き生」を
モデルにして善や徳を考え、近代の自由な個人を虚妄として退ける。
国家がまったく介入してはいけないというのもアレだけど、これは
これでまた極端な気がしますな。。
しかし、人間が共同体によってのみ規定される存在なら、
近代以前の封建制などの制度から、社会契約説を経て自由主義社会を
築いてきた原動力が説明できない。ロールズやノージックが
「近代的個人」から考え始めたのには十分な理由があるのである。
しかし共同体によってアイデンティティを得るという人間の本質が
否定されるわけではない。マッキンタイアの考え方は、個人としてある
近代的個人が、みずから他者や共同体とのかかわりを選び取っていく
重要性を教えていると言える。
最後にはじめての哲学史、からここまでの現代思想のまとめを
言えば、近代の市民主義的な社会思想(ルソー、ヘーゲル等)を
越える思想は見当たらない。やはり一度近代哲学を読み直し、
ロックに対するルソーの批判、カントに対するヘーゲルの
批判を通じて形づくられた「市民社会原理」をもう一度取り出して、
現代社会のなかでその可能性、またそれが生かされるための「条件」に
ついても、考えてみるべきだとしている。
最後の哲学史のまとめになります。ここまで読んでくださった方、
ありがとうございますm(T_T)m
・アラスデア・マッキンタイア(1929〜)
ロールズとノージックは考え方は違えど、「近代的な、自由で自立した
個人」という人間観は共通している。しかし、この「近代的個人」という
人間観そのものを疑う議論が彼らに対して向けられたらしい。
その立場は「共同体論者(コミュニタリアン)」と呼ばれているが
具体的な政治の立場より、アカデミックな議論のなかでの反対意見として
提出されているらしい。
リベラリスト vs リバータリアン vs コミュニタリアン、
ですかね。
そのコミュニタリアンの代表者の一人が、マッキンタイアである。
さて、このコミュニタリズムというのはどういう考え方か。
読んで字の通り、個人とは共同体から規定を受ける存在である、
というような考え方。
<人間は特定の共同体<家族・地域共同体・職業団体>などに属し、
そこからアイデンティティを受け取る。共同体とのつながりを欠いた
「幽霊のような自己」は、具体的に善を追求したり徳を求めたり
することはできない>という。
マッキンタイアはアリストテレスの「共同体における善き生」を
モデルにして善や徳を考え、近代の自由な個人を虚妄として退ける。
国家がまったく介入してはいけないというのもアレだけど、これは
これでまた極端な気がしますな。。
しかし、人間が共同体によってのみ規定される存在なら、
近代以前の封建制などの制度から、社会契約説を経て自由主義社会を
築いてきた原動力が説明できない。ロールズやノージックが
「近代的個人」から考え始めたのには十分な理由があるのである。
しかし共同体によってアイデンティティを得るという人間の本質が
否定されるわけではない。マッキンタイアの考え方は、個人としてある
近代的個人が、みずから他者や共同体とのかかわりを選び取っていく
重要性を教えていると言える。
最後にはじめての哲学史、からここまでの現代思想のまとめを
言えば、近代の市民主義的な社会思想(ルソー、ヘーゲル等)を
越える思想は見当たらない。やはり一度近代哲学を読み直し、
ロックに対するルソーの批判、カントに対するヘーゲルの
批判を通じて形づくられた「市民社会原理」をもう一度取り出して、
現代社会のなかでその可能性、またそれが生かされるための「条件」に
ついても、考えてみるべきだとしている。
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