≪現代思想(11)−現代思想のその後<その4>−≫
2005年1月23日<その3よりつづき>
次はこの3人まとめて。
これで哲学史、ほんとに終わりですね。ほんの少しだけど
感慨深いものが。最後にちょっとまとめを書きたい感じ。
・ジョン・ロールズ(1921〜2002)
・ロバート・ノージック(1938〜2002)
・アラスデア・マッキンタイア(1929〜)
この3人、正確に言うと哲学者ではないかも。どういう条件を
もって哲学者とするのかがアレなんでアレだけど、
この3人は社会哲学、政治哲学専門という感じ。
哲学が考察の対象とするのは人間の在り方、社会の在り方、
世界全体や極小の世界などの形而上学、言語や論理の概念の体系など
色々あるので、その一部だからなんとなくそう思いますた。
・ジョン・ロールズ(1921〜2002)
知る人ぞ知る「正義論」で有名な社会学者。社会学ということで
もちろん、資本主義やマルクス主義のように、これからの社会システムの
指標になるようなものを構想したわけです。指標というか「原理」
といったほうが適切かも。
「正議論」の「正義」とは何か。これは、社会システムの根幹を成す
法制度の根本にある、「原理」を意味するらしい。そういう原理が
あるなら、そしてそれを明確に示すことができれば、今の社会に
目指すべき目標を与えることができるが、もし無いのなら、
今の社会は流されるがまま放置するしかなくなる。ロールズは
そう考えて、がんばって原理を見出そうとした。そこで彼が
モチーフにしたのは「社会契約説」。社会契約説、簡単に言えば、
自然状態にあった人間が、契約によって今の社会を作り出した
みたいな説のことですね。
社会契約説では、最初は自然状態から考え始める。ロールズも
その通り、最初は各人は「自分自身の利益の増進」にのみ関心を
持っている、という前提を置いた上で、新しく社会を作る(誰が
どんな地位に就くか分からない)とするなら、人々はどういう
原理を置くならば納得して合意するだろうか、ということを
考えた。そこで導き出した原理が次の2つ。
[第一原理]
各人の自由は、他者の自由と両立する限りで最大限認められる
べきである。
[第二原理]
社会体・経済的不平等は、その地位が「公正な機会均等」によって
得られたものであり、かつそれが「格差の是正」につながる
限りで正当である。
第一原理は、誰でもが考え付く自由主義。に対して第二原理は
前半は資本主義のような競争原理の補完だが、ただし「格差の是正」
につながる限りで正当である、つまり、格差が出来るような競争を
するのはいいが、格差の是正につながる程度じゃないとダメ、
というか、格差の是正をしなければならないよ、としている。
これは、これから作られる社会で誰が有利な地位に就くか
分からなければ、格差(つまりリスク)を出来るだけ無くしたい
と誰もが思うだろう、というロールズの考えからきている。
これだけ見ると正しいかに思えるが、はじめての哲学史では
こう批判している。
これは、あくまで現在自然状態ならば通じるもので、今現在の
社会で既に有利な地位にある人が、必ず賛成するとは限らない。
カントの定言命法に近いと言える。理論的に考えれば
誰もが賛成するだろうし正しいと思えるが、誰もがそれに従う条件に
いるとは限らないのだ。
割と、この理念先行型の「カント的」な考え方は現代でも多い、
らしい。
・ロバート・ノージック(1938〜2002)
ノージックはロールズの同僚でもあり、最大の批判者でもあった。
その批判書が「アナーキー・国家・ユートピア」。なにやら
危険な香りのする名前の本を書いている。
ロールズは福祉政策に積極的な立場だったそうだが、ノージックは
福祉政策のような所得の再配分に強く反対するらしい。
なぜなら、個人の自由な権利を最大限擁護すべき、という考えが
彼にとって一番大事だったから。所得の再配分なんかは、個人の
所有権を侵すものであって、国家の仕事ではない。というかそもそも
国家は個人の自由を保護するためだけの「最小国家」であるべきと
彼は考えるのである。
このノージックのような立場は、リベラル(自由主義者)と区別して
リバータリアン(自由尊重主義者)と呼ばれるらしい(そういえば
「バタリアン」っていうホラー映画があったような)。しかし
自由主義者といっても色々いるように、ひとくちにリバータリアン
といっても、例えば「貧困なものは怠惰だからそうなるのだ」という
感覚を持つ人(つまり、国家が介入しない限り、努力するかしないかは
自由なのだから、という事だろうか)、市場の調整力を信頼して
国家の介入をなるべくしりぞけるべきだとする「自由放任の経済思想」
(ミルトン・フリードマンなど。今のアメリカの経済思想の主流かな?)
という考え方とかがあるが、ノージックの考えはそこからきている
のではなく、いかに「巨大化していく国家の力から、どうやって
個人の自由を守るか」というところに力点がある、という。
ノージックは社会契約説といってもロックをモデルにしているが、
だから「自由の権利」を((ロックでは)神から与えられた)
絶対不可侵なもの、とみなしているところがあり、ここが理論的には
弱い。根拠が無いからだ。ルソーがロックを、自然権(生まれた瞬間に
神から与えられた権利)などは存在しない、権利というものは自分と
社会との契約によって存在するだけ、と批判したが、ノージックの
理論にもこれが同様に成立する。
また、ノージックの考え方に難があるのは、最初の条件がとてつもなく
悪い人がいる時に、それを助けようとすることが忌避されてしまう
ということである。例を挙げるまでもないが、幼くして両親を亡くした
子供などだ。もしこの子を助けることに国民のほとんどが合意しても
ノージックの理論では手を差し伸べることは許されない。
なぜそういった「合意」が得られてもやってはいけないのか、
その理由が「自由の権利を国家が侵してはいけないから」では筋が通らない。
長くなった。その5へ。
次はこの3人まとめて。
これで哲学史、ほんとに終わりですね。ほんの少しだけど
感慨深いものが。最後にちょっとまとめを書きたい感じ。
・ジョン・ロールズ(1921〜2002)
・ロバート・ノージック(1938〜2002)
・アラスデア・マッキンタイア(1929〜)
この3人、正確に言うと哲学者ではないかも。どういう条件を
もって哲学者とするのかがアレなんでアレだけど、
この3人は社会哲学、政治哲学専門という感じ。
哲学が考察の対象とするのは人間の在り方、社会の在り方、
世界全体や極小の世界などの形而上学、言語や論理の概念の体系など
色々あるので、その一部だからなんとなくそう思いますた。
・ジョン・ロールズ(1921〜2002)
知る人ぞ知る「正義論」で有名な社会学者。社会学ということで
もちろん、資本主義やマルクス主義のように、これからの社会システムの
指標になるようなものを構想したわけです。指標というか「原理」
といったほうが適切かも。
「正議論」の「正義」とは何か。これは、社会システムの根幹を成す
法制度の根本にある、「原理」を意味するらしい。そういう原理が
あるなら、そしてそれを明確に示すことができれば、今の社会に
目指すべき目標を与えることができるが、もし無いのなら、
今の社会は流されるがまま放置するしかなくなる。ロールズは
そう考えて、がんばって原理を見出そうとした。そこで彼が
モチーフにしたのは「社会契約説」。社会契約説、簡単に言えば、
自然状態にあった人間が、契約によって今の社会を作り出した
みたいな説のことですね。
社会契約説では、最初は自然状態から考え始める。ロールズも
その通り、最初は各人は「自分自身の利益の増進」にのみ関心を
持っている、という前提を置いた上で、新しく社会を作る(誰が
どんな地位に就くか分からない)とするなら、人々はどういう
原理を置くならば納得して合意するだろうか、ということを
考えた。そこで導き出した原理が次の2つ。
[第一原理]
各人の自由は、他者の自由と両立する限りで最大限認められる
べきである。
[第二原理]
社会体・経済的不平等は、その地位が「公正な機会均等」によって
得られたものであり、かつそれが「格差の是正」につながる
限りで正当である。
第一原理は、誰でもが考え付く自由主義。に対して第二原理は
前半は資本主義のような競争原理の補完だが、ただし「格差の是正」
につながる限りで正当である、つまり、格差が出来るような競争を
するのはいいが、格差の是正につながる程度じゃないとダメ、
というか、格差の是正をしなければならないよ、としている。
これは、これから作られる社会で誰が有利な地位に就くか
分からなければ、格差(つまりリスク)を出来るだけ無くしたい
と誰もが思うだろう、というロールズの考えからきている。
これだけ見ると正しいかに思えるが、はじめての哲学史では
こう批判している。
これは、あくまで現在自然状態ならば通じるもので、今現在の
社会で既に有利な地位にある人が、必ず賛成するとは限らない。
カントの定言命法に近いと言える。理論的に考えれば
誰もが賛成するだろうし正しいと思えるが、誰もがそれに従う条件に
いるとは限らないのだ。
割と、この理念先行型の「カント的」な考え方は現代でも多い、
らしい。
・ロバート・ノージック(1938〜2002)
ノージックはロールズの同僚でもあり、最大の批判者でもあった。
その批判書が「アナーキー・国家・ユートピア」。なにやら
危険な香りのする名前の本を書いている。
ロールズは福祉政策に積極的な立場だったそうだが、ノージックは
福祉政策のような所得の再配分に強く反対するらしい。
なぜなら、個人の自由な権利を最大限擁護すべき、という考えが
彼にとって一番大事だったから。所得の再配分なんかは、個人の
所有権を侵すものであって、国家の仕事ではない。というかそもそも
国家は個人の自由を保護するためだけの「最小国家」であるべきと
彼は考えるのである。
このノージックのような立場は、リベラル(自由主義者)と区別して
リバータリアン(自由尊重主義者)と呼ばれるらしい(そういえば
「バタリアン」っていうホラー映画があったような)。しかし
自由主義者といっても色々いるように、ひとくちにリバータリアン
といっても、例えば「貧困なものは怠惰だからそうなるのだ」という
感覚を持つ人(つまり、国家が介入しない限り、努力するかしないかは
自由なのだから、という事だろうか)、市場の調整力を信頼して
国家の介入をなるべくしりぞけるべきだとする「自由放任の経済思想」
(ミルトン・フリードマンなど。今のアメリカの経済思想の主流かな?)
という考え方とかがあるが、ノージックの考えはそこからきている
のではなく、いかに「巨大化していく国家の力から、どうやって
個人の自由を守るか」というところに力点がある、という。
ノージックは社会契約説といってもロックをモデルにしているが、
だから「自由の権利」を((ロックでは)神から与えられた)
絶対不可侵なもの、とみなしているところがあり、ここが理論的には
弱い。根拠が無いからだ。ルソーがロックを、自然権(生まれた瞬間に
神から与えられた権利)などは存在しない、権利というものは自分と
社会との契約によって存在するだけ、と批判したが、ノージックの
理論にもこれが同様に成立する。
また、ノージックの考え方に難があるのは、最初の条件がとてつもなく
悪い人がいる時に、それを助けようとすることが忌避されてしまう
ということである。例を挙げるまでもないが、幼くして両親を亡くした
子供などだ。もしこの子を助けることに国民のほとんどが合意しても
ノージックの理論では手を差し伸べることは許されない。
なぜそういった「合意」が得られてもやってはいけないのか、
その理由が「自由の権利を国家が侵してはいけないから」では筋が通らない。
長くなった。その5へ。
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