<その2よりつづき>

・ユルゲン・ハーバーマス(1929〜)
・ジャン・フランソワ・リオタール(1924〜1998)

次はハーバーマスとリオタール。なぜこの2人をまとめて
取り上げるかというと、理性の可能性を模索するハーバーマス
対、理性によるどんな言説も結局争いに繋がるだけだ、と
「大きな物語の終焉」を標榜するリオタールがちょうど対照的
で、昭和堂でもこの2人の対決が描かれているから。
簡単に書けば「モダンvsポストモダン」ということだと思う。
リオタールはポストモダンを自認している数少ない哲学者。

このハーバーマスの立場は竹田さんと少し近い。というのは
単に、「普遍性」とか「思考の原理」というもの、「理性」に
よる(「普遍性」「全体性」を志向する)「言説(ディスクール)」
「討議(ディスクルス)」を一切認めないのが「いわゆる
ポスト構造主義(ポストモダン)」のおおまかな共通項で、
両者ともそれに対抗する形にはなっているからである。

しかしながら、「はじめての哲学史」では両者の違いははっきり
書かれている。それは後で見るとして、とりあえずハーバーマスは
何と言っているか?

 
ハーバーマスは、先に書いたアドルノ・ホルクハイマーの弟子。
アドルノ達も、「理性」の営みのほとんどを否定していた。
というのは結局、ファシズムなどの恐ろしい暴力に繋がるから、
というのが大きな理由だと思う。キリスト教信仰が理性信仰と
名前を変えただけで、もたらす惨禍は似たようなもの、いやもっと
酷い結果だったから、ということかも。
そのあたりはニーチェも似たようなことを言っていて、現代の
素朴な「真理」主義者(科学者がその最たるもの)、ロゴス中心
主義者などは、結局キリスト教のもっとも敬虔な信者にすぎない、
と言っていた。

しかしハーバーマスは、アドルノ達が、理性をそうした惨禍を
招く「道具的理性」としてのみとらえたところに留意する。

理性は確かに自然を支配しコントロールしようとする側面があり
結果、全体主義を引き起こす可能性を秘めている。
しかし、理性の働きはそれだけではなく、きちんとした論拠を
示すことによって、相手との共通了解を達成しようと努める
「対話的理性」としての側面もある、とハーバーマスは言う。

アドルノ達が願った「自然との和解」(理性によって得られた
成果を捨てて?)は不可能であって、現代の生産力を下げることは
できない(当然だと思う)が、しかし、人間同士の対話的理性の
働きをより豊かにしていくことは可能なはずである、と彼は考える。

具体的には、「理想的な発話状況」を作れば、人は「よりよき
論拠」によってのみ動機付けられて理性的な合意に向かうであろう
という主張。その「場」が想像しづらいが、しゃべり場とか
ジェネジャン??朝まで生テレビじゃないだろうし。うーん。

 
これに対してリオタールはどう主張しているか?これについては
どちらかというとポスト構造主義を支持している昭和堂から引いて
みる。

ハーバーマスは、一方的な意見の押し付けを意味する「言説
(ディスクール)」ではなくて、対話による合意形成を目的と
する「討議/論議(ディスクルス)」に理性の可能性を賭ける、
という立場(ちなみに前者がフランス語で後者がドイツ語。
語源はラテン語のdiscursusで同じ)。

しかし討議は、参加者の間で同一の<言語ゲーム>のルールが
統一されていることを前提している。しかし、普通に考えると、
実際は各人は様々の言語ルールを持っている。この各人のルールを
束ねる<超言語ルール>のようなものが存在しない限り、
結局異なる<言語ゲーム>同士がお互いの正しさを主張するだけに
なる。そうなると、結局「自分の<言語ゲーム>のルールを
押しとおす」という立場を取ることになり、争いが生まれる。

つまりこの場合に限ったとしても、「理性」というのは、自分の
言語ゲームのルールを押し通す、暴力的なものと同義になってしまう、
ということ。

しかも、<(昭和堂からそのまま引けば)理性は権力と一体になっている>
ゆえに、結局そうやって理性による合意を求めれば求めるほど、
権力を強める結果にしかならない。
結論。「言説」も「討議」も、「まったく無駄なこと」である。

理性、真理への信頼は幻想である。理性や真理に執着することは、
理性=権力を強める結果にしかならない。対抗策は、人々の欲望の
方向を一元化させないこと、「漂流」させること(ドゥルーズの
「逃走」と似ている立場)である。

と、これがリオタールの主張。

 
どちらを支持するのかは、昭和堂のほうには書いていない。ただ
最後にリオタールの意見を書いて締めていることから、どちらかと
言うとやはりリオタール支持なのだと思う。

はじめての哲学史、は、ハーバーマス支持というわけではないだろう
けど、<現代の相対主義と懐疑主義の空気のなかで、ハーバーマスが
対話的理性の必要を強調したことにはきわめて大きな意味がある>
と好意的に評価している。
(しかし、ソフィストとソクラテスの関係に似ているな〜とちょっと思う)

続けて、<しかしどうやってその働きを豊かにしていけばよいか、
という点では不徹底なところがあるとぼく(西)は思う>と書いている。
西研さんの意見。

理由は何か。これは俺的にはすごくうなずけるが、「理想的な発話状況」
が仮にあったとしても、人はそれだけで必ず「合意を求めよう」と
するわけではない。言われてみると当然といえば当然だけどね。
カントの定言命法に似ている。理性によって「よいこと」が分かれば
人はそれに従う、という素朴な考えがそこにはある。しかし実際は
そんなことはない。ヘーゲルがカントを批判した部分。

人間は「自己中心的」な存在。合意を求めることがとりあえずその
自己中心性にかなったとしても、双方の信念が大きく対立するなら
合意はありえない。

合意をつくろうとする動機はそもそもどこから生まれるのか、
諸信念の対立をどうやって越えていくことができるか(これは
フッサール現象学が解こうとした問題だ)、これらの本質的な問題を
考え詰めることで、対話的理性の可能性を拡大していくことこそが
現代哲学の重要なテーマであるとはじめての哲学史では述べている。

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