▽勢古浩爾「思想なんかいらない生活」<その2>▽
2005年1月5日 日常
その1よりつづき。
哲学史もかかねばならん。。。しかし、
インスピレーションを得るとがーっと書けて
しまう。。
さて話を戻します。
哲学の本の難解さ、は、結論から言うと、「あっていい」と思う。
微妙な条件付きで。
理由はふたつある。
ひとつは、こういう「堅い」文化には「権威」が必要と思うから。
なんだか、難しい言葉を操らないとたどり着けない境地がある、
なんて、哲学って、そういうものとしてあっていいと思う。
まぁえらく素朴な言葉で書いてしまったけれど、結構本気でそう思う。
例えば、世界でもっとも権威ある学会の論文の挿絵に、マンガ絵が
載ってたらどうだろう。アメコミみたいなリアルなのじゃなくて、
それこそセーラームーン並の。萎えないだろうか?俺は萎える。まぁ
逆に面白いと思うかもしれないけど、しかしやっぱり最後には萎える
と思う。
「堅い」文化というか、メインカルチャーは、大衆に媚びちゃ
いけない。サブカルチャーに飲み込まれてはいけない。なんて思う。
これは本当になんとなくそう思う。
本格的に哲学を学ぶ時に触れる文章には、それなりの格調があって
欲しい、と思うことは何も不思議なことじゃない、と思う。
それに、そうした文化であることは、それが「読めた」時に
非常にカタルシスを感じさせる要因になる。ピアノでも、難曲を
弾けるようになるのには、下手すると始めてから10年かかると
言うが、それだけに弾けた時の悦びもひとしおだと思う。
ふたつは、過去の哲学者の著作がほとんど「難解」な文章で
書かれているから。
哲学するのは、原典にあたるのが一番。しかし、そのまま訳すと
難しい文章ばっかり。これを理解するために、難解な文章に慣れておく
必要がある。だから、難解な文章を是とする。平易な解釈文ばかりが増えて
原典が置き去りになったら、それはそれで哲学の危機かもしれないし。
過去と今をつなぐためにも、格調ある文章で書く習慣は残っていてよい。
しかし共通して、ある条件がある。これも単純に思いつく条件だけれど
・「入門の手引き」がしっかり整備されてること。そしてそれは決して、
難解な文章で書かれていないこと。
ということ。
勢古さんの感じたことに理はある。というのは、あまりに生活感覚から
離れすぎた思想って、それは思想のための思想になってしまっていて
意味がない。実際は生活感覚に根ざしていても、あまりに難解に書きすぎて
そのせいで一般人の生活から縁遠いものになるのでは、本末転倒。
哲学は、つきつめれば個人個人の生活感覚に通じるものがあるはず(と、
俺は今はそう信じているけれど)。ならば、なるべく生活感覚に即した
言葉で、平易にそれを言い直すことも可能なはず。哲学の頂に少しでも
触れ得たと自認する哲学者がいるのなら、俗に流通している言葉を使って
説明するのは誤解されやすくて難しいかもしれないが、それをやって欲しい。
それは、とりあえずは誰にでも理解できるものになるはずで、その理解を
頭に入れてから原典に当たれば、さらなる理解も早いハズ。
もちろん、それをしている人が大勢いると思うけれどね。
俺の今のところ信頼している哲学者である竹田さんの例を挙げると、
彼は太宰治の小説「トカトントン」から、フッサール現象学を読み解く
ヒントをつかんだらしい。
「トカトントン」について詳しくは述べないけれど、簡単に言うと
「どれだけ色々なことを「これだけは自分だけが考えていること」と
思っていたとしても、どこからか『…と思っている人が世の中には
大勢いる』という声が聞こえてくる…この声は、誰もが持っている
「わたしの真実」を徹底的に相対化する力を持っている」
と、いうことらしい。竹田さんにとっては、フッサール現象学の核心は
本当に日常的感覚であらわされたこの考えにあったのだという。
そういう、日常生活で一般人が抱くふとした疑問、哲学はそれに
答えうるだけのものを築き上げてきたのだと思う。実際、俺は
哲学の本を読んでいくうちに、いくつかの答えを得た。それが正しいか
どうかはまだ確定的ではないにしろ、だから哲学が面白いと思える。
哲学史もかかねばならん。。。しかし、
インスピレーションを得るとがーっと書けて
しまう。。
さて話を戻します。
哲学の本の難解さ、は、結論から言うと、「あっていい」と思う。
微妙な条件付きで。
理由はふたつある。
ひとつは、こういう「堅い」文化には「権威」が必要と思うから。
なんだか、難しい言葉を操らないとたどり着けない境地がある、
なんて、哲学って、そういうものとしてあっていいと思う。
まぁえらく素朴な言葉で書いてしまったけれど、結構本気でそう思う。
例えば、世界でもっとも権威ある学会の論文の挿絵に、マンガ絵が
載ってたらどうだろう。アメコミみたいなリアルなのじゃなくて、
それこそセーラームーン並の。萎えないだろうか?俺は萎える。まぁ
逆に面白いと思うかもしれないけど、しかしやっぱり最後には萎える
と思う。
「堅い」文化というか、メインカルチャーは、大衆に媚びちゃ
いけない。サブカルチャーに飲み込まれてはいけない。なんて思う。
これは本当になんとなくそう思う。
本格的に哲学を学ぶ時に触れる文章には、それなりの格調があって
欲しい、と思うことは何も不思議なことじゃない、と思う。
それに、そうした文化であることは、それが「読めた」時に
非常にカタルシスを感じさせる要因になる。ピアノでも、難曲を
弾けるようになるのには、下手すると始めてから10年かかると
言うが、それだけに弾けた時の悦びもひとしおだと思う。
ふたつは、過去の哲学者の著作がほとんど「難解」な文章で
書かれているから。
哲学するのは、原典にあたるのが一番。しかし、そのまま訳すと
難しい文章ばっかり。これを理解するために、難解な文章に慣れておく
必要がある。だから、難解な文章を是とする。平易な解釈文ばかりが増えて
原典が置き去りになったら、それはそれで哲学の危機かもしれないし。
過去と今をつなぐためにも、格調ある文章で書く習慣は残っていてよい。
しかし共通して、ある条件がある。これも単純に思いつく条件だけれど
・「入門の手引き」がしっかり整備されてること。そしてそれは決して、
難解な文章で書かれていないこと。
ということ。
勢古さんの感じたことに理はある。というのは、あまりに生活感覚から
離れすぎた思想って、それは思想のための思想になってしまっていて
意味がない。実際は生活感覚に根ざしていても、あまりに難解に書きすぎて
そのせいで一般人の生活から縁遠いものになるのでは、本末転倒。
哲学は、つきつめれば個人個人の生活感覚に通じるものがあるはず(と、
俺は今はそう信じているけれど)。ならば、なるべく生活感覚に即した
言葉で、平易にそれを言い直すことも可能なはず。哲学の頂に少しでも
触れ得たと自認する哲学者がいるのなら、俗に流通している言葉を使って
説明するのは誤解されやすくて難しいかもしれないが、それをやって欲しい。
それは、とりあえずは誰にでも理解できるものになるはずで、その理解を
頭に入れてから原典に当たれば、さらなる理解も早いハズ。
もちろん、それをしている人が大勢いると思うけれどね。
俺の今のところ信頼している哲学者である竹田さんの例を挙げると、
彼は太宰治の小説「トカトントン」から、フッサール現象学を読み解く
ヒントをつかんだらしい。
「トカトントン」について詳しくは述べないけれど、簡単に言うと
「どれだけ色々なことを「これだけは自分だけが考えていること」と
思っていたとしても、どこからか『…と思っている人が世の中には
大勢いる』という声が聞こえてくる…この声は、誰もが持っている
「わたしの真実」を徹底的に相対化する力を持っている」
と、いうことらしい。竹田さんにとっては、フッサール現象学の核心は
本当に日常的感覚であらわされたこの考えにあったのだという。
そういう、日常生活で一般人が抱くふとした疑問、哲学はそれに
答えうるだけのものを築き上げてきたのだと思う。実際、俺は
哲学の本を読んでいくうちに、いくつかの答えを得た。それが正しいか
どうかはまだ確定的ではないにしろ、だから哲学が面白いと思える。
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