◆ソポクレス「オイディプス王」<その2>◆
2004年9月14日 ポエム
<その1からつづき>
俺はまだ全然、小説などを読み込む目をもってない
ので、こう、オイディプス王の本編そのものを読んだ
だけでは、たいした感想などは持てないのが実情(´・ω・`)
強いて言うと、おそらく予備知識なしに本編だけ読んでも、
実に早くから結末が読めてしまうであろうところが少し
残念だった。
でも幸いにも、古典の傑作だけあって、色々な批評家が
うまい批評をしているらしく…なかでも、アリストテレスが
「詩学」で述べている批評はおもしろい。あとがきにあった
のですけども。
とりあえずオイディプス王は悲劇の名作として知られるが
悲劇で大事なのは、順調に見えた物事が急転して悲劇になる
「逆転(ペリペテイア)」とか、悲劇的な事実が明らかになる
「発見(アナグノーリシス)」だという話が訳者の解説で
語られた後、「詩学」よりの引用でそれを補強している。
少し長いですが、物語の手法の批評としてはけっこう面白いと
思うので、全文引用しました。
「逆転」について言を引けば…
<これらはあくまでも物語の構造そのものの中から導き
出されなければならない。すなわち、それらのことが起る
のは、先立つ出来事からの必然不可避の帰結であるか、
あるいは少くとも、もっともだと納得できる結果でなければ
ならない。これこれの出来事がこれこれの出来事のゆえに
起るというのと、たんにこれこれの出来事のあとに起るという
のとでは、大変な違いがある>
<たとえば「オイディプス王」においては、オイディプス王に
うれしい報せをもたらして母親に対する恐れから解放してやる
つもりでやってきた男が、オイディプスの素姓を明るみに出す
ことによって、かえって状況を逆転させることになったのである>
また「発見」について、
たとえば何かのしるし(傷跡・首飾り等)を手がかりと
する発見、自分が誰であるかを劇中人物にみずから語らせる
というような、「作者によってこしらえられた発見」
「記憶を媒介として行われる発見」「推論から結果する発見」
等々のような、「発見」をもたらすきっかけが、外的で
偶然的で恣意的であるようなものは、技法的に稚拙である、
ということを述べたのち、
<これに対して、あらゆる「発見」のうちで最もすぐれた
あり方は、無理のない事の運びを通じて用意された驚愕と
ともに、出来事そのものからの結果としてもたらされるような
「発見」である。ソポクレスの「オイディプス王」の中に
みられるものや、(エウリピデスの)「イピゲネイア」に
みられるものは、その例であるといってよいであろう>
と、述べているらしい。
らしいというのはもちろん、「詩学」を読んだことが
ないからなんですが…プラトンの次はアリストテレスだから
読んでみたいですね。
他に3、4点の分析をしているようだけど、俺にとって
ひどく納得がいったのはこの点で…というのは、
以前から俺も、悲劇に限らず物語というのは、「必然性」と
いうのがひとつの重要な要素になると考えてたからです。
明らかに「作者がこうしたいから」という意図がミエミエの
演出ではいけない。最初に状況設定があって、作者は
それに沿って、当然到達すべきであろう地点まで
それを描ききることを考えればよい、と、個人的には
思う。それをアリストテレスは見事に言い表していると
思う。
しかしながら、個人的に、オイディプス王は確かに
必然の流れをもって結末に達していることがよくわかる
が、ところどころ、心情に理解しがたい部分もあるし、
結末が途中でほとんど丸分かりになってしまうところが
惜しいと思う。
この「心情に理解しがたい部分がある」のところを
少しその3で扱います。
俺はまだ全然、小説などを読み込む目をもってない
ので、こう、オイディプス王の本編そのものを読んだ
だけでは、たいした感想などは持てないのが実情(´・ω・`)
強いて言うと、おそらく予備知識なしに本編だけ読んでも、
実に早くから結末が読めてしまうであろうところが少し
残念だった。
でも幸いにも、古典の傑作だけあって、色々な批評家が
うまい批評をしているらしく…なかでも、アリストテレスが
「詩学」で述べている批評はおもしろい。あとがきにあった
のですけども。
とりあえずオイディプス王は悲劇の名作として知られるが
悲劇で大事なのは、順調に見えた物事が急転して悲劇になる
「逆転(ペリペテイア)」とか、悲劇的な事実が明らかになる
「発見(アナグノーリシス)」だという話が訳者の解説で
語られた後、「詩学」よりの引用でそれを補強している。
少し長いですが、物語の手法の批評としてはけっこう面白いと
思うので、全文引用しました。
「逆転」について言を引けば…
<これらはあくまでも物語の構造そのものの中から導き
出されなければならない。すなわち、それらのことが起る
のは、先立つ出来事からの必然不可避の帰結であるか、
あるいは少くとも、もっともだと納得できる結果でなければ
ならない。これこれの出来事がこれこれの出来事のゆえに
起るというのと、たんにこれこれの出来事のあとに起るという
のとでは、大変な違いがある>
<たとえば「オイディプス王」においては、オイディプス王に
うれしい報せをもたらして母親に対する恐れから解放してやる
つもりでやってきた男が、オイディプスの素姓を明るみに出す
ことによって、かえって状況を逆転させることになったのである>
また「発見」について、
たとえば何かのしるし(傷跡・首飾り等)を手がかりと
する発見、自分が誰であるかを劇中人物にみずから語らせる
というような、「作者によってこしらえられた発見」
「記憶を媒介として行われる発見」「推論から結果する発見」
等々のような、「発見」をもたらすきっかけが、外的で
偶然的で恣意的であるようなものは、技法的に稚拙である、
ということを述べたのち、
<これに対して、あらゆる「発見」のうちで最もすぐれた
あり方は、無理のない事の運びを通じて用意された驚愕と
ともに、出来事そのものからの結果としてもたらされるような
「発見」である。ソポクレスの「オイディプス王」の中に
みられるものや、(エウリピデスの)「イピゲネイア」に
みられるものは、その例であるといってよいであろう>
と、述べているらしい。
らしいというのはもちろん、「詩学」を読んだことが
ないからなんですが…プラトンの次はアリストテレスだから
読んでみたいですね。
他に3、4点の分析をしているようだけど、俺にとって
ひどく納得がいったのはこの点で…というのは、
以前から俺も、悲劇に限らず物語というのは、「必然性」と
いうのがひとつの重要な要素になると考えてたからです。
明らかに「作者がこうしたいから」という意図がミエミエの
演出ではいけない。最初に状況設定があって、作者は
それに沿って、当然到達すべきであろう地点まで
それを描ききることを考えればよい、と、個人的には
思う。それをアリストテレスは見事に言い表していると
思う。
しかしながら、個人的に、オイディプス王は確かに
必然の流れをもって結末に達していることがよくわかる
が、ところどころ、心情に理解しがたい部分もあるし、
結末が途中でほとんど丸分かりになってしまうところが
惜しいと思う。
この「心情に理解しがたい部分がある」のところを
少しその3で扱います。
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