≪現代思想(10)−デリダについて<その6>−≫
2004年9月13日<その5からつづき>
はじめての哲学史の解説は、それを是とするか否かは
ともかくも、やはり、かなり分かりやすい。
まずデリダは、最初はハイデガーによって着手された仕事に
連なりながら、しだいに「差延」とか「脱構築」という
新しい概念を導入して、独自の思想を築いていったとか。
デリダの仕事は批判が多いようで、現象学批判もしてる
らしい。フッサールは、体験を反省することで体験の
「ありのまま」を言葉にできると考えたが、デリダは
この「ありのまま」が怪しいと考えたそうだ。
つまりどういうことかというと、はじめての哲学史の
たとえを借りれば、人がありのままを言おうとする時、
「言葉」、例えば「このカップは白い」という記号を
使わなければならない。だがそこでは、この記号が
「本当のもの」を「再現前」させているのではない、
という(「再現前させている」、と考えることを
「ロゴス(音声=理性)中心主義」とか「現前の形而上学」
と呼んでデリダは批判したらしい)。
むしろ「このカップは白い」という直観それ自体が、
まず「このカップは白い」という記号の反復可能性によって
成立しているのだ、とデリダは言う。
反復可能性という言葉が分かりづらい。俺なりに理解
すれば、ヘラクレイトスではないけど、目の前の事象はいつも
同じではなく流転しているのに、いつも同じ(何度でも
同様に反復させることが可能な記号)で表している
ことで、同じ記号であらわせるものがあたかも同一かの
ように錯覚すること、ということだろうか(激しく違うかも
な予感…)。
「現前」は、そのように不動の記号であらわせる「同一性」
は持っておらず、むしろいつもすでに「差異」化されている。
記号の反復可能性によって汚染されている、という。
「同一性」という言葉が出てきた。
そしてそのような差異の運動をデリダは「差延」と呼ぶ。
昭和堂では確か「現在の知はつねに遅れ、しかも野生状態とは
異なってしまう」ことをそう呼んでいたが、けっこう近い気も
しますね。
さらにこの「同一性/差異」という二項対立の手前に、
それを成立させている流動的な起源を考えた。
それをあらわす言葉はいつも同じ、しかし実際に現前にある
ものとはつねに差異を含む。その原因は何か、ということだろうか。
この起源が具体的に何かはここでは言及されていないけど…
(ヴィトの論理学とか、現象学の改良ではだめなのだろうか。と
少し思う)
ともかくも、デリダはそうやって形而上学をいわば「内側から
批判する」のだそうだ。形而上学の内部に立ち入り、その
内部から形而上学の立てている問題設定そのものをみずから
演じながらその不可能性を明らかにし、脱臼を起こさせる。
それが「脱構築」なのだとか。
「脱臼を起こさせる」という表現は、他の本でもみたこと
ありますな。
ともあれ、デリダの思想は、とりあえずここで終わっておきます。
このように大きく扱う哲学者は、デリダが最後です。
次は、この後につづいた哲学者を簡単に扱って、ほんとに
哲学史を終了したいと思います。
はじめての哲学史の解説は、それを是とするか否かは
ともかくも、やはり、かなり分かりやすい。
まずデリダは、最初はハイデガーによって着手された仕事に
連なりながら、しだいに「差延」とか「脱構築」という
新しい概念を導入して、独自の思想を築いていったとか。
デリダの仕事は批判が多いようで、現象学批判もしてる
らしい。フッサールは、体験を反省することで体験の
「ありのまま」を言葉にできると考えたが、デリダは
この「ありのまま」が怪しいと考えたそうだ。
つまりどういうことかというと、はじめての哲学史の
たとえを借りれば、人がありのままを言おうとする時、
「言葉」、例えば「このカップは白い」という記号を
使わなければならない。だがそこでは、この記号が
「本当のもの」を「再現前」させているのではない、
という(「再現前させている」、と考えることを
「ロゴス(音声=理性)中心主義」とか「現前の形而上学」
と呼んでデリダは批判したらしい)。
むしろ「このカップは白い」という直観それ自体が、
まず「このカップは白い」という記号の反復可能性によって
成立しているのだ、とデリダは言う。
反復可能性という言葉が分かりづらい。俺なりに理解
すれば、ヘラクレイトスではないけど、目の前の事象はいつも
同じではなく流転しているのに、いつも同じ(何度でも
同様に反復させることが可能な記号)で表している
ことで、同じ記号であらわせるものがあたかも同一かの
ように錯覚すること、ということだろうか(激しく違うかも
な予感…)。
「現前」は、そのように不動の記号であらわせる「同一性」
は持っておらず、むしろいつもすでに「差異」化されている。
記号の反復可能性によって汚染されている、という。
「同一性」という言葉が出てきた。
そしてそのような差異の運動をデリダは「差延」と呼ぶ。
昭和堂では確か「現在の知はつねに遅れ、しかも野生状態とは
異なってしまう」ことをそう呼んでいたが、けっこう近い気も
しますね。
さらにこの「同一性/差異」という二項対立の手前に、
それを成立させている流動的な起源を考えた。
それをあらわす言葉はいつも同じ、しかし実際に現前にある
ものとはつねに差異を含む。その原因は何か、ということだろうか。
この起源が具体的に何かはここでは言及されていないけど…
(ヴィトの論理学とか、現象学の改良ではだめなのだろうか。と
少し思う)
ともかくも、デリダはそうやって形而上学をいわば「内側から
批判する」のだそうだ。形而上学の内部に立ち入り、その
内部から形而上学の立てている問題設定そのものをみずから
演じながらその不可能性を明らかにし、脱臼を起こさせる。
それが「脱構築」なのだとか。
「脱臼を起こさせる」という表現は、他の本でもみたこと
ありますな。
ともあれ、デリダの思想は、とりあえずここで終わっておきます。
このように大きく扱う哲学者は、デリダが最後です。
次は、この後につづいた哲学者を簡単に扱って、ほんとに
哲学史を終了したいと思います。
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