<その5からつづき>

はじめての哲学史の解説は、それを是とするか否かは
ともかくも、やはり、かなり分かりやすい。

まずデリダは、最初はハイデガーによって着手された仕事に
連なりながら、しだいに「差延」とか「脱構築」という
新しい概念を導入して、独自の思想を築いていったとか。

デリダの仕事は批判が多いようで、現象学批判もしてる
らしい。フッサールは、体験を反省することで体験の
「ありのまま」を言葉にできると考えたが、デリダは
この「ありのまま」が怪しいと考えたそうだ。

つまりどういうことかというと、はじめての哲学史の
たとえを借りれば、人がありのままを言おうとする時、
「言葉」、例えば「このカップは白い」という記号を
使わなければならない。だがそこでは、この記号が
「本当のもの」を「再現前」させているのではない、
という(「再現前させている」、と考えることを
「ロゴス(音声=理性)中心主義」とか「現前の形而上学」
と呼んでデリダは批判したらしい)。

むしろ「このカップは白い」という直観それ自体が、
まず「このカップは白い」という記号の反復可能性によって
成立しているのだ、とデリダは言う。

反復可能性という言葉が分かりづらい。俺なりに理解
すれば、ヘラクレイトスではないけど、目の前の事象はいつも
同じではなく流転しているのに、いつも同じ(何度でも
同様に反復させることが可能な記号)で表している
ことで、同じ記号であらわせるものがあたかも同一かの
ように錯覚すること、ということだろうか(激しく違うかも
な予感…)。

「現前」は、そのように不動の記号であらわせる「同一性」
は持っておらず、むしろいつもすでに「差異」化されている。
記号の反復可能性によって汚染されている、という。

「同一性」という言葉が出てきた。

そしてそのような差異の運動をデリダは「差延」と呼ぶ。

昭和堂では確か「現在の知はつねに遅れ、しかも野生状態とは
異なってしまう」ことをそう呼んでいたが、けっこう近い気も
しますね。

さらにこの「同一性/差異」という二項対立の手前に、
それを成立させている流動的な起源を考えた。

それをあらわす言葉はいつも同じ、しかし実際に現前にある
ものとはつねに差異を含む。その原因は何か、ということだろうか。

この起源が具体的に何かはここでは言及されていないけど…
(ヴィトの論理学とか、現象学の改良ではだめなのだろうか。と
少し思う)

ともかくも、デリダはそうやって形而上学をいわば「内側から
批判する」のだそうだ。形而上学の内部に立ち入り、その
内部から形而上学の立てている問題設定そのものをみずから
演じながらその不可能性を明らかにし、脱臼を起こさせる。
それが「脱構築」なのだとか。

「脱臼を起こさせる」という表現は、他の本でもみたこと
ありますな。

ともあれ、デリダの思想は、とりあえずここで終わっておきます。

このように大きく扱う哲学者は、デリダが最後です。
次は、この後につづいた哲学者を簡単に扱って、ほんとに
哲学史を終了したいと思います。

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