≪現代思想(10)−デリダについて<その5>−≫
2004年9月13日<その4からつづき>
・昭和堂の結論
さて、実際ほとんど理解しないままに、いわゆるポスト構造主義
の哲学(思想?)史も、終わりを迎えます。まぁ、他の哲学も
理解できているわけではないですが。これは全然わからない。
昭和堂での総括の後、はじめての哲学史から説明を加えて
終わりです。
さきの話からどう繋がっているかはともかく、この総括では、
自己同一性と他者についてのさきほどの考察から続けて、
では「ヨーロッパ理性、知は、「他者」に応答すべきなのだろうか」
ということが論点にされる。
他者を無視しては「いけない」のならば、「知は義務に従属
させるべき」という要求が働いていると言えるのだそうだ。
知を良心に従属させるべきという要求と言ってもいいのだとか。
もしそうなら、これは結構プラトニズムに似ていなくもない。
と思う。
そのあたり、昭和堂でもこう説明されている。
<だが、この従属の要求は、場合によっては、誠実すぎる
要求にはならないのだろうか。誠実すぎること、くそまじめ
であることは、ある種の欺瞞にはならないのであろうか。(略)
知と良心のあいだの差異を、ギリシア(とりわけアリストテレス)
以来の理性は「目的論」のなかに取り込み、さらに近世
(とりわけカント)以来の理性は「義務論」のなかに取り込もう
としてきた。知を良心に従属させる論理としては、目的論と
義務論は同類である。「義務はつねに、達成されるべき目的
という条件のもとに置かれて」いるからである。>
ヨーロッパ理性はこれまで、目的論か義務論以外の仕方を
知らなかったが、やはり、知と良心の間には取り込みきれない
差異が介在している、という。
そこでこの差異を極小化して知を倫理に従属させるのか、
差異を極大化して知を倫理から切り離して戯れるのかで、
ポストモダンをめぐる態度決定が問われる、と締めくくって、
昭和堂の哲学史は考察を終えている。
次は、はじめての哲学史からまとめます。
・昭和堂の結論
さて、実際ほとんど理解しないままに、いわゆるポスト構造主義
の哲学(思想?)史も、終わりを迎えます。まぁ、他の哲学も
理解できているわけではないですが。これは全然わからない。
昭和堂での総括の後、はじめての哲学史から説明を加えて
終わりです。
さきの話からどう繋がっているかはともかく、この総括では、
自己同一性と他者についてのさきほどの考察から続けて、
では「ヨーロッパ理性、知は、「他者」に応答すべきなのだろうか」
ということが論点にされる。
他者を無視しては「いけない」のならば、「知は義務に従属
させるべき」という要求が働いていると言えるのだそうだ。
知を良心に従属させるべきという要求と言ってもいいのだとか。
もしそうなら、これは結構プラトニズムに似ていなくもない。
と思う。
そのあたり、昭和堂でもこう説明されている。
<だが、この従属の要求は、場合によっては、誠実すぎる
要求にはならないのだろうか。誠実すぎること、くそまじめ
であることは、ある種の欺瞞にはならないのであろうか。(略)
知と良心のあいだの差異を、ギリシア(とりわけアリストテレス)
以来の理性は「目的論」のなかに取り込み、さらに近世
(とりわけカント)以来の理性は「義務論」のなかに取り込もう
としてきた。知を良心に従属させる論理としては、目的論と
義務論は同類である。「義務はつねに、達成されるべき目的
という条件のもとに置かれて」いるからである。>
ヨーロッパ理性はこれまで、目的論か義務論以外の仕方を
知らなかったが、やはり、知と良心の間には取り込みきれない
差異が介在している、という。
そこでこの差異を極小化して知を倫理に従属させるのか、
差異を極大化して知を倫理から切り離して戯れるのかで、
ポストモダンをめぐる態度決定が問われる、と締めくくって、
昭和堂の哲学史は考察を終えている。
次は、はじめての哲学史からまとめます。
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