<その3からつづき>

いわゆるポスト構造主義のそれぞれの思想は、根本的に
理解できていない人が多いので、俺なりに用語を解釈する
というのが不可能です(’Д`;)読みにくいところはご容赦を。

 
・デリダの倫理

デリダは「一種の混血ヨーロッパ人」を自認しているという。
これが哲学的意味をもつわけだが、どういうことか。

デリダはアルジェリア生まれのユダヤ人であるらしい。ユダヤ人は
レヴィナスもそうだったが、いわばヨーロッパ的理性からの排除を
顕著に受けた。その意味でヨーロッパの他者的位置にはいるが、
しかしフランス教育を受け、フランス思想の土壌で育ちもした。
自らの内にその二つの性格をもっているということで、混血
ヨーロッパ人という表現をしたらしい。

ヨーロッパの文化的自己同一性は、たえず他者から自分を切り離し、
同時に他者を排除しようとする努力の成果(けっして完全には
成功しない成果)である、という。

この前提がなぜ出てくるのかはわからないが、とりあえず
そういうことらしい。まぁ、第一次・二次大戦あたりの歴史を
少しでも知っていると、ヨーロッパの歴史はまさに、世界中に
侵略の火を撒き散らしたそれであるというのはなんとなく分かる
けども。他者の排除って表現は、それも含んでるのだろうか。

ヨーロッパの自己同一性は他者の排除への努力の成果であるが、
仮にこの努力が完全に成功したとすると、そこに残るのは
自己だけであるから、自己同一性はそもそも不要になる。
他者を排除するわりに、他者がいなければ意味をもたない
ようなもの。自己同一性は、それだけで完成するものでなく
他者の存在なくして意味をもつものではない。他者に「開かれて
いる」ものらしい。

 
少し飲み込みにくい。哲学としては、つまりロゴス中心主義
が他者排除の傾向をもっているところを指していそうだけど、
ヨーロッパの文化の自己中心性も同時に論じているのだろうか。

こうした、自己同一性を求めつつも他者に開かれているという
原事実に対して、デリダは<応答する=責任をとる>という態度を
取るらしい。

応答する?責任をとる??字通りに受け取るとそのまま
解釈してしまいそうだが。

ヨーロッパの文化的自己同一性は、他者を排除して自分を
自己集中させてはならない。しかし、だからといって、
他者(の自己同一性)を増殖させて、そこに排外主義を
産み出させてはならない、そうである。

すぐに思い浮かぶのは外交政策についてのことだ。
ヨーロッパの自己中になりすぎてもいけないし、ヨーロッパ
以外の国を増長させてもいけない、ということか。

このふたつを同時に実行することがデリダの「倫理」で
あるという。
しかしながら、このふたつは相反する。同時に果たすことは
不可能。両輪において、バランスを取るということだろうか。

デリダはこの両立が不可能であることを積極的に認め、
「責任はそれが可能なものの次元において果たされるとき、
…プログラムを実行しているにすぎない」

また「不可能なものの経験でないような責任は存在しない」

と言っていたそうだ。

このふたつの二律背反性を認めつつ、それに「耐え抜く」のが
デリダの倫理だとか。

この文だけだとよく意味が分からない。つまりは、
「できないことをやろうとするところに責任が生じるので
あって、できて当たり前のことはできて当たり前」という
ことか?

確かに、「確実にできるかどうかわからない」ことに
関してのみ、責任という概念が用いられる気がする。
とはいえ、厳密に言えば、それが確実に実行可能なものか
どうかなど、実行前に知る方法がないような気がするけども。

それに、そもそもが「ヨーロッパの自己同一性」というのが
どういうものなのかいまいち曖昧だ。ポスト構造主義の人は
ほんとに、実際読んでみないとアカン。

その5へ。

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