<その1からつづき>

・フーコー批判

デリダは、なんでもフーコーの弟子を自認していたらしい。
師とあおぐだけあって、とりあえずフーコーの、狂気など
他者が知によって排除されていく仕組みの告発については
賛同し、同じく排除を告発する。

だがデリダは、この他者-外部を知が語ること、そのものに
ついても言及する。どういうことか。つまり、フーコーとか
レヴィナスのように、西洋的理性が排除してきた他者に
目を向けること、そのものをも、問題視するということだ。

これは、フーコーのところでも述べたけれど、つまりは
フーコー自身もエピステーメーから自由ではないし、
フーコーの試みそのものすら、西洋的理性、ロゴスによる
ものだということである。
理性の他者の探求も、理性によってしかできない。理性そのもの
への問題視も、理性がするものだ。

まぁ、それは確かに、その通りだとは思う。

だからデリダは、自分の言説に対して、まずこの点について
次のふたつのことを認める。

1つは、古代ギリシアでロゴスが用いられる、それ以前の
状態、狂気と理性がいわば一体であった、野生状態の回復は
不可能であるということ。

既に狂気から分離された理性をもって考える限り、理性によって
それを取り戻すことなど不可能、ということだ。

そして、ここから少し飲み込みにくいのだけど、

現在の知はつねに遅れ、しかも野生状態とは異なってしまう
のだそうだ。こうした遅れと異なりのことを、デリダは
「差延」という言葉で表す。こういう意味だったんですな。

といっても、どういう意味かよくわかんないけど。

哲学はこの差延を克服することはできない。哲学は、差延の
中でのみ活動する。

2つは、倫理的な問題…と昭和堂には書いてあるけど、どうも
どのあたりが倫理的なのかは分からない。

<デリダは自身の哲学を、安全な高台に置こうとはしない。
哲学は、理性(あるいはロゴス)をもちいる哲学であるかぎり
(そうでない哲学はない)、「無実」ではありえない>

という風に表現している。

つまり、例えが悪いけども、泥棒が泥棒を告発しているような
もの、ということだろうと思う(このあたりに倫理が関係して
くるのだろうか)。

確かにフーコーは「狂人を解放」したけども、しかし、理性は
それでも、あくまで「閉じ込めながらしか解放しない」のだそうだ。

理性の背負った業、みたいなものとして考えると分かりやすい?

その3へ。

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