フーコーが現代フランス思想の「巨匠」ならば、ジャック・
デリダ(1930〜)は「鬼才」だと昭和堂では述べている。

俺の感覚でも、デリダとフーコーの2人が、現代思想では
まずビッグネームに挙がる。

デリダは沢山批判をしているので、昭和堂では批判を中心
に紹介されてます。昭和堂→はじめての哲学史で行きます。

デリダの思想に傾倒してる人を「デリディアン」という
らしいですが、ドゥルージアン、アルチュセリアン、
フカルディアン(フーコー)なんて呼ばれる人もいるらしい
です。

それでは、昭和堂の観点から。

デリダの着眼点は、哲学の内部、西洋的理性にもともと
潜んでいた、「ズレた他者(フーコーが言う狂人とか?)」を
排除し覆い隠す論理、<同じもの本位の/自己本位のロゴス>
=<トートロジー>をもっているところ。

エピステーメーと同じような感覚で理解するといいだろう
か?昭和堂でも、フーコーやレヴィナスと着眼点は
近いと言っている。

つまり、理性が理性から外に出られないような構造、
ということだと思う。トートロジーは本来「同語反復」
という意味だけど、少し言い回しが違いますね。

フーコー、レヴィナスと着眼点は近いけども、しかし
デリダの言い方はもっとキツくて、西洋哲学はそのような
トートロジー的論理「しか持っていない」ことを強調する
のである。

他者を救出しようとする哲学的言語=論理も、フーコーや
レヴィナスの他者救出の思想すらも、トートロジーしか
持っていない。だから結局、他者を排除してしまう
ような傾向があると言うのだ。

これは、デリダ自身の思想も例外ではない。
トートロジー的論理に取り込まれているがゆえに、
それを自覚している自分自身の思想すら、おのれを裏切る。
おのれから「ズレ」る。

理性によってズレた他者の排除・隠蔽を、理性の
トートロジー的言説の中から嗅ぎ分け、さらに、
それを告発する自分の言説自体が、自身に含むズレをも
嗅ぎ分ける。デリダはこの二重の意味において、現代で
もっともズレ=差異に敏感な哲学者であるという。

しかし、具体的にどういうことなのかは分かりづらいですね。

デリダは、現代の最も超越論的な哲学者だという。
超越論的っていうのは、卑近な言い方をすれば、一歩引いて
見たものをさらに一歩引いてみるみたいな、そういう
「もう一段階客観的に見てみる」のようなニュアンスを含む
と思う。超越論的=先験的(経験の前提として)という意味も
あるから、色々だろうけど(これも、体験を一歩引いて見る
みたいなニュアンスがあるけど)、この場合そうだと思う。

理性によって排除されたという「理性の他者」すら結局
理性によってしか言及し得ないものだし、理性によって
捉えようとすれば、必ずトートロジーによってズレが生まれる
のだから、他の哲学者の「理性の他者」への言及に対しても、
メタ批判にかけてズレを取り出さねばならない。

昭和堂のタイトルから目次をつけます。

・フーコー批判
・レヴィナス批判
・脱構築
・デリダの真理
・デリダの倫理
・昭和堂の結論

ちょと長くなったので、その2から。

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