<その2からつづき>

つぎに、<存在/認識/真理>のうち存在の問題。

デリダは、レヴィナスが安易に「他者の存在」という表現を
使ったことを批判した。なぜなら、他者の存在という
言い方をしてしまうと、最優先であった他者が「存在」という
上位カテゴリの下に来てしまうからであり、これを回避する
ために、レヴィナスは「存在するとは別の仕方で」という
言葉を使うようになる。

こういう言い換えに意味はなさそうにも思えるが、でも
レヴィナスの語りたい「他者」はこのギリギリの表現を
使うことでしか語れないものであるらしい。

つづいて、レヴィナスの「責任とエロス」論にうつる。

エロスというとアレですが、哲学的には、美しいものや
欲望の対象を欲する力とか、そういう意味をもってます。

従来の哲学がもっていた自我主体のイメージを
「男性」という雄々しい表現であらわし、それを歓待する
他者は「女性」として表現した(これは原著も表現が難しそう
だ…)。

女性は男性によって暴行=認識を受けやすく、弱く、
傷つきやすい(さきの認識論にも絡めていますね)。
「弱さは他者性そのものを形容している」。

男性が女性を認識しようとしても、女性自身は手に入らない。
この事態が、女性の「慎み深さ」あるいは「神秘」として
表現される。

他者自身は決して現出しないので、自我は他者を手に
入れたり、理解したりすることはできない。

これを、他者は「顔(視覚で捉えられる像?)」の
向こう側に、無限として他者が存在している、と捉えては
ならない(理性の探求の対象になるからだろうか?)。

自我は、他者をあくまで「痕跡」としてしか知覚できない。

「愛」はこうした男女間に成立する関係だが、それは
「いつまでも永遠に逃れ行くものとの関係」である。
なかなか、言いますね。レヴィナス。
そういえば竹田さんの「恋愛論」にも、レヴィナスは
引用されてた。

女性は「恥らい」、男性の目から逃れる。しかし、
女性を求める男性の欲望は「破廉恥」とか「冒涜」と
言い表される。
到達不可能・認識不可能な女性を前にして、男性は
女性を「愛撫」しようとする。

「愛撫は愛を表出したいけれどもできないという飢えで
あり、この飢えは不断に増大していく」

…う〜ん、こんなにがつがつしてるもんでしょうかね。

これは多分、自我-他者になぞらえてるんでしょうね。

少し長くなったので切り。

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