≪現代思想(9)−レヴィナスについて<その2>−≫
2004年9月3日<その1からつづき>
まず、伝統的な<存在/認識/真理>の哲学では、
時間というものが、自我を中心に成り立っていると
考えられた。「過去/未来」は「もう/まだ」存在しない。
あるのは現在だけである。にもかかわらず時間が存在
するのは、自我が心で過去-現在-未来を統一している
からである、と。
これは自我優先の思想だ。レヴィナスはこれも批判する。
時間を構成するには、もちろん構成以前のものがあった
のであるから、時間に先立つ何かから出発せねばならない。
これをレヴィナスは「イリヤ」と呼ぶ。
イリヤはまた「不快・悪」であり「恐怖」であり、
また「不眠の夜」とも呼ばれる。多分原著ではこれらの
言い回しが使われるのでしょうね。
イリヤは存在に先立つ「流れ」で、この流れの中から
存在者が成立(実詞化という)してくる。
そこに自我が確立するが、これはまだ純粋な現在で
あって、時間は出来ていない。
そこに他者が到来する。他者の到来は未来である。
「他者の到来をまってはじめて」、自我は時間を認識する。
逆に他者こそが、自我に対して「優先権」をもつ、という。
また時間に続いて、認識に関しても同じような考察を
行う。他者の到来以前は、自我は自我として成立して
おらず、先自我として存在する。ここに他者が「顔」として
(単純に人間の部位としての「顔」ではなくて、人間の
視覚のことらしいが)あらわれ、先自我に侵入してくる。
ここで主体の主体性とは、「いかなる受動性よりも受動的な
受動性」だといわれる。自我は他者に対して徹底的に受身。
視覚に対して、主体は受け入れないことなどできない。
これを許諾することしかできない。自我は一方的に有責
である、という。
対して認識は一種の暴力になってしまう。認識行為は
見ることだけを許し、相手にも同じく、受け入れ以外を
許さないからだ。サルトルの「他者のまなざし」を少し
思い出す。
さらにレヴィナスは、言語の本質に着目。
言語は真理の媒体とされるが、だが言語の本質は「何を
語るか」より「誰に語るか」がその役割だ。
他人の関係いかんが、真理の前提となる。
確かに、そうだ。他人と共有できてこその真理ではある。
他人の身分に相応しい言説、他人を優先する言説を行うとき、
それは「真なる言説」であるし「正義」ともいえる。
しかし、他人を従わせる目的で発せられるレトリックは、
他者を誘導して他人の許諾を無理矢理引き出すところに
その目的があるのであり、暴力であって不正である。
まず、伝統的な<存在/認識/真理>の哲学では、
時間というものが、自我を中心に成り立っていると
考えられた。「過去/未来」は「もう/まだ」存在しない。
あるのは現在だけである。にもかかわらず時間が存在
するのは、自我が心で過去-現在-未来を統一している
からである、と。
これは自我優先の思想だ。レヴィナスはこれも批判する。
時間を構成するには、もちろん構成以前のものがあった
のであるから、時間に先立つ何かから出発せねばならない。
これをレヴィナスは「イリヤ」と呼ぶ。
イリヤはまた「不快・悪」であり「恐怖」であり、
また「不眠の夜」とも呼ばれる。多分原著ではこれらの
言い回しが使われるのでしょうね。
イリヤは存在に先立つ「流れ」で、この流れの中から
存在者が成立(実詞化という)してくる。
そこに自我が確立するが、これはまだ純粋な現在で
あって、時間は出来ていない。
そこに他者が到来する。他者の到来は未来である。
「他者の到来をまってはじめて」、自我は時間を認識する。
逆に他者こそが、自我に対して「優先権」をもつ、という。
また時間に続いて、認識に関しても同じような考察を
行う。他者の到来以前は、自我は自我として成立して
おらず、先自我として存在する。ここに他者が「顔」として
(単純に人間の部位としての「顔」ではなくて、人間の
視覚のことらしいが)あらわれ、先自我に侵入してくる。
ここで主体の主体性とは、「いかなる受動性よりも受動的な
受動性」だといわれる。自我は他者に対して徹底的に受身。
視覚に対して、主体は受け入れないことなどできない。
これを許諾することしかできない。自我は一方的に有責
である、という。
対して認識は一種の暴力になってしまう。認識行為は
見ることだけを許し、相手にも同じく、受け入れ以外を
許さないからだ。サルトルの「他者のまなざし」を少し
思い出す。
さらにレヴィナスは、言語の本質に着目。
言語は真理の媒体とされるが、だが言語の本質は「何を
語るか」より「誰に語るか」がその役割だ。
他人の関係いかんが、真理の前提となる。
確かに、そうだ。他人と共有できてこその真理ではある。
他人の身分に相応しい言説、他人を優先する言説を行うとき、
それは「真なる言説」であるし「正義」ともいえる。
しかし、他人を従わせる目的で発せられるレトリックは、
他者を誘導して他人の許諾を無理矢理引き出すところに
その目的があるのであり、暴力であって不正である。
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