<その2からつづき>

「はじめての哲学史」ではどう言っているか。

ドゥルーズは徹底した反ヘーゲル主義者だという。
それは、そうかもしれない。ヘーゲルは理性信仰とも言える
考え方をしていた。人間が理性によって歴史の完成時代へ
至れるという主張をもっていた。

さきの「差異」を強調する主張は、確かにこれを真っ向から
否定する主張かもしれない。

しかし、共同体とかの統括機関が提供する基準をまったく
受け入れまいとする姿勢は、どこか子どもの姿勢のようにも
思える。はじめての哲学史では、これを「「大人になること」
を説いたヘーゲルに対して「いつまでも子どもであり
つづけよう(というより、いつまでも子どもに<なり>
つづけよう)」としたのがドゥルーズだ、と表現している。

ドゥルーズの批判は、基本的にニーチェに依拠している。
人間が理性によって真理を知り尽くそう、世界のすべてを
知り尽くそうとしたことは、ニヒリズムに起源を持っている
と考え、ルサンチマンの産物だと断じた。
そこで否定的になってしまっている「力への意志」を
肯定的な向きへと「逃走」線を引いて誘う。

決して闘うわけではない。それではヘーゲルの弁証法と
同じ。知と闘争するわけではなく、逃走することで
力への意志を肯定的な方向へ誘うことを考えたのかも。

「欲望」の肯定性を強調して、「リゾーム」「多数多様体」
「欲望する機械」「器官なき身体」という、<従来の哲学
用語とはまるで異なった言葉を駆使してスピード感のある
文章を書き連ね、異質なものが領域から領域へと横断し、
かけ合わされ、混合し、増殖していく運動や流れを、
まるでドタバタ喜劇やポップ・アートのように描き出す>。

また、<それは過激なまでのアジテーションだった>とも
はじめての哲学史では述べている。

次はデリダを扱う前に、レヴィナスにいきます。

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