≪現代思想(8)−ドゥルーズについて<その2>−≫
2004年9月2日<その1からつづき>
ドゥルーズは「反復」を批判する。「「異なる」ものの
反復」という考えをそれに対置して反復概念を拡張、
さらに差異そのものを「作り出す」第三の反復に論を
すすめる。
同一のオリジナルとそのコピーという図式を否定して、
シミュラークルが復権されて、そのたえざる生産が
問題にされる。
ふーむ、「上から言われたものを反復だけしてるんじゃ
なくて、類似物でいいから自分で作り出せ!」ということ?
俺のアホ脳ではこのくらいしか…
その生産は何によっておこなわれるか。これはもちろん
人間の「欲望」だ。さらにこの欲望は無意識による。
人間はこの無意識の欲望につき動かされて、目的を
もたず、ひたすら生産し続ける「機械」である。
これは、ニーチェの「力への意志」の現代版だという。
ディオニュソスもそうだけど、ドゥルーズはけっこう
ニーチェを支持してたみたいですね。ポスト構造主義
は、ニーチェは支持してる人が多いらしい。真理への
批判者だからか。
また生産の媒体は「器官なき身体」ともいわれるらしい。
なにやら、怖いですね。無意識につき動かされて
ひたすら生産にはげむ機械的な身体。
まぁ、ドゥルーズの言いたかったのは、人間のそういう
部分を権力に塗りつぶされるなよ、ということでしょうか。
うーん…
この観点から、ドゥルーズは現代資本主義社会を批判する。
彼らは同一性に固執する「偏執者・パラノ」に対して、
同一性に固執せず欲望の多様性を実現する「分裂者・パラノ」
とか「遊牧民・ノマド」を対置する。
欲望を一方向に収束させるべきでない、マルクス主義も
ファシズムも、その点で同じなのだ、とドゥルーズは批判する。
それはそうかもしれない。
そういう一方向の目的から解放させ、目的から「逃走」させる。
これがドゥルーズの哲学…じゃなくて思想か。
ガタリって人と組んで、色んな書も出してたみたいですな。
しかしこの考え方だと、つまり、既成物をマネすることが
忌避されてしまうので、各人のいろんなシミュラークルが
登場して、目的や基準がないのだから、収集がつかなくなる。
結局争いに帰結するのではないか、という意見も昭和堂では
提出されている。
おそらくこれは権力批判の考え方なのだろうけど、個人的には
昭和堂の指摘はその通りだと思う。共同体の中の人間の意志を
有る程度統一しうる権力は一見、禍々しいものにも取られうる、
弊害も多いから。でも、それらが全くない世界は、権力が
少し強く機能している世界と比べて、はるかに弱者が虐げられる
世界になってしまうと思う。なぜか。権力が保証するルールが
無くなれば無くなるほど、「人心をつかむのがうまい者」、
「腕力が強い者」が勝つことになるに決まっているからである。
自然状態は、ホッブズが言うほど酷いものとも思わないが、
ルソーが言うほど楽観的なものでもない、と俺は思う。
弱者を守るためにも、権力は絶対に必要なものだと思う。
だから権力を強めていい、とはもちろん言わない。強めすぎも
また野蛮な世界を招くことになるだろうから。権力批判も
当然必要だし、適切な強さで保たれるべきだと思う。
まだ勉強中なのに持論を書いてしもたヽ(’Д`)ノ
あとドゥルーズは哲学史にも新たな視点を持ち出していて、
これが「存在の類比性」と「存在の一義性」で分かつもので、
ドゥルーズ/ガタリの「生成の優位性の思想」は後者に属する
らしいけども、そう重要とも思えないので、割愛します。。
その3へ。
ドゥルーズは「反復」を批判する。「「異なる」ものの
反復」という考えをそれに対置して反復概念を拡張、
さらに差異そのものを「作り出す」第三の反復に論を
すすめる。
同一のオリジナルとそのコピーという図式を否定して、
シミュラークルが復権されて、そのたえざる生産が
問題にされる。
ふーむ、「上から言われたものを反復だけしてるんじゃ
なくて、類似物でいいから自分で作り出せ!」ということ?
俺のアホ脳ではこのくらいしか…
その生産は何によっておこなわれるか。これはもちろん
人間の「欲望」だ。さらにこの欲望は無意識による。
人間はこの無意識の欲望につき動かされて、目的を
もたず、ひたすら生産し続ける「機械」である。
これは、ニーチェの「力への意志」の現代版だという。
ディオニュソスもそうだけど、ドゥルーズはけっこう
ニーチェを支持してたみたいですね。ポスト構造主義
は、ニーチェは支持してる人が多いらしい。真理への
批判者だからか。
また生産の媒体は「器官なき身体」ともいわれるらしい。
なにやら、怖いですね。無意識につき動かされて
ひたすら生産にはげむ機械的な身体。
まぁ、ドゥルーズの言いたかったのは、人間のそういう
部分を権力に塗りつぶされるなよ、ということでしょうか。
うーん…
この観点から、ドゥルーズは現代資本主義社会を批判する。
彼らは同一性に固執する「偏執者・パラノ」に対して、
同一性に固執せず欲望の多様性を実現する「分裂者・パラノ」
とか「遊牧民・ノマド」を対置する。
欲望を一方向に収束させるべきでない、マルクス主義も
ファシズムも、その点で同じなのだ、とドゥルーズは批判する。
それはそうかもしれない。
そういう一方向の目的から解放させ、目的から「逃走」させる。
これがドゥルーズの哲学…じゃなくて思想か。
ガタリって人と組んで、色んな書も出してたみたいですな。
しかしこの考え方だと、つまり、既成物をマネすることが
忌避されてしまうので、各人のいろんなシミュラークルが
登場して、目的や基準がないのだから、収集がつかなくなる。
結局争いに帰結するのではないか、という意見も昭和堂では
提出されている。
おそらくこれは権力批判の考え方なのだろうけど、個人的には
昭和堂の指摘はその通りだと思う。共同体の中の人間の意志を
有る程度統一しうる権力は一見、禍々しいものにも取られうる、
弊害も多いから。でも、それらが全くない世界は、権力が
少し強く機能している世界と比べて、はるかに弱者が虐げられる
世界になってしまうと思う。なぜか。権力が保証するルールが
無くなれば無くなるほど、「人心をつかむのがうまい者」、
「腕力が強い者」が勝つことになるに決まっているからである。
自然状態は、ホッブズが言うほど酷いものとも思わないが、
ルソーが言うほど楽観的なものでもない、と俺は思う。
弱者を守るためにも、権力は絶対に必要なものだと思う。
だから権力を強めていい、とはもちろん言わない。強めすぎも
また野蛮な世界を招くことになるだろうから。権力批判も
当然必要だし、適切な強さで保たれるべきだと思う。
まだ勉強中なのに持論を書いてしもたヽ(’Д`)ノ
あとドゥルーズは哲学史にも新たな視点を持ち出していて、
これが「存在の類比性」と「存在の一義性」で分かつもので、
ドゥルーズ/ガタリの「生成の優位性の思想」は後者に属する
らしいけども、そう重要とも思えないので、割愛します。。
その3へ。
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