ジル・ドゥルーズ(1925〜1995)。この人の哲学は
概略にしても、えらく表現が難しい。いちおう、昭和堂と
はじめての哲学史から要約しますが、これも原著読むまで
知ったことはいえない哲学者ですね。

まず昭和堂では、件の「善の優位性」「存在の優位性」
「倫理の優位性」の視点から考察をはじめる。

善の優位(古代ギリシア)の時代は、人間活動は
テオリア(観照)・プラクシス(実践)・ポイエーシス
(制作)に区別されていた。これは「目的」を主眼に
置いた区別。なかでもテオリアは目的を内在するがゆえに
最高の幸福だったとか。

しかし存在優位の時代になると、テオリアは幸福でなくなり
暴力となった。なんでか。テオリアが暴力の領域に属する
のは、「表象=再現前化」と、それが求める「同一性」
だから。

どういう意味だろう。

存在優位の時代は、観照する人(主観)と観照されるもの
(客観)の正確な一致が問題になるから、そのあたり
だろうか。
「同一性」はなんか全体主義を連想させる。

認識の客観性(=誰にとっても同じ)を求めるために
論理が全体主義的傾向を帯びてくるからか?うーん、
分からない。

これを彼は批判して、「非同一性=多様性=差異性」を
もとめる「欲望」をそれに対置させる。
しかも、欲望にはポイエーシス(制作)的機能が認められる。

無目的で無限の生産をもたらす欲望を解放することにより、
テオリア的理性を掘り崩そうとする、のだそうだ。

分かるような分からないような。

また古代ギリシアの時代のテオリアはまだ良かったと
いっても、すでにプラトンに、理性の暴力化の端緒が
見て取れるという。イデア論が例だ。

完全なイデアがイデア界にあり、それから遠いものは
「劣ったもの、悪いもの」である。イデアのコピーである
事物は、その写実度によって序列づけられるわけだ。

しかし最悪なのは、オリジナルと関係ないただの類似物
(シミュラークル)なのだそうだ。このコピーとシミュ
ラークルの間に、巨大な切断線が走るのだとか。

はて、、これもどういう意味だろう。

本来オリジナルと関係ないシミュラークルにまで、
偏見とかが及んでしまうからだろうか。これも不明。

同一性をめざす表象=再現前化(主観と客観の一致?)を
求めようとする理論では、差異は捉えられない。

<差異は、表象=再現前化の諸要請に服従させられて
いるかぎり、それ自身において思考されていないし、
それ自身において思考される可能性もない>。

理性的・合理的に思考されない差異は、結果的に排除
されるようになった。ドゥルーズはこの差異を復権させよう
とするらしい。

彼が「同一性と合理性を打ち砕こうとするディオニュソス」
と呼ばれるゆえんだとか。

主客一致問題と絡めないと、さっぱり意味が分かりません。
もっと勉強しないとイカン。

その2へ。

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