≪現代思想(7)−フーコーについて<その5>−≫
2004年9月1日<その4からつづき>
・フーコーの倫理
フーコーの倫理は先に少し示された(性に関してだけだけど)。
性に対する自己管理とか、鍛錬、禁欲。自己コントロールの
倫理学というものがそれだ。
しかし権力そのものに対しては、憤りを示し、権力に対する
「反撃」あるいは「戦い」の可能性を探った。
だが分散した権力は、従来のように特定人物を打ち倒すことで
無くすことはできない。そこで、権力の打倒ではなくて
権力からの解放をフーコーは求めた。
そのような時、権力による心の管理(一種のマインドコントロール)
からの解放の倫理が彼には働いている。
しかし、どんなことを考えたって「エピステーメー」の域内
というのが彼の主張だったはず。そこを自覚したとしても、
難しいはずだ。どうすればいいのか。
例えば性に関してならば、解放を「性的欲望」の解放と考えては
ならない。「性という決定機関からの解放」ではなくてはならない。
それへの反撃の拠点は、「欲望である性」そのものではなくて、
「身体と快楽」であるという。
すでに管理されている心ではなく、自由である身体を、また
セクシュアリテから自由になるために、アスケーシス(鍛錬、禁欲)を
快楽に課すことが重要だとか。
締めは今ひとつつかみづらいけれど、批判理論としては確かに
卓越したものがありそうですね。
はじめての哲学史でも、そう変わった解釈はしてないぽいので
割愛します。次はドゥルーズ。
・フーコーの倫理
フーコーの倫理は先に少し示された(性に関してだけだけど)。
性に対する自己管理とか、鍛錬、禁欲。自己コントロールの
倫理学というものがそれだ。
しかし権力そのものに対しては、憤りを示し、権力に対する
「反撃」あるいは「戦い」の可能性を探った。
だが分散した権力は、従来のように特定人物を打ち倒すことで
無くすことはできない。そこで、権力の打倒ではなくて
権力からの解放をフーコーは求めた。
そのような時、権力による心の管理(一種のマインドコントロール)
からの解放の倫理が彼には働いている。
しかし、どんなことを考えたって「エピステーメー」の域内
というのが彼の主張だったはず。そこを自覚したとしても、
難しいはずだ。どうすればいいのか。
例えば性に関してならば、解放を「性的欲望」の解放と考えては
ならない。「性という決定機関からの解放」ではなくてはならない。
それへの反撃の拠点は、「欲望である性」そのものではなくて、
「身体と快楽」であるという。
すでに管理されている心ではなく、自由である身体を、また
セクシュアリテから自由になるために、アスケーシス(鍛錬、禁欲)を
快楽に課すことが重要だとか。
締めは今ひとつつかみづらいけれど、批判理論としては確かに
卓越したものがありそうですね。
はじめての哲学史でも、そう変わった解釈はしてないぽいので
割愛します。次はドゥルーズ。
コメント