≪現代思想(7)−フーコーについて<その4>−≫
2004年8月30日<その3からつづき>
「性」について。
タイトルは<セクシュアリテの形成-倫理の系譜学>。
これも、さきの「知の考古学」や「権力論」が使われる。
もともと人間の自由奔放な性があって、それを権力が
抑圧するのではなくて、セクシュアリテ(性のあり方)を
生み出して、それを人間に植え付ける。
それはどのようにか。19世紀以降の医学や精神医学は、
性的な「異常さ」を持つとみなされた「患者」に、おのれの
「異常さ」を「告白」させた。それによって、知(医学、
精神医学)は大量の言説を生み出し、その結果、多くの
「性的倒錯」が「発明」(発見ではなく)されたのだという。
確かに、しかし同性愛とか異常性愛に関しては、普通に
異常だと感じてしまうが、それもエピステーメーによるのかも
しれない。一部の人が「異常者」に「告白」させた内容を
流布したせいで、常識になってしまっているだけなのかも。
これを鏡として人間は「正常な」セクシュアリテを自分の
中に作り出し、「主体性」同様に、自身のセクシュアリテを
自己管理するようになる。「主体化」はやはり「服従」である…
ということが、ここでも示されたわけだ。
しかし「倫理の系譜学」を晩年に提唱するにいたって、
もう少し別の観点が加わったという。それは何か。
「権力論」は確かに有効だが、しかし、人間の行動はすべてが
それに還元できるわけではなくて、人間の道徳的行動は
「「道徳的主体」としての自己の組み立て」という側面を
もつという。
人間は権力とはまた別の次元で、「倫理的」に、あるいは
「鍛練的=禁欲的」に、自己形成していく。
キリスト教以前の、古代の奔放だった「性」のあり方を
ベースにすれば、倫理のあり方は各人のアスケーシス
(鍛錬・禁欲)の「実践」が中心だった。
キリスト教以後において、欲望は否定され、また倫理のあり方は
「懺悔」「告解」(精神医学での「告白」になる)によって
内奥に隠された「真理」を「認識」することだったが、
これがそもそも間違っていたという考えだと思う。
この古代の考え、「自己実践」、「生存の美学」に立ち返る
べき、というのがその主張と思う。
卑近な考えかもしれないけれど、どうもフーコーは自分の
バイセクシャルをえらく気にしていたんじゃないかなぁ、と
この主張をみていると思う…、、
・フーコーの真理
しかしフーコーの立場に立つと、フーコーの主張すら
「エピステーメー」に飲み込まれてしまって、その時代の
限界から外に出て考察することは不可能ということになって
しまう。彼自身の見出した「真理」も、一種の幻想と同じ
ようなもの、ということが、彼の主張から明らかになって
しまうのだ。
彼は、権力の網の目の中のどこに立つことによって、
この幻想を見破ることができるか、ということを考えた
ようであったが、それにしてもエピステーメーの域内、
と言うことは不可能ではない。
自然、かどうかは分からないが、フーコーは平然と
「完全な懐疑主義」の立場に立つという。しかしそれに
しても、真理がまったく無視されるわけではなくて、
「大文字の真理」より「小文字の真理」を目指したのだろう
と昭和堂では述べているが、「そうだとすると、今度は、
両者の真理はどう異なるのかという新たな問題が残る
ことになる」と同書で述べている通り、違いがよく分からない。
「全時代を貫く真理」と「その時代だけの真理」という意味
ぽいけど、前者はそもそも不可能なわけだしね。
「全時代を貫いたと思い込んだ真理」と
「その時代だけって自覚のある真理」ということか?
そもそも語義的には「真理」である内容が、時と場所によって
変わることはありえないか。うーん、分かりません。
「性」について。
タイトルは<セクシュアリテの形成-倫理の系譜学>。
これも、さきの「知の考古学」や「権力論」が使われる。
もともと人間の自由奔放な性があって、それを権力が
抑圧するのではなくて、セクシュアリテ(性のあり方)を
生み出して、それを人間に植え付ける。
それはどのようにか。19世紀以降の医学や精神医学は、
性的な「異常さ」を持つとみなされた「患者」に、おのれの
「異常さ」を「告白」させた。それによって、知(医学、
精神医学)は大量の言説を生み出し、その結果、多くの
「性的倒錯」が「発明」(発見ではなく)されたのだという。
確かに、しかし同性愛とか異常性愛に関しては、普通に
異常だと感じてしまうが、それもエピステーメーによるのかも
しれない。一部の人が「異常者」に「告白」させた内容を
流布したせいで、常識になってしまっているだけなのかも。
これを鏡として人間は「正常な」セクシュアリテを自分の
中に作り出し、「主体性」同様に、自身のセクシュアリテを
自己管理するようになる。「主体化」はやはり「服従」である…
ということが、ここでも示されたわけだ。
しかし「倫理の系譜学」を晩年に提唱するにいたって、
もう少し別の観点が加わったという。それは何か。
「権力論」は確かに有効だが、しかし、人間の行動はすべてが
それに還元できるわけではなくて、人間の道徳的行動は
「「道徳的主体」としての自己の組み立て」という側面を
もつという。
人間は権力とはまた別の次元で、「倫理的」に、あるいは
「鍛練的=禁欲的」に、自己形成していく。
キリスト教以前の、古代の奔放だった「性」のあり方を
ベースにすれば、倫理のあり方は各人のアスケーシス
(鍛錬・禁欲)の「実践」が中心だった。
キリスト教以後において、欲望は否定され、また倫理のあり方は
「懺悔」「告解」(精神医学での「告白」になる)によって
内奥に隠された「真理」を「認識」することだったが、
これがそもそも間違っていたという考えだと思う。
この古代の考え、「自己実践」、「生存の美学」に立ち返る
べき、というのがその主張と思う。
卑近な考えかもしれないけれど、どうもフーコーは自分の
バイセクシャルをえらく気にしていたんじゃないかなぁ、と
この主張をみていると思う…、、
・フーコーの真理
しかしフーコーの立場に立つと、フーコーの主張すら
「エピステーメー」に飲み込まれてしまって、その時代の
限界から外に出て考察することは不可能ということになって
しまう。彼自身の見出した「真理」も、一種の幻想と同じ
ようなもの、ということが、彼の主張から明らかになって
しまうのだ。
彼は、権力の網の目の中のどこに立つことによって、
この幻想を見破ることができるか、ということを考えた
ようであったが、それにしてもエピステーメーの域内、
と言うことは不可能ではない。
自然、かどうかは分からないが、フーコーは平然と
「完全な懐疑主義」の立場に立つという。しかしそれに
しても、真理がまったく無視されるわけではなくて、
「大文字の真理」より「小文字の真理」を目指したのだろう
と昭和堂では述べているが、「そうだとすると、今度は、
両者の真理はどう異なるのかという新たな問題が残る
ことになる」と同書で述べている通り、違いがよく分からない。
「全時代を貫く真理」と「その時代だけの真理」という意味
ぽいけど、前者はそもそも不可能なわけだしね。
「全時代を貫いたと思い込んだ真理」と
「その時代だけって自覚のある真理」ということか?
そもそも語義的には「真理」である内容が、時と場所によって
変わることはありえないか。うーん、分かりません。
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