<その1からつづき>

・フーコーの問題射程の大枠

さきのような歴史観に基づいて、フーコーの分析は進む。

ここではフーコーの問題としたところの大枠を昭和堂から
引いて、考えてみたいと思う。

大きく3つに分けると、

1.エピステーメーを問う「知の考古学」。

2.知だけでなく、人間関係や行動をも規制している
 「権力」が存在するが、それを問う「権力論」。

3.「セクシュアリテ(性のあり方)」への問いと、
 それを問ううちに開かれた、人間が性の主体として
 形成されるその過程、いわば「道徳的主体としての人間の
 自己の組み立て」、「自己実践」の過程への問い。
 これは「倫理」への問いだとされる。

 
1と2は割と分かりやすい。1は、人間にその判断を
させている、隠れた歴史的背景を探る、ということだし、
2は、理性の判断以外においても、人間の行動を規定している
これも歴史的背景を探るということ(「権力」とは
言っているけど、結局そういうことだろう)。

ただ3は分かりにくい。

昭和堂では、これの登場と共に、テクストを読む方法論が
立て直されたという。だから大事な部分だ。

これについても説明があるが、簡単にまとめると、

フーコーは「歴史」にひとまとまりの解釈を与えない。
そもそも歴史自体がその時代その時代の解釈の積み重ね
であり、フーコーが与える解釈も、その域を出ないのだ。

それはそうだ。フーコーも、現代のエピステーメーから
自由ではない。

こうして、どんな歴史解釈も、エピステーメーに縛られた
「ひとつの解釈のあり方」でしかないことを自覚し、ヘーゲルの
ような「神の視点」から歴史を見ることを拒否するとき、
これは「倫理の系譜学」と成る、のだそうである。

「倫理の系譜学」という言葉自体からはこうした意味は
掴み取ることはできない、ので、フーコーが言う場合は
そういう意味を持っていると取るといいと思う。

「倫理」がどこから出てきたのか、といえば、3の問題と
するところから来ているようだ。

 
・「狂気」と「主体性」と「性」

フーコーの歴史研究は、その膨大な読書量のために、あまりに
詳細であるらしい。なので、昭和堂では、特に重要なこの
3つの点に論点を絞っている。それぞれについて解説を。

 
「狂気」について。

昭和堂では<狂気の形成-沈黙の考古学>というタイトルを
つけている。

現代では、狂気と正気が分けられている。精神医学も、様々な
病名をつけて、饒舌に狂気を語る。

我々は、この「狂気」というものが、いつの時代もそのように
異端なものとして扱われていた、精神医学的なものだと思い
込んでいるが、そうではない。フーコーによれば、歴史上の
ある時点で、狂気と理性が分離し、理性が狂気を饒舌に語り始め、
狂気には完全「沈黙」が強いられた、というのである。

フーコーの意図するところは、それをあばくことによって
狂気を復権しようとすることではなくて、それによって
沈黙する以前の状態から、「狂気」について考え直すことが
必要だと主張するところにあるという。

「狂気」という言葉の成立以前から考察するならば、
狂人を隔離する一般施療院は、狂気の治療施設ではなく、
その監禁による排除の施設だった、という。

やはり「理性」の罪を追求するようなスタンスですね。

つづきはその3へ。

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