≪現代思想(6)−ポスト構造主義について<その2>−≫
2004年8月28日<その1からつづき>
とりあえず、ポスト構造主義は、単なる総称にすぎないので
なんらかの「主義」を名の通り示しているわけではなくて、
だからポスト構造主義がどうこう、とは言えないことは分かる
と思う。なので、今までカテゴリ分けできるものは名前の前に
「〜主義」とか「〜学」とつけてましたけど、いわゆる
ポスト構造主義の哲学者については、つけないことにします。
さて、それで、いわゆるポスト構造主義の哲学者における
「倫理の優位性の思想」とは何か、について順を追って解説します。
まず昭和堂では、フーコーが指摘した「歴史の断絶」を引いて
哲学史全体を敷衍する視点は持ちようがなく、ヘーゲルや
ハイデガーのような、哲学の始祖から自らの哲学に至るまでの
道を、大哲学の完成の途(みち)として捉えるようなことは
できようがないことを指摘していて、これもまたモダンと
ポストモダンの断絶を示しているとも取れるけども、まぁ
それはそれとして。
まずジルソンの哲学史観では、古代ギリシアは「善の優位性の
思想」、中世から「存在の優位性の思想」になったことは
すでに述べました。古代ギリシアでは、善は存在の「根拠」と
されて、理性を持って原理を追求することは、それそのものが
幸福とされた。ト・ヘンとかを考えると分かりやすいですね。
それ(存在)に合一することが幸福であり目的みたいに
なっていた。
なので「善の優位性の思想」。
中世からはそうではなくて、理性は倫理的には中性のものと
された。存在をめぐる思索に善悪はなくて、ただこの世の仕組み
とか、主観-客観の一致とか、普遍論争とか、科学技術の
ただただ「正確な解明」が理性の仕事であり、結果として
それが役に立ったこともあるし、色々な罪も生んだけど、
別にそれは理性そのものの咎ではないと思われていた。
これは「存在の優位性の思想」。
これに関しては、一度ニーチェに否定されはしたけども、結局
構造主義、ポスト構造主義にいたるまで継がれてきた哲学の
特徴とも、言えるかもしれない。
では、ポスト構造主義ではどうなのか?
ここでは、理性そのものの「罪」を問い、その更に下の
「倫理」を求める哲学なのだ、とされる。
理性は、古代の哲学者の言うように善なるものでもなければ、
中性〜現代の哲学者の言うように、中性なものでもない。
それ自体が権力や暴力と結託し、「理性の他者」を排除する、
そのような構造を持っているものとして理性を捉える。
「知(サヴォワール)」が「力(ブヴォワール)」と結託
している、なんていい方がされる。
こういう言い方がされるようになったのはもちろん、
ヨーロッパ中心主義とか、ロゴス中心主義などが、
2度の世界大戦とかマルクス主義の失敗で挫折を見たことが
何より大きい。
そして、それ以前の素朴な理性信仰をもっていた哲学者に
その批判の厳しい目が向けられることになる(主にヘーゲル、
プラトンが批判にさらされている)。
しかし、理性に対するそのような問いもまた、理性によって
行われなければならない。ここに少々のジレンマがある。
結局、結論は理性によって導かれるのだから。
かくして、このポスト構造主義における理性への問いは、
理性自身による自己啓発のような形を取る、らしい。
また、無批判に科学的視点で社会構造を扱おうとした
構造主義が問題にしなかった、「その科学的分析を主張する
者自身の視点の拘束性=個別性」という問題にも、言及する。
(これははじめて言及された、と書かれているが、少なくとも
現象学では既に自明となっていることだと思うけれど)
この考え方は、パッと聞くだけでは、一体どのような
実を結ぶのか非常に想像しづらい。
表現も哲学者によってまちまちで、ドゥルーズ/ガタリは
「逃走」、リオタールは「漂流」と言っていたとか。
デリダは有名な「差延」がキーワードになるのかな。
全体的に「差異」という言葉が使われてるみたいですけども。
またこれらの思想は、単純な反権力思想に結びつきがちという
イメージもどうしてもある。けれども、社会批判の理論としては
卓越したものもあるようで、触れておく必要のある哲学では
あるだろうと思う。
ともあれ次から、フーコーから順番にみていきます。
とりあえず、ポスト構造主義は、単なる総称にすぎないので
なんらかの「主義」を名の通り示しているわけではなくて、
だからポスト構造主義がどうこう、とは言えないことは分かる
と思う。なので、今までカテゴリ分けできるものは名前の前に
「〜主義」とか「〜学」とつけてましたけど、いわゆる
ポスト構造主義の哲学者については、つけないことにします。
さて、それで、いわゆるポスト構造主義の哲学者における
「倫理の優位性の思想」とは何か、について順を追って解説します。
まず昭和堂では、フーコーが指摘した「歴史の断絶」を引いて
哲学史全体を敷衍する視点は持ちようがなく、ヘーゲルや
ハイデガーのような、哲学の始祖から自らの哲学に至るまでの
道を、大哲学の完成の途(みち)として捉えるようなことは
できようがないことを指摘していて、これもまたモダンと
ポストモダンの断絶を示しているとも取れるけども、まぁ
それはそれとして。
まずジルソンの哲学史観では、古代ギリシアは「善の優位性の
思想」、中世から「存在の優位性の思想」になったことは
すでに述べました。古代ギリシアでは、善は存在の「根拠」と
されて、理性を持って原理を追求することは、それそのものが
幸福とされた。ト・ヘンとかを考えると分かりやすいですね。
それ(存在)に合一することが幸福であり目的みたいに
なっていた。
なので「善の優位性の思想」。
中世からはそうではなくて、理性は倫理的には中性のものと
された。存在をめぐる思索に善悪はなくて、ただこの世の仕組み
とか、主観-客観の一致とか、普遍論争とか、科学技術の
ただただ「正確な解明」が理性の仕事であり、結果として
それが役に立ったこともあるし、色々な罪も生んだけど、
別にそれは理性そのものの咎ではないと思われていた。
これは「存在の優位性の思想」。
これに関しては、一度ニーチェに否定されはしたけども、結局
構造主義、ポスト構造主義にいたるまで継がれてきた哲学の
特徴とも、言えるかもしれない。
では、ポスト構造主義ではどうなのか?
ここでは、理性そのものの「罪」を問い、その更に下の
「倫理」を求める哲学なのだ、とされる。
理性は、古代の哲学者の言うように善なるものでもなければ、
中性〜現代の哲学者の言うように、中性なものでもない。
それ自体が権力や暴力と結託し、「理性の他者」を排除する、
そのような構造を持っているものとして理性を捉える。
「知(サヴォワール)」が「力(ブヴォワール)」と結託
している、なんていい方がされる。
こういう言い方がされるようになったのはもちろん、
ヨーロッパ中心主義とか、ロゴス中心主義などが、
2度の世界大戦とかマルクス主義の失敗で挫折を見たことが
何より大きい。
そして、それ以前の素朴な理性信仰をもっていた哲学者に
その批判の厳しい目が向けられることになる(主にヘーゲル、
プラトンが批判にさらされている)。
しかし、理性に対するそのような問いもまた、理性によって
行われなければならない。ここに少々のジレンマがある。
結局、結論は理性によって導かれるのだから。
かくして、このポスト構造主義における理性への問いは、
理性自身による自己啓発のような形を取る、らしい。
また、無批判に科学的視点で社会構造を扱おうとした
構造主義が問題にしなかった、「その科学的分析を主張する
者自身の視点の拘束性=個別性」という問題にも、言及する。
(これははじめて言及された、と書かれているが、少なくとも
現象学では既に自明となっていることだと思うけれど)
この考え方は、パッと聞くだけでは、一体どのような
実を結ぶのか非常に想像しづらい。
表現も哲学者によってまちまちで、ドゥルーズ/ガタリは
「逃走」、リオタールは「漂流」と言っていたとか。
デリダは有名な「差延」がキーワードになるのかな。
全体的に「差異」という言葉が使われてるみたいですけども。
またこれらの思想は、単純な反権力思想に結びつきがちという
イメージもどうしてもある。けれども、社会批判の理論としては
卓越したものもあるようで、触れておく必要のある哲学では
あるだろうと思う。
ともあれ次から、フーコーから順番にみていきます。
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