≪現代思想(5)−構造主義・アルチュセールについて−≫
2004年8月28日ルイ・アルチュセール(1906〜1995)。マルクス主義の
人です。
マルクス主義っていうと、フランスの現代思想にとって
乗り越えなければならないいわば論敵。それと構造主義が
重なったというところで、少し注目に値するらしい。
マルクス主義を、人間の実存とか決断という側面からでは
なくて、科学的な認識論として捉えようとする考えかたを
強く持っていたので、構造主義と呼ばれることが多かった
そうだ。
アルチュセールで出てくるキーワードはひとつ。
「認識論的に切断」する、というもの。
アルチュセールは当時の社会主義のヒューマニズム的傾向を
批判しつつ、初期のマルクスの理論をも批判。初期のマルクスは
「疎外」とか「物神化」を解消して、全体的な人間性を
回復することを目指していたけども、この人間主義的な
初期マルクスの思想を「認識論的に切断」して、資本論の
時期のマルクスの思想を分析すべきだと主張したらしい。
しかし、なんやら、難しいですね。「全体的な人間性」と
言われてもあまり分からないし。
この「認識論的に切断」というのは、フランスの科学認識論
(科学哲学のようなものかな?)のバシュラールって人から
継いだ理論らしくて、これはどういう意味かというと、
ある思想をその全体の体系において理解するには、その思想の
歴史的発展をある時点で「切断」して考察して、その時点で
ひとつの完成を見たとして扱うほうが都合がいい、というもの
らしい。
実際、やってみると結構画期的な方法なのかも。でもこうして
聞くだけだと、どういうことか分かりにくいですな。
でも、「はい、とりあえずここまでで切って、ここまでで
分かること全てをとりあえず体系化しよう」という風に考える
と理解すると、それなりに理解はできる。俺理解じゃダメか。
これはフランスの構造主義の源泉の1つであるとか。
さらにアルチュセールは、認識論において、主体としての
人間が、客体としての対象を認識するという伝統的な
考え方を批判した。なぜなら人間は社会的な網の目の中で
生きる存在であって、伝統的な認識論では、社会の中を
生きる人間を考察できないと考えたのである。
だから、イデオロギーほかの社会的要因の網の目、
そのような構造の中でこそ人間も理解することができる。
なるほどマルクス主義的だな、となんとなく思う。
次、バタイユを扱おうと思ったんだけど…どっちの哲学史にも
言及がないんですな。「現代思想の冒険者たち」でまた
詳しく扱おうとおもいます。
さてこれで構造主義は終わりですが、構造主義にはひとつ
弱点があるんです。というのは、この「構造」というのは
視点の取り方によって、いかようにも想定しうるものでは
ないか、ということ。実際、色々な取り方があって、
そのバリエーションは尽きることがないのではないかとも
思える。ひとつの捉え方にすぎないのではないか。
昭和堂では「寒天に網の目をかけて形どるようなもの」
という表現をしているが、網の目の形なんて、それこそ
自由にいくらでも作ることができる。
だから、人間を捉える方法原理としては、弱いものを
持っていることは否めない。いくらでも恣意的に構造を
取り出すことすら可能だから。
このあたりで、ポスト構造主義からの批判も受けつつ、
現代思想も移ろっていくわけです。
人です。
マルクス主義っていうと、フランスの現代思想にとって
乗り越えなければならないいわば論敵。それと構造主義が
重なったというところで、少し注目に値するらしい。
マルクス主義を、人間の実存とか決断という側面からでは
なくて、科学的な認識論として捉えようとする考えかたを
強く持っていたので、構造主義と呼ばれることが多かった
そうだ。
アルチュセールで出てくるキーワードはひとつ。
「認識論的に切断」する、というもの。
アルチュセールは当時の社会主義のヒューマニズム的傾向を
批判しつつ、初期のマルクスの理論をも批判。初期のマルクスは
「疎外」とか「物神化」を解消して、全体的な人間性を
回復することを目指していたけども、この人間主義的な
初期マルクスの思想を「認識論的に切断」して、資本論の
時期のマルクスの思想を分析すべきだと主張したらしい。
しかし、なんやら、難しいですね。「全体的な人間性」と
言われてもあまり分からないし。
この「認識論的に切断」というのは、フランスの科学認識論
(科学哲学のようなものかな?)のバシュラールって人から
継いだ理論らしくて、これはどういう意味かというと、
ある思想をその全体の体系において理解するには、その思想の
歴史的発展をある時点で「切断」して考察して、その時点で
ひとつの完成を見たとして扱うほうが都合がいい、というもの
らしい。
実際、やってみると結構画期的な方法なのかも。でもこうして
聞くだけだと、どういうことか分かりにくいですな。
でも、「はい、とりあえずここまでで切って、ここまでで
分かること全てをとりあえず体系化しよう」という風に考える
と理解すると、それなりに理解はできる。俺理解じゃダメか。
これはフランスの構造主義の源泉の1つであるとか。
さらにアルチュセールは、認識論において、主体としての
人間が、客体としての対象を認識するという伝統的な
考え方を批判した。なぜなら人間は社会的な網の目の中で
生きる存在であって、伝統的な認識論では、社会の中を
生きる人間を考察できないと考えたのである。
だから、イデオロギーほかの社会的要因の網の目、
そのような構造の中でこそ人間も理解することができる。
なるほどマルクス主義的だな、となんとなく思う。
次、バタイユを扱おうと思ったんだけど…どっちの哲学史にも
言及がないんですな。「現代思想の冒険者たち」でまた
詳しく扱おうとおもいます。
さてこれで構造主義は終わりですが、構造主義にはひとつ
弱点があるんです。というのは、この「構造」というのは
視点の取り方によって、いかようにも想定しうるものでは
ないか、ということ。実際、色々な取り方があって、
そのバリエーションは尽きることがないのではないかとも
思える。ひとつの捉え方にすぎないのではないか。
昭和堂では「寒天に網の目をかけて形どるようなもの」
という表現をしているが、網の目の形なんて、それこそ
自由にいくらでも作ることができる。
だから、人間を捉える方法原理としては、弱いものを
持っていることは否めない。いくらでも恣意的に構造を
取り出すことすら可能だから。
このあたりで、ポスト構造主義からの批判も受けつつ、
現代思想も移ろっていくわけです。
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