≪現代思想(1)−現代思想のイントロダクション−≫
2004年8月25日はじめての哲学史では、構造主義、ポスト構造主義は「現代思想」
という区分になってます。
どうもぐぐっても出てこないのでよく分かりませんが、
「現代哲学」と「現代思想」って違うんだそうです。
この解説に少し行を割こうと思います。
というのも、現象学とか実存主義に代表される、人間の理性中心の
いわゆる本家「哲学」というのは、とある学派からすると
否定の対象みたいなんですね。
それで…いや、浅学者ゆえ深くは分からないですが、「哲学」
とは一線を画すという意味で、「現代思想」なのかな、と。
プラトンから続いた、人間の理性によって絶対真理へたどり着ける
といった、ロゴス中心主義(デリダの言葉らしい)の考え方。
これと決別するという意味で、分けているのかもしれない。
もちろん、はじめての哲学史は、現象学派に属する見解を
もっているので、そうは取りません(現象学は、真理を求める
哲学ではないという解釈を取る)。
昭和堂のほうは、おそらくではあるけど、ポスト構造主義に
次の哲学の芽を見ている。
昭和堂で紹介されているジルソンの哲学史によれば、
古代ギリシアから中世あたりまでは哲学は「善の優位性の思想」
だった。イデアやヌースに代表される、最上位である善が
目的に据えられた世界。中世〜近世〜現代になると、今度は
「存在の優位性の思想」になってくる。ヘーゲルもマルクスも
ハイデガーもそう。人間という存在の探求の哲学、存在を第一に
置いた哲学。
善の優位性から存在の優位性に移り変わったのは、これは
キリスト教の「万物の創世」が関係してると、昭和堂では
述べている。世界に生まれたのはまず「存在」である。
これが近代科学の、動的な性格を招いた、とも。
しかしポスト構造主義になると、今度は「倫理の優位性の思想」
に、取って代わるのだそうだ。これはまたポスト構造主義の
ところで詳しく。
ともあれ、ベーコンは「知は力なり」と人間の理性の力を
称賛したが、「現代思想」にとって、それまでの哲学が頼みと
していた「理性」は敵である。それは時に権力と結びつき、
人の共同体を野蛮に走らせるからだ。
それはファシズムの暴走と、マルクス主義の悲惨、資本主義の
過去の野蛮や今あらわれている矛盾、理性信仰、科学信仰から
来る環境破壊、等々の問題の表面化で明らかになった。
この人間の理性の暴力をどう回避していくか、そのあたりに
人間の倫理と理性の可能性を見出すのがこれからの哲学の
課題らしいが…ちょっと蛇足が過ぎましたね。
要するに、こんな理由から「現代哲学」ではなくて「現代
思想」なのだと思います。
ちなみにプラグマティズムは「現代哲学」に分類されてるん
ですが、はじめての哲学史にも昭和堂にもほとんど記述がない
ので、そのうち別口で調べようと思います。
まぁ古代も中世も近代も、また数字に連番を重ねて追加する
可能性はありますけども。
時間があれば東洋思想も手を出したいんですな。宗教も神話も…
欲張りすぎか。
それでは、レヴィ=ストロースから構造主義にはいって、
ポスト構造主義を扱って、哲学史を終わりましょう。
という区分になってます。
どうもぐぐっても出てこないのでよく分かりませんが、
「現代哲学」と「現代思想」って違うんだそうです。
この解説に少し行を割こうと思います。
というのも、現象学とか実存主義に代表される、人間の理性中心の
いわゆる本家「哲学」というのは、とある学派からすると
否定の対象みたいなんですね。
それで…いや、浅学者ゆえ深くは分からないですが、「哲学」
とは一線を画すという意味で、「現代思想」なのかな、と。
プラトンから続いた、人間の理性によって絶対真理へたどり着ける
といった、ロゴス中心主義(デリダの言葉らしい)の考え方。
これと決別するという意味で、分けているのかもしれない。
もちろん、はじめての哲学史は、現象学派に属する見解を
もっているので、そうは取りません(現象学は、真理を求める
哲学ではないという解釈を取る)。
昭和堂のほうは、おそらくではあるけど、ポスト構造主義に
次の哲学の芽を見ている。
昭和堂で紹介されているジルソンの哲学史によれば、
古代ギリシアから中世あたりまでは哲学は「善の優位性の思想」
だった。イデアやヌースに代表される、最上位である善が
目的に据えられた世界。中世〜近世〜現代になると、今度は
「存在の優位性の思想」になってくる。ヘーゲルもマルクスも
ハイデガーもそう。人間という存在の探求の哲学、存在を第一に
置いた哲学。
善の優位性から存在の優位性に移り変わったのは、これは
キリスト教の「万物の創世」が関係してると、昭和堂では
述べている。世界に生まれたのはまず「存在」である。
これが近代科学の、動的な性格を招いた、とも。
しかしポスト構造主義になると、今度は「倫理の優位性の思想」
に、取って代わるのだそうだ。これはまたポスト構造主義の
ところで詳しく。
ともあれ、ベーコンは「知は力なり」と人間の理性の力を
称賛したが、「現代思想」にとって、それまでの哲学が頼みと
していた「理性」は敵である。それは時に権力と結びつき、
人の共同体を野蛮に走らせるからだ。
それはファシズムの暴走と、マルクス主義の悲惨、資本主義の
過去の野蛮や今あらわれている矛盾、理性信仰、科学信仰から
来る環境破壊、等々の問題の表面化で明らかになった。
この人間の理性の暴力をどう回避していくか、そのあたりに
人間の倫理と理性の可能性を見出すのがこれからの哲学の
課題らしいが…ちょっと蛇足が過ぎましたね。
要するに、こんな理由から「現代哲学」ではなくて「現代
思想」なのだと思います。
ちなみにプラグマティズムは「現代哲学」に分類されてるん
ですが、はじめての哲学史にも昭和堂にもほとんど記述がない
ので、そのうち別口で調べようと思います。
まぁ古代も中世も近代も、また数字に連番を重ねて追加する
可能性はありますけども。
時間があれば東洋思想も手を出したいんですな。宗教も神話も…
欲張りすぎか。
それでは、レヴィ=ストロースから構造主義にはいって、
ポスト構造主義を扱って、哲学史を終わりましょう。
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