≪現代哲学(13)−言語学・ソシュールについて<その2>−≫
2004年8月24日<その1からつづき>
つぎ、2のラング-パロールについて紹介します。
「ラング」は何か?これは、単語の意味、文法、その用法とか
ルールといった、言語の規則を意味する。
「パロール」とは何か。これは、それに従って行われる具体的な
発話行為を指している。つまり、私たちはすでに体系として
存在しているラングに従って、パロールを行っているわけである。
これだけ聞くと、なんか数学的なイメージがある。ラングって
いう厳格なルールがあって、パロールはそれに従うだけという
イメージが…あるんだけど、これも例によって、そう単純に
理解できるものでもない。
確かに、人間はラングを習う。ラングを基にしないと、
パロールが行えないからだ。しかし、パロールはいつでも
完全にラングに従っているか?と問われれば、これはノーだ。
スラングもそうだし、ギャグ、駄洒落もそう。ラングに
規定がないようなことも、パロールは人間の「欲望(エロス)」
や「気分(情状性)」に従って、どんどん増やしていくことが
ある。
そもそも、基あったラングからはみ出したりしないならば、
シニフィエとシニフィアンの流動的な関係は考えられない。
対象が存在しなくなるとかいうことはあるかもしれないが、
「あわれ」などの言語の用法が以前と変わったりしないはずだ。
パロールはラングに従うが、パロールは常にラングを超え出て
ラングを書き換えるようなはたらきも持つ。ラングは、我々が
普段考えるような厳格なルールではなくて、もっと緩やかな、
恣意的で流動的なものなのだ。
これがラング-パロールの考え方である。
こういう構造は、さきの通時(ディアクロニー)-共時(シン
クロニー)、シンタグム(統辞)-パラディグム(範列)の
関係でも同じことが言える。
ソシュールの功績は、実はここまで。この先の、ではその
恣意的な言語の記号と意味のかかわりがどのような仕組みを
持っているか、という考察は、おそらく後期ヴィトまで待たねば
ならない。ソシュールの言語学は、単純に分析していくことが
できない言語の不思議さ、「言語の謎」を残して、後の研究者に
多大な影響を与えていった。
まとめると、ソシュールがここで明らかにしたのは、こういう
ことだ。
我々は普段、言葉が客観世界をそのまま写し取る鏡だと
思っている。しかし、事実は逆ではないか。人間は、
言語によって目の前の世界に秩序を与えている一面が
ある。ラングはその時代の人間ほとんどに共通かもしれない。
しかしパロールは人によって様々な面があったりする。
シニフィアン-シニフィエの結びつきも、人によって
実は違った面があることが考えられる。なぜなら
その結びつきは恣意的としか考えられないからだ。
ならば、誰にとっても同じ絶対的な「客観」などが存在する、
認識できる、言い表せると思うことがまず間違いではないか。
この本質的なところで、フッサールの現象学、後期ヴィトの
論理学、ソシュールの言語学は繋がっている、とはじめての
哲学史では喝破している。
ちなみにこの3人、ほとんど影響関係がなかったそうです。
この3人が同じような本質に行き当たったことは興味深い。
でも、この3人に同じ本質を見るのも、はじめての哲学史
オリジナルといえばそうなんでしょうね。
次は構造主義にいきます。
つぎ、2のラング-パロールについて紹介します。
「ラング」は何か?これは、単語の意味、文法、その用法とか
ルールといった、言語の規則を意味する。
「パロール」とは何か。これは、それに従って行われる具体的な
発話行為を指している。つまり、私たちはすでに体系として
存在しているラングに従って、パロールを行っているわけである。
これだけ聞くと、なんか数学的なイメージがある。ラングって
いう厳格なルールがあって、パロールはそれに従うだけという
イメージが…あるんだけど、これも例によって、そう単純に
理解できるものでもない。
確かに、人間はラングを習う。ラングを基にしないと、
パロールが行えないからだ。しかし、パロールはいつでも
完全にラングに従っているか?と問われれば、これはノーだ。
スラングもそうだし、ギャグ、駄洒落もそう。ラングに
規定がないようなことも、パロールは人間の「欲望(エロス)」
や「気分(情状性)」に従って、どんどん増やしていくことが
ある。
そもそも、基あったラングからはみ出したりしないならば、
シニフィエとシニフィアンの流動的な関係は考えられない。
対象が存在しなくなるとかいうことはあるかもしれないが、
「あわれ」などの言語の用法が以前と変わったりしないはずだ。
パロールはラングに従うが、パロールは常にラングを超え出て
ラングを書き換えるようなはたらきも持つ。ラングは、我々が
普段考えるような厳格なルールではなくて、もっと緩やかな、
恣意的で流動的なものなのだ。
これがラング-パロールの考え方である。
こういう構造は、さきの通時(ディアクロニー)-共時(シン
クロニー)、シンタグム(統辞)-パラディグム(範列)の
関係でも同じことが言える。
ソシュールの功績は、実はここまで。この先の、ではその
恣意的な言語の記号と意味のかかわりがどのような仕組みを
持っているか、という考察は、おそらく後期ヴィトまで待たねば
ならない。ソシュールの言語学は、単純に分析していくことが
できない言語の不思議さ、「言語の謎」を残して、後の研究者に
多大な影響を与えていった。
まとめると、ソシュールがここで明らかにしたのは、こういう
ことだ。
我々は普段、言葉が客観世界をそのまま写し取る鏡だと
思っている。しかし、事実は逆ではないか。人間は、
言語によって目の前の世界に秩序を与えている一面が
ある。ラングはその時代の人間ほとんどに共通かもしれない。
しかしパロールは人によって様々な面があったりする。
シニフィアン-シニフィエの結びつきも、人によって
実は違った面があることが考えられる。なぜなら
その結びつきは恣意的としか考えられないからだ。
ならば、誰にとっても同じ絶対的な「客観」などが存在する、
認識できる、言い表せると思うことがまず間違いではないか。
この本質的なところで、フッサールの現象学、後期ヴィトの
論理学、ソシュールの言語学は繋がっている、とはじめての
哲学史では喝破している。
ちなみにこの3人、ほとんど影響関係がなかったそうです。
この3人が同じような本質に行き当たったことは興味深い。
でも、この3人に同じ本質を見るのも、はじめての哲学史
オリジナルといえばそうなんでしょうね。
次は構造主義にいきます。
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