≪現代哲学(13)−言語学・ソシュールについて<その1>−≫
2004年8月24日スイス人の言語学者、フェルディナン・ド・ソシュール
(1857〜1913)。
言語学って論理学とどう違うの。という疑問がまず湧く。
これは、よくは分かりません…
言語学は、言語の構造とか形式を探る学問。
論理学は、正しい思考の形式とか法則を探る学問。
思考は言語以外でしないから、結局、同じことを扱うことに
なりそう。ただ言語学っていうと、色んな言語の特徴とか
を照らし合わせたりしそうですな。論理学でも役立ちそう
だけど。論理学は言語学よりもう少し数学ぽいですね。
極めようと思うと、両方やらなきゃいけなくなると思うけど。
年代としては、ヴィトが1900年近いので、ソシュールのが先
です。言語を、いわば物事に貼り付けられたラベルのように
扱うことを、最初に疑った人。
従来の常識的な言語観(名称目録観)を、はじめて疑った
人です。
素朴に考えると、一見、言語とは、事物に貼られた名前の
ラベルに過ぎないと思える。俺も実際、そんな感じに
感じられる。しかし、そうやって考え詰めていくと、
結局、表現行為を含む、生き物のような不思議な言語の
性質をまったく説明できない。
考え詰めれば考え詰めるほど、数学的な捉え方とかが
出来ないことに気づく。
それで結局、後期ヴィトは、個々のルールによってしか
意味・用法が確定できないという結論に至った。
ソシュールはどうか、というと、これもまた独創的な
仕方で、これを分析したという。それは、言語をいくつかの
側面において二項に分ける、という方法。
これを整理すると、以下の4つに分けられる。
1.シニフィアン(記号表現)−シニフィエ(記号内容)
2.ラング(言語規則)−パロール(個々の発語)
3.通時(ディアクロニー)−共時(シンクロニー)
4.シンタグム(統辞)−パラディグム(範列)
はじめての哲学史では、1と2のみを取り上げている。
なんでも、3と4も基本的に同じアイデアだからだそうだ。
まず1から。
シニフィアン-シニフィエは、ソシュール言語学では最も
重要な概念。言語記号(シーニュ)は、記号表現(シニフィアン
=文字や音の像のこと)と、記号内容(シニフィエ=意味や
概念のこと)という2つの側面をもつということ。
例えば、「りんご」という言葉(シーニュ)は、「り」と
「ん」と「ご」から成る「りんご」という「音の像の契機
(シニフィアン)」と、「丸くて赤い果物としてのりんご」
という「意味の契機(シニフィエ)」を持っている。
シニフィアンと、シニフィエの意味はそれで分かった。
で、この2つは対応する記号ではないの?と思う。
しかしソシュールによると、このシニフィアンとシニフィエの
結びつきは、恣意的(その時々の思いつきで変わる)なものだ。
平安時代の言葉と、今の日本語の用法を比べてみればよい。
「おかし」にしろ「あわれ」にしろ、随分意味が変わっている。
このように、シニフィアンとシニフィエの結びつきは、
時代によってころころ変わる。
またこういう例もある。
かつてよく使われていた「山犬」という言葉が、今では
ほとんど使われなくなってしまっている。こういう場合、
この言葉がかつて表示していた概念は、現在では「狼」
とか「山犬」などの言葉に「包括」されて、その結果、
「狼」とか「野犬」という現在の言葉は、それ以前より
広い概念を含む、ということが起こりうる。
つまりどういうことか。言語が表示している記号と、
その意味は、恣意的にころころ変わりうるものだ、
ということだ。これがシニフィアン-シニフィエの意味。
その2にいきます。
(1857〜1913)。
言語学って論理学とどう違うの。という疑問がまず湧く。
これは、よくは分かりません…
言語学は、言語の構造とか形式を探る学問。
論理学は、正しい思考の形式とか法則を探る学問。
思考は言語以外でしないから、結局、同じことを扱うことに
なりそう。ただ言語学っていうと、色んな言語の特徴とか
を照らし合わせたりしそうですな。論理学でも役立ちそう
だけど。論理学は言語学よりもう少し数学ぽいですね。
極めようと思うと、両方やらなきゃいけなくなると思うけど。
年代としては、ヴィトが1900年近いので、ソシュールのが先
です。言語を、いわば物事に貼り付けられたラベルのように
扱うことを、最初に疑った人。
従来の常識的な言語観(名称目録観)を、はじめて疑った
人です。
素朴に考えると、一見、言語とは、事物に貼られた名前の
ラベルに過ぎないと思える。俺も実際、そんな感じに
感じられる。しかし、そうやって考え詰めていくと、
結局、表現行為を含む、生き物のような不思議な言語の
性質をまったく説明できない。
考え詰めれば考え詰めるほど、数学的な捉え方とかが
出来ないことに気づく。
それで結局、後期ヴィトは、個々のルールによってしか
意味・用法が確定できないという結論に至った。
ソシュールはどうか、というと、これもまた独創的な
仕方で、これを分析したという。それは、言語をいくつかの
側面において二項に分ける、という方法。
これを整理すると、以下の4つに分けられる。
1.シニフィアン(記号表現)−シニフィエ(記号内容)
2.ラング(言語規則)−パロール(個々の発語)
3.通時(ディアクロニー)−共時(シンクロニー)
4.シンタグム(統辞)−パラディグム(範列)
はじめての哲学史では、1と2のみを取り上げている。
なんでも、3と4も基本的に同じアイデアだからだそうだ。
まず1から。
シニフィアン-シニフィエは、ソシュール言語学では最も
重要な概念。言語記号(シーニュ)は、記号表現(シニフィアン
=文字や音の像のこと)と、記号内容(シニフィエ=意味や
概念のこと)という2つの側面をもつということ。
例えば、「りんご」という言葉(シーニュ)は、「り」と
「ん」と「ご」から成る「りんご」という「音の像の契機
(シニフィアン)」と、「丸くて赤い果物としてのりんご」
という「意味の契機(シニフィエ)」を持っている。
シニフィアンと、シニフィエの意味はそれで分かった。
で、この2つは対応する記号ではないの?と思う。
しかしソシュールによると、このシニフィアンとシニフィエの
結びつきは、恣意的(その時々の思いつきで変わる)なものだ。
平安時代の言葉と、今の日本語の用法を比べてみればよい。
「おかし」にしろ「あわれ」にしろ、随分意味が変わっている。
このように、シニフィアンとシニフィエの結びつきは、
時代によってころころ変わる。
またこういう例もある。
かつてよく使われていた「山犬」という言葉が、今では
ほとんど使われなくなってしまっている。こういう場合、
この言葉がかつて表示していた概念は、現在では「狼」
とか「山犬」などの言葉に「包括」されて、その結果、
「狼」とか「野犬」という現在の言葉は、それ以前より
広い概念を含む、ということが起こりうる。
つまりどういうことか。言語が表示している記号と、
その意味は、恣意的にころころ変わりうるものだ、
ということだ。これがシニフィアン-シニフィエの意味。
その2にいきます。
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