≪現代哲学(12)−論理実証主義のその後<その5>−≫
2004年8月24日<その4からつづき>
しかし、後期ヴィトの指摘を覆すような論理は見受けられない
気もするけども…どうなんでしょう。
それはまぁ、とりあえず前提として、それでも確実に言える
のはなんだろう、ってことかな。
次はクーン。
クーンの主張は、論理実証主義とは少し一線を画すらしい。
というか、根本的に対立するのだとか。
科学哲学に対して、科学革命論とかいいます。
革命って、なんかすごいね。
クーンのキーワードは「パラダイム」。
考え方としては、少しフーコーの思想と似たところがある。
論理実証主義の科学哲学の目的が、普遍的で、歴史を
通じて理解できる「科学の論理」を明らかにすることだった
のに対して、クーンは科学の歴史性を強調して、各時代の
科学が、その時代に特有のパラダイム(クーンでは、科学
研究を一定期間導く,規範となる業績を意味する)によって
規定され、あるパラダイムに他のパラダイムが取って代わる
ことには、累積的発展ではなくて、革命的断絶があると
主張した。
すべての時代の科学を貫く「科学の論理」は存在しない。
何が科学的言明の正当化の基準か、何が説明を要する事象で
あり何がそうでないか、等はパラダイムに相対的にしか
生まれないのである。
これもまた、科学哲学にとってはそれなりの打撃だった
らしい。
次、発話行為論という理論で、オースチンて人。
この人は言語哲学において、論理実証主義とは全く異なる
分析を展開した「日常言語学派」の代表らしい。
フレーゲ以降の言語哲学の中心問題が、言語表現の意味
とは何か、あるいは、文の有意味性の条件は何か、という
ことであったのに対して、オースチンは、言語活動を一種の
行為(発話行為)と見なして、言語表現の意味と、その
言語表現の行為自体が持つ力との関係を分析した。
たとえば、「私は約束する」と発言することは、それ自体が
ひとつの行為になっている。これは事実を記述している
のではなくて、行為を遂行していることだとされる。
このような現象に着目したオースチンは、言語を用いた
行為が、次の3つの側面を持つことを明らかにした。
まず、言語を単なる音声としてではなく、言語として
発言する、という側面を「発語行為」。
次に、言語を発言することにおいて成されている行為
(約束する、とか、謝る、とか)を「発語内行為」。
また、ある発言を成すことの結果として聞き手の状態が
何らかの仕方で変化する。発語行為をこの側面から見る
とき、それを「発語媒介行為」という。
オースチンは分析の中心を発語内行為において、
発語内の力を明示的にあらわす表現を列挙して分類し、
それらの表現と社会的約束・規約の関係を考察して、
またそれらの分析の結果もたらされる哲学的問題(特に
真偽への執着とか事実-価値の二分法への批判)を
論じた。
これはいまだ言語哲学のひとつの中心として展開発展
している…とは言うけど、実際どうなんでしょうね。
かなり頭に残りにくい、、、脇役というか、、、
そんなこと言っちゃいけませんか。。。。
現象学や後期ヴィトと、科学哲学の論理実証主義とか
科学革命論の関係を考えてみたいものです。
だいーぶ先になるだろうけど。。
ようやく論理実証主義が終わって、次はソシュール。
しかし、後期ヴィトの指摘を覆すような論理は見受けられない
気もするけども…どうなんでしょう。
それはまぁ、とりあえず前提として、それでも確実に言える
のはなんだろう、ってことかな。
次はクーン。
クーンの主張は、論理実証主義とは少し一線を画すらしい。
というか、根本的に対立するのだとか。
科学哲学に対して、科学革命論とかいいます。
革命って、なんかすごいね。
クーンのキーワードは「パラダイム」。
考え方としては、少しフーコーの思想と似たところがある。
論理実証主義の科学哲学の目的が、普遍的で、歴史を
通じて理解できる「科学の論理」を明らかにすることだった
のに対して、クーンは科学の歴史性を強調して、各時代の
科学が、その時代に特有のパラダイム(クーンでは、科学
研究を一定期間導く,規範となる業績を意味する)によって
規定され、あるパラダイムに他のパラダイムが取って代わる
ことには、累積的発展ではなくて、革命的断絶があると
主張した。
すべての時代の科学を貫く「科学の論理」は存在しない。
何が科学的言明の正当化の基準か、何が説明を要する事象で
あり何がそうでないか、等はパラダイムに相対的にしか
生まれないのである。
これもまた、科学哲学にとってはそれなりの打撃だった
らしい。
次、発話行為論という理論で、オースチンて人。
この人は言語哲学において、論理実証主義とは全く異なる
分析を展開した「日常言語学派」の代表らしい。
フレーゲ以降の言語哲学の中心問題が、言語表現の意味
とは何か、あるいは、文の有意味性の条件は何か、という
ことであったのに対して、オースチンは、言語活動を一種の
行為(発話行為)と見なして、言語表現の意味と、その
言語表現の行為自体が持つ力との関係を分析した。
たとえば、「私は約束する」と発言することは、それ自体が
ひとつの行為になっている。これは事実を記述している
のではなくて、行為を遂行していることだとされる。
このような現象に着目したオースチンは、言語を用いた
行為が、次の3つの側面を持つことを明らかにした。
まず、言語を単なる音声としてではなく、言語として
発言する、という側面を「発語行為」。
次に、言語を発言することにおいて成されている行為
(約束する、とか、謝る、とか)を「発語内行為」。
また、ある発言を成すことの結果として聞き手の状態が
何らかの仕方で変化する。発語行為をこの側面から見る
とき、それを「発語媒介行為」という。
オースチンは分析の中心を発語内行為において、
発語内の力を明示的にあらわす表現を列挙して分類し、
それらの表現と社会的約束・規約の関係を考察して、
またそれらの分析の結果もたらされる哲学的問題(特に
真偽への執着とか事実-価値の二分法への批判)を
論じた。
これはいまだ言語哲学のひとつの中心として展開発展
している…とは言うけど、実際どうなんでしょうね。
かなり頭に残りにくい、、、脇役というか、、、
そんなこと言っちゃいけませんか。。。。
現象学や後期ヴィトと、科学哲学の論理実証主義とか
科学革命論の関係を考えてみたいものです。
だいーぶ先になるだろうけど。。
ようやく論理実証主義が終わって、次はソシュール。
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