<その2からつづき>

アレ、いずれ扱う、といったけども次は科学哲学です。

今まではウィーン学団のノイラート、シュリック、
カルナップに加えて、ケンブリッジのエイヤー、あと
クワインについて扱いました。

ここではライヘンバッハ、ポパー、グッドマン、ヘンペル、
グリュンバウム、クーン、オースチンの7人を順番に
扱おうと思います。さわりだけって人もいますが。
最後のオースチンは、言語哲学みたいですけどね。
ソシュールとは考え方は違うのだろうか。

しかし、後期ヴィトやクワインの指摘で明らかになった
論理実証主義の根本的な誤り、それを踏まえて今日の
科学哲学は成立できているんだろうか?

それでもめげずに、科学を論理によって保証しようとした
んだろうか。

確かに、科学は今もって非常に有用なツールだ。
数多くの物理法則を用いて作られた技術は船、飛行機、
発電所、自動車、スペースシャトル、色々なもので
使われている。見出した物理法則は、極微の誤差は
あるかもしれないが、ほぼ問題なく運用可能だ。
物理法則がおそらく客観世界の法則を写し取っている、
という確信は俺にもある。

相対性理論で説明できない事象は、この宇宙の中では
ほとんど起きていないのだろう。よく知らないけど。。。

それらが正しいと仮定すれば、論理もそれを保証しなければ
ならない。そういう感覚も、俺には分かるような気もする。

また、物理学はこの世の一切を説明しているのだから、
伝統的哲学なんて無用、物理学からのアプローチで
哲学的問題は正しく解決できる、と考えるのも無理は
ない。ニーチェやフッサールは、そういう考えをこそ
否定していたわけでもあるが。

とりあえず順番に見ていきましょう。

ライヘンバッハから。

現代に極めて大きな成果(よくも悪くも)をもたらした
科学技術。その科学の論理について、それでは一体、
いかなる経験的証拠が、理論を支えうるかという理論の
確証の問題、ある事象を科学的に説明するとはどういう
ことであり、どういう条件を満たすとき、その事象は
科学的に説明されたと言えるのか、という科学的説明に
関する問題がある。

特にアインシュタインの相対性理論の出現に刺激されて、
時間空間の本性に関する哲学的分析がライヘンバッハに
よって行われたという。

それで、物理理論の構築において、「規約(人々が協議して
決めた規則)」の役割を重視する「規約主義(コンベン
ショナリズム。あらゆる原理原則を、人間が便宜的に規約と
して定めた人為的なものと見るもの。真理の客観性とか
絶対性を否定する立場。ポアンカレが主張した)」と
よばれる立場が提唱された。

それで、この規約主義から見て、科学の確証性はどうなるか。

これに関しては、カルナップとライヘンバッハが一緒に
「帰納論理学」というのを考え出した。簡単に説明する
と、経験がある法則を示す「度合い」とか「確率」ごとに
数値で分ける、みたいな感じ。
(帰納っていうのは、事象の集まりから、それに共通する
一般的な法則を取り出すこと)

ぶよぶよで黒くなったりんごを食べたらお腹をこわした。
10回食べてみたけど、9回お腹をこわした。
なら、9割の度合いで、ぶよぶよで黒くなったりんごは
お腹をこわすと判断できる。

こんな感じでしょうか…頭悪いたとえですけども。

しかし、その帰納的確率をいかに解釈するかに関して、
これまた頻度説、論理説、主観説等さまざまな見解の
相違があってまとまらない。まぁそうなる気がする。

でも統計的な確率で、科学法則の蓋然性(確からしさ)を
確かめるというのは、割といけてる気もしますね。

これに関して、次はポパーから新たな見解が。

ポパーは、科学における帰納的方法の使用を否定した。

科学の論理としては、経験の集合から演繹(論理的に結論を
導き出す)できる法則のみを用いる演繹主義の立場から、
「反証主義」と呼ばれる立場を提唱。
単なる演繹は帰納ではないんだろうか。

この立場によると、科学理論は経験的証拠によって
帰納的に支えられることはできない。ただその理論から
演繹される観察命題が、いまだ経験によって反証されていない
ことによって、経験的裏づけを得るのみだ。

確かにそうかもしれない。まったく新しい実験結果とか
物質とかが発見されたら、物理学は大きく揺らぐ。
それがないから、今のところ正しいとされてるに過ぎない。

ってそんな単純な話でもないのかな。

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