<その1からつづき>

ならば、こう考えたらどうか。

「原理的」に経験可能か否かの問題だ、と。

神がどうのなんて、原理的に経験不可能。

しかし科学的実験なら、原理的に可能だ。これでどうだ。

細かく書くと、こう。

「ある有限数の、原理的に可能な個別的経験からの
演繹可能性」によって、経験的普遍命題の有意味性が
確保できる。

しかしこれが、昭和堂の解説によれば(といっても、
分析哲学的にはもう過ぎた話らしいので、定説なんで
しょうけども)ここにも問題が生ずる。

命題論理の法則(さきの分析のことだろうか?)によって
ある文から「SまたはN」という文が導かれる。

したがって、原理的に経験可能な事柄に関する文(観察文
と呼ばれる)の集合からSが演繹されるなら、同時に、Sと
任意の形而上学の文Nを組み合わせた「SまたはN」も演繹
され(具体例があると分かりやすいんですが、ないです…)
てしまい、この場合、Nも同時に有意味になってしまう、
のだという。

だから、結局この論理を使うと、科学的命題と形而上学的命題を
振り分けることはできない。

うーん、どういうことでしょうね。
具体例がないと俺にはよく理解できませんが、実際にこれは
まずかったらしく、エイヤーって人がまた新たな妥協策を
提示したそうな。

しかしこれが、上とどう変わったかはよく分からない。

昭和堂から引用すれば、

<ある分析的でない文Sが有意味であるのは、それと他の
観察文O1、O2、……、Onの連言「SかつO1かつ……かつOn」
から、それらの観察文のみからは導かれない少なくとも
ひとつの観察文Oが導かれる場合である>

つまり、いっぱい実験して観察して、それらからなんか
法則が導ければ、それは有意味、ということみたいですな。

しかしこれでも無理。

なぜなら、「SかつO1かつ……かつOn」に形而上学の文Nを
加えて「SかつNかつO1かつ……かつOn」としても、観察文
Oが導けるから、だそうだ。

だから、結局これらの方法では、科学的命題の特権性を
保証するには至らなかったようだ。

 
さらにクワインという人が、分析的文と非分析的文の
区分け自体に循環(トートロジーで説明しちゃってる部分が
ある、ということ?)があり、そのような区別がそもそも
成り立たないことを指摘して、がらがらと崩れてしまった。

 
このことはまた、文の意味に関して、決まりごとで分けられる
ところと、経験によって定まる部分が、分けられないことを
意味する、らしい。

そもそも、個々の文の経験的意味を、「固定したもの」として
切り離すことが原理的に不可能なのである。それは確かに
そうかもしれない。ヴィトが直観していた問題と同じ
ですね。言語ゲームのルールによって、文はいろいろな意味を
もつ。

だから、経験的テストの集合によって文の意味を確定しようと
する論理実証主義の企ては、そもそも不可能
なのだ。

ヴィトを見てからだと当然といえば当然だけど、しかし
科学的知識は確実に形而上学と区別できそうにも思えたので
驚きの事実。

ではクワインはなんて言ってたの?といえば、彼はヴィトと
同じようなこと言ってて、真偽が経験によってテストされる
のは、個々の文ではなくて、文の集合がある構造をもって
体系づけられた、理論の全体であるとした。

論理的真理のような、経験によって訂正不能なものも、
理論全体を経験とつきあわせていくと、修正されることも
ありうる、という。

こうしてとりあえず、ヴィトと似た流れで論理実証主義は
受け継がれていく。

しかし前期ヴィトの後の話なのか、後期ヴィトの後の話
なのかわかりませんね。後期ヴィトの後なら、なぜもう一度
破綻したことを蒸し返してるのか分からないから、多分
前期ヴィトの後なんだろうなあ。

その3へ。

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