<その6からつづき>

3.あらゆる判断は一群の信念にもとづく

晩年のヴィトは、学問の論証における判断が、何を根拠にして
行われているかを考えた(これもまた、言語ゲームの一環である)。
そこで下した結論が、これまた、現象学とよく似ている。

真偽を可能にする言語ゲームには、一群の「疑い得ないもの」
があり、それが真偽の判断を可能にしている、とヴィトは言う。

たびたび使うが数学の公理もそうだし、例えば、この世界は
かくかくのプロセスで存在するようになった、とか、色々ある。
人間の能力を進化論的に説明して見せる人がけっこういるが、
これは大昔からの地球の存在を前提しているし、生物の進化も
疑っていない。

これらは実際には要素命題にならないし複合命題でもない、
蓋然的にしか正しいとは言えない命題だが、かえって、他の命題の
真偽を判定する根拠としてはたらく。そのような一群のものが
われわれの「世界像」を形づくっている。

ヴィトいわく、
<私の世界像は、私がその正しさを納得したから私のものに
なったわけではない。
(中略)これは伝統として受けついだ
背景であり、私が真と偽とを区別するのもこれに拠っての
ことなのだ>


驚くほど、現象学の見解と一致するところがある。

ただはじめての哲学史によれば、ヴィトは慣習のみに言語ゲームの
成立根拠を求めたが、これでは少し潔癖すぎる。
<言語ゲームはどこにもその必然性をもたず慣習によってのみ
支えられる>と彼が言うとき、言語ゲームは本当に慣習にだけ
動かされる自動機械のようなものになってしまう。

人間のもつ「力への意志」、「志向性」がそこへ加わることで
人間の「実存」にとっての言語ゲームは、もっと深い洞察へ
至るのではないか。そこに巨大な可能性があるのではないかと、
この書では問うている。

ヴィトはこれでおわり、論理実証主義についてもう少し扱ってから
次はソシュール、構造主義、ポスト構造主義にいきたいと思います。

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