≪現代哲学(11)−論理実証主義・ヴィトゲンシュタインについて<その6>−≫
2004年8月21日<その5からつづき>
ヴィトの思索はチェスの比喩にとどまらず、より具体的な、
様々な言語使用の場面に着目する。材料を渡して建物を作る
というゲーム、売り買いをするゲーム、子どもに物の名前を
教えるゲーム…<言語ゲーム>はこうして、私たちが振舞う
制度性一般を指す言葉へと拡張されていった。
ヴィトいわく
<私はまた、言語とそれを織り込まれる行為の全体をも
「言語ゲーム」と呼ぶであろう>。
新たに拡張されたこの「言語ゲーム」を、はじめての哲学史
から、3つの特徴に分けて紹介したい。
1.言語は行為としてある
言語を<言語ゲーム>として捉えることは、言語の本質を
人間の活動ないし行為として捉えるということ。
なぜなら。言語ゲームとして捉える限り、どんな言葉も、
あるゲームの中で取り決められたルールにのっとって、
自分が他人やほかの事物とかかわりあうその時に発せられる
ものだから。
そういった「状況」「文脈」なしに言語が語れないことは
今までの考察からも明らかと思う。
「言語」は、単純に状況や事物を「写し取る」ものではない。
言語ゲームのルールにのっとって、もっと言うならば、
その場の必要性とか有用性に多くを拠って発せられるもの、
である。
これはフッサールの「志向性」、ニーチェの「力への意志」に
よる世界解釈と、深く通じるものがある。
2.ルールよりもゲームが先行する/ルールに絶対の
根拠はない
さきに言語ゲームとチェスが比喩で用いられたが、同時に
ヴィトは、チェスと言語ゲームの違いもはっきり述べている。
チェスではあらかじめそのルールが決められているが、
言語ゲームはそうではない、ということだ。
言語においては、文法(ソシュールでいう「ラング」)よりも
実際にあれこれと語り合う行為(ソシュールでいう「パロール」)
のほうが先行している。
人間の言語の身につけ方を振り返ってみれば、我々は
その全体像がつかめないまま言語ゲームに加わっていき、
自然とそれを身につける。
あとからそれをある程度自覚的に取り出すことは可能だが、
そのすべてを明瞭に意識化し記述することはできない。
また、この言語ゲームが固有のルールをもつことは、
どこかにその絶対の根拠があるわけではない、ということも
重要だ。
思えば、チェスのルールだって、そのルールでなければならない
必然的な理由などない。言語も学問も考えてみれば同じである。
ならば必然的ではないにしろ、それを支えている根拠とは
何か…?
一切の文化的な営み(言語・学問・法律・その他の
制度)にはそれを外から支える根拠があるわけではなく、
言語ゲームはどれも、日常的なふるまい・慣習を最終的な
根拠として自らを支えている、とヴィトは考えた。
みっつめはその7へ。
ヴィトの思索はチェスの比喩にとどまらず、より具体的な、
様々な言語使用の場面に着目する。材料を渡して建物を作る
というゲーム、売り買いをするゲーム、子どもに物の名前を
教えるゲーム…<言語ゲーム>はこうして、私たちが振舞う
制度性一般を指す言葉へと拡張されていった。
ヴィトいわく
<私はまた、言語とそれを織り込まれる行為の全体をも
「言語ゲーム」と呼ぶであろう>。
新たに拡張されたこの「言語ゲーム」を、はじめての哲学史
から、3つの特徴に分けて紹介したい。
1.言語は行為としてある
言語を<言語ゲーム>として捉えることは、言語の本質を
人間の活動ないし行為として捉えるということ。
なぜなら。言語ゲームとして捉える限り、どんな言葉も、
あるゲームの中で取り決められたルールにのっとって、
自分が他人やほかの事物とかかわりあうその時に発せられる
ものだから。
そういった「状況」「文脈」なしに言語が語れないことは
今までの考察からも明らかと思う。
「言語」は、単純に状況や事物を「写し取る」ものではない。
言語ゲームのルールにのっとって、もっと言うならば、
その場の必要性とか有用性に多くを拠って発せられるもの、
である。
これはフッサールの「志向性」、ニーチェの「力への意志」に
よる世界解釈と、深く通じるものがある。
2.ルールよりもゲームが先行する/ルールに絶対の
根拠はない
さきに言語ゲームとチェスが比喩で用いられたが、同時に
ヴィトは、チェスと言語ゲームの違いもはっきり述べている。
チェスではあらかじめそのルールが決められているが、
言語ゲームはそうではない、ということだ。
言語においては、文法(ソシュールでいう「ラング」)よりも
実際にあれこれと語り合う行為(ソシュールでいう「パロール」)
のほうが先行している。
人間の言語の身につけ方を振り返ってみれば、我々は
その全体像がつかめないまま言語ゲームに加わっていき、
自然とそれを身につける。
あとからそれをある程度自覚的に取り出すことは可能だが、
そのすべてを明瞭に意識化し記述することはできない。
また、この言語ゲームが固有のルールをもつことは、
どこかにその絶対の根拠があるわけではない、ということも
重要だ。
思えば、チェスのルールだって、そのルールでなければならない
必然的な理由などない。言語も学問も考えてみれば同じである。
ならば必然的ではないにしろ、それを支えている根拠とは
何か…?
一切の文化的な営み(言語・学問・法律・その他の
制度)にはそれを外から支える根拠があるわけではなく、
言語ゲームはどれも、日常的なふるまい・慣習を最終的な
根拠として自らを支えている、とヴィトは考えた。
みっつめはその7へ。
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