≪現代哲学(11)−論理実証主義・ヴィトゲンシュタインについて<その5>−≫
2004年8月21日<その4からつづき>
つぎ、後期ヴィトへいきます。
「論理哲学論考」で一応すっきりして哲学から離れたヴィトだが、
シュリックとかカルナップというウィーンの科学者たちが
この書を聖典にように扱い、そこから「論理実証主義」を
作り上げた。彼らにとっては科学的知識が大切で、この書が
科学的知識と擬似科学的知識をより分ける基準を鮮やかに示した
書物であると受け止められたわけだ。
これはヴィトの意図するところとは大分違っていたけども
確かにこの書の論理から帰結するところではあった、らしい。
単純にその事態に違和感をおぼえたこともあっただろうけども、
きっとこうなったことには誤りがあると考えて、ヴィトは、
もう一度哲学活動を再開する。
前期の言語観では、客観がまず存在して、言語がそれを写し取る
と考えられた。しかし哲学活動を再開したヴィトは、これが実に
素朴な前提であることに気づく。
「この花は赤い」という要素命題がある。しかしこれは、単純に
「この花が赤い」ということを示さない。
「この花が赤い」、と言うと同時に、「この花は白や黄色、黒、
青…etc…の色ではない」ということを含意するのだ。
つまりどういうことか?
言葉というのは、「客観を写し取る」のではない。
赤とか白、黄色といった「色」を示す「言語の体系」から、「赤」
をいわば切り取って目の前の花の色に当てはめる、のである。
つまり、言語と無関係に目の前の事象がある、のではなくて、
実はそれらは、言語体系によって輪郭づけられているのである!
ちょっと飲み込みづらい事実だが、確かにそうとも考えられる。
もともとは数学的に捉えられると思われていた論理学が、
このような帰結を見たのは驚きだ。
そしてこれは外的な対象だけではなく、内的な感情や感覚に
関しても言える。ハイデガーの「言葉の家」を彷彿とさせる。
ヴィトの思索が深まるにつれて、言語が外的な対象や内的な感情と
どのように一致するか、ではなくて、言語という自律した体系の
中で、語や文がどのように扱われるか、を考える方向に向かって
いった。
それと共に、言語は「事実の像」ではなくて、チェスの比喩に
よってイメージされるようになってくる。
<「黄色」という語の意味がわかるということは、様々な
規則からなるチェスというゲームにおいて王という駒の動かし方を
知っているのと似ている>。
言語もチェスと同様、さまざまな規則の束(文法)から成っている。
語の意味とは文法のなかでその語が占める位置であり、語の意味を
知るとは語の使用規則(用法)を知ることである、とされる。
これはソシュールの言語観にも通じるものであったそうだ。
その6から、もう少し詳しくこのルールについて説明します。
つぎ、後期ヴィトへいきます。
「論理哲学論考」で一応すっきりして哲学から離れたヴィトだが、
シュリックとかカルナップというウィーンの科学者たちが
この書を聖典にように扱い、そこから「論理実証主義」を
作り上げた。彼らにとっては科学的知識が大切で、この書が
科学的知識と擬似科学的知識をより分ける基準を鮮やかに示した
書物であると受け止められたわけだ。
これはヴィトの意図するところとは大分違っていたけども
確かにこの書の論理から帰結するところではあった、らしい。
単純にその事態に違和感をおぼえたこともあっただろうけども、
きっとこうなったことには誤りがあると考えて、ヴィトは、
もう一度哲学活動を再開する。
前期の言語観では、客観がまず存在して、言語がそれを写し取る
と考えられた。しかし哲学活動を再開したヴィトは、これが実に
素朴な前提であることに気づく。
「この花は赤い」という要素命題がある。しかしこれは、単純に
「この花が赤い」ということを示さない。
「この花が赤い」、と言うと同時に、「この花は白や黄色、黒、
青…etc…の色ではない」ということを含意するのだ。
つまりどういうことか?
言葉というのは、「客観を写し取る」のではない。
赤とか白、黄色といった「色」を示す「言語の体系」から、「赤」
をいわば切り取って目の前の花の色に当てはめる、のである。
つまり、言語と無関係に目の前の事象がある、のではなくて、
実はそれらは、言語体系によって輪郭づけられているのである!
ちょっと飲み込みづらい事実だが、確かにそうとも考えられる。
もともとは数学的に捉えられると思われていた論理学が、
このような帰結を見たのは驚きだ。
そしてこれは外的な対象だけではなく、内的な感情や感覚に
関しても言える。ハイデガーの「言葉の家」を彷彿とさせる。
ヴィトの思索が深まるにつれて、言語が外的な対象や内的な感情と
どのように一致するか、ではなくて、言語という自律した体系の
中で、語や文がどのように扱われるか、を考える方向に向かって
いった。
それと共に、言語は「事実の像」ではなくて、チェスの比喩に
よってイメージされるようになってくる。
<「黄色」という語の意味がわかるということは、様々な
規則からなるチェスというゲームにおいて王という駒の動かし方を
知っているのと似ている>。
言語もチェスと同様、さまざまな規則の束(文法)から成っている。
語の意味とは文法のなかでその語が占める位置であり、語の意味を
知るとは語の使用規則(用法)を知ることである、とされる。
これはソシュールの言語観にも通じるものであったそうだ。
その6から、もう少し詳しくこのルールについて説明します。
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