<その3からつづき>

ここからは「はじめての哲学史」より。

前期-後期にわたって、重要なポイントをいくつか。

ヴィトが生涯にわたって考えていたのは、「世の中がどうなって
いるか、人生の意味とか、善悪について考えることは、実は
不可能ではないか」ということ。

「人生の意味」とか「善悪とは」というのは、誰もが気になる
問いだ。これについて語ることは可能なのだろうか。

同時に、「世の中に有意味に語れるものは、どこまで
なのだろう」と考えただろう。

そこでヴィトはこう考えた。

<思考が言語によって営まれる以上、言語の本質を明確に
することによってこの課題は果たしうる>
と。

言語に着目することで、謝った知識や無意味な問いを取り除こうと
する「治療的態度」、これがヴィトの生涯を貫く基本的な態度だった。

それでは、「論理哲学論考」では、どのような命題が有意味だと
されたか。

これは、昭和堂の説明ではかなり難しかったが、簡潔に言えば

「目の前のものを見て、「それはかくかくの性質を持っている」と
見たまま判断できる命題」。

例えば、「あの花は赤い」、とか。世界にあるものをじかに扱い
見れば誰だってわかる確実な命題。

このような、実際に見て確かめられる、最も簡単で確実な命題を
「要素命題」と呼んだそうだ。めちゃくちゃ分かりやすいね。

要素命題は、有意味な命題のいわば「原子」。

複数の要素命題を、「かつ(∧)」「または(∨)」「ならば(⊃)」
といった論理的操作によって組み合わせると、「複合命題」が
出来る。

たとえば、「あの花は赤く」かつ「この花は白い」とか。

では、どんな命題が有意味かは答えが出たと思う。

「実際に見て確かめられる事実に関する命題か、それを組み
合わせて出来る命題」


有意味に語れるのは、これだけ、なのだ。

それでは、人生の意味とか善悪は?これはナンセンスな命題に
なる。

じゃあ、「世界は数学的法則に支配されている」という命題は?

これも、仮定にすぎない。見て確かめることなど誰にも出来ない
のだから(目で見える事実から導き出した法則が有用である
ことは疑い得ないが)。ただの信念だ、ということだ。

しかし、これらについて語ってはいけないということはないし、
むしろこのことの中にこそ、人間にとって大事なことがある。
しかしながら、語っても有意味にならない。これがひとまずの
結論で、これで、世界の意味を語る哲学などはすべて破壊されて
しまった。それらはすべて無意味な命題なのだ。

しかし生の哲学や実存主義はまだ生きている。何より、
現象学は「目に見えるもの」だけを問題にするのだから。

その5へ。

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