<その2からつづき>

では、後期ヴィトにいきます。

キーワードは「言語ゲーム」ですね。これも割と有名な言葉?

後期の主著は「哲学探求」で、これはさきの「論理哲学論考」への
批判も含む。ではどのように批判したのか?

 
前期ヴィトに限らず、フレーゲもラッセルも、言語へのアプローチ
において、命題、つまり平叙文(断定や推量など、物事をありの
ままに述べるのに用いられる文)を分析の中心において、その
有意味性の一般的条件を探るという仕方で探求が進められたが、
しかし我々の言語活動には、平叙文以外にも命令文とか感動文、
疑問文などの表現があるし、平叙文にしても、異なった文脈では
異なった意味が表されうる。

例えば(これは疑問文だけれど)、「What’s the difference?」
という英文。これは、「違いは何だ?」という意味と、
「何の違いもない」というふたつの意味があって、これをポンと
提示されただけだとこの意味は「決定不可能」とされる。
これは記述理論でも無理と思う。完全に、文脈によって意味が
左右される文章だ。

だから、命題の一般形式を求めるというような前期にとられた
アプローチは、その根本に誤りを含む。言語表現の意味は、
個々の文脈においてそれがいかに使用されているか、という
点から探求されなければならない。

よって、このテーゼが提出される。
「言語表現の意味とは、その使用である」。

これが正しいなら、「意味をある原則によって体系的に説明
していこうとする」フレーゲやラッセルの企てに代わり、
「意味をその文脈から求めていく」という仕方で注意深く
点検記述していくことによって明らかにされねばならない。

そうすることで、さきの文章のような、表面上の類似性から
生ずるさまざまな概念的混乱(言語のもつれ)を正しくほどく
ことができる、という。

さてでは、それはどのような方法で行えばいいのだろうか?

ここで考え出された概念が「言語ゲーム」である。

ヴィトによれば、言語現象は、複数の参加者がある一定の
ルールにしたがってとり行う一種のゲームである。

このとき大事なのは、すべてのゲームを特徴づける一般的
性質などは存在しない、ということ。

普通のゲームを思い浮かべればよい。サッカー、野球、
チェス、花札など色々なゲームがあるけども、一対で
比べれば似ている部分もあるが、全てに共通する部分となると
「この世で行われている」とか当たり前のことしか出てこない。

言語ゲームについても同じで、参加者によって色々なルールが
あって、その各ルールの間には「家族的類似性」しか存在
しない。

ここで俺独自の説明を加えれば。
これは、実際に自分に当てはめて考えてみればいい。

友達と交わす、スラング含む意味不明な会話。これを論理学の
原則で説明できると考えるほうがおかしいと思わないだろうか?

一見しただけでは、何のことを言っているのか分からない単語。
あだ名に一般名詞が使われていたりしたら(カッパとか
柴犬とか)、また、その場の特徴だけで名前を呼ばれたりしたら?
(博士だとかプレーリードッグだとか)確かに会話では意味が
通じる。通じるのだけど、語句の意味の集合なんて見地から
考え出したら、全然説明がつかなくなりそうではないか?

「おい、そこのケミカルウォッシュ!」と呼ばれたとしても
状況によっては自分のことだと判断できる(ケミカルウォッシュを
自分しかはいてない場合とかね)。ではこの「ケミカル
ウォッシュ」は自分のことをさす一般的意味を持つのか?
分析すれば「自分」を指す語が出てくるか?否だと思う。

やはり「文脈」から考えねばならないし、状況だって必要。

昭和堂ではこれ以上踏み込んで説明はしていないが、文脈から
考える、という分かりやすい概念「言語ゲーム」の考え方を
使って、ヴィトは色々な考察を行ったという。

それでは、はじめての哲学史からもう少し踏み込んだ解説を。

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