<その2からつづき>

・記述理論と見知りの原理

まず「記述理論」から。

確定記述を用いると、偽である有意味な命題が作られるたびに
どこかでその記述に対応した存在が作り上げられてしまう。

こんな逆説的なことは認められない。しかし確定記述は
確かにある(theがつく記述?)。

ならば、確定記述をなんとか別の形に変えられないだろうか。

これが記述理論の基本アイデアで、論理分析の方法の模範と
言われているとか。

確定記述を用いた命題は、それ(確定記述)を含まない命題
へと、置き換えることができる。

たとえば、どういうことか。

「現在の総理大臣は、スキヤキが好き」という場合。

これは記述理論によれば、

「あるxについて、(1)xは現在の総理大臣である、
かつ(2)すべてのyについて、yが現在の総理大臣ならば、
y=x、かつxはスキヤキが好きである」

と分析される。なんか、頭がくらくらしてくる。

この理論のポイントは、(2)においては「現在の総理大臣」
が、theがつく確定記述ではなくなっているところだという。
ただの述語(判断・命題において、主語について何事かを
述べる語)になってしまっている。

(1)では、「現在の総理大臣」という述語を満たす対象が
少なくともひとつ存在することを表し、

(2)ではそのような対象が多くともひとつしかないことを
表し、

両方あわせて、「現在の総理大臣」の一意存在を表している、
という。

簡単に言うと、この方法は、一見主語になっているかに見える
確定記述の語句を、述語に置き換えることによって、その語の
実体化を防ぐ、という感じかもしれない。

さきの「宵の明星=宵の明星」のアポリアも、記述理論によって
それぞれの命題を分析した結果が別のものになって、その
認識価値の違いが示される。

 
次に、「見知りの原則」。

さらにラッセルは、ある命題の意味が理解されるためには、
論理的品詞のような(つまり、助詞とか助動詞とか?)を
除けば、その命題に現れるすべての語の指示対象を見知って
いなければならないという原則を立てた。これが「見知りの原則」。

そうだろうか?見知ってもいないものに対して色々と言及も
できなくもない気がする。少なくとも、概念上だけならば。
(それも、どこかで見ていなければありえないだろうか)

しかしラッセルによれば、日常的な対象の名前である固有名は、
それのほとんどが実際には変装した記述であると考えられた。

真の固有名は、それの指すものの存在に関する認識論的疑いが
決しておこらないもの、でなければならない。

例えば「これ」とか「私」とか、だという。

 
うーん、消化不良。
実際よくわからない、詳しくやる機会があればまた…

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