≪現代哲学(10)−論理実証主義・ラッセルについて<その3>−≫
2004年8月20日<その2からつづき>
・記述理論と見知りの原理
まず「記述理論」から。
確定記述を用いると、偽である有意味な命題が作られるたびに
どこかでその記述に対応した存在が作り上げられてしまう。
こんな逆説的なことは認められない。しかし確定記述は
確かにある(theがつく記述?)。
ならば、確定記述をなんとか別の形に変えられないだろうか。
これが記述理論の基本アイデアで、論理分析の方法の模範と
言われているとか。
確定記述を用いた命題は、それ(確定記述)を含まない命題
へと、置き換えることができる。
たとえば、どういうことか。
「現在の総理大臣は、スキヤキが好き」という場合。
これは記述理論によれば、
「あるxについて、(1)xは現在の総理大臣である、
かつ(2)すべてのyについて、yが現在の総理大臣ならば、
y=x、かつxはスキヤキが好きである」
と分析される。なんか、頭がくらくらしてくる。
この理論のポイントは、(2)においては「現在の総理大臣」
が、theがつく確定記述ではなくなっているところだという。
ただの述語(判断・命題において、主語について何事かを
述べる語)になってしまっている。
(1)では、「現在の総理大臣」という述語を満たす対象が
少なくともひとつ存在することを表し、
(2)ではそのような対象が多くともひとつしかないことを
表し、
両方あわせて、「現在の総理大臣」の一意存在を表している、
という。
簡単に言うと、この方法は、一見主語になっているかに見える
確定記述の語句を、述語に置き換えることによって、その語の
実体化を防ぐ、という感じかもしれない。
さきの「宵の明星=宵の明星」のアポリアも、記述理論によって
それぞれの命題を分析した結果が別のものになって、その
認識価値の違いが示される。
次に、「見知りの原則」。
さらにラッセルは、ある命題の意味が理解されるためには、
論理的品詞のような(つまり、助詞とか助動詞とか?)を
除けば、その命題に現れるすべての語の指示対象を見知って
いなければならないという原則を立てた。これが「見知りの原則」。
そうだろうか?見知ってもいないものに対して色々と言及も
できなくもない気がする。少なくとも、概念上だけならば。
(それも、どこかで見ていなければありえないだろうか)
しかしラッセルによれば、日常的な対象の名前である固有名は、
それのほとんどが実際には変装した記述であると考えられた。
真の固有名は、それの指すものの存在に関する認識論的疑いが
決しておこらないもの、でなければならない。
例えば「これ」とか「私」とか、だという。
うーん、消化不良。
実際よくわからない、詳しくやる機会があればまた…
・記述理論と見知りの原理
まず「記述理論」から。
確定記述を用いると、偽である有意味な命題が作られるたびに
どこかでその記述に対応した存在が作り上げられてしまう。
こんな逆説的なことは認められない。しかし確定記述は
確かにある(theがつく記述?)。
ならば、確定記述をなんとか別の形に変えられないだろうか。
これが記述理論の基本アイデアで、論理分析の方法の模範と
言われているとか。
確定記述を用いた命題は、それ(確定記述)を含まない命題
へと、置き換えることができる。
たとえば、どういうことか。
「現在の総理大臣は、スキヤキが好き」という場合。
これは記述理論によれば、
「あるxについて、(1)xは現在の総理大臣である、
かつ(2)すべてのyについて、yが現在の総理大臣ならば、
y=x、かつxはスキヤキが好きである」
と分析される。なんか、頭がくらくらしてくる。
この理論のポイントは、(2)においては「現在の総理大臣」
が、theがつく確定記述ではなくなっているところだという。
ただの述語(判断・命題において、主語について何事かを
述べる語)になってしまっている。
(1)では、「現在の総理大臣」という述語を満たす対象が
少なくともひとつ存在することを表し、
(2)ではそのような対象が多くともひとつしかないことを
表し、
両方あわせて、「現在の総理大臣」の一意存在を表している、
という。
簡単に言うと、この方法は、一見主語になっているかに見える
確定記述の語句を、述語に置き換えることによって、その語の
実体化を防ぐ、という感じかもしれない。
さきの「宵の明星=宵の明星」のアポリアも、記述理論によって
それぞれの命題を分析した結果が別のものになって、その
認識価値の違いが示される。
次に、「見知りの原則」。
さらにラッセルは、ある命題の意味が理解されるためには、
論理的品詞のような(つまり、助詞とか助動詞とか?)を
除けば、その命題に現れるすべての語の指示対象を見知って
いなければならないという原則を立てた。これが「見知りの原則」。
そうだろうか?見知ってもいないものに対して色々と言及も
できなくもない気がする。少なくとも、概念上だけならば。
(それも、どこかで見ていなければありえないだろうか)
しかしラッセルによれば、日常的な対象の名前である固有名は、
それのほとんどが実際には変装した記述であると考えられた。
真の固有名は、それの指すものの存在に関する認識論的疑いが
決しておこらないもの、でなければならない。
例えば「これ」とか「私」とか、だという。
うーん、消化不良。
実際よくわからない、詳しくやる機会があればまた…
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