<その1からつづき>

なぜラッセルが、文章の意味とか真偽を、語句に分割することで
求めようとしたか。フレーゲの影響があったかどうかは
分からないが、多分「実在(実際に存在するもの)」としての
「真偽」なんて存在を認めたくなかったからだろうと思う。

フレーゲによれば、命題の真偽はその実在としての真偽を指す
「名前」なのであるから、真偽という思想的存在がどこかに
なければならない(多分)。

それを拒否するがゆえに、意味内容を全て文章と、それを
構成する語句に求めた、のだと思う。

 
さてここからが訳が分かりませんけども

この考え方をもってすると、「すべての、ある、その」等の
語句が一般名称の前についた、表示句と呼ばれる句「すべての人、
ある人、その人」を含む命題においては、命題の意味が語句の
意味を成分とする統一体とは、言えなくなるのだそうである。

たとえば、「私はある人に会った」という命題が意味するのは、
私が「人」という語の意味するある一般者に会った、という
ことではなく、「具体的なある個人」に会った、ということ
である。

「ある」がつくことで、一般名称から、具体的な物理的存在を
指す語へと変化する。これがいかにして可能なのか?

「すべて」に関しては一般名称の指す全てに会ったのだから
実際には検証不可能としても、文章としてはヘンではない
ように思える。

問題は「ある」と「その」なんだろうなあ。

「ある」に関しては、これはフレーゲと同じように、論理記号
とか、例の変数と関数を使う。

「あるxについては、私はxに会い、かつ、xは人であった」

このように変形することで、xという一般名称にあてはまる
ある個物に会ったことが、すんなり記述できるという。

「その」に関しては、これは難しいようだ。確定記述、と
言うらしいけども。英語なら「the」がつくやつですかね。
先の関数だけでは扱えず、もうひと工夫必要だとか。
なぜだか、理由は分かりません。

「ある」と「その」はどう違うのだろうね。「その」はもう少し
対象が固定されてる気がするね。前の文脈に出てこないと
使えない語だとも思うけれど。

この「確定記述」を使うと、これまでの理論では解けない
難問が、ふたつ出てくるのだという。

ひとつは、たとえば「黄金の山は存在しない」という文章。

(「その」は使われてないけど、まぁ確定記述ということでは
「黄金の山」は同じ語なんでしょう)

これは真偽が判定できる有意味な命題である。しかし、
この命題が有意味であるためには、その確定的記述は
なんらかの対象を指していなければならない。すると
この「黄金の山」で指される対象が、実際には存在しない
にもかかわらず存在していなければならないことに
なってしまうが、これは逆説的だ。

ふたつは、フレーゲで出た「宵の明星=宵の明星」の難問
(アポリア)。ラッセルは「意義」を認めないのであるから、
別の方法でこれを解かねばならない。

これを解決した(?)のが、次に出てくる「記述理論」だ。

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