≪現代哲学(9)−論理実証主義・フレーゲについて<その3>−≫
2004年8月19日<その2からつづき>
「意味と意義」。これが、聞いてみると確かにまぁ、
そうかもしれない、とは思う。でも、考えれば考えるほど、
答えなんて出るの?と不思議になる。
文中の名前(一郎とか、ポチ、現在の日本の首相)などの
「基本的役割」は、「何らかの対象を指す」ということで
ある。
またフレーゲは、文もまた一種の複合的な名前であると考える。
文の意味は、文中の言語表現の意味から合成されるから、
ある文にあらわれる名前を同一の意味(指示対象)を
持つ他の名前で置き換えても意味の変化は起こらないはず
である。
例えば、
「宵の明星は金星である」
という文は、「宵の明星」と同じ「明けの明星」を
代入して
「明けの明星は金星である」
と言い換えても、真であることを変えない。
そこで…これまたすんなり理解しにくいんだけど、
フレーゲは、文が、真または偽という対象(真理値と
呼ばれる)の、「名前」であると考えた。
文章は、真か偽のどっちか(の名前を指示している)
だよ。ということかもしれない。
しかし、ここで実は問題が起こる。
「宵の明星」と「明けの明星」は同じ対象を指すので
あるから、「宵の明星=明けの明星」は成り立つ。
また同時に「宵の明星=宵の明星」も成り立つ。
ここが問題で、前者は天文学上の偉大な発見であるのに
対して、後者は「すべてのものは、自分自身と等しい
(同一律)」という、自明な原則の事例にすぎないから
だ。
一瞬、そうかな、とも思うが、これは単なるニュアンスの
違いではなくて、認識価値が違うから、重大問題なのだ
という。
これを解決するのが、「ある対象を指示する名前」である
「意味」とは違った「意義」という考え方。
「明けの明星」は、「明け方の空に最も目立って明るく
光る星」という意味を持ちうる。
そしてまた、この「意味」と「意義」の関係も、文脈原理
と合成原理で関係付けることができるとした。
つまり、「意義」の文脈を合成すると「意味」になりうる、
ってことだろうか。よくわからない。
また、文のあらわす意義は「思想」と呼ばれる。
フレーゲにおいては、「思想」は、我々の考えの内にある
主観的なものではなく、物理的なものとも心理的なもの
とも違った客観的実在であるという。
文の意味は真理値。文の意義は真理値の与えられ方、
その文が真または偽になるための条件(真理条件)である
とされる。
うげ、難しい。何を言ってるのか。
これだと、「私は〜を信ずる」とかいう文章の真理値の
分析もできる(?)とかなんとか…
しかし問題点もあって、
1.真理値を「対象」と考え、文をその「名前」と考える
ことは妥当なことであるか(つまり文を複合的な名前と
考えて、それが「真」という対象をさす名前だと考える?
ことが妥当なのか)。
2.固有名に対して「意味」ばかりでなく「意義」をも
認め、「意味」が常に「意義」を介して定められている
という考えは受け入れることが出来るか。
3.物理的なものとも心理的なものとも区別された領域
である「思想」というプラトニックな世界を認め、文の
意義を、その真偽がいかにして確かめられるかという
検証条件ではなく真理条件に求めるというような、極端に
強い実在論的傾向が哲学的に認められるか。
という点が挙げられるという。
これらはいまだに分析哲学上で議論が交わされているらしく
相当、難しくなりそうだ。
しかし、確かに「宵の明星」と「明けの明星」は同じものを
指すのに、持っている意味…いや意義が違う。
これをどう表すのか、なんて、考えてもそう簡単に答えが
出そうにないと思いませんか。数学とかみたいに明証的には
いかないような気がする。ラッセルやヴィトはどう考えたん
でしょうね。
「意味と意義」。これが、聞いてみると確かにまぁ、
そうかもしれない、とは思う。でも、考えれば考えるほど、
答えなんて出るの?と不思議になる。
文中の名前(一郎とか、ポチ、現在の日本の首相)などの
「基本的役割」は、「何らかの対象を指す」ということで
ある。
またフレーゲは、文もまた一種の複合的な名前であると考える。
文の意味は、文中の言語表現の意味から合成されるから、
ある文にあらわれる名前を同一の意味(指示対象)を
持つ他の名前で置き換えても意味の変化は起こらないはず
である。
例えば、
「宵の明星は金星である」
という文は、「宵の明星」と同じ「明けの明星」を
代入して
「明けの明星は金星である」
と言い換えても、真であることを変えない。
そこで…これまたすんなり理解しにくいんだけど、
フレーゲは、文が、真または偽という対象(真理値と
呼ばれる)の、「名前」であると考えた。
文章は、真か偽のどっちか(の名前を指示している)
だよ。ということかもしれない。
しかし、ここで実は問題が起こる。
「宵の明星」と「明けの明星」は同じ対象を指すので
あるから、「宵の明星=明けの明星」は成り立つ。
また同時に「宵の明星=宵の明星」も成り立つ。
ここが問題で、前者は天文学上の偉大な発見であるのに
対して、後者は「すべてのものは、自分自身と等しい
(同一律)」という、自明な原則の事例にすぎないから
だ。
一瞬、そうかな、とも思うが、これは単なるニュアンスの
違いではなくて、認識価値が違うから、重大問題なのだ
という。
これを解決するのが、「ある対象を指示する名前」である
「意味」とは違った「意義」という考え方。
「明けの明星」は、「明け方の空に最も目立って明るく
光る星」という意味を持ちうる。
そしてまた、この「意味」と「意義」の関係も、文脈原理
と合成原理で関係付けることができるとした。
つまり、「意義」の文脈を合成すると「意味」になりうる、
ってことだろうか。よくわからない。
また、文のあらわす意義は「思想」と呼ばれる。
フレーゲにおいては、「思想」は、我々の考えの内にある
主観的なものではなく、物理的なものとも心理的なもの
とも違った客観的実在であるという。
文の意味は真理値。文の意義は真理値の与えられ方、
その文が真または偽になるための条件(真理条件)である
とされる。
うげ、難しい。何を言ってるのか。
これだと、「私は〜を信ずる」とかいう文章の真理値の
分析もできる(?)とかなんとか…
しかし問題点もあって、
1.真理値を「対象」と考え、文をその「名前」と考える
ことは妥当なことであるか(つまり文を複合的な名前と
考えて、それが「真」という対象をさす名前だと考える?
ことが妥当なのか)。
2.固有名に対して「意味」ばかりでなく「意義」をも
認め、「意味」が常に「意義」を介して定められている
という考えは受け入れることが出来るか。
3.物理的なものとも心理的なものとも区別された領域
である「思想」というプラトニックな世界を認め、文の
意義を、その真偽がいかにして確かめられるかという
検証条件ではなく真理条件に求めるというような、極端に
強い実在論的傾向が哲学的に認められるか。
という点が挙げられるという。
これらはいまだに分析哲学上で議論が交わされているらしく
相当、難しくなりそうだ。
しかし、確かに「宵の明星」と「明けの明星」は同じものを
指すのに、持っている意味…いや意義が違う。
これをどう表すのか、なんて、考えてもそう簡単に答えが
出そうにないと思いませんか。数学とかみたいに明証的には
いかないような気がする。ラッセルやヴィトはどう考えたん
でしょうね。
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