≪現代哲学(9)−論理実証主義・フレーゲについて<その1>−≫
2004年8月19日では現象学を終わって、論理実証主義、論理学、というか
「分析哲学」の分野の祖らしいですが、ゴットローブ・
フレーゲ(1848〜1925)にいきます。
いちおうはじめての哲学史に倣って「論理実証主義」とは
したんですが、どうも「分析哲学」という言い方のほうが
有名みたいですね。で、「分析哲学」とは何か?
俺の理解の範囲内で言えば、これは「言語の分析によって
思考の構造を根本から分析し、ある哲学的命題がどれほど
論理的に確かなものか判明させる」、、くらいのもの。
例えばまぁ、ヘーゲルの「絶対精神」にしろ、フィヒテの
「自我」にしろ、ニーチェの「力への意志」にしろ、
それが論理的にどういう下支えを持っているのか、もし
持っていないのであれば、いくらそれらしく見える論理でも
それは根拠薄弱なものと言わざるを得ない。
思えば、人間は思考を全て言語で行う。その言語体系は
幼い頃に無意識的に吸収して覚えてしまうものだが、
思考が全てこれでおこわなれる以上、この「言語」の仕組み、
その限界などを詳しく分析すれば、今まで哲学が行って
きた論理的つきつめを、もっと根本からやり直すことが
できる。さらに、今まで無根拠なのに信じられてきていた
ような論理も、覆すことができる(たとえば形而上学的命題
とか)。
現象学もなかなか説得力があったけど、これも哲学への
アプローチ方法としては、かなりいい線いっている気がする。
しかし論理学って数学みたいで難しそう。実際、難しい。
ややこしい。と思った。
本格的にやるのは後回しにして、とりあえず分かりやすく
まとめようと思う。
分析哲学で一番有名なのは、ヴィトゲンシュタイン。
次にラッセル、フレーゲかもしれない。時代としては
フレーゲ→ラッセル→ヴィトゲンシュタインという流れ
かも。ただラッセル→ヴィトゲンシュタインのつながりに
比べて、フレーゲはそう緊密でもなさげ。よく知らないけど。
ちなみに論理学の祖の祖というか、おおもとはアリストテレス。
有名な三段論法などは、アリストテレスが体系づけた論理学で
言われてたもの。
最初はフレーゲです。
フレーゲは元々、数学の一分野である算術の議論や概念を、
厳密な論理的概念によって基礎付けようとした…小難しいけど
要するに、数学の研究してたんですな。
それで、そのためにまず論理そのものに関して、従来の
アリストテレス的三段論法の論理をはるかに超える、革新的な
論理学を自ら構築する必要があった、とか。
三段論法には限界が見えてたんでしょうね。
しかしこれを成し遂げたのであれば、たいしたものです。
ちなみにアリストテレスの三段論法はどういうものか、
有名なのは
AはBである、BはCである、ゆえにAはCである。
のようなものですね。
このとき、
Aは「大前提」、Bは「小前提」、Cは「結論」と呼ばれる。
実例を挙げれば、
大前提:すべての人間はいつか死ぬ。
小前提:のぶちんは人間である。
結論:ゆえに、のぶちんはいつか死ぬ。
大前提か小前提どちらかが誤っていると、正しい結論が
導かれない。大前提で「すべての人間は永遠に生きる」と
してしまうと、のぶちんは不死という結論が出る。
そして、この3つの命題は、かならず以下の4つの、
どれかの形を取る。
「すべてのSはPである」(全称肯定判断)
「すべてのSはPでない」(全称否定判断)
「あるSはPである」(特称肯定判断)
「あるSはPでない」(特称否定判断)
これらは全て主語名辞(めいじ)と述語名辞とを繋辞(けいじ。
「である」とか「でない」のこと)でつなぎ合わせたもの
であり、文の意味は、主語名辞で表される観念と、述語名辞で
表される観念との結合(肯定)または分離(否定)であると
理解されていた。
全部がこうだ、と言ってるのが「全称」の命題で、個別のもの
がこうだ、と言ってるのが「特称」ということですね。
しかし、ここからが難しいのだけど、
「AはBを愛する」とか、
「AはBにCを与える」とかの場合、三段論法を使うと、かなり
不自然な変形をせねばならない、のだという。
具体例は昭和堂にはない。はじめての哲学史では、ラッセルは
扱ってないし、フレーゲは記述が一切ないのでなんとも…
確かに三段論法に直そうとすると、ちょっと悩む。
「Aはある人を愛している人である」
「ある人はBである」
「ゆえに、AはBを愛している人である」
こんな感じ?でも、いちいち「ある人」を入れる理由もないか…
いや、三段論法を理解してないので、全然違うかもしれない。
二番目の文章は、全然どう直していいか分からない。
そしてまた、「誰でも誰かを愛する」とか、「誰でも誰かに何かを
与える」という文章は、三段論法を使った分析では、そのような
文の現れる論証の妥当性を調べることが、きわめて怪しくなる、
のだという…ちょっとどういうことか分かりませんが。。。
三段論法でなくても、妥当性を調べるなんて難しいような気がする。
その2から、フレーゲの論理学をみていきましょう。
「分析哲学」の分野の祖らしいですが、ゴットローブ・
フレーゲ(1848〜1925)にいきます。
いちおうはじめての哲学史に倣って「論理実証主義」とは
したんですが、どうも「分析哲学」という言い方のほうが
有名みたいですね。で、「分析哲学」とは何か?
俺の理解の範囲内で言えば、これは「言語の分析によって
思考の構造を根本から分析し、ある哲学的命題がどれほど
論理的に確かなものか判明させる」、、くらいのもの。
例えばまぁ、ヘーゲルの「絶対精神」にしろ、フィヒテの
「自我」にしろ、ニーチェの「力への意志」にしろ、
それが論理的にどういう下支えを持っているのか、もし
持っていないのであれば、いくらそれらしく見える論理でも
それは根拠薄弱なものと言わざるを得ない。
思えば、人間は思考を全て言語で行う。その言語体系は
幼い頃に無意識的に吸収して覚えてしまうものだが、
思考が全てこれでおこわなれる以上、この「言語」の仕組み、
その限界などを詳しく分析すれば、今まで哲学が行って
きた論理的つきつめを、もっと根本からやり直すことが
できる。さらに、今まで無根拠なのに信じられてきていた
ような論理も、覆すことができる(たとえば形而上学的命題
とか)。
現象学もなかなか説得力があったけど、これも哲学への
アプローチ方法としては、かなりいい線いっている気がする。
しかし論理学って数学みたいで難しそう。実際、難しい。
ややこしい。と思った。
本格的にやるのは後回しにして、とりあえず分かりやすく
まとめようと思う。
分析哲学で一番有名なのは、ヴィトゲンシュタイン。
次にラッセル、フレーゲかもしれない。時代としては
フレーゲ→ラッセル→ヴィトゲンシュタインという流れ
かも。ただラッセル→ヴィトゲンシュタインのつながりに
比べて、フレーゲはそう緊密でもなさげ。よく知らないけど。
ちなみに論理学の祖の祖というか、おおもとはアリストテレス。
有名な三段論法などは、アリストテレスが体系づけた論理学で
言われてたもの。
最初はフレーゲです。
フレーゲは元々、数学の一分野である算術の議論や概念を、
厳密な論理的概念によって基礎付けようとした…小難しいけど
要するに、数学の研究してたんですな。
それで、そのためにまず論理そのものに関して、従来の
アリストテレス的三段論法の論理をはるかに超える、革新的な
論理学を自ら構築する必要があった、とか。
三段論法には限界が見えてたんでしょうね。
しかしこれを成し遂げたのであれば、たいしたものです。
ちなみにアリストテレスの三段論法はどういうものか、
有名なのは
AはBである、BはCである、ゆえにAはCである。
のようなものですね。
このとき、
Aは「大前提」、Bは「小前提」、Cは「結論」と呼ばれる。
実例を挙げれば、
大前提:すべての人間はいつか死ぬ。
小前提:のぶちんは人間である。
結論:ゆえに、のぶちんはいつか死ぬ。
大前提か小前提どちらかが誤っていると、正しい結論が
導かれない。大前提で「すべての人間は永遠に生きる」と
してしまうと、のぶちんは不死という結論が出る。
そして、この3つの命題は、かならず以下の4つの、
どれかの形を取る。
「すべてのSはPである」(全称肯定判断)
「すべてのSはPでない」(全称否定判断)
「あるSはPである」(特称肯定判断)
「あるSはPでない」(特称否定判断)
これらは全て主語名辞(めいじ)と述語名辞とを繋辞(けいじ。
「である」とか「でない」のこと)でつなぎ合わせたもの
であり、文の意味は、主語名辞で表される観念と、述語名辞で
表される観念との結合(肯定)または分離(否定)であると
理解されていた。
全部がこうだ、と言ってるのが「全称」の命題で、個別のもの
がこうだ、と言ってるのが「特称」ということですね。
しかし、ここからが難しいのだけど、
「AはBを愛する」とか、
「AはBにCを与える」とかの場合、三段論法を使うと、かなり
不自然な変形をせねばならない、のだという。
具体例は昭和堂にはない。はじめての哲学史では、ラッセルは
扱ってないし、フレーゲは記述が一切ないのでなんとも…
確かに三段論法に直そうとすると、ちょっと悩む。
「Aはある人を愛している人である」
「ある人はBである」
「ゆえに、AはBを愛している人である」
こんな感じ?でも、いちいち「ある人」を入れる理由もないか…
いや、三段論法を理解してないので、全然違うかもしれない。
二番目の文章は、全然どう直していいか分からない。
そしてまた、「誰でも誰かを愛する」とか、「誰でも誰かに何かを
与える」という文章は、三段論法を使った分析では、そのような
文の現れる論証の妥当性を調べることが、きわめて怪しくなる、
のだという…ちょっとどういうことか分かりませんが。。。
三段論法でなくても、妥当性を調べるなんて難しいような気がする。
その2から、フレーゲの論理学をみていきましょう。
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