≪現代哲学(8)−現象学・メルロ=ポンティについて−≫
2004年8月18日モーリス・メルロ=ポンティ(1908〜1961)。メルロ=
ポンティとセットで呼ばれることが多いけど、ポンティとも
略されます。ここではポンティと呼びます。
主著は「知覚の現象学」。彼はゲシュタルト心理学(人間の
心理を、要素とかに分割してその集合と見なすやり方では
なく、全体性とか構造性に重点をおいて分析する心理学。
この構造のことをゲシュタルトと呼ぶ)とか行動主義心理学
(心が目に見えないことから、目に見える部分だけを対象と
した心理学。ただこれだけではやはり心をつかみきれない
ことが分かり、次第に衰退した)、フロイト発の精神分析
などを系統立てて研究して、それとフッサール現象学を
組み合わせて、独自の論理を作り上げた。
独自の…とは言うのだけど、サルトルでもそうだったけど、
基本アイデアはフッサールのそれから脱せているとは言いがたい。
俺の今のイメージとしては、少し鋭い視点が加わった程度…
例えばサルトルなら「無」「他者のまなざし」とか。だと思う。
昭和堂では、微妙に違うのだろうか、フッサールの現象学を
彼なりに理解したということが書いてあるけど、これを読む
限りでは、フッサールの洞察の範疇内という感がぬぐえない。
俺なりに解釈しても、同じ結論に多分なる。
はじめての哲学史では、「野生の存在」「生まの存在」とかが
フッサールの生活世界から派生している、と書いているが
どれほど違うのかはよく分からない。
実際に読んでみる必要がある。
サルトルでは「無」とか「他者のまなざし」に重点が置かれた。
ポンティでは何かというと、「身体」である。
身体は、「心理的なもの(対自)」でも「生理的なもの(即自)」
にも、単純に還元されるものではない。身体は「世界内存在の
媒質」であるとされる。
確かに、一見「即自」のようにも見える身体は、「対自」と
深く結びついた存在だ。現象学的にも、そのようなものとして
身体があらわれるというのはよく分かる。
さらに、この身体的実存という観点から、物心二元論についても
独自の解釈を出す。
ポンティが特に注目したのは、言語による思惟(思考)である。
現象学の立場に立つと、純粋自我がただ思惟していて、その
結果が、頭のなかで言語として表示されているだけ、と思いがち
だが、そうではない。そうであるとすると、思惟が「言語」に
よって為され、時に、はっきりしなかった自分の考えが、言語に
よって完成したりすることが説明できない。「言語」それ自体が
意味を含むことによって、それを使うことで自分の思惟を
はっきりさせることができると考えれば分からなくもない。
しかしながら、言語が湧いて出てきたものでない以上、「言語」の
手前に、その言語に意味を与えたものがあるはずである。
ポンティによれば、これは身体的な実存のあり方と深く関係
している。これはまたソシュールで扱う概念だが、「言語行為
(パロール)」が先にあり、それを言語が示している、と
考えるのである。
言語によって色々思索すること、言語活動も「身体的動作」の
一環、と考えるらしい。
しかし、これだけだと少ししっくりこない。
ソシュールでもう少し詳しく扱おうと思う。
またポンティは、最後の作品であり未完の遺稿「見えるもの
見えないもの」で、「世界の肉」「存在の肉」「私の身体と
世界はおなじ肉でできている」という考えがあって、
ここでいう「肉」は、自らを引き裂きながらも折りたたんでいく
という風に、反転的に増殖する動きを指すのだとか。
世界の誕生はそのような肉の裂開であると考えたらしい。
なんか脂肪たっぷりでぶよぶよのお腹がたたまれていく
のを想像してしまう文章で、さっぱり意味が…
次は、分析哲学、論理実証主義にいきます。
これも、今もって哲学の大きな一分野をなしている学派。
ポンティとセットで呼ばれることが多いけど、ポンティとも
略されます。ここではポンティと呼びます。
主著は「知覚の現象学」。彼はゲシュタルト心理学(人間の
心理を、要素とかに分割してその集合と見なすやり方では
なく、全体性とか構造性に重点をおいて分析する心理学。
この構造のことをゲシュタルトと呼ぶ)とか行動主義心理学
(心が目に見えないことから、目に見える部分だけを対象と
した心理学。ただこれだけではやはり心をつかみきれない
ことが分かり、次第に衰退した)、フロイト発の精神分析
などを系統立てて研究して、それとフッサール現象学を
組み合わせて、独自の論理を作り上げた。
独自の…とは言うのだけど、サルトルでもそうだったけど、
基本アイデアはフッサールのそれから脱せているとは言いがたい。
俺の今のイメージとしては、少し鋭い視点が加わった程度…
例えばサルトルなら「無」「他者のまなざし」とか。だと思う。
昭和堂では、微妙に違うのだろうか、フッサールの現象学を
彼なりに理解したということが書いてあるけど、これを読む
限りでは、フッサールの洞察の範疇内という感がぬぐえない。
俺なりに解釈しても、同じ結論に多分なる。
はじめての哲学史では、「野生の存在」「生まの存在」とかが
フッサールの生活世界から派生している、と書いているが
どれほど違うのかはよく分からない。
実際に読んでみる必要がある。
サルトルでは「無」とか「他者のまなざし」に重点が置かれた。
ポンティでは何かというと、「身体」である。
身体は、「心理的なもの(対自)」でも「生理的なもの(即自)」
にも、単純に還元されるものではない。身体は「世界内存在の
媒質」であるとされる。
確かに、一見「即自」のようにも見える身体は、「対自」と
深く結びついた存在だ。現象学的にも、そのようなものとして
身体があらわれるというのはよく分かる。
さらに、この身体的実存という観点から、物心二元論についても
独自の解釈を出す。
ポンティが特に注目したのは、言語による思惟(思考)である。
現象学の立場に立つと、純粋自我がただ思惟していて、その
結果が、頭のなかで言語として表示されているだけ、と思いがち
だが、そうではない。そうであるとすると、思惟が「言語」に
よって為され、時に、はっきりしなかった自分の考えが、言語に
よって完成したりすることが説明できない。「言語」それ自体が
意味を含むことによって、それを使うことで自分の思惟を
はっきりさせることができると考えれば分からなくもない。
しかしながら、言語が湧いて出てきたものでない以上、「言語」の
手前に、その言語に意味を与えたものがあるはずである。
ポンティによれば、これは身体的な実存のあり方と深く関係
している。これはまたソシュールで扱う概念だが、「言語行為
(パロール)」が先にあり、それを言語が示している、と
考えるのである。
言語によって色々思索すること、言語活動も「身体的動作」の
一環、と考えるらしい。
しかし、これだけだと少ししっくりこない。
ソシュールでもう少し詳しく扱おうと思う。
またポンティは、最後の作品であり未完の遺稿「見えるもの
見えないもの」で、「世界の肉」「存在の肉」「私の身体と
世界はおなじ肉でできている」という考えがあって、
ここでいう「肉」は、自らを引き裂きながらも折りたたんでいく
という風に、反転的に増殖する動きを指すのだとか。
世界の誕生はそのような肉の裂開であると考えたらしい。
なんか脂肪たっぷりでぶよぶよのお腹がたたまれていく
のを想像してしまう文章で、さっぱり意味が…
次は、分析哲学、論理実証主義にいきます。
これも、今もって哲学の大きな一分野をなしている学派。
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