<その2からつづき>

知覚の束で与えられるもののうち(おそらくハイデガーの
いう「道具」も含めて)、己れを問いただすことのない
「即自存在」と、常に問いただす存在である「対自存在」が
あり、人間は後者である。

「対自存在」はいつでも自己を否定する契機を含んで
おり、未来に向けて自己を乗り越えていこうとする
本質をもつ。人間は、そのような未来に向けて自分を
超えていく可能性において(そのような実存として)
定義される。

しかしそのような個人も、他人によって対象化(物化)
される、「お前は××だ」「あなたは○○である」の
ように。自分はそれを受け入れる自由もあるし、否定して
乗り越えていく自由もある。そのような選択の自由を
もつのが、実存としての人間のあり方だ。

しかし他者の一方的な決め付けからも逃れられない
(「他者地獄」)が、それに自己自身の可能性を投げ返す
ときに、自分は他者でない、という風に自分を規定する
ことができる。

う〜ん、こっちのほうが理解しやすいですね、やはり。

 
見るところはあるのだろうけど、マルクス主義に接近
したところからも、ちょっと「他者」に重点おきすぎ
のような気もする。

 
・アンガージュマン

サルトルは「世界内存在」という人間のあり方を、
「状況」に投げ入れられた「自由」を持つ人間として
捉え、そしてこの「自由」とは、社会の状況を変えていく
あり方だと考えた。よって自由というのは、政治的状況への
参加(アンガージュマン)という形をとる。

そこでサルトルは「現代(レ・タン・モデルヌ)」っていう
雑誌を、メルロ=ポンティとか、ボーヴォワール(妻?)
と一緒に創刊して、活動していたそうな。

さすが今もって名前が残っているだけあって、サルトルは
当時の言論界のスーパースターだったらしい。

またサルトルは論争家でもあったから、メルロ=ポンティに
共産主義的政治的立場を批判されてけんかして別れたりも
したとか。

ともあれ、マルクス主義に接近しはしたが、それを
なんとか乗り越えることも考えていたようで、生涯かけて
社会における人間の主体性の根拠はどのように求められるか、
を考えとおしていたようだ。

次、メルロ=ポンティで現象学は終わりです。

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