<その1からつづき>

・「即自」

これは、世界内存在として、世界を解釈する現存在にとっての
到来的な「知覚の束」のこと、だと思う。

ただサルトルは存在に関しては、<それがあるところのもの
であり、あらぬところのものではあらぬような存在>としか
言いようがないもの、としている。これは割と分かりやすい。

「ものがなぜ存在するかって?存在するから存在するんだ、
他に言いようがない」ということだ。

これが「即自」。現代の一般的な認識としては、原子とか
素粒子、クォークから出来ている物質ということになるかも
しれないが、現象学的には、やはり現存在にあらわれる
「知覚の束」ということになろうか。

これに(たぶん)「対自」による「力への意志」が加わって
知覚の束+解釈で「世界」がかたちづくられると思うのだが、
サルトルにおいては、この即自に独自の視点が加えられる。

 
・「対他存在」

サルトルは、「他者のまなざし」を特別視する。
昭和堂から引けば

<対自である私は、世界-内-存在として、ひとたび他者の
「まなざし」を体験するや、「対他存在」という仕方で
存在するようになる>

そして、

<この他者のまなざしによって世界のただ中で凝固し
対象化されてしまうため、自らの自由を回復するために
は、この他者を私のまなざしの対象とせざるを得ない>

こうして、他者と私は「相克(そうこく。相容れない
二つのものが、互いに争うこと)」の関係を生き抜くことに
なる、という。

ちょっとヘーゲル入ってきた?という感じだけど、まぁ
ヘーゲル的「自己中心性を持った自分と他者とのルール関係の
網の目」というのはこの頃すでに常識化しているでしょうね。

 
・「実存は本質に先立つ」

またサルトルは、元々人間が持つ本質などは存在しない、
本質は実存が未来をめがけることによって、それに成っていく
のであって、神などがそれを人間に持たせておいたもの
などはない(サルトルは「無神論的実存主義者」を自認
していた)。

そして神がそのようなものを規定していないのであるから、
人間は己れの無を己れで超越していかざるを得ない(「無」は
このモチーフからきているアイデアかもしれないですな。
神が元々与えていないから、「無」なのである、と)、
これは「自由」であるが、しかしすがるべき何物も存在しない
「孤独」である。「自由」であるが、それがゆえに自分の
行動の一切に「責任」を負わねばならない。

これをサルトルは「人間は自由の刑に処せられている」と
表現した。

こうして人間は、自由に主体的に選び、己れを「企投」し、
行動の中で己れを実現していかざるを得ない。そして
その際、「他者の面前でわれわれ自身を捉える」のである。

その後サルトルはマルクス主義に接近していくらしい
けど、確かにこの「他者が己れを規定する」というのは
マルクス主義に近い…。

その3で、はじめての哲学史からまとめて、最後に
アンガージュマンを扱っておわりです。

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